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亡き母との再会・錦糸町駅ホーム編

日曜日の夕方、『ちびまる子ちゃん』から『サザエさん』の時間帯は我が家は決まって夕飯を食べています。

昨日も夕飯を食べながら『サザエさん』を観ました。

終わりの歌の時に出るマンガで、ワカメちゃんがフネさんに「やっこさん折って」と頼んで折り紙を差し出すところがあります。

最初フネさんは「自分のことは自分でやること」と言って断るのですが、自分がしていた針仕事で糸が針の穴に通らないので、それをワカメちゃんに通してもらう代わりに折り紙を折ってあげます。

わたしの大好きなコマの1つですが、このシーンを見ていて自分の子供のころを思い出していました。

「わたしはお母さんにやっこさん折ってもらったこと、あったかな?」

「いや・・・ないな。ああいう風に甘えたことはなかったなぁ。あ~ぁ、お母さんに甘えたいな」

いい年した大の大人が、こんな風に思いました。

そして小さい頃、母に抱かれた時のぬくもりや、泣きつかれて寝てしまった時のことなどをぼんやり思い出していました。


その後。

就寝から数時間後、わたしは錦糸町の駅のホームに立っていました。

下り方面の先頭車両に近い辺りです。

隣に母が立っていて、二人で何やら話し込んでいました。


母はいつもそうです。

わたしが母を恋しがっているとわかると、必ず、必ず会いに来てくれるのです。


どうやら婚活が続いているようだ

懐かしいあの感じ・・・気の置けない間柄でこその心の高揚。

わたしは楽しくて、夢中で話し続けていました。

そんなわたしの話を目を丸くして聴いていた母が、一言。

「あんたよく喋るわね。大人しい子だと思ってたけど、あんたはよく喋るわ。」

そして

「人から見ると、あんたは5点満点で3.5点は取れるね!」と。

つまり世間一般的に”中の上くらいには好印象じゃないか”と褒めてくれているのです。笑

「で、どうするの?」と母が聞くので、わたしは

「うん、もう一回、紹介頼んでみるよ!そのために入居してるんだもん」と意気揚々と答えました。

どうやらこの場面設定では、わたしは泊まり込みで婚活をする施設に入居しているらしく(拷問か笑)、母を安心させようとパンフレットに載っている男性陣の写真を見せているのでした。笑


脚の悪いご婦人を抱きかかえる

その後、一旦は別れたはずの母が、先ほど降りて行った階段をホームに向かってまた上がってくるのが見えます。

上り電車がホームに入って来ました。

母はこの電車に乗りたいようです。

なのにどういうわけか母の動きはやたら遅くて・・・よく見ると脚の悪いご婦人を、どこぞのおじさんと一緒に支えながら、3人固まって階段を上がってきます。

そう、これが母という人の魂なのです。

目の前に困っている人がいると放っておけない。

情に厚く、優しいのです。

助けなきゃ、そう思いながらわたしも、飴に取られたように手足が動きにくいので、最後は想念の力で呪縛を解き放ち、ご婦人に駆け寄りました。

抱き上げようとしますが、小柄なわりに、ご婦人はかなり重たいのです。

腰を痛めないよう、太腿に重心を集めて立ち上がります。

母に「お母さん、靴!」と叫びました。

ご婦人の履いていたパンプスが脱げかけていたので、外して持ってもらったのです。

「どこぞのおじさん」とわたし、母、そして脚の悪いご婦人は、煌々と明かるい上り電車に4人とも乗り込みました。

電車が走り出し、わたしが床に下ろしたご婦人に母がパンプスを差し出し・・・

と、そこで目が覚めました。

ボンボン時計が3回鳴りました。


故人が夢に出てくるのは魂の交流?

それは夢占いの本には必ず書いてある解釈ですが、母が他界するまでわたしはそれを半信半疑で受け止めていました。

今は、それが限りなく事実に近いのではないかと信じています。

なぜなら、母の場合はわたしがある種の信号を発すると「必ず」「その日の夜に」夢に出て来てくれるからです。

たとえば、母を思って泣いたり、特定のことを思い出して懐かしがったり、母を恋しく思った時の信号を、受け止めてくれるのです。

まるで「あ、うん」の呼吸のように、こちらが驚くほど外しません。

これは、母が死してもなおわたしを見守ってくれているからです。

そして今や母親業を離れた母の魂は、わたしに会いに来るたびに若返ります。

もはや生前のように母親らしいことはほとんど言わず、年もわたしと変わらないように見えます。

そして顔立ちや面影すら、生前の母とは少し違うようです。

それでも必ず、必ずわたしに会いに戻ってくれ、会えば母と話しているとわかるのは、わたしと母がソウルメイトだからだと思います。

わたしと母は、親子である以前に、ソウルメイトなのです。


見えずとも実在するもの

母が他界した時、わたしと母をつないでいたエネルギーの通り道が、ぷつりと途絶えたのがわかりました。

あの時初めて、自分が母とどれだけ太いパイプでつながれていたのか、はっきり知ることができたのです。

空気の通り道が一つ、完全に塞がれたような感じ・・・大きな窓が1つ、壁の中に完全に塗り込められてしまったような感じ、もしくは世界から音楽が1つ、永遠に聴こえなくなってしまったかのようでした。

あの寂寥感・・・

あの時こそが、わたしがへその緒を切られた瞬間だったのではないかと思います。

それほど、母との間に流れていたエネルギーは、強大なものだったのでした。


たまにはお仏壇にも手を合わせよう♪

わたしは滅多に母のお仏壇に手を合わせません。

母はお仏壇にいるわけではない、と強く思っているからです。

ただ、昨夜の母の様子を思い出すと、たまにはお仏壇にも手を合わせたほうが良さそうだな、と思いました。

なぜなら昨夜、母は少しわたしに気後れしているように見えたからです。

母には、わたしが何を考えているかなんて全てお見通しです。

それは、母を恋しく思う気持ちも100%伝わっている代わりに、わたしが母に対して批判している時も、全部母は聴いているということなんです。

母に対する批判・・・ぼちぼちしてます。

叱られた思い出とかについて「あれはないよ!」とか。笑

だから昨夜、駅の階段を下りる前に挨拶した時、若干よそよそしく、気後れして見えたんです。

抱きついていったのは、わたし。

お母さん、大丈夫。

お仏壇の前で手を合わせるのは、母と対面して会話するようなものかな、と思い至りました。

母といつも話していた時のように、お仏壇の前で語りかければ、母のために時間と手間を割いてそこに座っていることが伝わりますよね。

誰だって「花さん、元気かなぁ」と噂されてるのを目撃するより、「花さん、元気?」と直接話しかけられたほうが嬉しいですよね?

お仏壇の前で手を合わせるって、そういうことかなぁと思ったんです。

・・・なんか、日本伝統のしきたりをないがしろにしてきた、と思われるかもしれませんが、形だけならしないほうが良い、と思ってしまうくらいなので、今までろくにお仏壇には手を合わせてきませんでした。

今日からはちょっと違うかな。

母ともっと直接的なコミュニケーションを取ろうと思います。

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