映画『いとみち』
去年まだ仕事を本格的にしていなくて時間があったときにとにかく映画を見るようにしていたから、今年からは、その映画を再び見る、ということができるようになってきていて、その体験の豊かさに救われている。
横浜聡子監督『いとみち』はやっぱりとんでもない映画だった。
何度でも見返したい。
横浜作品は、とにかくかっこいい。
これまでのフィルモグラフィーに比べると、登場人物は割と「マトモ」な人が多い。でもやっぱり映画全体を通して見ると、明らかにマトモじゃないところに連れて行ってくれる映画だった。
母が幼い頃に亡くなった理由はわからない。父も祖母もそのことをいとの前では語らないようにしている。いとは学校では友達が少ないけれど、映画のなかでさまざまな人とかかわって、すこしだけ自分のことを話すことになる。それは関係が深まって、感情がぶつかって心の葛藤を吐露する、というようなことではなく、あたらしい人間関係ができるときに、必然的にお互いの素性を探り合う、というごく自然なコミュニケーション過程のなかで、さりげなく行われる。「自分が楽になりたいから自信がないように振る舞っている」ようにも見えかねないいとを、それでも職場の同僚として、学校の友達として対等に自然に扱ってくれる人たちが周りにいるから。ずけずけとプライベートなことに踏み込んできたり、意見が真っ向から対立するようなシチュエーションに置かれないでも、ただ節度のある人と人との関わりのなかで、心も体も動いていく。
しかしその動きこそ、観客にわかりやすく共有されるわけではない。いとにはいとの、青森県の高校生の、元三味線少女の、母なし子の、16歳の、論理がある。そのときはいつも、いとは青森の風景のなかに佇んでいる。ため息が出るほどの美しい引き絵は、シーンの転換として挿入されているつなぎのカットなどではなく、ただそこにいるいとを、ただそれを見ている横浜監督のまなざしである。
16歳のいとは、青森空襲記念館での課外授業における解説を聞いたり、勇気を出して声をかけた同級生が聞いていたバンドの曲を聞いたり、初めてのアルバイト先で同僚が漫画家を目指して描いているという絵を見せてもらったり、シングルマザーとして働く先輩の話を聞いたりする。それぞれの出来事は、いたってふつうの高校生がみな経験するようなものであって、関連性も一貫性もない。だけどいとはなにをしていてもいとである。思えばそのことに直面して戸惑っているのがまさに16歳という時間であった。
ネットで見つけた求人になんとなく応募してみる。見よう見まねで接客の練習をしてみる。メイド喫茶で客に不快な行為をされた日の夜に、久しぶりに三味線を手に取ってみる。同級生の聞いていた曲を耳コピして弾いてみる。いとにとっては、なんとなく、あたらしいことに手を伸ばしてみる手つきの先に、たまたま引き慣れた三味線があっただけのことなんだと思う。久しぶりに弾いた三味線の音は、いままで毛嫌いしていたほどに、わるいものではなかった。むしろ、こんなに気持ちいい音が鳴るものだったっけと、新鮮だった。母の記憶は、縁側は髪をといてもらっているときの朧げな感触だけだった。父も祖母も、母についてはおしえてくれなかった。可哀想だと思われないように泣かないようにしていた。だけれど母は、あのとき、本当に自分の髪をといてくれていた。いつもふと思い返していた淡いイメージが、新鮮に感じられて、感動した。
鬱屈とした心の葛藤から解放へ向かうのが青春物語なのではない。過去に向き合ってトラウマを克服するのが成長物語なのではない。一つ一つは些細な出会いや出来事や会話の、新鮮さに感動する、それだけがたしかに青春であり成長であった。
いとは初めて、山に登った。いつも家からは見えていたけど、登ろうとおもったことなんてなかった山。ごつごつとした岩に足をかけて、やわらかい風を受けながら。山の上からは、自分が暮らしている町が見渡せた。そしてその景色の新鮮さにただ感動した。そこから見える景色のなかに、あのときの出会いも、あのときの出来事も、あのときの会話も、あのときの感情も、自分が知らなかった時代のことでさえも、全部詰まっているのだと見えた。風景に感動する、それが映画の特権だった。青春が映画によって止揚された瞬間だった。
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