ダダルズ『QPQの地点』
ダダルズの新作をついに見れました。
演劇に触れ始めて2〜3年経った頃、2019年の夏に同じく三鷹SCOOLで観て、衝撃を受けた『顔が出る』から、テアトロコントや『おいなりさんラジオ』もあったけど、本公演としては3年ぶり。『顔が出る』は、1回観ただけでは物足りなくて、2回観劇に行った。コメディでも不条理劇でもなくて、まったく新しい上演の感触で、うまく言い表す言葉はないんだけど、私はそのときの出来事を「自分のことだ」と思って、忘れられずにいた。
「顔が出る」というのは、タイトルとして秀逸であるだけでなく、私にとっては呪文のような言葉だった。それはメタファーとしてではなくて、状態そのもののことを示しているという意味において、呪文のようだった。その公演で私が見たものは一つの演劇作品ですらなく、いくつかの「顔」であって、そこで私が客席に座って、どんな「顔」をしていたのかということだった。その呪文は劇場をでてからも解けなかった。私たちは常に「顔」に晒されていて、常に「顔」を晒している。
レヴィナスにおける「顔」の概念は、「他者」として認識される以前の他者そのものの〈私〉への現出のしかた、を指し示す。「顔」はまず、〈私〉にとって認識できないもの、すなわち、自己の同一化に帰することのできない“不可視の”存在である。
しかしながら、現代社会では見渡すかぎり「顔のイメージ」が蔓延っている。安易な共感や同一化を生み出す手段として、映画やドラマでは、同じようなシチュエーションの同じような「わかりやすい顔」が何度もあてこすられる。学校、会社、家庭、恋愛のようなものでさえも、このシチュエーションではこういう顔をしておけばいい、というような細かな不文律を共有している空気がある。
『顔が出る』の横田さんや大谷さんは、その不文律に抗って闘っているようだった。わたしのことをそんな目で見ないでくれ、わたしの顔をあなたのイメージとして見ないでくれ、わたしの顔がいまここにあるだろう、どうでしょう。それが切実であり、滑稽でもあり、清々しくて、面白かった。
そんな思い入れがあり、今回の公演も勝手ながら、満を辞しての観劇となった。そして実際に観たあとで、『QPQの地点』は、そんな前作から満を辞しての続編とも呼ぶべき作品だった。
続編といっても、前の登場人物や舞台設定が引き継がれるわけではない。ただ、3年という月日を経て、その間に私が感じた世間の空気感の変化と、3年前に『顔が出る』を観てから考えてきたことが、今回の公演を観たときに、わっと交差して、その時間が続いていたことを実感したからだった。
今回の設定は、まず、ホワイトボードだけが置かれた空間で、男が二人の女に対してワークショップを始めるのだが、その内容があるのかないのか、ちゃんと準備していたのかしていないのか、行き当たりばったりのしどろもどろで喋り出す。それに困惑しているような二人の反応を伺いながら、男はさらに裏をかくような『空気を腐らせる』言動で場を翻弄していく。つづくその帰り道のタクシー車内では、参加者の一人である女がもう一人の女を困惑させる言動を繰り返し、怒らせた末にその様子を動画に撮影するという奇行をはたらく。一方、ワークショップ講師の男は、同年代の男「まあ坊」(生実慧)に金銭を払って「おじさんと大学生」という設定で交際をしているようなのだが、もうその関係をやめたいと打ち明けられてしまう。休憩をはさんで後半は、再びワークショップが開かれて、同じ二人が集まり、さらにそこにまあ坊と、そのまあ坊が連れてきた「大江さん」という女が集結し、はげしい攻防戦が繰り広げられる。
前作と異なるのは、ほとんど主導権を握って、自在に『空気を腐らせ』て無双状態だったはずの横田さん・大谷さんが、今作ではなぜか押され気味の展開になることだ。そもそも今回の横田さんの役は、ワークショップの講師というある種の社会的な役割があることによって(劇中でそのことは明言こそされないが)、その挙動の正当性を検証するための物差しを見る人に与えている。そのことが、あらゆる眼差しから逃がれようとする横田さんの自由な挙動に影響を与える。またその役割を離れて、まあ坊と密会する場面があることで、その男を「とある作中の人物」として認識せんとする説話の構造がはたらきはじめる。けっしてそこにキャラクターとしての一貫性があるわけではなく、ましてそのように見ることはダダルズにおいてはほとんど偏見として退けられるべきものだと思うのだが、どうしてもそういう一般的な「見え方」の法則性のようなものはある。さらに今回、ダダルズでいういわゆる「常識人」として登場する西山さんのシンプルな押しの強さがある。序盤こそ二人の奇妙な言動に困惑し振り回されていたのだが、ある時点から、自分の主張を貫き通そうと頑なな態度を取りはじめる。
休憩前の横田さんのソロは置いておくとして(、、、)、後半からは、アクロバティックな展開になる。西山さんの「動画を削除してほしい」という一点張りと、永山さん演じる「大江さん」の「人には限界がある」という主張が強く打ち出され、横田さんと大谷さんは、なんとかして反論?というか言い分け?もしくは話をそらす?のようなことを繰り出していく。だけどみんな、話す言語が全然違くて、噛み合ってはいないような感じ。「あなたは限界を超えている!」と糾弾する大江にたいして、「僕はなんでこうなんでしょう、ね?」みたいに意見を求める横田さん(役名忘れた)。それにたいしてまあ坊は「結果です」と言う。「結果、というのは、限界、ってこと、、、?」と大江がつぶやくとき、この異言語バトルフィールドではじめて翻訳行為が行われたような気がした。そんなまあ坊は、とにかく「お金が欲しい。お金をくれたらここにいる」と言うだけで、落ち着き払って座っている。一方、大谷さんは「倫理観が抉り取られている」だのわけのわからない「自分語り」を一生懸命している。
彼らは、議論しているみたいなかたちなんだけど、誰も、共通言語をさがそうとしない。みんな自分の言いたいことを言うだけ。だけど、それがいい。そもそも誰も共通言語なんてもっていないのに、人の喋った言葉をわかったような顔して頷いて、わかったような顔で結論を出すようなふつうの「議論」なんかより、ずっと気持ちがいいし、自然に思える。この通じ合えなさは、絶望的なんだけど、この絶望こそがリアルだと思える。ドラマというのはだいたい議論であって、どこかの地点で「わかるよ」と言ってくれる誰かが現れて、それで前に進める、とか、救われる、みたいなことをドラマという。そしてその「わかるよ」こそフィクションであって、だから人間にはフィクションが必要なのかもしれないけど、フィクションというのは所詮フィクションなんだ。ダダルズはフィクションのない世界で、ストイックに闘っている。「わかりあえた」という希望よりも、「通じあえない」という絶望を愛でている。それはカタルシスのために都合よく消費される障壁としてのエゴイスティックな「通じあえなさ」ではない。実際に僕たちが背負っている、もっと救いようのない絶望的な「通じあえなさ」だ。
かの平田オリザは「わかりあえないことから」という考え方でコミュニケーションのあり方を再構築した。そこで提示される「対話」の概念は、異なるバックグラウンドや価値観をもつ人が、コンテクストをすり合わせて意思を少しでも共有するという演劇的営みの可能性を拡げた。「わかりあえなくても対話はできるよ」というのがかの人の主張だった。と同時に、対話にはある種の技術が必要でそのためには教育が必要だということも言い続けている。言うなればダダルズは、その教育がされていない人間の状態に向き合っている。平田さんは、対話の重要性を訴え、教育は施すが、ここの状態をスルーしている。そもそも本当に「わかりあえない」ということとはなんなのか。そんなことを考え始めると、骨が折れすぎる。そもそもそこは深掘りするほど論理的な領域ではなくなる。だからスルーするしかないのかもしれない。でもそんな作業を黙々とやっている人がいる。
2019年の『顔が出る』から、2022年の『QPQの地点』へ、何が変わったかと言うと、舞台に現実が入り込んできた、のだと思った。『顔が出る』という演目は、結局は、舞台についての話だった。「顔のイメージ」が氾濫した世界で、ドラマの台詞のような決められた言葉、決められた反応、決められた顔を再生産し、消費する人たちへの反抗として、『顔が出る』ということはこういうことだぞ、という真の役者の底力を見せられた。そこでは横田さん・大谷さんサイドが「常識人」サイドの人たちを翻弄し、無双していた。しかしそこに、3人の刺客が送り込まれた。彼らは相手が聞く聞かないもお構いなしに、それぞれ「正論」を振りかざしてやってきた。それはまさに現実みたいな様相だった。舞台上で圧倒的に現実を跳ね返していた2人がなぜか劣勢に立たされているのが意外で、不覚にも切なさを覚えた。
まあ坊を引き止めるために、お金を渡して行手に立ち塞がり、泣いている横田さん。客席に背中を向けている彼が顔から手を外したときにすかさず、大江さんが「あ!泣いてない!嘘泣きってこと!」と叫ぶ。それにたいして突如本気のトーンになって「これを嘘泣きって言うのはヤバいよ」と静かに言い放つ。横田さんの切実さに感情移入していた観客は、一瞬突き放され、さまざまな感情が飛び交い、そしてもう、どっちでもよくなる。それでも彼らは「顔のイメージ」に抗う。
人を限界まで怒らせておいて、その姿をカメラに収めようとする大谷さんの奇行は果たして、やめられない。しかしそれは、喜怒哀楽の感情を背負わせておいて、画面越しに、舞台越しに凝視せんとするわれわれ観客と、どこが違うのだろうか。
今回の話は、横田さんが「ワークショップの講師である」ということや、「誰かを求める」ということによって、何か背負うものができ、それによって「限界」に出会う、という話なのかもしれない。でも大谷さんは、大江にたいして「限界という言葉はつよすぎる」と抵抗を示した。一方で、まあ坊は、それを「結果」だと一蹴した。その冷たさに、われわれは自覚のないわけではない。まあ坊の能面のような表情に、自覚のないわけではない。われわれはどこかで倫理観をえぐりとられてしまっているから、演劇や映画を見ようとするのかもしれない。どんな世界だよ、と思うけど、そういう世界なのかもしれない。どっちかっていうと。
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