エッセイ | 快と不快の感情より社会的ルールを優先する人々
(1) ネタがかぶったとき
自分がこれから投稿しようとしていたネタが他のクリエイターの記事とかぶってしまった場合、どうしたら良いのでしょう?
私は、内容の語句まで酷似していない限り、そのまま気にせず投稿します。
noteには、なんとなく流れというか、空気というか、お互いに無意識レベルで影響を与えあっている雰囲気のようなものがあるのかもしれません。
今回の記事は、ちょっと前にテーマだけ下書きしておいたものですが、ももまろさんの言いたいであろうことと、私が書こうとしていたことが似ているような気がしました。
テーマがかぶるのは、仕方ない。やっぱり書きたいことは書こうと思っていたら、さらに、池辰彦さんの記事が現れて、拝読してみたら、これも私が書こうとしていた意見と(たぶん)似ていると思った次第です。
さすがに書くのを控えようと思ったのですが、人が違えば書き方も違うものになるだろうと信じて、私なりに記事を書こうと思います。
(2) 相手の快・不快の感情より社会的ルールを優先するな!
例えば、人にお世話になったとします。そのような場合、相手の方に何かお礼をしたいと思いますよね。
口頭で「ありがとうございます」と言うにとどめる場合も多いのですが、何か菓子折りでもお渡ししようか考えることがあります。
人にお世話になったとき、相手に何かお礼のしるしとして、菓子折りなり何なりを持っていくのは、常識的な判断です。
しかし、相手によっては、そういうお礼をいただくことを苦痛に思う人もいます。
もしも贈り物を渡す前に、前もって相手の方が断っていたとしたら、あなたが菓子折りを持っていくのは適切な判断でしょうか?
これはあくまでも、「たとえ」なのですが、私は私の気持ちよりも社会的な常識を優先させる人が嫌いなのです。
私があなたにどんな良いことをして、あなたが感謝してくれたとしても、私が「贈り物はお断りします」と言ったら、「贈り物を贈る」という「社会的なルール」よりも、私の意思を優先してほしいと思うのです。
もちろん、あなたには何の悪気もないどころか好意を持ってくれていることはわかるのですが、私の気持ちを無視することが許せないのです。
「おとなげないぞ!」という批判があるかもしれませんが、常識に沿った善意ならば無条件に良い、と思い込んでいる人は鈍感だと思います。
「多様性」が叫ばれる時代ですが、正論・正義・常識という名のもとに、1人1人の意思というものが尊重されなくなっている風潮があるように感じています。
noteにおいても、ルールにのっとっているにもかかわらず、「記事は無料で公開されるべきだ!」と言って有料記事を書く人を非難して叫ぶ人や、単なる意見の違いを「誹謗中傷だ!」と叫ぶ人もいます。
社会的な常識を踏まえた行動はもちろん大切なのですが、個人の裁量にゆだねられていることに対して、相手の考え方・立場を無視するというのは、良いことではありません。
答えは1つだけと限りません。なんでも科学的な真理のように、白黒ハッキリするものばかりでもありません。
自分の正義・正論を相手に押し付け、相手の正義・正論を無視するのは愚かです。
真実には、絶対的な真理のほかに「相対的な真実」というものも存在するのではないでしょうか?
どうしてもお互いに折り合いのつかない場合には、「agree to disagree」(同意できないことに同意する)ということがあってもいいと考えています。
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