ダークマターの飛脚 | 企画書
キャッチコピー
拮抗するこの世の宇宙とあの世の宇宙。
あらすじ
自宅付近で倒れこんでしまった安生は、救急車で病院へ運ばれた。熱中症だと思っていたが、膵臓ガンであることが発覚し、余命3年を宣告される。
消化酵素剤やインスリンを定期的に自身で打つ生活を余儀なくされる。
そのような制約のある生活であったが、徐々に適応できるようになった。
しかしある時、1人で設計の仕事をしているとき、没頭し過ぎて危うくインスリンの注入の時間を忘れそうになった。その時、安生のもとへダークマターが現れる。
ダークマターの使者曰く、早く安生にあの世へ来て、この世とあの世が拮抗する世界を構築するための力になってほしいと。
逡巡する安生とダークマターとの戦いの火蓋が切って落とされた。
第1話 | 悪魔との邂逅
酷暑だから、熱中症には気を付けていたが、自宅がもう見えている地点でしゃがみこんてしまった。
こんな非常事態の際にも、羞恥の気持ちがあり、人を呼ぶことを避け、その場にしゃがみこみ、回復するのを待った。
たまたま通りかかった人が異常を察して、救急車を手配してくれた。気がついた時には、私は病院のベッドに寝ていた。
その晩になって、私はようやく目を覚ました。しばらくすると、巡回の看護師がやって来た。
「ご迷惑をおかけしました。熱中症でしょうか?明日には退院できるでしょうか?」
「お目覚めになられましたか。とりあえず意識を回復されたようで。病状の詳しいご説明は後日、先生のほうからお伝えします。今日はごゆっくりなさって下さい」
看護師はそう言うと、そのまま姿を消してしまった。
翌日の午後になって、担当医が私のもとへやって来た。
「体調はいかがでしょうか?」
「良いとは言えませんね。やはり熱中症でしょうか?」
「単刀直入に申し上げます。熱中症ではないようです。もう少し体力が回復しましたら、精査してみましょう」
結論を言おう。私は膵臓ガンだった。結局、全摘することになったが、無事、退院の日を迎えることができた。しかし、私の余命は3年だと診断された。
不安はあったが、きっとこれで良かったのだろう。もともと長生きなんてする気持ちはなかった。ただ、かなり日常生活が制限されることになった。
数時間おきに、詳細に数値を記録したり、インスリンや消化酵素剤を自ら手で打たねばならなくなった。
だが、自ら注射することにも、徐々に慣れてきた。ただ、スタッフたちが退社して、ひとり設計の仕事に没頭していると、ウッカリ注射しなければならない時間を忘れそうになることがあった。
「危なかった」と一人言をもらすことが何度かあった。
今日のオフィスには私1人。PCの画面で、構造計算書を作成していた。
一通り依頼された仕事をこなしたあと、個人的な趣味で、理想の建造物を夢想していた。
依頼された仕事とは異なり、予算や敷地などの制約は何もない。
制約が何もないと逆に考えがまとまらないこともあるものだ。土質力学のテキストを見ながら、あえて脆弱な地盤に高層ビルを建設することを考えていた。
ふと時計を見ると、注射の予定時刻を30分オーバーしていた。
「危ない。早く打たねば」と一人言を言ったとき、奴は私の前に初めてその姿を現した。
第2話 | あの世からの来訪者
今でもたまに思い出すが、幼い頃にこんな絵本を読んだことがある。
絵本 | 星が降ってくるのは…
星って、何で空に浮かんでいるか知っているかい?
そう、知ってるよね。地上で生きて、人生を終えた人が、星になるんだったよね。
星になった人は、ふつう、そのまま、空に浮かんでいる。
だけど、たまに流れ星になって落ちてくるだろう?なんでだか、知ってるかい?
そう、せっかく死んで楽になったはずなのに、私のほうが輝いているとか、いや俺のほうが輝いているとか、そういう張り合いをすることに疲れてしまうからなんだ。
流れ星になって落ちてくる星が、落ちてくる間、何を考えているか、知ってるかい?
そう、星でさえなくなれば、もう闇になるしかないよね、ってこと。
輝くことに飽きた星は、やっと、みんなを輝かせる闇になることができるんだ。
闇は、地上で生きた人間が、星になって、流れ星になって、落ちたときにできるものなんだね。
もう、誰とも張り合わなくていい。
どの星とも張り合わなくていい。
やっと楽になれた、よかった、うれしい。
人は死ぬと夜空を彩る星になると言われていた。しかし、星になった人間は、ずっとそのまま星で居続けるわけでない。やはり、星になってからも、待っているものは死であることに間違いない。
宇宙に存在する物質は、解明されているものは多いが、いまだにその3割はダークマター(暗黒物質)と言われており、宇宙に漲るエネルギーのおよそ7割は、ダークエネルギー(暗黒エネルギー)と呼ばれている。
ダークなものは、おそらく未発見の素粒子の集まりだろうと言われている。しかし、観測できない以上まだ謎に包まれている。
「危なかったですね、安生さん」
低く薄気味悪い声が部屋に響いた。
空耳?
はっきりと聞こえたが、辺りを見回しても誰もいない。
「私はここにいますよ。もちろんあなたには見えません。ダークマターですから」
「ダークマター?暗黒物質か?」
「さすがですね。それならば話が早い」
私は黙ってダークマターの声に耳を傾けた。
「科学者たちは、われわれをダークマターと名付けています。曰く、現代科学にはまだ解明できないと。これからも、『現世』の視点から考える限り、われわれの正体を突き止めることは不可能でしょう。なぜならば、ダークマターと言われるわれわれの体は、現世に存在する物質ではなく、あなた方の言う『あの世』に存在する物質で出来ているからです」
私は半信半疑ながらも、妙に納得しながらダークマターの話を聞きつづけた。
「人間をはじめとする動物たちだけでなく、無機物である物体も、その役割を終えれば解体を余儀なくされます。死んだ瞬間に何が起こるのか、あなたには想像できますか?」
「霊魂が抜け出すとか?」
「あなた方の言い方だとそういうことです。霊魂というものは、現世の物質とあの世の物質を繋ぎ止める、いわば接着剤のようなもの。人間は死んだ瞬間に、霊魂という接着剤から解き放たれ、現世の物質とあの世の物質に分離するのですよ。ほら、亡くなった瞬間に、その人の体重を計ると50gか減少するって言うでしょう?それは霊魂の重さなのです」
「本当なのか?」
「ええ、本当ですよ。死んで解き放たれた『あの世の物質』がダークマターにほかなりません。今、生きている人間たちは、『この世』だけで世界が成り立っていると誤解していますね。本来、『この世』と『あの世』は別々に存在しているわけではないのです」
私は恐れながらも、ダークマターの言うことが真実であるかのように思われた。
「この世界とは、この世とあの世が混在して成り立つひとつの世界なのです。横暴な現世の人間たちは、人が死ぬと、数日のうちにその死者はもうどこにもいなくなると錯覚してしまいます。しかし、死者を形作っていた物質の大半は、虚空に瀰漫しているのです」
私はひとつ重要な疑問を投げ掛けた。
「あなたのことを、とりあえず、『ダークマター』と呼ばせてもらおう。あなたはまだ生者であるこの私に、いったい何の用事があってここに来たのか?私の死が近いということか?」
「はっきり申しましょう。本来あなたはもう死んでいるのです。それなのに、いまだにあなたが、なかなかダークマターの一員にならないからお迎えに伺った次第です」
「私はまだ生きている。あと3年の余命が残されている。やって来るのが早すぎやしないか?」
「あなたも往生際が悪いですね。われわれは、あなたのお越しを今か今かと待ちわびているのです。あなたのパワーは非常に大きい。その力をダークエネルギーに転換させてほしいのです」
「何を企んでいるのだ?この世をダークエネルギーで覆ってしまいたいのか?」
「本来、この世のパワーとあの世のパワーは拮抗しているべきなのです。しかし、産業革命以来、『この世』にパワーが過度に集中してしまっています。科学的な考え方が猛威をふるい、呪術的な思考は軽視されるに至りました。これはどう考えてもおかしいのです」
私は反論を試みた。
「呪術的なパワーというものは再現性がない。一過性のものに過ぎないから仕方ないではないか?」
「世界に起こることは、すべて一過性のものに過ぎないのです。科学というものは、『other things being equal』、つまり、他の条件が一定であるならば、成り立つ『傾向がある』と言えるに過ぎません。自らの演繹的な思考では考察できないことは、すべて無視しているのです。たったの一度でも、全く同じことなど起こり得ないのです。Einmal ist keinmal.とも言いますね」
「しかし、傾向としては正しいことが言える。それで十分ではないか?」
「確率的に言えるということは、完璧からは遠い。なぜ科学法則は微妙な点において、未来を予測できないのか?それはダークエネルギーというものを捨象して考えているからです」
「もし、現在の一般に妥当だと認められる科学法則に、ダークエネルギーの影響を加味したならば、完璧な法則が成り立っているということか?」
「その通りです。やっと理解していただけましたか?この世界は、科学の力と呪術的な力のバランスの上に成り立っているのです。本来あるべき世界を構築するためには、あなたのその設計能力が必要なのです。控え目に言ってあなたは天才です。われわれダークマターの肉体を持つ者だけでは、この世とあの世の融合は不可能なのです。早くあなたの力をお借りしたい。もう消化酵素剤やインスリンの注射などせず、安生さんも早くダークマターになっていただきたい」
そこまで聞いた時点で、私の周辺を覆っていたオーラが消えた。
私はふと我に返った。不思議なことに、時計はダークマターに出会った時刻から一秒も経過していなかった。