【作品解説】『ゼロにたどり着くまで』
久しぶりの作品解説です。
アンデパンダン展「すきまのひとびと」に今年も参加させていただきました。いつもお世話になっている熊本のシェアアトリエ&ギャラリー「キノコファクトリーのねじろ」にて開催中です。
すてきな作家さん方の作品がたくさん集まっておりますので、お近くの方はぜひ足を運んでみてください。ねじろのホームページでも作品が紹介されておりますので、ぜひご覧いただけたら幸いです。
今回はかなりストレートに、自分の病気をテーマに描いてみました。「1型糖尿病とわたし」というマガジンを作ったこともあり、なんとなくそういうモードだったので。
解説、といってもモチーフの説明ぐらいしか書けることはないのですが、せっかくなので順番にお話ししたいと思います。
まず、中央の袖を捲りあげて座っている人。インスリン注射をしています。膝の下あたりに描かれているのは、注射器のキャップとニードル(注射針)のキャップですね。
注射をするときは、お腹、腕、太腿のいずれかに刺すのがほとんどです。お腹に打つことが多いかも。皮下注射といって、浅いところに刺すので意外と痛みは少ないです。
マニアックな話ですが、開封したての冷えたインスリンを打つとギュイーーンと染みます。
ここからは番号順に。
① パッチ式インスリンポンプの充填器、留置セット、リモコン。カートリッジにインスリンのバイアルを刺して充填している図。留置セットは3日に1回の交換が必要です。
穿刺には当たり外れがあって、ほとんど痛くないときもあれば奇声が出るほど痛いときもあります。ツマミを回して針が刺さる瞬間のバチン!という音が最初はちょっと怖いです。
② 腹部にCGMとパッチ式インスリンポンプを装着した様子。よほど薄着かピチピチの服でない限りは、外からは機器を着けていることはほとんどわかりません。ポンプはちょっと分厚いです。
③ 低血糖のときに欠かせないぶどう糖や炭水化物のお菓子。インスリンと同じぐらい大事。
ゼリー状のぶどう糖は、見た目が薬っぽくて個人的には好きです。(会食恐怖症の気があり、人前で補食するのが苦手なので。お薬を飲んでいるところも見られたくはないけれど、お菓子を食べているところを見られるよりはマシ。)ちなみにうちの猫が時々ちゅ~ると勘違いして寄ってきます。
④ カーボカウントを実践しているので、ごはんは毎回量ります。基本的に同じ量で固定。私は食事療法やカロリー制限などの指導は受けていませんが、アプリを使って大まかな栄養バランスの計算や食事の記録はしています。最初は大変だったけれど、慣れると逆にアプリなしでは不安に……(神経質すぎるのもアレですけれど)
⑤ 血糖測定の図。私は今はCGMがメインなので実測の回数は減りましたが、CGMを使う前は毎食前+就寝前の最低4回は毎日測定していたので、指先が穿刺の跡で血豆みたいになったり皮膚が硬くなったりしていました。
ランセット(穿刺針)も昔は太くて痛かったのが、現在はどんどん進化して細くなっています。まあそれでも痛いときは痛いですよね、個人的には注射よりこっちのほうが断然痛いです。
たまに指切ったりすると、血がもったいないから血糖測定しよ〜ってなりがち。
⑥ インスリンポンプのトラブルあるある、カニューレ閉塞。これはチューブタイプのポンプを描きましたが、パッチ式ポンプでも起こります。この絵は血が詰まったパターン。私はわりとしょっちゅう詰まります。
このほかにも、よくあるのは気泡の発生、また頻度は低いですが体からうっかり外れるケースなど、ポンプにはトラブルがつきもの。心当たりのない突然の高血糖はそれらが原因になっていることが多いです。(シンプルに打ち忘れとかもあるので思い込みは厳禁ですが)
そんで補正打ちしたら今度は低血糖になって、ムカついてがっつり補食したらまた上がって、血糖もメンタルもジェットコースターのように乱高下するまでがセットなのです……。
といった感じで、1型糖尿病のある私が「普通に近い生活をする」ために必要なモノ・コトの一部をそのまま描いた絵が『ゼロにたどり着くまで』という作品になりました。
でもね、実際の日常生活はゼロにたどり着けていないんですよね、あはは。
それは決して1型糖尿病だけが原因ではなく、昔から社交不安症の傾向があったりとか、精神的にかなり深い傷を負う出来事があったりとか、複数の要因が重なってのことなんですけれど。
子供の頃から現在までずっと、なんかこう……あえてわかりやすくいうと「生きづらさ」ですよね、人生の根底になんか“ヤツ”は居るんですよね。
ただでさえ災難な人生に1型糖尿病を発症して、ただでさえ治療が大変なのにまた災難がふりかかって、……という感じですかね。こうやって書くと大げさかな、傍からはきっとごく普通の人生を送っているように見えると思います。誰の目にも苦労の様子が映るほどのわかりやすさはなく、地味で目立たない傷を内側にいっぱい抱えて生きてきたような気がします。
些細なことから大きなことまでとにかく色んなひずみが積もり積もって、なんだか常にゼロのラインにあとちょっと届きそうでまったく届かないところをゆらゆら生きているなあ、みたいな感覚が私にもあるのです。
それが「社会のすきまを生きている」ということなのだと解釈して、このたびのアンデパンダン展「すきまのひとびと」に参加しました。
今までずっと、これからもずっと、心を引っ掻き回している輪郭のない正体、私はそれに良くも悪くも向き合いつづけ、そしてともにありつづけるのだと思います。
病気にも、つくることにも、ゴールはありませんから。