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スバル1300G(3)

 1996~7年頃、顔見知りだったメカニックから「スポーツ(注:2ドアツインキャブのこと)を買わないか」と話がきた。4ドアの赤いスーパーツーリングでスポーツ走行を始めて以来、心情的に2ドアへの憧れを抱いていたのかもしれない。価格は覚えていないから、すぐ出せる額だったのだろう。
 ローダーで行ったと思いこんでいたが、特急ひだに乗った映像が脳内に蘇る。どうも公共機関で向かい、自走で帰ってきたようだ。すぐ陸運局に行き群馬ナンバーを交付してもらった。そのとき、係のお姉さんから「覚えやすい番号ですね」と言われたことを覚えている。「群馬77 85-85」だ。
 程度は悪かった。RQパネルが凹み、落ちてバンパーで釣り上げたらしく、バンパーやステーが変形していた。Rトーションバーを抜き差ししたのか、Rrの車高は左右で異なっていた。エンジンの調子は覚えていないから、まともに走ったのだろう。

 すぐRQパネルの凹みをパテで埋め、Rサスのセレーションを入れ替えた。
 シリンダヘッドを何度も開けた。スプリングコンプレッサーやコンパウンド、光明丹も買い、タコ棒で見様見真似でバルブをすり合わせた。
 青空駐車場の作業はカーボーイの投書記事と違わないがここ十年はエンジンを下ろしていない。人生の佳境である今、野天でやるのはどうかと思う。
 このクルマはラジエーター周りがモジュールなので、外すとエンジンを釣る必要がなく、前から引き抜けるのだ。だからチェーンブロックは不要で、ガレージジャッキをオイルパンの下にあてがい、E/GマウントとT/Mの連結ボルトを外せば前に抜ける。ただし、最も必要なツールは「やる気」である。
 一度も外していないヘッドはそう簡単には外れない。ガスケットが固着してしまっているからだ。最後はやけくそになって叩いているとようやく割れる。ヘッドの下に水抜き用のプラグがあるが、固着しており頭が小さいので、トルクを掛けるともげそうだ。
 最初はタイミングライトすら持っておらず、部品交換会に出店していたアストロプロダクツが深谷の線路沿いに店を出した頃から徐々に工具箱も大きくなっていった。 

エンジンの下ろしかた
以前は店広げやすかった(今はだめ)

 ヒルクライムやジムカーナにもよく出た。倉渕村のわらび平でのヒルクライムは中止になるまで参加した。1100はファイナルが低いから有利だろうと考えて1100のミッションに載せ替えた。だが、1速が想像以上に低く1-2速中心の競技には使い難い。ミッションを割って組み替える根性はないから1300に戻した。1300Gのローは50km/h以上までカバーできるから、1速のドリブンは1300のギアを使った方がいい。3-4速は2速に近い方がいいかもしれない。そもそも1100ミッションに1300Gのシフトリンケージを使うとレバーが傾くので運転しづらい。

筑波のジムカーナ場で。FフードはFRP。サイドミラーは1000を気取って若干後退させている。
ヒルクライムin倉渕っていうのがありまして。。。175/60R13のSタイヤはなくならないでほしい

 日曜の朝には毎週走りに行った。長らく通行止めの鍋割林道から南面に抜けたり、赤城神社から小沼に上がり、北面から根利を回って帰る。日曜朝7時からFMぐんまの原田知世ユーロカフェというラジオ番組を山の上で聞きながら休んだりしていた。時折、道の真ん中に鹿や猿がいて驚くこともあるが、北面の下りでは、いつ死んでもいいと投げやりな速度で走っていた。

 21時になると「帰りましょう」と声掛けで自己保身してから0時まで仕事をさせる上司の元で、36協定を無視し放題だった。彼から離れ二十余年かけて旧態依然とした開発手法の是正に取り組み、素性が悪い構造を是正、進歩できたのはメンバー全員のお陰である。
 その後開発全体を見る立場になり愕然とした。技術トップが上級管理職をしていた古典性能はチューニングが主業務で、おめでたいことに「適合」と言い換えさせられていた。ADASもデータ収集をマンパワーで走り回り、パワーユニット、インフォテイメントと同じ轍を踏んだ。MDBとお題目を唱えるだけでは成仏できない。
 差別化のため、工数のかかるチューニングを生かすのは定量的な達成企画を作る能力だ。自ら基礎能力の必要性に気づき実践する、という過程を経ずに選ばれた管理者や役員が同質の後継を選定する。達成企画で筋を通していないから変化点管理(DRBFM)が重要視される。
 特定条件下の経験のみから導出した要件が彼らの限界である。無批判な一般論への拡大がロバストの低い性能設計となることに気付かない。MBDは真面目に仕事をしていれば自然に実践しているものだ。アジャイルとかスクラムもしかりである。
 私の考え方を理解してくれたのは若い人達で、実践を始めてくれたが、中堅や古参たちは異質な私を駆逐した。私も独りよがりだったが、異質なものを排除する力は強いと思い知った。

 2002~3年前後だったと思うが、ある日この8585がどうもまっすぐ走らない、常に舵を当てていないと直線を維持できないことに気が付いた。確認した結果、フロントのサイドシルとFフロアが朽ちて離れていた。
 アングルをリベットで止めたが、無理だった。
 そうして廃車になっていったのである。次の黄色車両に燃タンを移植したのち、最後は黄色の事故修復のためにドナーになって役割を終えた。7~8年と短い付き合いだった。

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