仕組み、回路
愛する、好き、嫌い、悲しい、楽しい、辛い、色々と名前が付いた気持ちがあるけれど、言葉で感覚を統一できるわけではない。
人に対する想像力は限界がある。みんな自分が見たもの、感じたものしか想像できない。考え方や感じ方、感覚はもともと自分の中にあるものではなくて、インプットしたものによって導かれているものだから。もしかしたら傾向は自分の中で持っているかもしれないけれど。大きくは外部からのものに由来する。
当然、人の感覚を正確に自分に植えることはできないけれど、たくさんたくさんとりこめば、多分少しずつ輪郭が見えてくる。
人と遊んだり、無駄話をする時間を楽しむのは、わりと俗っぽい行動と捉えられることが多いと思う。だけれども、生身の人間と接して、その脳みそを借りる時間は意義があると思う。
繰り返す中で、“自分”も、少しずつ輪郭が出てくる。
外側があって内側がある。自身と見つめ合っているだけで得られる自分はない。
わたしはわたしが成立するようになったのは15歳くらいからだと思っている。それまでは、溜まったもののなかから、一番数が多いものをとりだしていた。15歳くらいからようやく、自分で選択肢をこねくり回してから、出力できるようになった。とりだしたいものを探せるようになった。本当の意味で、感情を抱くということができるようになった。
親が機械を扱う仕事をしていたから、幼少期からものが動くには仕組みがあることを意識していた。壊れるのにも動くのにも原因がある。少し育ったころに、人の体は機械と同じだと気付いた。錆びれば詰まる。熱をおびると動きが鈍くなる、ショートする。中学2年生のときに伊坂幸太郎の『オーデュボンの祈り』を読んだ。脳みそも同じだとわかった。すべては、仕組みと回路でできている。そのあとから、さらにこの、自分の思考と外側の要素についての考え方に確信をもった。
自分を含め、他人に疑問を抱き、不快感を覚える人を最近特によく目にする。理解できない、という感情にも、なぜかこのところよくであう。
もちろんインプットを続けても、想像がつかないこともある。なんなら想像がつかないほうがよいことも、ある。
だけれども、多くの人が敵に見えたり、おろかにみえたりするのなら、それはもしかすると、材料が足りていないのかもしれない、と、私の今の状態が言っている。