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noteに慣れてきた

noteに投稿を始めて2年ぐらいが経つけど、最近になってようやく慣れてきた実感がある。


2,3年前は、誰かに自分の言葉を見せることも怖かったし、自分の言葉に見える形で評価がつくことも凄く怖かった。

今も確かにその怖さはあるけど、それ以上に自分を言葉で残しておきたいっていう想いが強くあって...もっと言うと、言葉を通して誰かと分かり合いたいと願っている。

これを読んでくれているあなたとも言葉で繋がってみたいし、外面を気にせずに内面で直接繋がってみたい。


それに...言葉を通して人と繋がりたい気持ちが強いから、誰かの文章を読むのも結構好き。

「それわかるぅ〜」って共感できるのも嬉しいし、「ん?!!!」って共感できない考えを知れるのも楽しい。

友達のnoteに救われることもあれば、顔も本名も住んでいる場所も知らない、そんな人の言葉に、救われたり、癒されたりすることもある。

距離とか関係性とか、そういう壁を一気に超えて深いところまで繋がり合える気がするから、noteが好きだし言葉が好きだ。
心地良い。


こう改めて考えてみると、慣れてきた(というか抵抗がなくなってきた)理由の一つは「言葉で人と分かり合いたい欲求が高まった」からだと思う。


1人で書いてるだけだと不安になっちゃう想いも言葉にすると安心できるし、言葉を通して同じ想いを持った人に見つけてもらえたらそんな心強いことはない。

言葉にすることで誰かと想いや考えをシェアすることができるし、シェアした言葉に少しでも共感してくれる人がいたら、独りじゃないと信じられる。



それ以外に、慣れてきた(抵抗がなくなってきた)理由として考えられるのは、「投稿するほど、私の色んな面を表現として見せられることに気づいた」から。

「投稿の数=表現&公開しているアイデンティティの数」だって考えているから、投稿すればするほど、私の色んな一面(アイデンティティ)を見てもらえることになるの。

そして多面性を見せることができれば、偏った解釈で「この人はこういう人だ」って判断(断定)されることが少なくなる気がする。

私は「自分のことを、誰かに分かってもらいたいけど簡単には分かってもらいたくない」と思っているから、誰かに簡単に、自分を断定されることが苦手なんだと思う。

だから簡単には断定できないほどたくさんのアイデンティティを表現しておきたくなっちゃうんだろうな。


要するに

言葉を重ねることで誤解されにくくなるし、投稿を重ねることで自分らしさを断定されにくくなる。

そう、信じている。

だから、投稿が増えるほど、私は安心して言葉を見せることができるんだと思う。


そして、誤解されたくないから言葉を重ねるし、自分らしさを断定されたくないから投稿を重ねる。

きっと、これからも。




note始めたての頃は投稿も少なかったから、人に誤解されるのが怖くてガッチガチに緊張して書いてたけど、最近は投稿も増えてきて割と緩い気持ちで書けている。

嬉しい。

こんな私もいるよねって感じで、多少気軽に投稿できるようになってきた。




p.s.

言葉を見せるほどに、分かり合えない境界線を見せてしまうこともあるし、それで傷つけてしまうこともきっとある。人はみーんな少しずつ違うから、分かり合えないことも誤解することもきっとある。
だから自己表現には多少の諦めも必要なんだよね。みんなに平等に響く言葉なんてたぶんないし、あったとしてもきっとそれは自分の言葉じゃない(だって、みんな違うんだもん)。みんな違うのにみんなと完璧に分かり合うなんて、無理だと思う。私はね。

だけど、分かり合えないからと言って、相手のことを一切考えず自分のことだけ考えて表現するのは違う。完璧に分かり合えなくても相手の立場に立って寄り添おうとする姿勢はできると思うから。

そして寄り添おうとしただけ、その言葉には共鳴力が宿る。

全員に、完璧に届けることはできなくても、1人でもたくさんの人に心地良く届けることはできるんだと思う。


私も、自分の表現(言葉)を、誰かに寄り添う形で見せられればいいな。

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