間違い続けた僕の人生①
幼稚園編
私は、生まれは田舎、ごく普通の家庭。特別裕福でもない世帯年収650万、三兄弟というギリ貧困寄りの一般家庭の長男に生まれた。
まだ、事理を弁識する能力すらない幼き頃、地元の市立幼稚園に入園した。
その頃の自分を振り返ると、まさにADHDを体現した幼児だったと思う。よく保育士の先生を困らせていたのだろう、幼児期健忘の弊害なのかよく覚えていない。
よくお昼寝の時間に全く眠れず、他人の布団に潜り込んだり急に奇声を上げてり、布団に被って1人怪獣ごっこをして遊んでいた…
当時の自分はこの頃からやはり、“問題児”だったのだろう。なぜこんなことをしてたのか未だによく分からない。恐らく当時から“人と違うことが”かっこいい“ “他人に構って欲しい”という承認の欲求がやはりあったのだろう。
現在の自分ですら全く抜けきっていない性根である。やはり、人間の性とは生まれ持って変えられないものなのかもしれない。今まで歩んできた人生を振り返ってやはり、指導者目線でどの頃の自分出会っても“問題児”だったのだから、、、
もちろん、改善しようと思わなかった訳では無い。保育士の先生に精神科を勧められIQテストを受けるまでに至ってようやく“自分は人と違うからかっこいい”のではなく、“他者と違う異常者”なのかもしれないと勘づいてしまった。
だが、この頃の私はやはり、未熟ゆえ感じた疑問は3歩歩いて忘れ、改善することなく我が道を進み他者に迷惑をかけ過ごしていた。自分が母親であるならこんな子が産まれてくるなら堕胎して赤ん坊を堕ろすだろう。今の自分の情けなさと不甲斐なさが親に申し訳ないと思う。
小学生編
時は進み、保育園時代から小学校時代へ、ここから始まる新しい生活。新しいランドセル、新しい教材、班行動で学校へ行く新たなルーチン…
何もかもが新しく、何も知らない未熟な当時の私は本気で“友達100人”作れると信じていたのだ。
何もかもが新しく見え、空は蒼く澄み、肌寒く冷えた4月の空気は緊張した心に染み渡った。
この話にオチは無く…小学4年生までは自身が描いた通りの友達100人作ることに勤しみクラスの中心人物 兼 クラスの問題児をやっていました。
学校で飼っているコイに石をぶつけ瀕死にさせたり、学校で飼っているうさぎに泥をやりお腹を壊させてました。正直、悪意はありませんでした。「どうなるんだろう?」という好奇心が抑えきれなかったのです。
今思うと、悪意がなかったというか「これはしてはいけない」というごく普通の当たり前の200人が分かるようなことが僕1人…分からなかった。やはり道徳という科目からネジが外れていたのでしょう。
小学校1~4年生までの期間、親は三者面談が苦痛だと言っていました。その当時の私はよく分からなかったのです。
ですが、今ならよく分かります。ここまで問題を起こして、担任によく「よく教育してください、私には面倒を見切れません」と言われていたそうです。親には本当に申し訳ないです。
3年生の頃、担任の教師からの催告で私は精神科に行き、再度ADHDの検査(IQテストみたいなもの)を受けました。結果、悔しくも私は“健常者”だったらしいです。
その病院の先生からは「もしかして自分が他人と違うかもしれないと思うかもしれないけど、あまり抱え込まないで、迷ったら周りの人に相談してみようね。」と言われました。
その当時の私は「あ、俺別に間違ってなかったんだ。なーんだ」と歪曲した捉え方をしてしまいました。それからもやはり自身のやりたいように生き、世間でいわゆる“陽キャ”という位置に居て、それなりに充実した生活を送ることが出来ました。
唯一渋い顔をされたのが担任のみなので私は自身が間違っているだなんて1mmも疑問を抱きませんでした。
そしてちょうどその頃から何か習い事をしたいと思い、近くのバスケットボール少年団に加入しました。
加入した時の私は「バスケットが唯一競技の中で苦手だから相対的に上手くなりたい」という思いで始めました。その後、特になかったので送らせて頂きます。
村八分編
そこで小学5年生。運命、いや、自身の価値観を一変させる、大きな事件が起きます。
大きな事件と言っても…5~6年生に至るまでの2年間。ある人物による人格的影響が自身の価値観に大きな変化をもたらしたのです。
その人を今後 “Tさん” と呼びます。私は4年生までクラス単位でしか陽キャを体現しておらず、クラス替えもあり、自身の新しい環境でも楽しく生きたいな。という願望のもと、クラスで人気だった子と運動神経のいい子を囲い込み、陽キャグループを形成しました。
(その当時やっている事が、今の私が1番嫌いなことだなんて…皮肉ですよね)
そこで形成したグループにマラソン大会5年間1位という、公立小学校なら誰でも羨むであろう地位と名誉を手にした。“Tさん”が入ってきました。
やはり小学校時は運動神経が良い奴がモテる、人気である。というのは間違いでなく…それが自身の人生に置ける格付けとなる唯一の指標だったからです。
おかしいですよね?その頃は勉強で100点を取ることはやはり、クラス学年相対的に多くガリ勉がいくら本気を出しても相対的に “浮けない” というわけです。
この頃における勉強というモノの価値になんら意味は無く、陽キャでさえ頑張れば80~90点など勉強せずとも余裕に獲得出来る言わば小テストレベルの感覚だったのでしょう。
かくいう私もそうでした。勉強せずとも直前に行われる復習時間でちょっと集中すればすぐ100点を取ることが容易で勉強というものは…「勉強するものでは無い」とこの公立小学校の99%の共通認識であったのでしょう。
少し話が脱線しました、アスペ特有の一貫性の無さに悔やまれます。
この頃のスクールカーストは…マラソン大会における“順位”こそがクラス、学年、この学校における“自分の生きる地位”全てだったのです。
だから当然の如く、Tさんが1番スクールカーストが高く人間関係における尊敬度もその当時1番高かったことでしょう。
このスクールカーストにおける致命的な点はマラソン大会で1位でさえあれば性格のいい奴でも性格の悪い奴でも人生における優先度がいちばん高いということです。かくいうTさんは後者でした。
なんとその当時、Tさんはマラソン大会1位では飽き足らず、走り幅跳び地区1位、県4位。プロレスでは全国3位という公立小学校における最高位に位置していました。
なのでTさんに当時20人ほど学年陽キャグループで対等で話せる人などおらず、皆、畏敬の念を持ち格上の人間に接するように話していました。
だからなのかもしれません、あの、「歪んだ空間」が生まれたのは…
異変が起こり出したのは5年生半ば、やはりクラスの中心はTさんでした。
しかし、その日はTさんの様子が変でした。学校に来て一言も喋らないのです、それどころか目の虹彩が失われ、およそ生きる気力というものが感じられないとまで言えるほど衰弱した形で佇んでいました。
私は変だと思いました
ですが空気の読めないキョロ充のAくんが
「T〜w何やってんだよ元気出せよ〜w」
と言いに行きました。彼に悪意はなかったのでしょう、それどころか落ち込む彼を励ましたいと当時の子供の小さい脳で考えた精一杯の善意で彼に接したと思うのです。
ですが残酷なことにこれは“悪手”でした。
T「…死ね(ボソッ」
そういうとTさんは立ち去りました。
(ん?今死ねって言った…?そこまでいうことなくない。)
何がなんなのかよく分からないまま唖然とするキョロ充Aくん、それと周りにいた陽キャ軍団は同様唖然としていました…
(いや、Tさん親衛隊ですね笑 当時皆、Tさんに群がり、クラス学年における地位と名誉のおこぼれを授かりにいっていたのですから)
トイレから戻ったTさんは以前同様…暗い表情のままでした。
A「T~さっきはごめんよ。気に触ったのなら謝る!ごめん」
Aくん、最善策です。人間関係における最善策は自身の過ちを認め他者に謝ることは素晴らしいことです。
ーしかし、最善策が正解とは限りませんー
T(…無視)
そうです、Aくんの謝罪も虚しくTさんの機嫌を損ねてしまいました。
ここで私たちTさん親衛隊は感じました。
(あっ…今話しかけたらダメなやつだ。)
そこで一気に親衛隊に緊張が走りました。
なにしろ、今までのほほんと楽しく生きてたただの未熟な小学5年生です。
今まで経験したことの無い混沌とした場面に出遭い、何をどうすれば良いのか…何をするべきか…という正常な判断が下せなかったと思います。
そこで唖然としていたAさんにAさんと仲の良いBさんがAさんを慰めに行きました。
B「A…大丈夫か?」
A「うん、ありがとう…」
素晴らしいです。友達を助ける、これこそ友情の本懐というものでしょう。
しかし…これも“悪手”でした。
T「B…お前も絶交な。」
なんとAさんを慰めに言ったBさんがAさん同様絶交という被害に遭ったのです。これはつまり…私たち親衛隊に向けられた脅迫。
(ABの味方したらお前らのスクールカーストを堕とす)
そう、肌で直感しました。今までに走ったことのない緊張と、何が悪手で何が最善策なのか全く検討もつかず…自身の保身のためTさんの後ろにつきひたすらAさんとBさんを “村八分” にするという半ば拷問に近いような仕打ちに加担させられたのです。
そう、私たちは共犯です。
加担してしまったのです、これから始まる地獄とも言えるような小学校生活に…
その日は私たち親衛隊ですらどう言った対応を取ったらいいのか全く分からず…ひたすら後ろにつき、ひたすら無言…
(20人が集まり無言という異様な雰囲気の中、自身の身を案じひたすらに無言でした)
幸いにもこれ以上の被害は出ることなくその日を終えることが出来ました。
次の日…Tさんは相変わらず登校してきました。私たちは思い出しました。前日の悪夢を…
また萎縮した雰囲気の中Tさんは
T「おはよう!今日は寒いなあ〜」
「「「 !!?!!? 」」」
どういうことだ…機嫌が直っている。
そうか、機嫌が悪かったのは昨日だけなのか…そうだよな、昨日のは何かの間違いだ!
また今日からいつものような生活が送れるのだ。
20人程の親衛隊は全員一致でそう思ったでしょう。しかし、まだ悪夢は醒めていませんでした。
状況を察したAさんは
A「T〜昨日はごめんな」
T「…キモ死ねや」
A(唖然…)
そうです。Tさんの村八分は終わっていなかったのです。そして、これから始まる苦痛など生ぬるい地獄の日々がスタートしたのです。
上記通りの異空間でした。
そして、機嫌が良いTさんは他の人とは普通に喋ります。
そして…それはなんの音沙汰も無く訪れました。
T「なぁ?AとBってホントきもいよな?マジで見てるだけで吐き気がするんだけどwあいつ死んだらいいのに…」
(なんということでしょう…排斥だけでは飽き足らず。悪口の共謀。友達であったはずのA.Bの悪口を言い、そこで自身の保身を保とうと言うのです。)
そこで、私たち親衛隊の “人で在るはず” の道徳良心は崩れ去りました。およそ小学5年生で感じて良い苦痛であってはいけないような、おぞましい経験でしょう。
「そ、そうだよね、ほんと気持ち悪い。吐き気がするわ」
ついに言ってしまいました。口にしてはいけない本心と外心の乖離した言葉を…
そこからはもう、早かったです。自身の保身のためとはいえ悪口を共に言い合い、無視に加担し、挙句の果てに耳元で本人に聞こえる声で囁くのです。「死ね」と。非道いとはこういうことを言うのだと初めて実感しました。
そして、最初の村八分の日から4日後。
T「A、Bごめんな。俺ら友達だよな?」
AとBに対し、『赦し』が出ました。
私たちは内心はこんなことはしたくなく、本当は友達であるAやBに謝りたいと思っていたのです。
「「あぁ、これで終わったのか…」」
皆、内心ホッとしたでしょう。
と共に皆、何故か違和感が残りました。
(名残惜しい?…のか。他人を貶し貶め優越に浸っていた“あの感覚に”?)
そうです、1度崩れた道徳良心は治るはずもなく歪んだ価値観は確かに私たちに遺されました。
そして、最初の村八分から数日後。いつものようにふざけるクラスのムードメーカーCくんが休み時間や授業中、色々な時間で私たちを笑わせてくれました。
彼はとても性根がよく、野球を頑張っており、マラソン大会では2位という好成績を残し皆から一目置かれる存在でした。
ですが…また起きたのです。村八分が
T「なぁ、Cって調子乗ってね?なんか気に障るんだよな。きもいからあいつと絶交するわ」
頭が混乱しました。“それだけ”で?そうです。Tくんの機嫌を損ねるだけですぐさま彼の村八分の標的にされる…そういう社会に変貌したのです。
まるでヒトラーのような独裁、カリスマ性それを持ち得、残虐非道な仕打ちを行う。弾圧です。
私たちはまた加担せざるを得ませんでした。村八分に
そこからは前回の再現通りでした。ひたすらにCくんを無視、喋りかけてはいけない、Tくんと悪口を共有する。それを数日間繰り返す。
その混沌とした状況の中数日過ごす、他人事ならまだしも毎回数日おきに標的は変わります。正直、他人に対し悪口を言う度に (あぁいうヘマをするから村八分に遭うんだよ。ザマぁないな…)と思っていたのは事実です。
(いや、どこか心の中で愉しんでいたのでしょう)
本当に小学5~6年生の頃は自身の人生観を歪められました。
何かに怯え、機嫌を損ねないような態度を取る。それが日常の片隅に張り付き、だんだんと表情と本心が乖離していたとと思います。
「なら、その親衛隊とやら、抜ければいいじゃん?」 そう思いますよね?私も他人ならそう思います。ですがそう、組織として成り立つ中で自分が抜ける恐怖を感じることは出来ますか?間違いなくTさんの機嫌を損ね、そして半永続的に嫌われ、20人程いた友達と今後喋ることが出来ず、スクールカーストから追い出され、実質上、“社会的死”を味わされることになるのです。
そんな苦痛、今まで村八分をしてから絶対味わいたくもない恐怖と自身の保身から絶対に逃れることの出来ない呪縛に囚われていました。
だいたい小学5年生の1小さな子供にどうやって改善策を見つけることが出来るのでしょうか?
精神的に弱い子は教師にいじめを訴え、現状を変えて欲しいと懇願することもありました。
しかし、三者で話し合い形式上は“仲直り”をするのですがどこか距離を置かれているのです。
別にいじめでは無いから訴えることは出来ません、そして数日後『赦し』が出てようやく親衛隊に復帰できるのです。
そして、自分が対象となったこともありました。客観的ではわからない。想像を絶する苦痛でした。喋っていた友達と喋れない、ただ独り、孤独。教室では避けられ、耳元で悪口を言われるそういった日が数日続くのです。自身の生きる意義が揺らぐほどに…
「なんで生きているんだろう、何故機嫌を損ねるようなヘマをしてしまったのだろう。
あの時どうすれば良かったのか、学校に行きたくない、顔を見たくない、友達喋りたい、平穏に暮らしたかった…」
そう吐露するほどに追い詰められていました。
やはりこれほどの苦痛を味わう経験をしたのは後にも先にもこの小学校5~6年の頃でしょう。
親に「最近学校どう?何があった?」
「Tくんと遊んだりしてて楽しいよ!」
これがいちばん辛かったです。親に心配をかけたくない、あと数日の辛抱なんだ。耐えるしかない。
そう数日続き、ついに『赦し』を得ることが出来ました。
T「なぁ、俺ら友達だよな?」
「うん!!!!」
そうです、“歓喜”を感じたのです。赦されたことに対する。
怒りでも憎悪でもなく…また元の日常に戻れる歓喜を感じたのです。
忘れるわけがありません
今でもこの感情を覚えています。
この頃の私は狂っていたのでしょうか?
可笑しいですよね、虐められてた相手に赦されて“歓喜”を感じるだなんて
現在19歳となった自分が客観的に俯瞰してもやはり可笑しいと思います。
それほどまでに狂った学校という狭きコミュニティの中で起こった異様な2年間でした。