自転車を押してくれてありがとう!
近所の商店街に看板がある。『自転車を押してくれてありがとう!』と書いてある。いや、まだ押してないんだけど…まあ、押そうか。
トイレにある『いつもキレイに使用していただいてありがとうございます』と同じやり方だ。
別にその自治体の条例で決まっていることじゃない。しかし自転車に乗ってスピードを出すことは商店街において危険である。私も子どもとよく歩くけど、自転車は怖い。だから努力義務よりも弱めのお願いルールだ。
こんなことがあった。
たぶんこの男はルールを守らない人に対しては自分は何もゆずらないという信念を持っているのだろう。気持ちはわかる。私もそういうところがあると自覚している。
妻が妊婦だったときに電車で誰も優先座席をゆずろうとしなかったので、ちょっと大きい声でいろいろ言ったら、すごい嫌な顔された経験がある。妻にも嫌な顔された。反省。
この男の子どもはどんな大人になるのだろう。倒れたおばあちゃんを気にして何度も振り返っていた。でも、周囲の大人が助けているのを見てホッとしていたのかもしれない。
男の正義は『商店街では自転車に乗らないルールを守る』だ。そのルールを破っているものは悪だ。悪に正義が屈するわけにはいかない。
でもね、思うんだ。
正義をふりかざす人の危うさを感じる。ここ最近の世の中に。悪を見つけ、徹底的にやっつけるその風潮を。
正義はまた別の正義とぶつかる。お互い自分が正しいと信じている。だからゆずらない。戦いは何かしらの犠牲が出るまで終わらない。いや、犠牲が出ても続くのかもしれない。
『本当の正しいこと』はそうじゃないと思う。優しさが核にあって、もっとぐにゃぐにゃしてるはずだ。
今回のおばあちゃん自転車ライダー、もしかしたら足が悪いのかもしれない。歩くよりも自転車に乗るほうが負担が軽いのかも。商店街のルールに違反する?でも、仕方がないじゃないか。足が痛いんだもの。わからんけど。
この場合、正しいことは形を変えるべきだ。
自転車、即、斬 ではなくて足が悪い(として)おばあちゃんの状況を配慮して、商店街でも自転車に乗ったらいいじゃないか。でもゆっくりね。
ネットでも何でも今世の中炎上しまくっている。ハラスメントが増えすぎて『ハラスメント認定による萎縮ハラスメント』になってるぞ。
法律にかかわらない『正しいこと』はその人、その場所、その場面において変化していくべきだ。
商店街のあの男、倒れたおばあちゃんを見て一瞬とまった。すぐに周りから「大丈夫ですか?!」と声が上がり、男は向き直り歩いていった。
きっと男は一瞬どうしようか考えたんだと思う。
あの男とその子どもにも幸せな人生を送ることができるように祈っておこう。
わたし?
わたしは今日人助けしていいことしたから、夜なのにこれからチョコのお菓子を食べるのだ。