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人と関わるのをやめた3ヵ月

2024.9.2

苦手な8月を見送り、やっと9月。

相変わらず暑いから特段9月が嬉しいわけでもないし、日々変わらぬ毎日を過ごすだけだけど、なぜか最近「この6月から8月、私は何をしていたっけ?」と振り返る時間があり、特に何もしていないけどおそらく何かはしていたので記録に残したい。

1‐翻訳の仕事に本腰を入れ始めた

普段日本‐台湾でふらふらっとした生活をしていて、出会う人に「仕事は何をされているんですか?」と聞かれて、返答に困る。
さて私は普段、何をしているんだろう。
その時にできる仕事をかき集めているので、毎月やっていることが違う。自分でもよく分かっていない。
それは、人によっては「自由でいいね」なのかもしれないし、「その年になってそれで大丈夫なの?」なのかもしれないし。
まあ多くの人は「自由でいいね」というその言葉の裏で「その年になってそれで大丈夫?」なのだと思うけど、そんな人には「余計なお世話だよ」という言葉を返したい。
ただ、人に身分を説明する時に何か分かりやすいものがあればいいなと思って、1年半くらい前からぽつぽつと受けていた翻訳(中→日)の仕事を増やすことにしてみた。
ら、これがさっそく面白くて、6‐8月の3か月はほぼ家にこもって翻訳ばかりやっている。
私は主にドラマと漫画の翻訳をメインで担当しているけど、元々アニメや漫画に親しんだ子ども時代を送っていたせいか、長く関われば関わるほど、自然とキャラクターに愛着が湧いてくる。
そのキャラクターたちが私の訳した言葉を発すると思うと、なんだかわくわくする。
正直、本音を言えば「漫画読み(ドラマ見)ながら翻訳してお金貰えるなんて最高じゃん」とも思う。

翻訳上のルールや、私の技量など、足りないところはまだまだあるし勉強も足りていないけど、「楽しい」と思うだけで仕事を進められるのなら、私にとっては何も苦ではないなと感じる。

2‐アニメを見まくっている

現在進行形。これは上の翻訳の勉強ついでと言う名目でもある。
日本語のセリフというのは非常に独特で(と私は思っている)、日本のアニメを中国語字幕で見た時に「私がこの中国語字幕を日本語に訳すなら、今の日本語のセリフのように訳せるか?」と考えながらアニメを見ると面白い。
もちろん字幕には字数制限があるので、そっくりそのまま日本語のセリフに戻すのは難しい。
特に日本語は文字数が多くなりがちだし、字幕上では必ず何かを省略していると言ってもいい。
でもその限られた文字数の中で、人物の心情を間違いなく文字で伝えるというのが翻訳者の力量であり面白いところだなと思いながら、日々アニメを見る(普通に楽しんで見てます)。
あとよく成語(四字熟語・ことわざ)も出てくるので、普通に中国語の勉強になる。

そして私が見るアニメといえば、いつも自然と京都アニメーション作品を選んでしまうというのも最近の気付き。
感情を言葉ではなく仕草と目線で伝え、人物の不器用さを愛おしく表現するアニメといえば、もう京都アニメーション一択(独断と偏見)。
最近『リズと青い鳥』を観たので、『きみの色』も観たすぎる…。
でも、勉強のためにももう少し幅を広げるようにしてみます(笑)。

3‐人と無理に会うのをやめた

最近、以前受けたWAIS‐Ⅳで担当医から言われた言葉の意味をようやく理解してきた。
「人に興味がないのではないですか?」
「人が怖いと感じませんか?」

私は、人と話すのは苦手ではない。
けど、それは初対面で相手に好印象を残すことを目的とするならばの話。正直2回目はできれば会いたくないし、個人的な関係を持ちたいとも思わない。
正直、相手に良い印象を残すなら極端に言えば「相手が心地よく思いそう」なことだけを考えればいい。
私は小さい頃から「お行儀よくしなさい」と本当に厳しく言われてきたし、親が喜ぶ反応や理想の子ども像を研究して生きていた(のだろうと最近気付いた)ので、そういう「体裁だけは整える」ことは苦手じゃない。
冷たいことを言えば、それさえ整えておけば相手の中身には深く入り込まなくていいさえ思う。正直相手の名前だって帰り道にはもう忘れている時がある。

そして大人になった今、その変な冷たさや異様な人間関係の築き方に自分自身が苦しめられている最中ですが…。
その変な癖を持ち続ける私を、きっと主治医は見抜いて「人に興味がないのではないですか」と言ったのだろうと、振り返って考える。

だから自然と人を怖く感じるのかもしれない。
人間も機械ではないから、当然考えていることも違う。
意図と違うことが伝わったり、反対に意図と違う反応を貰ったり、誰かとのやりとりをすればそんなことは日々当たり前に起きるわけで。
でもそういう誤解を受けて、マイナスな反応を貰う度に、私は何かが嫌になる。
別にどちらが悪いというわけでもないし、どちらの能力が上か下かなんて話でもない。
ただお互いに持っている能力で掬い取って見た景色が違った。本当にそれだけ。
それを分かっていながら、その時がいつなのか、何をきっかけに起こるのかが分からないという不安定さが怖い。
うまくいけば物事は続くし、うまくいかなければ最初から何事もなかったかのように関係は消えるし、その一か八かのようなやりとりもにも正直疲れる。

なのに人間はこんなことを繰り返しながら、「成長」だとか「一人前」だとかよく分からないことを主張し喜んで、意味がわからない。

私は人より何倍も文字や言葉から意図を読み取るのが苦手で、おそらく何倍も取り組んでやっと普通の「0」もしくは0.1くらいになるというのに。
出来なければ「能力が低い」と勝手に決め付けられる社会の、何が「成長」で何が「一人前」で何が「期待」なのか。
ただ単に使い勝手の良い人間をそう評価しているだけではないのか…………。


色々考えるうちに、今までの努力がもう何もかも面倒になった。

本当はもう早い段階からそんな必要もなかったのかもしれないけど、「分かってもらえる」「妥協してでも合わせる」という架空の思い込みによって、自分のマイナスなぐちゃぐちゃとした気持ちに蓋をしていた。

みんな無茶ばっかり言う頭のおかしい人しかいないし、相手にするだけイライラして愚痴が増えるから、だったら一人でイライラしないことだけを周りに置いておきたい

私も周りから見ればだいぶおかしな人だけど、私から見ればみんなが変で全部が間違い。

気持ちに蓋をするとイライラしてマイナスな感情が増えるので、それより今自分が楽しめるものにしっかりハマるということで、この最近の過ごし方を見直した。
結果、アニメばかり見てパソコンにかじりつく(仕事だけど)という私の幼い頃の過ごし方に逆戻りしたけど、なぜか心は軽く、楽しいで満ちていて、イライラする時間も減った。
メインの仕事が翻訳ということもあるおかげで、家で好きな音楽をかけながら、穏やかに作業ができる今がとても嬉しい。

私が私らしく生きるためには、多くの人間は必要ない。
必要な人は必要な時にきっと集まって来る。それまで私は一人で自分の城を作って待つ。


私の6月から8月、おしまい。





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