理解と納得の狭間には体験がある【訪問:川崎市子ども夢パーク】
川崎市子ども夢パークに視察に行きました。
川崎市子ども夢パークはプレーパークとフリースペースえん(学校復帰を唯一の目標としない公設民営初のフリースペース)が併設された施設です。
今回は現所長の友兼さんから説明をしてもらいました。
子どもの権利条例や夢パーク設立までに友兼さんがどういう関わり方をしてきたのかも聞くことができ、今までと違った角度で理解を深めました。
学生のうちから関わっていたとは。
3つの「かん」を育てる
「感」「観」「勘」の3つを育てるという考えを大切に運営しているそうです。
例えば危険についてであれば、危険であることを感じる、何が危険であるかという見方を得る(観)、状況に応じた危険に勘づく、というあたりでしょうか。
この「かん」を育てるために、スタッフも「かん」を共通認識している印象がありました。
研修やミーティング、普段の立ち話の中で互いの考えを開示し、点検します。
この日はトンネルの中の泥をどのように掃除するか(どう遊びに転換するか)を話している場面がありました。
感(トンネル内を綺麗にしたい)から観(どのように遊びにするか)をもとに勘(具体的なアイディア)を出す、という営みに感じます。
教師と子どもの学びは相似形と言いますが、それを体現していました。
多数決はだいたいやらない
フリースペースえんでは定期的にミーティングが行われます。
ミーティングではえんでの約束事などを話すようで、この中で「多数決はだいたいやらない」という話題が出ました。
理由は、困っているのは少数の側であることがほとんどだから。
私の周りでは工藤さんと苫野さんの共著で多数決について考え始めた人が多かった印象ですが、それだけ学校教育で多数決が当然に採用され過ぎているのだと感じました。
先日の工藤さんの講演でも「民主主義=多数決ではない。それは議会制民主主義の方法を民主主義と勘違いしている。」という一説がありました。
問題解決には対話です。対話は得てして面倒で時間がかかるものです。
でも面倒で時間がかかるからといってここをおざなりにしては合意形成は成し得ないのでしょう。
禁止の看板がない
夢パークの中には禁止の表示がほとんどありません。
その背景に多様な子どもたちの利用があります。
例えば、日中は親子連れで乳幼児がいることもあれば、夕方になると部活帰りの中高生が訪れることもあります。
その中で、キャッチボールは禁止です、と表示してしまうのは本来の夢パークの設立意図と相反することになるからです。
禁止の看板を立てるのでなく、必要に応じて周囲が声がけをして運営がなされています。
ケガと弁当じぶんもち
遊具にも「これせい」「あれするな」はありません。
自分でやってみて、自分ができること、自分が危険だと思うことを掴むことが大切です。
その背景には失敗の価値があるとされています。
本人ができない、苦手と感じることで他者と繋がるきっかけができると考えられているからです。
また、人が励ましたり、促したりするとせっかくの失敗が自分の元に返ってきません。
うまくいかなかったときに、やれっていったからやったのに、と他責思考になってしまいます。
さらには本人の準備が整っていないときは怪我の可能性も増します。
この辺りは子育ての大きなヒントになる感じがします。
遊具はできるだけシンプルなものを手づくりでつくります。
これによって遊び方に幅が出るとともに、必要に応じて足したり引いたりができるようになります。
では、危険はどのように回避しているかというと、リスクとハザードを明確に分けるという考えで点検がなされています。
リスクは見える危険のこと。例えば、足場が狭く、一人分しかないなど。
ハザードは見えない危険のこと。例えば、釘が顔を出しているなど。
リスクは残し、ハザードは取り除くという考えで、毎日入念に点検がされています。
種まきして30年
西野さんもいらっしゃり、質疑応答の時間をつくてもらいました。
今でこそ、NHKや映画に取り上げられ注目を浴びるようになりましたが、「居場所」が理解されるまで種ましてから30年かかったという言葉が印象できでした。
それだけの深みがあるから、西野さんに質問をぶつけるとすぐに応答してもらえました。
本当に困っている層にどうやってアウトリーチするか。施設を作っておしまいにしないためにはどうするか。自治体規模的にどのくらいこういった場所があるといいか。最近の子どもたちの変化は。なぜ川崎市にこの施設ができたのか。より多くの市民を当事者にするには。
一つ一つの言葉に、腐らず強かに行動を続けてきた信念のようなものを感じます。
決して強い言葉を使わないからこそその深みを感じました。