"ガウディとサグラダ・ファミリア展"後。
人生をかけて残したいものって馬鹿みたいに大きい世界観でいいんだ。常識に言いくるめられないで自分なりにわかりやすく、周りに伝えようとするそれを続けていく。死んだ後にわかってもらえればいい。それでも作ることを続けていく。簡単か難関かじゃなく気持ちをそのまま形にしていく。。
あなたのようにぶれない心はどうやったら生まれたのだろうか。私の思う内にはないのは当然だけど突き動かされるものに忠実であったことはわかる。そして思う。公に誰もが理解できるように見える化することこそ枠を超えて親しまれるものであり、傲慢とは正反対に位置しとても謙虚で雨の日も雪の日も飼い主を待っていたハチ公を思わせる。そしてその生き様や信念から感じるのは孤独。一見、充実した人生に思うけれども特殊な作品を世に出し続けることに心がずっと健康だったのかが気になる。もしかしたらもっとも彼が人的じゃなかったから世に作品を残し続けることができたのかもしれないとすら思う。どういうわけか私には到底想像の域を超えていそうで、私とは正反対のタイプだった場合、よく違うものほど気になる精神で解決することになってしまう。私の心はとにかく理解できない生物を追いかけてしまうようだ。
ダウニーの聖堂は実は広範囲の人に向けた作品にも考えられて宗教感を越えた人類の希望を導き出してくれた。生物をモチーフした作品やそれまでの過程もあってこその最終製作でもあるようで、全ての要素と年月を含めた作品であり、まるで綺麗な人生を逆算してきた未来人みたいな少しだけずるい人に見える。ただ作品だけに感銘を受ければ良いもののこのガウディの人生をトータルで見えてくるのは私が羨望を抱く外にある人生観そのものの近しいところに触れてくるからで、どこか答えがあるきがして体が強く探ろうとさせてる合図なんだろう。ここまでかの有名な偉人に心突き動かされることは今までなかった。こんなにも深い懐疑心に触れる人物に出会えたことが、今出会えたことが、私の詩に影響をもたらすのだろうか。いつか、答えを見つけ出せるだろうか。いつか単にあなたを愛する人のように慕うことができるだろうか。あなたが作品に対してとても素直で意思を貫き通していたように私もいつか自分の筋書きのような物語が見えてくるだろうか。意思を貫いて作品を作り続けることは、先の読めない小説を読むようなものだ。あなたは晩年何を思っていたのだろうか。死んだ後にどう思われることを望み、懸念を抱き、過去の自らの行いをどう見切ったのどうか。現地に行ってあなたの遺作をみる時、何か気づきを得られるだろうか。
ただ一つ閃いたことは、きっとわからないだろうってことだ。ガウディだって自分の意思に突き動かされるままにただ生涯を生きた人で小説そのもののように人生に幕を下ろしたのかもしれない。だから私は自分の人生に対してガウディと同じものを感じてる。だから怖いんだ。どんなに偉大だと知っていても人の人生に文句を言うのも違うけれど、不透明なまま亡くなってしまったことに不安を仰がれているのだ。私のこの不安だって恐怖だって全て的外れかもしれないけど、それだったらむしろいいのだけど。
手紙
私はあなたとお話がしたかった。ただそれだけです。生きる時代は違うけれど、なぜだかこの心の胸苦しさがあなたと共鳴してるとしたら・・だけど、こうしてあなたも自分の人生観や製作物の観念と闘っていたと仮にするなら私にだってただ意思を見える化することしかできないとわかります。希望は捨てません。深く理解できるに達していないかもしれないので、それまで自分に欠点があると思って詩を書きます。スペインに行って聖堂を見る時か。その前か。もしかしたら、この心の蟠りが晴れる時がくるかもしれない。今はそれだけ思えます。私はあなたの存在をどっかしら大袈裟でなく生き血にまで落としめるんだと思います。いや、もしかしたらそれは物語の小説のような気持ちで落とし込まれるのかもしれませんが。
お互いに待たずとも、(まだ生きていらっしゃるような言い方ですが)何もかも見当違いでも、自分の意思に背くことはできません。形にするまでです。色々な面で総合的に魅力的なあなたに出会えたことは、大いに、私に心を揺り動かすことでしょう。出会って1日でこれなのですから。
その時まで。どの時かはわかりません。あなたもわからなかったように。