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愛は食卓にある

初めて聞いた時は何を言っているのだろうと思った。食卓に愛なんてない。家族の笑顔と談笑、この世にそんなもの本当にあるのかと思っていた。

私の知っている食卓は話すとうるさいと注意されたり、怒られたりするものしかなかった。大声騒いでいた訳ではない。テレビが聞こえないだろと怒られる。意味が分からない。

こういうのは決まって祖父母で、祖父母がうるさく話をしていて注意をするとうるさいと言われる。理不尽だ。祖父はお酒が入ると人が変わった。めんどくさい人から老害の極みになる。父も弟もよく似てしまった。環境は人をダメにするのかとよく考えていた。

昔はよく祖父と祖母、父と母が言い合っていて重苦しい食卓が多かった。このままではいけないと明るく振る舞ってみたり、機嫌を取ろうとしてみた。そんな日々が続いて心が疲れてきた。子どもに気を遣わせるなよと思うようになってしまった。

あれから15年くらい経った現在も変わらず毎日愛のない食卓は続いている。一緒にご飯を食べるのが苦痛だ。一緒にご飯を食べる意味をそもそも見出せない。勝手にやってくれよ。

食卓に愛を感じることなく大人になってしまったが、彼と囲む食卓には愛があった。彼の実家で囲んだ食卓にも愛があった。こんなに温かくて素晴らしいものだったのか。ご飯がより美味しく感じられて進む。会話が弾む、テレビが流れていても誰もうるさいとは言わない。独りよがりの知識自慢も、偏見や差別にまみれた嘲笑もない。

これが家族のあるべき姿ではないかと思った。本当に目指すべき家族。目指してなるようなものではなく、自然となるものなのかもしれない。心の底から羨ましかった。

愛は食卓にあった。


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