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マジでどうでもいい話

なんとなく書きたくなった。
とはいえ、実は2,3個ほど記録として書き途中のものがあるんだけど上手くまとまらず今1番話したいことだけ書こうと思って。本当はこんなnoteなんかじゃなくてお手紙書きたいんだけどさ、それも上手くまとまらなくて。

でもなんか言葉にしたいことはいっぱいある。

だったらずっとTwitterやってろって話なんだけど、140字という制限に負けて言いたいことわかんなくなっちゃうんだよね。最近10ツイートまとめてしたりしましたけど、あれだってまとめてああなってるのよ。TL荒らし常連ですみません。

無駄話が多いわ。良くないとこ。
今回円神のこと殆ど関係ないので興味ある方だけ読んでいただければと思います。


広く浅く

最近受けた講義で、「表層と深掘り」について学びました。
ざっくりまとめると、目に映るモノ(事実)から目に見えないモノ(真相・真実・背景也物語)を連想・イメージ・構築する力のことで、

自分の目に映った事実からとれる情報=表層
それがなぜそうなっているのかを分析したり他の情報と結びつけたり切り離してみたりする=深掘り

というふうに捉えています。

で、なんでこの話をしだしたかというと、
この2つをうまく使いこなすことができれば、自分の好きなモノコトを自分に嘘をつかずに好きで居られるのかな、と思ったからなんです。
理想論でしかないかもしれないけど。

「広く浅く」も「狭く深く」も、いい面と悪い面の両方を持っています。
よくメリット・デメリットというように、この2つの事象に限ったことではないし、そもそもいい悪いに分類しきれないこともある。言い出したらきりがない。

まあそれは置いてといて、たとえば、モノゴトに対していいなと思わない面は、別のモノゴトのいい面と結びつけて新たな良いなと思えるのを見つけられるんじゃないかなと思うのです。この結びつきをどう見つけるかは、その人の見て来たもの体験してきたこと、それらによって構築された価値観によって大きく変わります。こんなこと周知の事実だし、それが出来たら困らないといえばそれまでなのですが、まず、ここに気づくことが出来るかどうかで変わることもあります。

とはいえ、いいと思わないことと結びつける別のモノゴトのいい面がみつからないこともある。それは自分の視野が狭かったり経験が浅かったりと結びつけられるモノゴトの引き出しが少ないからみつからないのか、自分の中にある信念や正義のようなものと相反するものだからなのか、要因は様々です。後者の場合はひとつの”結果”なのでこれを変えるのはなかなか難しいことだなと思うけど、前者の場合は知識を得たり経験をしてみたりでもどうとでもできる気がするのです。説教臭くてめちゃくちゃ嫌なんだけど、最近はこういうことを考えてます。

まとめたら見聞を広めろ!って感じになっちゃうのかな。やだな、説教きらい。そんなことできるほどの人間じゃないし。むしろ知識を詰め込む作業が大の苦手で中高と成績はボロボロだったので、最近は物事を考えるうえで知識がなければなと思うことが多く何かと学びなおしからスタートしてます。


蓄積と忘却

最近○○史といったものを学ぶことが多いのもあって、人間というのは蓄積と忘却の生き物だなと思うことが増えました。蓄積の生き物のはずなのにいつの間にかリセットされて同じことくり返す。
そこが人間のポンコツなところでもあり、らしいところでもある。らしいで済まされないことも起きるけど。

そして”自分”というものもまた蓄積で。現時点の自分なんて誰か・何かから得た知識や得たものから感じた何かの蓄積でしかないから、それが多ければ多いほど自分の理想に近づくことが出来るのかなと。

テストだって勉強して知識を蓄えて自分のものにして臨むべき、と考えたら、蓄積が多ければ多いほど、それを使えれば使えるほど、なにかに縛られ過ぎずに自由になれる。逆に言えば、使える手が少ないと理想の答えをだすのに時間がかかったりたどり着けなかったり。こうじゃないかというところまでは考えられても自分の想像力だけでは限界があるし、それはいつか現実とはかけ離れた独りよがりのものになってしまう。

「表層と深堀り」の話に戻りますが、現実とはかけ離れた独りよがりのものになる時は大抵誤った深掘りになっていて、本当は結びつかないものを結びつけてしまったり目に映った事実を無視してしまったりしているのです。ここで事実の忘却が起きてますね。意図的に忘れることもできるし、夢中になって無意識に忘れてしまうこともある。だからこそ、自分の好きなものを好きでいるため以外にも「表層と深掘り」という視点は、ただの空想や妄想だけで終わらせないための、地に足をつけるために重要な役割持っているのではないかと考えています。

これがなかなか難しいんだけどね。


余白

やれ蓄積しろだの視点をもてだの言っておきながら、何かと追われがちで効率といわれがちで必要な情報が予め呈示されすぎている時代だけど、時間など物理的な余裕や精神的な余裕だけなく、多くの人の生活の中に”余白”があったらいいなと思います。

その余白の中で、自分は一体何を感じて何を考えながら過ごしているのかを認識出来たらもっといいなって思います。

お芝居を見た時、ピンと来る服に出会った時、いい曲に出会った時、推しにあった時などなど。今、何を思ったのか感じたのか考えたのかを汲み取って、この自分の心の動きは何から生まれているのかを考える。ここで今まで蓄積してきたものと結び付けてみると、自分がどんなものを大切にしているのかがみえてくる。大切にしているものが見えることで、自分にとっての生きやすくなる方法が少しでも見えるのかなって。

全ての物事に理由付けをしていく、と言った方がわかりやすいかも。

お芝居の話になりますが、舞台の上などで演じている時の行動はほとんど理由があるとされていて、逆に理由のない動きはその世界には存在しない不自然なものになってしまいます。

でもこれってお芝居に限った訳ではなくて。例えばコップを持つという動作にしても、"喉が渇いたから飲み物を飲みたくて持った"とか、"ほかのものを置く時に邪魔だったから持った"とか動作には何かしら理由がある。

まとめると、無意識的にやってることを意識してみようってだけの話なのです。そこに気づくために考えるために余白をがあるといよね。というだけのお話でした。



まだまだ未熟なわけで

いっちょ前にダラダラとこんなこと言ってますが、まだまだ人生経験浅いし視野も随分と狭いから、知らないことがたくさんで。ただ、知らないからこそ見えている世界もあるから、こうして形に残したいなと思って書いてます。


なんか感想でも、自分の感想でも、お前偉そうだな(おまえうまそうだな)でもなんでもいいので何かしらの形で下さい。↓とかに送るでもいいよ。てかこれマシュマロじゃない方がいいのかな。その辺についても下さい。


大型連休明け、今までできていたことやようやくできるようになったことがまた出来なくなって落ち込んだり、何かと寂しさに負けてしまいそうな季節ですが、ゆっくりやれるだけやってきましょ( ¨̮ )

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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