モータースポーツでのスバルレックス
レックスで榛名フルーツラインを走る。榛名南麓のワインディングロードで交通量も多くない。古い車も走っていて、最近はモーガン3ホイーラーとすれ違う。
初春には箕郷梅林が満開になる。箕郷城支城の鷹留城址も近いが、森の中なのでお城好き以外は森林浴の効果だけだ。
レックスはロールも少なく走りやすい。去年、キョウセイでジムカーナに出た。非力な車を減速しないよう意識しすぎダラダラ走りで、8の字ではタイヤがフェンダーに当たり失速する。タイムも想像より悪くがっかりした。帰りにはクラッチジャダーが酷くなり、交換する羽目になった。
でも、これでの競技は初めてで、楽しかった。
「レックスは面白いぞ」と僕に勧めたのは小荷田さんだ。その理由は今では確かめようもない。ジムカーナ場までナンバー無しのR-2をR-2で牽引していったとか、ラリーは嫌いだからわざとオーバーレブして壊したとか、時折昔話をしてくれた。試作車を輸送中、90km/hは一番眠くなる速度だからもっと速度上げろ、と言われたことも思い出す。初代インプレッサに携わった若い時分から随分とお世話になった。
小荷田さんはレックスでもレースに出ていたようだ。ようだ、というのは直接聞いたことがなかったからだ。どんなレースだか調べてみたい。またラリーもざっくり見よう。SNS情報ほど出鱈目でない積りだが、所詮暇つぶしだし、こんなの読んでいる方々は同じだろうから抜け漏れは大目に見てください。以前はJAFのホームページで全ての国内レース結果が見られたが、いつの間にか格式の低いレースは消されてしまった。相変わらず最低である。
まずラリー。チームスバルから’71年日本アルペンラリーにR-2SSで横山文一さん、’72DCCSウインターには水冷R-2で高岡さんが出た。R-2では翌年アトムの社長も乗っていた。続く‘72日本アルペンはレックスで大量エントリーし、中原さん/小荷田さんチームや花沢さん(元トーハツだ)など3台共完走している。
オーテク別冊「’73ラリー&rally」に軽ラリー車(MAX、レックス、フロンテクーペ、ホンダZ)の記事がある。写真ではRrドラムがR-2アルフィンになっている。セレーションが違うので意図して変えたはずだ。サスが柔らかく乗りやすい反面、R-2ジムカーナ用13:1ギヤBOXは重ステとある。この時わざとリング割れの車を用意したのだろう。高岡さんらしい。
’73年はミニカーラリーがDCCS/東京スバル共催やルート6主催でシリーズ化された。当時出ていた高崎さんに昔ヒーローしのいで偶然お会いしたことがある。修理中話しかけてきて「私もサニーを持ってて・・」と見ると高崎サニーその人ではないか。吉本さんの話になり「ラリーでレックスのピストンリングを逆さに組まれ壊れた」といっていた。本人には未確認だ。その後軽ラリー車は十数年後の全日本Aクラスアルトワークスを待つことになる。
このレックスの素性は不明だが、Ftドラムを鉄ドラムに変えている。自動調整式にしたくて交換したのかもしれない。
さて本題のレースである。ミニカーレースの歴史から辿ろう。
N360発売以前、船橋のレースはスバル360が殆どだった。中野雅晴も日大在学中はスバルだが、最右翼は伊藤忠・斉藤正己さん率いるチームサイトウであり、自動車工学誌に伊藤忠板橋工場名で改造手引きが載る。富士へ戦場が移ると一変し、スズキファクトリーは水冷に二輪GP選手を乗せ、鈴鹿ではRSCが松永喬ホンダNに整流板を付け走る。
’70年に完成した筑波サーキットでもミニカーレースが開催され、DCCSがファクトリーMAXを送りこむ。R-2も出ていたが目立った戦績は残していない。正田製作所の社長も出ていた。これらの改造範囲はTSだ。とうにスバルはレースの主流ではなくなった。
’71年6月、安いレース費用で参加しやすい東京プロダクションカーレースが始まる。軽(のちノースレース)は最初3台だったが、翌年フロンテクーペの発売で瞬く間に増える。’73年はシリーズ最多得点フロンテユーザーに車を与える選手権もあり拍車が掛かった。
さて、レックスが最初に東京プロダクションカーレースにお目見えするのは’72年第五戦だ。フロンテクーペ一色のレースに、販促か知らないが高岡さんと小荷田さんがエントリーした。レックスレーシングでマニアが良く知るのはこの高岡さんの優勝だろうが、エントリーレースにファクトリードライバーが出るのは大人げないのでフォーカスしない。
予選はレックスが1位、3位でフロンテは(後述する理由で)0.5~0.9秒が加算されている。高岡さんはG5を履くが、小荷田さんはミシュランXASだった。73年はG5のはずで、タイヤの差は大きくキロ1秒程度だ。
決勝はスタートでプラグをかぶらせた高岡さんがもたつき、途中からXASの小荷田さんがトップに立った。その後高岡さんに抜かれホイールを飛ばしてリタイヤした。
さて’73年の東京プロダクションカーレースシリーズはスプリント6戦、耐久2戦が行われた。
そのシリーズ途中から再びレックスが小荷田さんと高木栄さん(富士オート)でエントリーしてきたのである。
東京プロダクションカーレースはツーリングカー規程だ。同一系列内でも別型式への変更は不可(のちに問題となる)、サスは交換可、マフラーは判断が変わる。タイヤはDL G5又はBS RAHまで。
強化サス付きのフロンテクーペはG5を履くと(ホイールは純正使用のため)タイヤが太い分ナックルと干渉する。なので、クーペの人達はワッシャをスペーサー替わりにしタイヤをY/外へ出していた。特別規則上はワッシャが車検時に安全上問題になりペナルティが課された。予選順位は変わるが決勝はそのまま出られるようでよく分からない。
レックスはサスを変更したか?R-2スポーツキットには径がGSRの約3割増しのFtΦ19.5、RrΦ21.0がある。断面2次は4乗だから相当だ。オートスポーツ1974イヤーブックのレックスレース仕様の紹介では、車両はT0仕様で純正サスとある。ただ(フ)だから何がホントかわからない。
第三~四戦の間の6月、ACCS東京プロダクションレースが開催される。レース内容は同じで、それもそのはずACCSは’71年のレースでバーダルと共催している。
上州オートクラブエントリーのレックスはここで初めてお目見えした。このレースはマフラーの改造が「再び許された」とある。特別規則上「マフラー」の定義がエキマニから後ろならチャンバーを含む。フロンテで2ps程度のアップとありそんなものかと思うが、3気筒のフロンテは有利だ。
決勝は3位だったが、予選はフロンテ最上位が1‘22“82で、レックスは1’21”05~1’23”19と射程範囲内である。
続く第四戦で小荷田さんが1位となった。田口選手のクーぺが前車に手間取っている間に独走した。運もよかったのだろう。
そして問題の第五戦である。レックスは予選後の車検で二点問題となった。一点目は車体がTSグレードなのにキャブがGSRだったこと、二点目は電磁ポンプを使ったことである。
一点目。競技では箱替えをよくするから、TSボディを使いGSRとして出たのだろうが、プロダクションカーレースでは厳密で「別型式は不可」に不適合だ。レックスは型式:K21で同じだが、類別はもちろん違い、TSは261、GSRは271である。特別規則の定義は型式符号(類別を含めた型式)だろう。TSはK21A26A、GSRはK21A27Aとなる。
二点目。ツーリングカー規程の安全燃タンをフロントのトランク内に据付けたが、クランクケースの負圧ポンプでは吸えず電磁ポンプを付けた。
2台とも予選タイム+5秒のペナルティが下され、予選2位の小荷田さんは19番目のポジションに下がる。レックス勢は不明朗さを無くすため決勝を辞退した。
翌2月の耐久レースに再び参加し、独走するも燃料補給のピットストップでタイムロスし3位となった。この際、主催者がバーダルではなくジプシーだったからか、再びフロンテクーペのG5装着の改造規程違反が問題となる。各選手が誓約書を出し出走許可が下りた。
レックスのレース記録は以上だ。フロンテクーぺを使わずレックスを使う理由は(フ)関係者以外にない。レックスは醜いアヒルの子だったが、セダンにもかかわらずそのポテンシャルは高かったようだ。
独断と偏見でレックスのモータースポーツ活動を振り返ってきた。瞬間風速的だが以外と結果が残っており、全く関係ないけど所有者としては鼻が高い。まだあと10年は乗るつもりだから、レックスをもっと走らせて名手と同じ感覚を感じたい。
参考文献
オートテクニック 1970~1974年各号
オートスポーツ 1967~1974年各号
オートテクニック別冊 ’73ラリー&rally
オートスポーツ別冊 AUTO SPORT 1974YEAR BOOK
マイカーレポート 1969年4月号
自動車工学 1967年5/6月号
東京プロダクションカーレース 第五戦プログラム
スバルレックス 構造説明書