20230923
家族のちょっとした会話や行動で、「ああ自分は病気なんだよな」と痛感させられる瞬間がある。
何十年一緒に暮らしたとて、私が決して普通に生きてなんかいないことは、この人たちにはわからないままなのだ。きっとこの先も。
仕方がないと思う。いくら家族だからってなんでもかんでも理解や配慮を求めるつもりはないし、そんなのお互いに無理だし。
なるべく負担はかけたくない、病気であることを感じさせたくはない。家庭に病気の子供やきょうだいがいるって、それだけで抱えるものは大きいはずだから。
“つらいのは自分だけじゃない”ことぐらい、1型糖尿病を発症した当時から、家の中の空気でなんとなくわかっていた。いや、私も本当の意味では家族の気持ちを“わかって”なんかいないのだろうけれど。
だから“気配”を消してきた。
“病気の気配”を、なるべく消して。
「できるだけ普通の人でいること」が、自分に課せられた務めだと思って。
退院して間もない頃、食卓を囲みながら「やっぱり穴ちゃんがいるとにぎやかでいいねえ、みんなしーんとしていたものねえ」と祖母が目を細めるのを見て、常に自分が明るく居なければこの家の空気は悪くなるのだ、と責任を感じた。
発症からまだ1年程度で治療に不安ばかりを抱いていた頃、血糖管理がうまくいかずに泣いているのを母に嘲笑われ、涙は隠れて流すものだと覚えた。
それでも、私の人生の根っこは普通じゃないことをどこかでわかっていてほしかった。
一言で表せないこの気持ちに取り憑かれるたび、そっと消えてしまいたくなる。
そのどうしようもない強烈な感情を、なんとか翌日に延ばして、延ばして、日々を凌いでいる。
今はそういう時期。そのうち大丈夫になる。そんでまた駄目になる。ずっとそれの繰り返し。