無能の人 - 最近何をしたか 6/23-7/3
ひやっしー
最近"ひやっしー"という機器というか装置が世の中の一部で話題だと知った。オフィシャルサイトには、世界最小のCO2回収マシーンで、お部屋に一台置くだけでCO2を回収し、地球温暖化の解決に貢献できる、と書いてある。また温暖化というかCO2削減のための機器ということらしい。そういう質量保存の法則を無視したような機器を実現できるというのは眉唾だな、と思い少し調べてみた。そこで分かったのは、"ひやっしー"の原理は単純にいえば空気を取り込み、その中の二酸化炭素を機器内部の水酸化ナトリウムに化合させ、炭酸ナトリウムと水を生成するという装置のようだ。それを装置化してなにがあるのかは疑問だが、とにかくそういう装置らしい。
いや、ちょっと待て、その説明に加えるならば、生成された炭酸ナトリウム、もしくは炭酸ナトリウム水溶液を廃棄しなければならないし、機器として機能し続けるには新たに水酸化ナトリウムを補充するということも必要だろう。そんななんでもないただの化学反応のサイクルを機械制御しているだけということだろうか。どちらにせよ水酸化ナトリウムを補充しないことにはCO2の除去は一定期間しかできないし、水酸化ナトリウムを生成するのに使われるCO2はどうなるのだろうという疑問もある。さらに炭酸ナトリウムを廃棄するにしても中和処理が必要で、それらを経て産廃処理をするとしてもCO2は必要になるだろう。
リテラシー
なぜこのようなものが世の中の一部を賑わせているのか、最初は負の面で賑わせているのだろうかと思った。そして情報を追っているといろいろと不思議なことが分かってきた。開発者の村木風海さんは、発明家であり、起業家、そしてホリプロ所属のタレントという人で、なんだか掴みどころがない。そして"ひやっしー"はなぜかメディアなどでは肯定的にとらえられているということ、しかも政府のお墨付きまであるようだ。これは私の理解力を疑うべきなのだろうか。私が"ひやっしー"という装置を調べる中で耳にした、事実を前提とした否定的な意見は間違っているということだろうか。いいや、そのはずはない。
これはメディアや、行政機関に問題があるのだろう。それを踏まえ思うのは、昨今くりかえされている人々の科学リテラシーの低下だ。自分自身で考えることが減っているのかテレビなどのメディアが思考まで代替しいるのかは分からない、しかしテレビから流れていることが正確で正解、そしてコメンテーターは全知全能の、いや啓示を下しているように思えてしまうのだろう。それはこの機器の原動力となる温暖化問題もそうだが、最近では様々なことで起きており、未だに続くCOVID-19のこともそうだ。専門家という人に政府まで押し切られ、間違った道に進んだのではないかと私は感じている。本来そういう時には緩い指針を提示し、一人一人の思考により行動を作るべきだった。それがそれ以前から今も続いている。人々の科学リテラシーを奪っているのではないのか。
そう思い、立ちどまったら違うような気もしている。今も続いているのではなく悪化しているのではないか。それがこの"ひやっしー"のようなものに表れてしまい、人々はテレビなどのメディアから流れる情報を自分が選び取っている気になっている。それは科学リテラシーどころかリテラシーそのものが疑わしい世の中になっているとも思え、そしてその筆頭は自分ではないのかと常に気にしているのだ。今回の"ひやっしー"はタレントの遊び、似非発明家のペテン、そういうものかもしれない。しかし、それは日々科学に対して向きあっている多くの科学者に対して泥を塗るようなことなのだ。そういう人が身近にいなくてもそれは感じられるはずだ。
無能の人
開発者がどのような人間かは分からないが、"ひやっしー"を信じているとは思えない。と考えると、タレントとしての名声や起業家としてのそれ、または疑似科学で儲けるということなのだろうか、それくらいしか思えない。稼働させ数値データを取り、入力と出力のCO2を比べれば圧倒的に出力の方が大きいだろう。入力は空気だけだとすると、水酸化ナトリウムを生成し、都度補充し、機械の部品を作り、組み立て、電源から電力を得て稼働させ、そして廃棄物となる炭酸ナトリウムを廃棄するという出力と割は合わない。それは思ったよりも単純なことだし、そんなことは知らなくても分かることだ。もし開発者が"ひやっしー"を信じているとすれば本当のバカか、夢の中の国の住人だろう。
推薦入学ではあるが東京大学に入学できるような人でもこれなのだ。逆にそれがブランドとなって彼の、"ひやっしー"の現在を成しているというのならやるせない。なぜメディアは彼を持ち上げ、行政機関は持ち上げるのだろうか。それはCO2という絶対的な動機があるからだろうか。現在では絶対悪のそれが"ひやっしー"に対して限定的な視点をとらせ、確証バイアスに陥っているのだろう。そしてそこには科学リテラシーの低下、そしてそれを包むようにリテラシーそのものの低下があるとしか思えない。そしてそれは、いつまで私は気をつけることができるだろうかという恐ろしさにもつながっている。自分の無能さが怖くなるのだ。
内面
どんなことにもいちいち反応するのは、それは負けだよ。とか、どこかで聞いた、利口な先生のお話。別に誰かに勝ちたいわけでもなく、ただ知ってほしいのだ。だとしてもそれは単なるエゴイズム、自己顕示の挙げ句、終わりのない振り向き。ダブらせてみれば、最近よく聞く自己肯定感にも少し似た、いや、認証欲求のほうが近いのだろうか。内に内に入ってゆく。完全に届かぬ世界。
雨だれ
音楽がこころや体に与える影響を感じているが、それは音なのだろうか、それとも旋律か。とか、それはずっと昔から思っていることで、答えはないと感じている。しかし人間はとうしてあのように情景を音楽にできるのだろう。クラシックやポピュラー音楽にしても同様で、最初に聞き感じたのはショパンの雨だれだ。曲名自体は彼がつけたのてはないが、雨からインスピレーションを得て作曲したという。まさしく雨だれだ。
そのとき
誰の世界にも存在する、障害や壁。それは避けられたり乗り越えられるとは限らない。しかし現実に必ずあるものだ。それに直面したらどうすればいい、ともに進む誰かがいれば進めるのだろうか、いや、ただ一人でいるほうが進めるのかもしれない。自分のことでも分からない。それは時間とともに消えてゆくのかもしれないし、もしかすれば時間が終わってしまうのかも。そうだ、どうなるか分からないにしても、そのときが来ることを知っていよう。