7月16日

演劇。
スヌーヌー『長い時間のはじまり』
三鷹SCOOLで。あるアパートに引っ越してきた「林」、その隣の部屋に住んでいる夫婦は、いつも同じ会話をしている。その夫婦にはかつて息子がいて、その夫婦はやがて亡くなる。林が引っ越しを手伝ってもらったかつてのアルバイト仲間の「土井」は町田に住んでいて、また漫画を描き始めようかなと言う。その一年後、薬を大量に飲んで林に連絡してきたことがあった。やがて林も亡くなって、アパートは取り壊されて、100年後、そこは更地になっていた。
というような全体像だったと思うのだが、何が面白かったかというと、出演者4人の、素朴な佇まいというか、無理して役を演じようとしていない感じ?あるいは、無理して物語を語ろうとしていない感じ?それは作・演出の笠木さんによる戯曲がそういう構造のものなのかもしれないけど。舞台美術も少なくて、小さい脚立(椅子に見立てられる)とラグマット、かばん、リュック、本、引っ越しの挨拶の手土産(ゆべし)くらいのもので。
だけど話し手が丁寧に、部屋の壁や、帰り道の泥濘みや、川や、アパートの構造などについてイメージしていく。車や、扉や、猫のパントマイムも、凝ってはないけどとても丁寧で、そこにあるように扱っていた。当日パンフレットに、その街が登戸であることが書かれていて、作者がそこに住んでいたのだろうかと思う。スヌーヌーの舞台を見るのは初めてで、出演者の4人もたぶん初めて見た人たちで、久しぶりのSCOOLという白壁の空間で、どんなお話かもわからないし、何が起きるかもわからなくて、どのように見ればいいのかもわからない。でも目の前に立って何かを発表している人たちをとりあえず見ていこうみたいな、そのとりあえずの眼差しを許してくれる空間が、心地よくて、だけど言葉の端端には、作者が伝えようとする何かがフックのように込められていて、登戸というモデルのある街や人やアパートが立ち上がって、この街で、こういうふうに生きている人たちもいるんだなという新鮮さに満ちていた。
やっぱり、演劇を観ると、こういう人もいるんだ、っていう実感が得られるのが嬉しい。電車とか乗ったり、外を出歩いたりしても人はいっぱいいるけど、顔とか格好とかだけで、こういう人もいるんだ、という実感は持てないし、映画を見ても、ああこの人はどういうところに住んでいるんだろう、どういう生活をしているんだろう、誰とどんな会話をしているんだろう、ってところまで自然に具体的に想像が広がっていかないから。
それから、客席に、かつて一緒に演劇をやったことのある人がいて、声はかけなかったけど、向こうもそもそも気がついていたかわからないけど、見る感じ、変わっていない感じだったので、声かけようかとも思ったけど、すたすた帰ってしまった感じだったけど、そういうのも、演劇ならではだよなあと思った。劇中では、林と土井が久しぶりに再会して、話が弾むでもなく、しかしかつてのことを思い出したりして、また再び会うこともなかったのだけど、そうやって、隣の街であの人が生きている、ということの実感、押し付けがましくないくらいのそれ、小さな希望が、ふわっと共有されるような空気感だった。
その強さ/優しさが、あの言葉/空間をつくっているのだと、すこし憧れてしまうわけです。自分は、なんでも、距離を置いて、眺めてしまうから。そのとき、その距離の中に自分は存在してないから。距離の中でもがいているときの生々しさが、つまり優しさのように思う。距離がすでに決まっているような言葉で測るのではなく、その距離でもってすでにある言葉を測るような反骨心を学んできたのではなかったのか、俺。

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