生きるってなんだろうか・・・
長いです。
私が生きるとはを考える時、必ず父を思い出します。
ウチの親父は世界一最後までカッコイイやつだと思っています。
高校卒業後は就職か進学か。
私が通っていた高校は半々でした。
やりたいことはないけど就職もしたくない。
興味があることは食べること。
調理師?とも思って母親に相談したところ
「せっかくなら学校に行かないとなれない栄養士になったら?」と。
そんなのもあるんだ〜、と思い調べ栄養士を取得できる四年制の大学を選択しました。
普通なら管理栄養士国家試験受験資格がもらえるちゃんとした大学を選んだ方がコスパは良いと年齢だげは大人になった私は感じています。
当時は、栄養士と体育教師の免許がGETできるところが魅力でした。
中高と続けていた部活もできるかもしてない。
ただデスクワークをするよりも美味しご飯に囲まれていたいな〜
それだけが志望理由でした。
もちろん父親には反対されました。
父のは、就職先は斡旋するから高卒で就職して欲しいと言われていましたが
母が、父と離婚して無利子の奨学金を借りて行けばいいよ、なんて父を目の前にして言うものだから、それ以降父は反対せず大学進学を許してくれました。
私立の四大、一人暮らし、部活生、、、
4年間で私にかかった金額は知りません。
完全に支払いは父親の口座から引き落とし。
学費の年額一括で支払っていたそうです。
そんな父が癌だと知ったのは大学2年生に上がる時だっと思います。
驚きました。
まだ3年近く大学生活が残っているし
父が死ぬかもしれない恐怖
地球が滅びようと生きいそうほど強そうに
見えつタイプの人間だったので
衝撃的だったのを覚えています。
抗がん剤治療で体調を崩しやすくなったり
毛髪が抜け落ちおハゲさんになりニット帽が必需品になったり
目に見えて変化はもちろんありました。
それでも体調の良い時は携帯用の酸素を身につけ仕事をしたり
私の試合の応援に駆けつけたり
自宅の玄関先や水回りを車いすで生活しやすいようにリフォームしたり
可能な範囲内で好きなように生活していました。
私が大学を卒業する頃には治療は一通り終わ
春の誕生日が迎えられると良いですねと
主治医から告げられていたそうでうす。
もちろん私は知りませでした。
母からは月に1度は実家に帰るように
誕生日には会いに行く事の2つだけお願いされ
研修のため県外へ出ました。
研修が始まると、体調不良で入退院を何度かしていましたが
無事誕生日は自宅で過ごすことができました。
父の誕生日に休みを取り帰省したのに
自宅を出た後に誕生日おめでとうと伝えわせれた事に気がつき
電話したのも思い出です。
研修も残すことわずか2週間となった時
母や姉から、「父が入院する」と連絡があり
母からは、「また2.3日入院してきっと戻ってくるから
そんなに心配しないで仕事するんだよ」と。
父のことだからきっとそうだろうと過信していました。
翌日の昼、母から「薬を入れることを選んだそうです。」
とだけ連絡があり、何のこと状態で連絡しても返事がありませんでした。
連絡が取れないままお昼休憩も終わってしまい集中できずトイレに隠れ連絡を確認しながら過ごしていました。
その後、姉からも同様の連絡があり「帰ってこれるなら帰ってこい」と。
管理者を探し、事情を伝えると直ぐに病院へ向かうように言われ
退勤時間まで30分ありましたが帰宅し、必要になるであろう簡単な物だけ
荷物をまとめへ病院へ向かいました。
高速道路を使って約2時間の道のり
あの父が死ぬかもしれない
もっと会いに行けばよかった、喧嘩なんかしなければよかった
もっと良い子にしていればよかった、もっと帰ればよかった
とずっと考え、泣きながら運転していました。
それでも、自分が不注意で事故ったら家族が辛い状況になってしまうので
平常心を心げ、阿呆な末っ子でいるように心を整える時間にもなりました。
実家で父を支えていた母や兄を差し置いて、離れて暮らしていた自分はできるだけ
二人に心配をかけず、元気に動き回らないと、笑顔をで過ごすことが1番みんなのためになる。
病室についた頃には、父は薬で苦しみを取り、眠っているようにしていました。
それでも、話かけれ脈や心拍に変化があるし、皆んなの話は聞こえているらしく
母が話かけたり、手や足をさすると、波形に変化がありとても興味深かったです。
実はこの日、世間は七夕でした。
病室で七夕に死ぬのはやめてくれ、と何度もお願いしたからか
日付を跨ぎ、静かに息を引き取りました。
人の死とはこんなにも静かで、あっけないのかと感じました。
あんなに強そうに見えた父も癌には勝てない。
私が到着するまで頑張れと母は説得していたようですが
父は「もういい、満足した」と言ったそうです。
最後、言葉を交わせなかったことは私にとって良かったのかもしれない。
父にとってそこまで心配要素ではなかったという事にしておこう。
それだけで良い。
これから生きていくためには、少しでも後悔は小さい方がいい。
人の死を目の当たりにし、自分の生き方を考える。
きっと、そうやって人は生きていき死んでゆくのでしょう。
父の死で知った事は
人はいつか死ぬ。
遅かれ早かれ死ぬ。
残された人は大なり小なり後悔する。
そして、自分の最後を自分で選択した親父、カッケー。
投薬を選んだのは父本人。
主治医と話をし署名も自分でしたそうなので
父以外誰もそんなん薬だなんて知らなかったのです。
隠れて遺影の撮影も済ませていました。
スマホの写真履歴確認していたら出できたそうです。
それなら少しても後悔はしたくない。
大切な人にはちゃんと言葉に似て伝えよう。
好きなことをしよう。
やりたいことに挑戦しよう。
失敗してもいい。
ありがとう、大好きだよ、ごめんね、
皆さんは、後悔することなく大切な人へ
思いを言葉にして伝えていますか?
正直、私はあの日から月日が経ち忘れてしまう時があります。
忘れないように、ここに記して見ました。
最近、生きることは死に向かうことなんだろうと感じています。
後悔しないように自分で決めて進んでいく。
最後はどんな日にしたいですか?
残される人達に残る私はどんな人でいたいですか?
私は、サイコーにクレイジーなhappy girlでいたいです🥳