番外編 アルバータ州への旅行1日目
カナダから帰国して早6ヶ月。あっという間に時が過ぎていく。
番外編として、ワーホリをしたいたときに1人でアルバータ州に行ったときの話をしようと思う。
最後に、一人旅しよう。
カナダのトロントでお世話になってしばらく経ったころ。帰国が迫っている中で、どこか旅行に行きたいと思い立ち、カナダのことを調べていた。すると、アルバータ州にあるアイスバブルという観光ポイントが目にはいる。それは、湖から湧き出るガスがゆっくりと凍ることによって気泡が閉じ込められる自然現象だった。深い青の中に浮かぶ半透明のバブルは、くらげのようで美しいと感じた。
私は冬生まれなこともあってか、夏よりも冬が好きで、暑さにはめっぽう弱い反面、寒さには強かった。のび太の「寒いのは厚着をすればしのげるけど、暑さは素っ裸になっても無理だ」という言葉は本当にその通りだと思っている。私という生き物の性質上、極暑を味わうことはできないけれど、極寒なら味わってみたい。行先をそこに決めることとなった。
お世話になっているファミリーに行こうと思っていることを伝えるものの、なんとなく動く気になれなくてうんうんと唸っていると、ホストマザーから「ここに来てくれたお礼に」と飛行機代を出してもらえることになった。
私は彼女のことを好きだったけれど、ホストファザーのことは色々なことを理由にあまり好きになれず、なんとなく家にいることに居心地の悪さがあったため、この申し出には嬉しさよりもどうしたらいいのかわからない気持ちの方が勝っていた。私の経験上、よくわからない感情のまま他人からの厚意を受け取ると、その後の行動につよく影響がでるとわかっていた。
少し考えた結果、結局この申し出をありがたく受け取り、私は本格的に旅の準備をし始めることとなった。もうそろそろこのファミリーとはお別れになるのだから、くよくよ考えるのをやめようと思ったのだ。
ホストマザーに丁寧にお礼を述べると、「旅は人生の肥やしだから」という言葉がかえってきた。韓国やネパール、ヨーロッパ、オーストラリアなどいろんな国を若い時から旅してきた彼女を、私は尊敬している。時々夜中に彼女の体験談を聞いては自分の知らない世界に驚いたり、自分のちっぽけさを知って、心地よい気持ちになった。自分はなんてちっぽけなんだろうと思うとき、惨めになることもあるかもしれないけれど、私にとってはすごく快適な感覚だった。「世界は広いんだな、よかった」というよくわからない、安堵のような気持ちだ。私はせまい場所が苦手で、それは空間だけの話ではなく、目に見えないものに対する閉塞感も同じように苦手だった。せまいコミュニティにいることは、耐えがたい苦痛になることがある。
彼女は、人生で初めて尊敬した身近な人だった。
アイスバブルを案内してくれてる個人ツアーを探していると、ホストマザーが日本人の個人ガイドを見つけてきてくれた。私が探している時には出てこなかった人で、その人にコンタクトをとり、いきたい場所を告げてさくさくと話が進んでいく。
カルガリー空港からバンフまでは高速バスで行く必要があるため、どこにあるのかを確認したり、最安の宿を手配してもらったりした。
カナディアンロッキーの麓にある小さな町、バンフ。それが私の行く先だった。英語はできないものの、どうにかなるはず。このカナダ生活で、カタコトのしょうもない英語でなんとかなってきたのだから。
年が明けて少ししてから、ホストマザーが空港まで送ってくれた。私はハミルトンにある小さな空港からカルガリー空港へと飛び立つこととなった。
夜、カルガリーの高速バスにゆられて。
4時間くらいのフライトで、カルガリー空港に到着する。飛行機から降りて、荷物を取りに行くとインド系の人たちがずらりと揃っており、友人同士、家族同士、各々が邂逅を喜ぶハグを交わし合っていた。私が思う「家族を大切にする」というインド人のイメージそのままの邂逅風景だった。
その様子を横目に荷物が下りてくるのを待っていたけれど、いっこうに荷物が届かない。30分以上待たされたように思う。誰もが少し疲れたように荷物を待っていると、ガコンという機械音とともにベルトコンベアが動き始める。
ささっと荷物を取ると、高速バスのチケットを買うために空港内を彷徨い始める。あらかじめ調べていた高速バスの名前が見当たらず、スマホを片手に右往左往した結果、カウンターにいる女性に高速バスのカウンターがどこにあるのか聞くことにした。「すぐ横よ」と退屈そうな目をした女性が隣を指さしながら言う。簡単にお礼を言って、隣のカウンターに向かうと優しげなブロンドの女性が対応してくれた。
緊張で変な汗をかきながらなんとかチケットを買い、荷物も一緒に預ける。10分前にはここに集合するよう言われたので、2時間くらい待ち時間があることを確認してから夜ご飯を食べにフードコートへと向かった。
フードコートでは、ハンバーガーにすることにした。ほとんど人はいない。注文を終えて待っていると、ふと黒人女性のスタッフがバックヤードから出てきて、ポテトはこれくらいでいいのかともう1人の黒人女性に確認した。その手の中にはポテトはいっぱい入った袋があって、「え? 海外サイズ?」と困惑していると、おばか!とでも言うように確認していた女性がポテトの女性の頭をぽかっと叩く。2人でくすくすと笑い合う彼女たちから注文した品を受け取ると、適当な椅子に腰掛けてひとりハンバーガーを食べ始めた。
今、ひとりで海外を旅行してるんだ。
じわじわと実感がわいてきて、不思議な感じがした。英語もろくに話せないし、なんの目標もなくデザイナーのキャリアも捨てて逃げるようにカナダにきた。でも今、のんびり海外に出てくることができて、なんだかんだ幸せだと思えた。いや、今振り返ると、半分そう思いこもうとしている自分がいたようにも思う。
日本にいる知り合いたちは、何をしているのだろう。私に底意地の悪いことをしてきたあの人たちは、今日もにこにこと笑いながら満たされた1日を送っているのだろうか。窓の外で、遠くの方で光る空港のライトの点滅を見ながら、ぼんやりとそんなことを考えた。日本にいたときは、初めて抱いた他人へのよどんだ恨みを持てあまして身動きが取れなくなっていたのに、今は身も軽く旅行をしている。でもどこか、心が重たく感じた。どうしもないくらいに人を憎んだあと、それがなくなるまで途方もない時間がかかるのだと身を持って知った。そして、その憎しみは誰にも理解されないことも。
ハンバーガーの包み紙を小さくつぶすと、席を立った。
言われていた時間通り、高速バスの受付カウンターに着く。男性スタッフが名前を言うから、呼ばれたら着いてくるようにといった内容を大声で言っていた。自分の名前が呼ばれるのを緊張しながら待ち、呼ばれたらはぐれないようにそそくさと彼らのあとを追った。
夜だというのに、高速バス内には案外、人がいた。真っ暗の車内。隣のブロンドの女性はネットフリックスを見ていた。私はヘッドフォンで音楽を聴きながら、窓際で過ぎ去る景色をずっと眺めていた。
窓の外は真っ暗で、道路のそばに立つ電灯の光しか見えなかった。2時間ほどぼんやりと過ごしていると、ホテル街のような場所にさしかかり、運転手が車内にアナウンスする。アナウンスの英語ほど聞き取れないものはない。飛行機のアナウンスなんて、音楽の流し聴きくらい耳の中を滑っていくように通過していく。だからこのときも必死に耳をすませたが、半分も聞き取れなかった。状況的に、順次ホテルに向かうから降りたかったら名乗りをあげてくれというようなことを言っているようだった。
緊張でどきどきし始める。間違えたらどうしよう。
私はこの「間違える」という行為がとても苦手なのだ。正直、ホテルの場所を間違えて降りたとしても街自体は小さく、歩くことになるくらいで死にやしないし、立ち往生することもない。生来のくだらない完璧主義のせいなのか、海外で言葉もままならない不自由さが怖いのか。ヘッドフォンを握る手に力が入る。
「Bow View Lodge」
運転手がそう言った気がした。その後も何か言っていた気がするが、全く聞き取れなかった。迷ったが、とにかく行動をしようと思って席を立った。
もうひとり降りる人がいて、その人の荷物を後ろから出している運転手に「ここはBow View Lodgeですか?」と聞くと、笑いながら「次だよ」と教えてくれた。たぶん、間違えやすいからあらかじめ警告してくれたアナウンスがホテル名のあとに続いた言葉だったのだろう。お礼を言うと、席に戻り、出発を待った。運転手が戻ってくると、「次のホテルで降りるよな?」と再度聞いてくれたので私は大きくうなづいた。
腕を怪我したホテルマンが出迎えてくれる
ホテルに到着し、バスの運転手から荷物を受け取ると、心の底からほっとした。ホテルまで辿り着けたのだ。チェックインなど多少間違えたところで何も問題はない。ホテルはツアーコンダクターにお願いして予約してもらっているし、コンダクターは日本人なのでSNSでよく見る「ホテルの予約をしていたのに、ホテル側のミスでできていなかった! 宿がない!」なんてことはよほど起こらないだろうと思っていた。
小さくて薄暗い蛍光灯の玄関を抜けてカウンターに行くと、ひとりの若い男性が腕に包帯を巻いているところだった。なんで?
そんな疑問が浮かびながら、おずおずとパスポートを出すと彼は怪我をしているようには見えない輝いた笑顔を見せながら「こんばんは」と言った。
深夜にもかかわらず、元気いっぱい体力ありあまっています、といった雰囲気を感じる。彼は手続きを進めてくれる中、私は英語の契約書のような紙に書かれた英語の羅列をせっせとGoogle翻訳にかけながらサインをした。
部屋の掃除をなしにするとモーニングのチケットを貰えるということだったので、掃除は無しにした。そもそもそんなに汚すこともないし、掃除してくれる人に対するチップなどを考えたくなかったからだ。いくら渡せばきちんと綺麗にしてくれるのか。本当に盗難にあわないのか。そういう不安要素は消すに限る。
あとから調べてみると、掃除を仕事にしている人たちから見れば、ホテル側のこの変更は迷惑な話なんだとか。仕事は減るし、チップをもらう機会もなくなってしまうので少し社会問題化しているらしかった。
ホテルマンの男性に日本のパスポートを見せると、「おっ、ジャパンだね!」と言っていた。私が「怪我は大丈夫?」と聞くと、「まぁ、ちょっとね」と肩をすくめる。
すべての手続きを終え、私はようやく今日のタスクを全て終えることができた。部屋は一番角。この安さの部屋といった感じで、天井が低いのだろうか。閉塞感のある雰囲気だった。どこか埃っぽさがあるのか、清潔感が不思議と感じられない部屋だ。
服を脱ぎ捨てると、シャワーを浴びる。このシャワーをお湯にするのにも苦労した。日本や今までのカナダ生活で使ってきたどのタイプとも違い、まったくお湯になる気配がなく、疲労した真っ裸の姿で蛇口をこねくり回していると、何かの拍子にお湯が出たのだった。
明日は、朝5時にはロビーでコンダクターの日本人と待ち合わせしている。お風呂を上がってすぐに、私は気絶するように眠りに落ちた。