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短編 | 私の人生はいかんとですか?
短編 | 私の人生はいかんとですか?
目覚めると見知らぬ光景が広がっていた。明らかにここは、ケーニヒスベルクではない。いまだに元気ではあるが、やるべきことはすべてやったという気持ちはあった。残りの人生は、普通に散歩して、無理せずに死を迎えるまで、悠々自適の生活を送ろうと考えていたのに。なぜ、よりにもよってこんな荒野に、私は立っているのだろう?
渾身の力を注ぎ込んで書いた理性能力に関する私の批判書は、批判する者さえ無視できない書物として認められた。この著作一冊で、私の主張したいことはすべて主張したはずだった。
しかし、「あなたは倫理についてどのような考えをお持ちですか?」、さらには「あなたは美についてどう考えますか?」という熱烈な声に押されて、予定にはなかった実践理性や判断力に関する論文まで著すことになった。
宗教について書いたときには、身に危険を感じたことすらあった。私は皇帝に処罰されることを恐れたが、ギリギリのところまで描くことができたという自負はある。
地理学や歴史について講義したことがある。私の考えは決して単なる観念ではなく、極めて俗なことを念頭に書いた。もしかしたら、それがいけなかったのかもしれない。
だが私は、どんな時にも、確実に「ここまでは間違いなく言える」ことしか書いていないから、修辞的な箇所は多少改めることはあったが、意見を180度訂正するようなことは一度もなかった。それなのに、なぜ、私は、こんな荒野に、いま、立っているのだろう?
私が「純粋理性批判」を著したとき、「こんなに難解で長い著作は読むに耐えない」という批判を受けた。
「誤解のないように詳細に書いたから、長くなってしまったのです。短く結論を書くだけならば、もっと短い文章で済んだはずなのですが、読者へ私の考えたことを詳しく伝えようとしたから、結果として長くなってしまったのです」という趣旨の言葉を版を改める時に書いたのだが、この言葉さえも「長くて意味が分かりにくい」と批判された。
私は誠実に生きてきたつもりだ。少なくても、この老境に差しかかった時点で、島流しにされるような行動はとってこなかったはずなのに。
ここは一体どこなのだろう?
「誰か!ここはどこですか?教えていただけませんか?」と言おうとしたとき、私の口から出て言葉は次のようなものであった。
オリオンの 姿描きし 我が理性
おりおんの | すがたえがきし | わがりせい
~おわり~
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