【短篇小説】【随筆】Oamaru
19歳の夏休み、オーストラリアとニュージーランドを旅行した時のこと。幼い頃にコペル21という子供向けの科学雑誌で読んだ、球体の巨大な岩が波打ち際にいくつも転がる絶景、モエラキ・ボルダーズが観たくて、そこに近いオマルーという小さな街に滞在した。
石灰岩でできた建物が建ち並ぶ玩具のような街並みだった。南半球のニュージーランドは当然冬で、少し肌寒く、ジャケットを羽織って僕は歩いた。空には灰色の雲が垂れ込めていた。
石工達が長い鋸で石灰岩を切っていた。鋸を引く逞しいお兄さんに「これなんですか?」と訊くと「ライムストーンだ」とぶっきらぼうに教えてくれた。
公共庭園と門に書かれた広い庭園を見つけた。散歩することにした。通りすがりの老夫婦が、君は日本から来たのか、私の娘は日本に留学したことがあると話しかけてくれた。パーゴラに薔薇の蔓が絡みつく建物や、噴水や池があった。池には羽の鮮やかな鴨が数羽泳ぎ、水面は煌めいていた。朱塗りの橋があって、桜の花が咲いていた。石造りのアーチがあった。小さな街にしては広い庭園だった。
街を散策していると、ヴェネツィア風の仮面が沢山飾ってあるギャラリーがあった。階段を登って中に入った。仮面は至る所に飾られていた。そして仮面達は皆悲しそうな顔をしていた。2階はホールのように広かった。ピアノが置いてあったので、私はでたらめに鍵盤を鳴らした。すると部屋の奥から誰かに「ピアノが弾けるの?」と声をかけられた。長い髪が縮れて眼鏡をかけた、細長い印象の老いた婦人がいた。隣には黒いラブラドールがいた。芸術家は犬のことを「この子はジーザスと言うのよ」と言った。僕は「どうしてあなたの仮面は全部悲しそうな顔をしているんですか?何かを感じているんですか?」と訊いた。老いた芸術家は「さあ?よく分からない」と答えた。犬を撫でたら私の手を噛んだので、"Forgive me, Jesus!"と僕は茶化して叫んだ。
何かを象徴していた街なのかもしれない。
ユースホステルでの朝、少し寝坊した。出発時刻はまだ薄暗い朝だ。慌てて準備をして観光バスに飛び乗った。景色は牧草地帯からやがて草原に変わる。モエラキ海岸は間近だ。
空が色付き始めた。打ち寄せる汀に潮風の匂いがする。波の音が響く。波打ち際に大小の球体の岩がいくつもいくつも転がっている。直径2メートル位のものが多いだろうか。割れて中身のオレンジがかった層が露出した岩もある。それらの光景を、今、差し昇る暁光がピンク色に染め上げている。他の惑星に来たような不思議な光景。ああ、僕はこれが見たかった。自然は、地球は、何百万年もかけてこの岩を形成した。命がある。神秘がある。観光客は写真を撮ったりしている。白人が多い。ガイドが解説している。専門用語が多くて聞き取れない。岩に触ってみた。ひんやりと冷たい。奇跡はある。あるんだ。空想の中でならどこにだって行けるし、誰にだってなれる。私が病気で寝たきりだとしても奇跡だってある。あの頃の幻を思い出す事もできるし、消えていく素晴らしい記憶を繋ぎ留める事もできる。死んだ蛹のままで夢の中で彷徨う青年の為に涙を注ぐ人々の姿を思い浮かべる事もできるが、本人は脳死したまま楽しい夢を見ていたい。目覚める時には、僕が目覚める時には波打ち際で朝焼けに染まるモエラキ・ボルダーズのいくつもの球体の岩のように美しい神秘で染め上げて欲しい。忘れた事は沢山ある。思い出せない美しい光景は沢山ある。あの時見れなかったものをまた見ようとする事はできる。到来する未来への希望は常にある。過去への郷愁は時に人間をこの世界に踏み留まらせる。見よ。朝焼けが終わっていく。薄曇りの海面は黄金の光にさざめく。波の音がする。潮の匂いがする。人々は声を潜めがちに話す。多分家族や恋人に地質学的な事や詩的な事を言っているのだろう。そろそろ次の場所へ行く時間だとガイドが言った。憧れよ、さようなら。次に会う日まで。
気が付けばベッドの中にいた。ユースホステルのベッドの中で段々と目が覚めてきた。そんな夢を見たようだった。僕は慌てて出かける準備をした。