【試し読み】名探偵は……コテコテの関西弁を喋る馬⁉『うまたん』(東川篤哉著)第一章公開
2022年6月10日発売予定、『#謎解きはディナーのあとで』の著者・#東川篤哉 さんが仕掛ける、大本命ユーモアミステリ『#うまたん』の第一章を公開しています!
あらすじ
名探偵は……コテコテの関西弁を喋る馬!?
殺人、窃盗、金銭トラブル――
小さな田舎町で起こる不可解な事件に、元競走馬と牧場の娘のコンビが挑む!
『謎解きはディナーのあとで』の著者が仕掛ける、大本命ユーモアミステリ!!
●「馬の耳に殺人」
田舎の乗馬クラブで起こった殺人事件。容疑者とされたのは、なんと馬のロック。本当にロックの犯行なのか腑に落ちない牧場の娘・陽子(マキバ子)に、元競走馬のルイスが話しかけてきて……。
●「馬も歩けば馬券に当たる」
マキバ子の実家である「牧牧場(まきぼくじょう)」の求人に応募してきた藤川という青年。彼がお金に困っているのには、ある理由があって……?
●「タテガミはおウマの命」
行方不明だった女子高生の死体を発見したマキバ子とルイス。唯一の手掛かりは、現場付近に残された馬のタテガミがべったりとついたガムテープだった……。
――など、全5編を収録した連作短篇集!
それでは、第一章をお楽しみください!
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痩せた眼鏡の男、白崎は若い制服巡査の前で語りはじめた。
「あれは昨日の深夜零時ごろの出来事です。僕はここにいる大田と二人で、すぐそこの車道を歩いていました。――え、なぜ、そんな時刻にって?
では、そこから説明しましょうか。僕ら二人は、大田の運転する車でこの片田舎に遊びにきたんです。車中で寝泊りする貧乏旅行ですがね。もちろん夜はビールで乾杯です。ところがクーラーボックスの中にあったビールは、あっという間に飲んじゃいましてね。まだ飲み足りないってことになって、新しいビールをコンビニで調達することにしたんです。こんな田舎町にも、ちょっといけばあるんですねえ、コンビニが。だけど、もう酔っているから車じゃ買いにいけない。それで男二人、深夜の散歩とばかりに夜道をてくてく歩きはじめたってわけです。
空には丸い月が出ていて、あたりを照らしていました。僕らは程度の低い雑談をしながら、人も車も通らない一車線の道路の真ん中を進みました。すると、そのときです。突然、前方でヒヒンと馬のいななくような声がしたんです。だけど、いくら田舎だからって、まさか深夜の車道に馬なんているわけが――と半笑いになりながら僕が前を向くと――うわぁ、いた! 実際いたんですよ、正真正銘の馬が!
しかも驚いたことにその馬、僕らのほうに向かって車道を駆けてくるじゃありませんか。それも結構なスピードです。身の危険を感じた僕らは、二人してその場で立ちすくみました。どっちに避けていいのか、一瞬迷ったんです。――な、大田!」
同意を求められた大田は、日焼けした顔を何度も縦に振った。
「ええ、そうなんですよ。馬は一直線に僕らのほうに駆けてきました。黒っぽい馬で、乗っていたのは男です。そいつは競馬のジョッキーのように猛然と馬を走らせています。まるで僕らの姿など眼中にないかのようです。『危ない!』と同時に叫んだ僕らは、お互い左右に飛び退いて、なんとか馬をかわしました。当然、僕と白崎は驚きの表情です。
すると今度はそこに、また別の男があたふたと走ってやってきました。どうやら男は、先ほどの馬を追いかけている様子です。僕らの姿を認めると、男はなんだかバツが悪そうに俯き加減になり、何もいわないまま馬の後を追っていきました。僕らは馬とジョッキーと、それを追いかける男の姿を、ただ呆然と見送るばかり。『なんだ、いまのは?』『サッパリ判らん』などと首を傾げながら、僕らは再びコンビニへの道を歩きはじめました。
歩き出してひとつ判ったことは、その車道の傍らにある建物が乗馬クラブだということでした。門に『清水乗馬クラブ』という看板が見えましたからね。『なるほど。それじゃあ、さっきの馬はクラブの馬だったわけか』『にしても、なぜ深夜に馬を走らせるんだ?』と、そんな会話を交わしながら、僕らはその門前を通り過ぎたんですが――」
ひと通りの出来事を語り終えた二人は、揃って制服巡査へとにじり寄った。
「今朝になって知りました」と白崎がいった。「あの付近で男が死んだそうですね」
「町の人に聞いた話ですが」と大田がいった。「乗馬クラブの関係者だそうですね」
問われた若い巡査は、興奮を抑えられない表情で真っ直ぐに頷いた。
1
それは、ごくありふれた田舎での出来事――いや、違う。ありふれた田舎なんて噓。ていうか、私の虚栄心。恥を忍んで正直にいうと、そこは関東周辺では滅多にお目にかかれないようなド田舎だ。詳しい地名を明かして、地元住民と余計な軋轢を生むのは嫌なので、敢えて明言は避ける。とりあえず千葉県は房総半島の外れにある、限りなく「村」に近い「町」とだけいっておこう。紺碧の海と深い緑の山々が国道一本を境にして隣接する辺鄙な町。その少し内陸に入った場所での出来事だ。
舗装された道路を右に曲がると馬がいた。馬はただ一頭で道端の草を食んでいた。
私はまるで枝に止まるカラスでも見つけたように、「あ、馬だ……」と日常的なトーンで呟いた。
私、蛇や蛙は怖いと思うし、知らない人間も結構苦手。だけど馬は全然怖くない。
なぜなら私の家は、この町で小さいながらも牧場を経営している酪農家。同じ集落には同業者も何軒かあるし、近所には乗馬クラブもあったりするので、子供のころから牛や馬には慣れている。
もっとも、通学途中の路上で馬に遭遇したのは初めてだけれど――
私の名は陽子。この春から地元の無名県立高校に通いはじめたばかりの一年生。クラシックなセーラー服に白いカーディガン。肩には重たいスクールバッグ。リボンを結んだポニーテールを揺らしながら、この日も元気に登校中だった。
四月の朝日を浴びながら自宅を出た私は、歩くことすでに十分。学校まではあと三十分の道のりを残すばかりだ(つまり徒歩で片道四十分!)。そんなとき目の前に現れたのが、一頭の馬だった。
黒鹿毛のサラブレッドだ。道端に繫がれているのではなく、誰かに引かれているわけでもない。背中には立派な鞍が装着されているものの、鞍上に乗り手の姿はない。いわゆるカラ馬だ。私は慎重に歩み寄ると、まずは手綱をしっかり握って、馬の様子を観察した。
五〇〇キロ程度はありそうな雄大な馬体。白いソックスを履いたような四肢。私の髪型によく似たふさふさの尻尾。額に一筋浮かんだ白い流星。その独特の形状に見覚えがある。私は彼の顔を真っ直ぐ見詰めながら尋ねた。
「ねえ、ひょっとして君、ロックじゃない? 清水さんちの」
彼はヒヒンといななき、頷くように首を縦に振った。やっぱりそうだ。清水さん夫妻は、我が家の近所。数名の従業員を雇い、乗馬クラブを経営している。ロックはそこで飼われている乗用馬。きっと何かの手違いでクラブの敷地から逃げ出したのだろう。牛や馬を飼育していると、そういうことは稀にある。うちの牧場なんて、しょっちゅうだ。
「でも、困ったなぁ。このまま放っておくわけにもいかないし……えへ」
ふと企むような笑みを浮かべた私は、運良く空車のタクシーを拾った気分。ひょっとすると残り三十分の道のりは、自分の足で歩かずに済むかもしれない。不埒な願望を抱く私は、ロックの首筋を優しく撫でてやりながら、
「ねえ、ロック、これからうちの学校にこない? いや、遠慮しない遠慮しない。私を乗せてってくれれば、それでいいんだって。ね、あとでニンジンあげるからさ」
するとロックは再び頷く仕草。――だったら乗りな! といわんばかりに白い鼻面を背中の鞍へと向けた。
「え、乗っていいの? わーい、ありがとうロック!」歓び勇んで彼の横に回った私は、あぶみ(乗り手が足を掛ける金具)に片足を掛けて「えいッ」と一声。たちまち彼の背中に図々しく跨った。偶然だけど、あぶみの長さも私の足にピッタリ。あとはもう、彼の腹を軽く蹴って合図を送るだけでよかった。
「はい、前へ進めッ……そうそう、その調子……」
さすが調教の行き届いたサラブレッド。ロックは私の指示に従って、蹄鉄を鳴らしながら車道をゆっくり歩き出す。馬上の私は両手で手綱を握りながら、背筋をピンと伸ばした。「――うふふッ、何度見ても、いい眺め!」
馬の背中から見下ろす景色は、大好きな非日常の世界。普段、同級生を見上げてばかりの小柄な私にとって、これほどテンションの上がる眺めはない。
だが、そう思った次の瞬間、私の視界はいきなり百八十度反転。気付けばロックは路上で方向転換して、いまきた道を逆向きに歩きはじめていた。
「わ、駄目だよ、そっちは学校じゃないってば……」
だが手綱を引こうが何しようが、ロックはこちらの指示を完全無視。自らの居場所である『清水乗馬クラブ』へと続く道を勝手に歩いていく。私は鞍に跨ったまま、「はーッ」と溜め息をつくしかなかった。「ま、仕方ないか。このまま学校にいっても、駐輪場に馬を繫いどくわけにはいかないしね」
――だけど、こんな寄り道してたら完全に遅刻だよ。ああ、なんで朝っぱらから迷い馬なんて見つけちゃったんだろ。ていうか普通、通学路に迷子の犬はいても、迷子の馬なんている? いったい、どんだけド田舎なのさ、この町って!
手綱を握りながらブツブツと不満を呟く私。そうこうするうち、視界の先に乗馬クラブの建物が見えてきた。
――さっさと馬を返して、早く学校にいかなきゃ!
だが、そんな私の意思をあざ笑うかのように、そのとき再び目の前の視界が九十度の角度で右にターン。乗馬クラブを目前にして、馬はなぜか狭い脇道へと入っていく。私は慌てて手綱を手前に引いた。
「わあ、駄目だよ、ロック。そっちにいったって何もないって!」
脇道の入口は、いちおう舗装された道路。だが、その先は獣道にも似た山の小道だ。
数百メートルほどいけば、『黒沢沼』と呼ばれる沼地があるが、まさか沼の水が飲みたいわけではあるまい。いったいロックはどこに向かっているのか。
馬上で焦ってオロオロする私。すると小道に入る手前、脇道の地面の舗装が途切れるあたりで、ようやく彼は足を止めた。
「ホッ、助かった」胸を撫で下ろして、私は鞍から飛び降りる。「まったく、もう! ロックったら、全然いうこと聞いてくれないんだから!」
手綱を摑んだまま、厳しい視線をロックに向ける。しかし馬耳東風とは、このことか。
彼は叱責の言葉など意に介さない様子で、道端の草むらへと太い首を向ける。と、そのとき私の視界の端に奇妙な物体が映った。
――ん、あれは何?
草むらに視線を向けて、まじまじと目を凝らす。伸び放題になった道端の雑草。それに混じって見えるのは、どうやら運動靴を履いた人間の足だ。誰かが草むらの中に倒れているらしい。背の高い雑草を搔き分けるようにして、こわごわ覗き込んでみる。瞬間、私の喉から「ひいッ」という引き攣った声が漏れた。
倒れていたのはジーンズに長袖の作業着を着た小太りの男。だが、ただ倒れているのではない。男の額は硬いもので打ち据えられたようにパックリと割れていた。頭とその周辺の地面は、傷口から流れ出た血の赤で染まっている。
驚きと恐怖に囚われた私は、不謹慎とは思いつつ、落ちていた小枝を手にして男の身体を突ついてみる。反応はまったくない。突如として現れた異常な現実を前にして、とうとう私はあられもない悲鳴を発した。
「ぎゃああぁぁぁ――ッ」
叫び声をあげた次の瞬間には、私はもう馬の背中に飛び乗っていた。手にした小枝を鞭のようにして、彼の大きなお尻をピシャリと叩く。ヒヒンといなないて後ろ脚で立ち上がったロックは、その直後、競走馬だった昔を思い出したかのようなロケットスタート。振り落とされないよう、私は両足に力を込めて手綱にしがみつく。
疾走する漆黒のサラブレッドと、それに跨るセーラー服の少女。耳の奥で鳴り響くBGMは『暴れん坊将軍』のテーマ曲だ。波打ち際で馬を駆る松平健ばりの手綱さばきで、私は懸命にロックを走らせた。
すると彼も私の意図を汲み取ったのだろうか。今度は寄り道することなく、最短距離で『清水乗馬クラブ』へと戻っていった。
正門から敷地の中へと飛び込んでいくロック。その姿を見つけて、厩舎の中から髪の長い女性が姿を現した。三十代半ばのスリムな彼女は、真っ赤なジャージ姿。馬上に私の姿を認めると、「まあ、どうしたの、陽子ちゃん!?」といって、こちらに駆け寄ってくる。
彼女の名前は清水美里さん。夫の隆夫さんとともに、この乗馬クラブを切り盛りする美人の奥さんだ。美里さんは私と馬とを交互に見やる。それから、驚きと安堵がないまぜになったような反応を示した。
「この馬、ロックじゃないの! ああ、良かった。朝起きたら、ロックの馬房がカラッポだったんで、びっくりしていたのよ。寝床にはうちの人の姿も見えないから、たぶん彼が乗って出たんだろうとは思っていたけれど――あれ、だけど変ね。じゃあ、なんでロックに陽子ちゃんが乗ってるの? うちの人から、何かいわれた?」
「いえ、そうじゃありません」私は鞍から降りると、いましがた彼女が口にした言葉を確認した。「じゃあ、隆夫さんはいないんですね。出掛けているんですね!」
「ええ、そうみたい。私が起きたときには、もう自宅にもクラブの建物にも姿が見えなくて……どうしたの、陽子ちゃん?」不吉な事態を予感したのだろう。表情を曇らせた美里さんは、不安げな声で聞いてきた。「――あの人の身に何か?」
答えに窮する私は、いまきた道を指差しながら、「隆夫さんによく似た人が……すぐそこの脇道で倒れていて……」と声を震わせた。たぶん死んでいます、とは怖くていえなかった。
「え、なんですって!?噓でしょ」切れ長の目をカッと見開く美里さん。
そして彼女は私の指差す方角に向けて、頼りない足取りで駆け出していった。
2
警察の取り調べを受けたお陰で、学校への到着は二時間ほども遅れた。もちろん事情が事情なので、先生からも文句はいわれない。続報があったら教えてね、と逆に変な期待をされた。同級生たちも何かと事件の話を求めてきたが、私だって詳しいことはよく知らない。彼らの野次馬根性を満足させるためにも、情報収集に努める必要があることを痛感する私だった。
そうして迎えた放課後――
私は再び片道四十分の道のりを、てくてく歩いて自宅に戻った。『牧牧場』という読みにくい看板を掲げた正門から敷地に入る。すると目の前に制服巡査の姿。駐在所勤務の中園巡査だ。駆け出し警官の彼は、制服を脱げば大学生かと見紛うような若さだが、仕事には情熱を持って取り組むタイプだ。そんな彼がこのタイミングで現れたということは――
「ははん、さては中園さん、今朝の事件について、私に何か聞きたいことでも?」
「やあ、実はそのとおり」
若い巡査は片手を挙げて微笑んだ。「陽子ちゃんが死体発見に至った経緯を、ぜひ聞かせてもらいたいと思ってね。今朝は詳しく話を聞く暇がなかっただろ」
美里さんがご主人の亡骸を確認した直後、私は自分のスマートフォンから一一〇番通報した。真っ先に現場にやってきたのは中園巡査だった。だが現場保存の仕事を優先する彼は、私から直接話を聞くことができなかったのだ。
「でもさ、詳しい説明なら刑事さんたちの前でしたよ。同じ話を何度も何度も。あの人たちから聞けばいいじゃない」
「いやいや無理無理! 彼らは県警の刑事たちだ。僕のことなんか相手にしてくれるはずないよ。片田舎の駐在所に勤務する、何の取り柄もない駆け出し巡査なんてさ……」
「ああ、そっか。確かにそうだね」
と馬鹿な私がウッカリ頷いたので、その場の空気は耐え難いほどにドンヨリしたものになった。私は澱んだ空気から逃げ出そうとするように、「ね、ねえ、あっちいって話そうよ」と離れた場所にある囲い場へと無理やり足を向けた。
白い柵で囲われたスペースでは栗毛の馬が一頭、干草を食べているばかり。これなら誰にも聞かれる心配はない。私は木製の柵に背中を預けながら、中園巡査に向かって頷いた。
「判った。私が知っていることは、全部話してあげる。その代わり、中園さんが知っていることも話してよね。いくら県警の刑事から虫けら扱いされているったって、仮にも警察官なんだから多少の情報は持ってるんでしょ。それを教えてほしいの。――いい?」
「あ、ああ、可能な範囲でなら――って、え!?」中園巡査は腑に落ちない様子で、太い眉毛を八の字にしながら、「虫けら扱い!? それって僕のこと!? 」
――あれ、そういえば『虫けら』とは誰もいってなかったっけ?
私は自らの失言を誤魔化すように「じゃあ、よく聞いてね」といって一方的に今朝の出来事を話しはじめた。中園巡査は真剣な表情で、その話に耳を傾ける。おそらく片田舎の駐在所勤務に飽き足らない彼は、地元で発生した今回の事件を千載一遇のチャンスと見て、なんとか手柄を立てたい一心なのだろう。手柄を立てれば、県警は無理としても所轄の刑事課ぐらいの道は開けるかも。そう思えばこそ彼は私の無茶な提案にも、迷うことなく乗ってきたのだ。
ひと通りの話を終えた私は、中園巡査に聞いた。「何か質問とか、ある?」
「うん、ひとつある」彼は顔の前で指を一本立てながら、「なぜ、馬を走らせるときのBGMが『暴れん坊将軍』なんだい。陽子ちゃんの世代じゃないだろ?」
「え、そこ大事?」質問がくだらな過ぎて答える気にもならないぞ、中園巡査。「お父さんが好きなの、時代劇が。――じゃあ、今度は私が質問する番ね。えっと、まず隆夫さんが亡くなったのは、いつごろのことなの? 今朝なのか、それとも夜中のうちか?」
「夜中のうちだね。たぶん日付が変わる前後だ」
「誰かに殺されたの? それとも事故? まさか、あの状況で自殺はないよねえ」
「ああ、自殺の線はない。現在は殺人と事故の両面から捜査が進められている」
まるで報道番組の常套句のような言い方だ。私はふとした疑問を差し挟む。
「だけど清水隆夫さんの遺体は、額に傷を負っていたはずだよね。あれは誰かに硬い物で殴られた傷のようだった。だとしたら事故じゃなくて殺人って話になると思うんだけど」
「ああ、僕も遺体をひと目見て思った。『やった! これは殺人事件だぞ』ってね」
「そう。――だけど『やった!』って思っちゃ駄目なんじゃないの? 仮にも警察官なんだから」
「あ、そ、そうか」慌てて左右を見渡す中園巡査。だが近くで聞いているのは囲いの中の馬が一頭だけ。ホッと胸を撫で下ろして、彼は声を潜めた。
「実は、その額の傷が問題でね。棒か何かで殴られた傷のように見えたと思うんだけど、実際はそうじゃない。どうやら、あれは馬の蹄鉄による傷らしいんだな。要するに、隆夫さんは馬に蹴られて命を落としたってわけだ。だとすれば、これは事故の可能性が高い。もちろんその場合、隆夫さんを蹴り殺した容疑者、いや容疑馬は、翌朝に道端をさまよっていたロックってことになる」
「ロックが隆夫さんを!」
私は思わず素っ頓狂な声をあげた。「噓だよ、そんなの濡れ衣だよ」
「なーに、濡れ衣かどうかはすぐ判るよ。ロックの蹄鉄を調べて、そこから隆夫さんの血液反応が出れば、それで決まりだ。で、これは奥さんの美里さんに聞いた話だが、実際、県警の刑事さんたちは、彼女の目の前でロックの蹄鉄を外して持ち帰ったらしい」
「ふうん。それで血は付いていたの? ロックの蹄鉄に」
「美里さんの話によれば、確かにロックの蹄鉄のひとつに、赤い色素が薄らと付着していたらしい。右前脚の蹄鉄だ。それが隆夫さんの血液かどうかは、いまごろ科捜研の女もしくは男が、詳しく調べているはずだ。――でもまあ、たぶん間違いないんじゃないかな」
そして中園巡査はひとつの仮説を語った。「例えば、こういうケースが考えられる。隆夫さんは昨日の深夜、奥さんが寝た後に、ひとりでロックに乗って乗馬クラブを出ていった。ロックと隆夫さんは、やがて例の脇道へとたどり着く。そこで隆夫さんはロックの背中から降りた。あるいはロックが暴れて振り落としたのかもしれないな。隆夫さんはロックをなだめようとする。だが、暴れるロックの右前脚が運悪く隆夫さんの額を直撃して――というわけだ」
「なにが『というわけだ』よ!」憤慨する私はポニーテールを左右にブンブン揺らしながら、「そんなの、ただの想像じゃない。そもそも、なんで隆夫さんが深夜に馬に乗って、こっそり出掛けるのよ。中園さんは、そんな話で納得するわけ?」
「え!? いやいや、もちろん僕は納得いかないさ。だから、こうして陽子ちゃんの話を聞きにきたんじゃないか。いま僕が話した推理は、つまらない田舎の事件などさっさと片付けて都会の重大事件に戻りたいと、そんなことばかり願っている県警の刑事たちの見解だ。彼らは、きっとそういうふうに考えているに違いないってことさ」
「んー、それはちょっと偏見が過ぎるんじゃないかな。県警の刑事さんたちだって、きっと真剣に考えていると思うよ……」
と私は見知らぬ刑事さんたちに気を遣った言い回し。「それにさ、刑事さんたちは殺人の可能性もいちおう疑っているんだよね。それはなぜ?」
「うん、これは本当に、ここだけの話にしておいて欲しいんだけど。といっても、狭い田舎町だから噂はすぐに広まるだろうけど――」
といって中園巡査は再び声を潜めた。「実は『清水乗馬クラブ』の従業員の中に、今朝から連絡の取れなくなっている男がいてね。村上直人という若い男だ。陽子ちゃんも顔ぐらいは知ってるんじゃないかな?」
「ひょっとして、モデルみたいに背が高くて髪が長いインストラクター? ああ、その人なら知ってる。クラブの会員たちにも大人気のイケメンさんだよね」
「そう、その彼だ。乗馬クラブは昨日が休日で、今日は営業日。だから黙っていても仕事場にやってくるはずなんだが、なぜか彼だけがこない。『携帯も繫がらないんです』って、美里さんも困惑していた。県警の刑事たちも、村上の行方を気にしているはずだ。いや、だからといって、彼が事件と関わりがあると決め付けるのは早計なんだが――おや!?」
そのとき中園巡査の口から、ふいに怪訝そうな声。その視線は牧牧場の正門のほうへと真っ直ぐ注がれている。見ると、そこには若い男性が二名。門の中を覗き込むようにしながら、こちらの様子を窺っている。ひとりは眼鏡を掛けた痩せ型の男。もうひとりは体格の良い日焼けした男だ。
私は両手をメガホンにして、見知らぬ二人組にいきなり声を掛けた。
「そこの、お二人さーん、うちに何か御用ですかー?」
瞬間、二人はビクリとした表情。だが意を決したように、揃って門の中へと足を踏み入れると、私たちのいる囲い場のほうまで一直線に歩み寄ってきた。近くで見ても、やっぱり全然知らない顔だ。この町の人間ではない気がする。垢抜けた服装は、都会から訪れた旅行者を思わせた。キョトンとする私たちを前に、まずは眼鏡の男が口を開いた。
「怪しい者ではありません。僕らは千葉市内から遊びにきた大学生です」
やはり思ったとおり都会からの旅行者だった(千葉市は都会に含まれるはずだ)。
痩せた眼鏡の男は白崎、体格の良い日焼けした男は大田と名乗った。
「地元の警察の方ですよね」と大田が尋ねる。中園巡査が頷くと、彼は日焼けした顔を近づけながら、「昨夜のことで、お耳に入れておきたいことがありまして」
「はあ、昨夜のことというと?」中園巡査はポカンとした顔だ。
すると白崎のほうが声を潜めながら、「実は僕ら見たんですよ。昨日の深夜、路上を猛スピードで駆けていく馬をね。いや、見たなんてもんじゃない。もう少しで僕ら、危うく撥ね飛ばされるところだったんです。まあ、聞いてもらえますか」
痩せた眼鏡の男、白崎は若い制服巡査の前で語りはじめた。
そして瞬く間に数分が経ち――
ひと通りの出来事を語り終えた二人は、揃って制服巡査へとにじり寄った。
「今朝になって知りました」と白崎がいった。「あの付近で男が死んだそうですね」
「町の人に聞いた話ですが」と大田がいった。「乗馬クラブの関係者だそうですね」
二人の話を聞いた若い巡査は、興奮を抑えられない表情で頷いた。
「ああ、確かに昨日の深夜、馬に蹴られて男が死んだ。君たちの見た光景は、まさにその事件が起こる直前の場面だろう。――君たち、その二人の男の特徴を詳しく教えてくれないか。馬に乗っていた男と、それを走って追いかけていった男。それぞれの特徴を」
質問に答えて白崎がいった。「馬に乗っていたのは、髪の長い痩せ型の男で……」
「それを追いかけていたのは、小太りの中年男でしたね」と大田が続けた。
「なんだって!?」中園巡査は困惑した表情で顎に手を当てた。「その小太りの中年男というのは、おそらく亡くなった清水隆夫さんに違いない。じゃあ、馬を走らせていた髪の長い痩せ型の男というのは、いったい――あ、そうか、インストラクターの村上直人!」
パチンと指を鳴らした中園巡査は、その指先を二人の大学生へと向けた。
「君たち、悪いが僕と一緒にきてくれないか。いまの話を刑事さんたちの前でしてほしいんだ。――あ、陽子ちゃんも、ありがとね。お陰で出世の、いや違う、解決の糸口が見つかりそうだよ」
偽らざる本音を覗かせる中園巡査は、二人の大学生を連れて、その場を去っていった。
残された私は白い柵の内側へと向き直る。目の前には一頭の栗毛の馬。私は語りかけるようにポツリと呟いた。
「本当にロックが隆夫さんを殺したのかしら?」
しかし栗毛の馬はピクリと耳を動かしただけ。黙ってバケツの水を飲むばかりだった。
3
それから一週間は瞬く間に過ぎた。だが事件が解決したという噂は聞かない。事件は現在どういう状況にあるのか。そう思いはじめたころ、再び中園巡査が牧牧場にやってきた。私は再び囲い場の前で彼に情報を求めた。
「ねえ、中園さん、あれから捜査は進展してるの?」
「いや、それがなかなか……」と彼は浮かない様子で首を左右に振った。
あの後、大学生二人組は県警の刑事たちの前で、例の目撃証言を語ったそうだ。当然、捜査線上に村上直人の名前が急浮上した。清水隆夫殺しの重要な容疑者と見なされたのだ。
「事件の概要は、たぶんこんな感じだったんじゃないかな」
といって中園巡査は自らの推理を語った。「詳しい事情は判らないが、事件のあった深夜、村上直人は乗馬クラブの馬房からロックを連れ出した。清水夫妻の了解を得ず、こっそりとだ。まあ、一種の馬泥棒だな。だが、そんな村上の行動に、たまたま隆夫さんが気付いた。村上はロックに跨り、乗馬クラブの門から路上へと飛び出していった。隆夫さんはその後をひとりで追いかけた」
「それが大学生たちの目撃した場面ってことだね」
「そう。問題はその後だ。ロックに乗った村上と、それを追う隆夫さんは、例の脇道へと入っていったんだろう。そこで何が起きたかは、あくまで想像の域を出ないんだが――おそらく村上は隆夫さんに対して、ロックをけしかけたんじゃないだろうか。村上の乗ったロックが隆夫さんを襲ったわけだ。結果、ロックの右前脚が隆夫さんの額に命中。隆夫さんは草むらに倒れて絶命した。一方の村上はロックを乗り捨てて、どこかへと逃走した。翌朝、カラ馬になったロックを陽子ちゃんが確保し、その直後に草むらの遺体を発見したってわけだ。――どうだい、まあまあ筋が通っているだろ」
「うーん、なるほどね。それならロックが隆夫さんを蹴り殺したって話も、いちおう納得できるか……」確かに蹴ったのはロック。だが悪いのは彼じゃない。そう仕向けた乗り役、村上直人のほうだ。二枚目インストラクターの顔を脳裏に思い描いた私は、胸の奥で熱い怒りをたぎらせた。「それで、村上直人の行方は、その後どうなったの?」
「さあ、それがいっこうに摑めないから困っているんだよ」中園巡査は囲い場の柵にもたれながら嘆息した。「事件からすでに一週間だ。いまごろ村上は千葉市内か、あるいは東京あたりに出て、雑踏の中に紛れ込んでいるんだろう。少なくとも、この町に潜伏している可能性は限りなくゼロに近い。もう捜すべきところは、すべて探し尽くしたからね」
「うーん、確かにそうだよねえ」呟きながら溜め息をつく私。
その耳に、どこからともなく聞こえてくる、ひとつの声があった。
――ホンマにすべて捜したんか?
いや、そんな声が本当にあったのか、それとも単なる空耳なのか、私自身も正直よく判らない。だが気が付けば私は、その声をなぞるように自然と口を開いていた。
「――黒沢沼をさらってみたら、どや?」
「どや?」キョトンとした顔で、中園巡査が私の顔を覗き込む。「陽子ちゃん、いま『どや』っていった? あれ、陽子ちゃんって関西弁キャラだったっけ?」
「え!?」私はポニーテールがちぎれるほどに激しく顔を振りながら、「いやいや、違うの。いまのは私じゃないから。口に出したのは私だけど、たぶん違う人のいったことで……」
「違う人?」中園巡査はますます不思議そうな顔で、左右を見渡した。「ここには僕と陽子ちゃんしかいないけど。ひょっとして通りすがりの関西人でもいた?」
「ううん、いなかったと思う。――いまの発言は忘れて、ね、忘れてよ!」
「まあ、忘れてあげてもいいけど……いや、しかし待てよ、黒沢沼か……」中園巡査はふと引っ掛かるものを感じたように、顎に手を当てた。「そういや、隆夫さんの遺体が発見された脇道は、あのまま真っ直ぐいけば黒沢沼に続くんだよな。てことは、隆夫さんを殺した村上が、そのまま黒沢沼に向かった可能性も考えられるわけだ。――むむッ、もしかすると!」
囲い場を背にして、しばし黙考する中園巡査。やがて彼は何らかの閃きを得たように顔を上げると、「ありがとう、陽子ちゃん、参考になったよ」と一方的に感謝の言葉。そしていきなり踵を返すと、「じゃあ、僕は仕事があるから」といって、その場を立ち去っていった。
「ゴメン、あんまり参考にしないでねー」
そう叫びながら私は若き巡査を見送った。
制服の背中が遥か遠くに消えていく。それを待って私は柵の中へと向き直る。
囲い場には一頭の栗毛馬。牡のサラブレッド、十五歳。私と同い年の彼の名はルイスという。大半のサラブレッドがそうであるように出身は北海道。ただし現役時代は滋賀県にある栗東トレーニング・センターで稽古を積み、主に関西の競馬場を主戦場としていた。
すなわちルイスは競馬用語でいうところの関西馬なのだ。
「でも、まさか、そんなわけないか……」
呟きながら、私は問い詰めるような視線をルイスへと向ける。
彼は表情を悟られまいとするように、その長い顔を干草の山へと突っ込んだ。
関西弁の主が誰であるかはともかくとして、謎のお告げには確かな効果があったらしい。
あれ以来、中園巡査は暇を見つけては黒沢沼に通い、懸命に沼底を捜索した。その努力が報われたのは、事件から三週間ほどが経過した五月のことだ。中園巡査が沼に差し入れた竿の先に、突然確かな手ごたえ。そうして引き上げられたのは、男性の変死体だった。
沼の魚たちに散々食い散らかされた腐乱死体は、見るも無残な状態。死因の特定もままならないまま、その亡骸は千葉市の大学病院で詳しく調べられることになったという。
「だが、あれが村上直人の遺体だってことは間違いない」お手柄の中園巡査は得意顔で私に報告してくれた。「陽子ちゃんのお陰だ。黒沢沼をさらってみろって、いってくれただろ」
そんなつもりじゃなかったけどね――と私は内心で呟きながら、「うん、確かに私そういった」
「あれでピンときたんだ。僕の推理によれば、村上はおそらく自殺だな」
「え、自殺なの!?」
「そうさ。この前も話したとおり、事件の夜、村上はあの脇道でロックをけしかけて、隆夫さんを殺害した。これは村上自身としても想定してなかった出来事だったに違いない。
村上は後悔し、不安になり、そして絶望した。彼はロックに乗って脇道を奥へと進んだ。
そこに黒沢沼がある。彼は自らその沼底へと身を投げたんだ。一方、乗り手を失ったロックは、自分の意思でいまきた道を逆戻り。路上をさまよっていたところを翌朝、陽子ちゃんに確保されたってわけさ」
なるほど。その推理を一心に信じて、彼はここ半月ほどを黒沢沼の泥さらいに費やしたわけか。その努力が実を結んだことは、喜ばしいことだけれど、果たして彼の語る推理は正鵠を射ているのかしらん。いささか心もとなく思う私の前で、中園巡査は満面の笑みを浮かべて片手を挙げた。「とにかく、ありがとう、陽子ちゃん。これで僕も駐在所勤務から抜け出す可能性が見えてきたよ。じゃあ、僕はこれで!」
背筋をピンと伸ばして意気揚々と引き返す中園巡査。その背中が充分遠ざかるのを待ってから、私はくるりと回れ右。目の前にあるのは、例の囲い場だ。白い柵の向こう側には、栗色に輝くルイスの姿。私は両腕を柵に掛けながら、彼に語りかけてみた。
「本当に村上直人が隆夫さんを殺して自殺したのかなぁ。――ねえ、どう思う、ルイス?」
その問いにルイスは答えた。流暢な関西弁で――
「んなわけあるかいな、マキバ子ちゃん、あの男の推理なんてゴミみたいなもんやで」
4
「え、ゴミ……!?」それはいくらなんでも言い過ぎじゃないかしら、と私は思った。
中園巡査といえども警察官の端くれだ。事件解決を真剣に望んでいることは間違いない。まあ、確かに犯人が自殺したという彼の推理は、いささか安易な気がしないでもないけれど――って、「えええぇぇぇぇぇッ!」
思わず悲鳴を発した私は数メートル後方に飛び退き、もんどりを打つように転倒。そのまま地面にしゃがみ込んで、目を丸くしながら柵の中にいる栗毛の馬を凝視した。
「う、馬がッ、しゃ、喋ったッ!」
私は愕然として彼を指差す。「ルイス、あなた、喋れるの……?」
「なに驚いてんねん、マキバ子ちゃん。あんたが俺に話しかけたんやないか。そやから、答えてやっただけや。なにも驚くことあらへん。それからな、『馬が喋った』っていうてるけど、正確には、あんたが聞こえるようになったんや。馬は昔からずっと喋ってる。ただ人間のほうが、それを聞き取れんかっただけ。特別なんはマキバ子ちゃんのお耳のほうなんやで」
「え、そうなの!?」ようやく私は立ち上がって、再び柵の前へと歩み寄った。「確かに私、馬と喋りたいって、ずっと思ってた。だけど、まさかこんな形で実現するなんて!」
――しかも、喋ってみたらこんなにコテコテの関西弁だなんて!
驚きを禁じえない私は、柵の向こう側に右手を伸ばしてルイスを手招き。のそのそと歩み寄ってきたルイスは、私の差し出す掌に自ら額を擦り付けてきた。私が優しく撫でてやると、ルイスはヒヒンともブルンともいわずに、「あー、そこや、そこそこ! そこ、搔いてーな、搔いてーな!」と気色悪いオッサンみたいな言葉を口にする。
慌てて右手を引っ込めた私は、険しい視線を彼へと向けた。
「ところでルイス、さっきのアレは何? 中園さんのこと、ゴミだっていってたけど」
「ちょい待ちーな。俺、あの男のことをゴミとは一言もいうてへんで」
「ん、そういやそっか」これはとんだ勘違い。私は正確に言い直した。「そうそう、中園さんがゴミなんじゃなくて、彼の推理がゴミだって、そういったんだった。でも、どういうことよ、ルイス。彼の推理は間違っているってこと? えー、そうかなぁ、まあまあ筋は通っているような気がするけど……」
「いいや、全然やな」ルイスは細長い顔を左右に振った。「俺はこの柵の中で、あんたと中園巡査の会話の一部始終を聞かせてもろた。なかなか興味深い話やったけど、一箇所どうにも腑に落ちんところがある。そこに気付くかどうかが、事件解決の鍵ちゅうわけや」
「腑に落ちないところ!? そんなの一箇所どころか、たくさんあったと思うけど……」
実際、今回の事件は腑に落ちないところだらけだ。なぜ村上直人は深夜に馬を走らせたのか。馬泥棒だとするなら、その目的は何か。隆夫さんはなぜ、それに気付いたのか。そして、なぜ馬に蹴られたのか。村上が馬をけしかけたのだとするなら、なぜ彼はそこまでする必要があったのか。そして、なぜ村上は死ななければならなかったのか。悔しいけれどお手上げの私は、恥を忍んで目の前の馬に……関西弁を喋る馬に自ら意見を求めた。
「ねえ、何が事件の鍵だっていうの、ルイス?」
するとルイスの口から意外な答え。「問題は、あぶみの長さや」
「あぶみの長さ!?」私はキョトンとして聞き返す。「あぶみの長さって、どういうこと? どの馬のあぶみのことをいってるの?」
「どの馬もこの馬もあらへん。事件に関わる馬はロックただ一頭やないか。ロックのあぶみの長さのことをいうてるんや。ええか、マキバ子ちゃん、あんたは事件の翌朝、通学路をうろついているロックを発見し、その背中に跨った。そのときあぶみの長さは、どうやった? 長すぎたり短すぎたりしたか。長さを調節するような必要があったんか?」
「ううん、全然。あぶみの長さは偶然、私の足にピッタリで……あれ、変だね」
おかしい。確かに腑に落ちない。私はようやくそのことに気付いた。「事件の夜にロックを走らせていたのは村上直人。それは大学生二人組の目撃証言から間違いない。けれど、その村上がロックを乗り捨てたとするなら、あぶみの長さが私に合うはずがないよね。だって村上は男で、しかもモデルみたいに背が高くて脚も長いんだから……」
「そう。その一方でマキバ子ちゃんは女子高生としても小柄なほうや。なのに、ロックのあぶみの長さはあんたの足にピッタリやった。あぶみの長さは最初から短かったんや。
――な、おかしいやろ。そんなふうにあぶみを短くした状態で、脚の長い村上がロックに乗るとしたら、どないな体勢になる? 当然、脚を折り曲げて、腰を浮かせ気味に乗ることになるわな。競馬のジョッキーみたいに」
「ジョッキー!?」その言葉に私はハッとなった。「そういえば、あの二人組も、そんなことをいってたよね。男は競馬のジョッキーのように馬を走らせていたって」
「そう、いわゆるモンキー乗りというやつや。けど、なんでや? なんで、村上はそんな特殊な乗り方をしてたんや。村上って男は、あくまでも乗馬のインストラクターやろ。乗馬と競馬は似て非なるもんや。モンキー乗りは競馬のプロの乗り方。村上がマスターしとったはずがない。わざわざ真似しようとも思わんはずや」
「確かにね。それじゃあ、なぜ村上はあの夜、そんな乗り方を?」
「自分の意思でしてたんやない。村上はモンキー乗りをさせられていたんや。あぶみの長さが短いのは、彼の両脚が折れ曲がったまま硬直していて、真っ直ぐならへんかったから。その折り曲げた脚に合うようにあぶみの長さを調節した結果、それはマキバ子ちゃんにピッタリ合う程度の短さになったちゅうことや。――俺がいってる意味、判るやろ?」
「両脚が折れ曲がったまま硬直して……硬直って、え!? ま、まさか……」
私は震える声でいった。「まさか、村上は死んだ状態で馬の背中に跨っていたの!?」
「そう、その『まさか』や。あの場面、モンキー乗りの村上が猛スピードで馬を走らせていた、と大学生二人の目にはそう映ったらしい。けど事実は逆や。猛スピードで走る馬が、その背中に乗っけた死体を揺り動かしたんで、それがまるで生きてる人のように見えたんや」
「村上はそのときすでに死んでいた。しかも死後硬直がかなり進んでいたってこと?」
「そう、それが俺の推理や。ほな仮に、この推理が当たっていた場合、村上の死体を馬の背中に乗っけたのは誰になる? もちろん清水隆夫や。ロックは彼の乗馬クラブの所有馬なんやからな。けど馬に死体を乗っけるのは、ひとりじゃ無理や。死体っちゅうのは滅茶苦茶重いもんらしいからな。協力者がおるはず。それは誰や。当然、奥さんの美里や」
「ええッ、じゃあ、隆夫さんと美里さんが村上殺しの犯人ってことなの……あれ!?」
どうやら事件の様相が反転したお陰で、犯人と被害者の敬称が逆になってしまったようだ。私は正しく言い直した。
「隆夫と美里の夫婦が、村上さん殺しの犯人ってことなのね」
「そういうこと。あの夜、二人は村上の死体を馬に乗せて、密かに運ぼうとしてたんやな。ほな、その目的地はどこや? そう考えたとき、ピンときた。――黒沢沼や」
「そっか。それでルイス、『黒沢沼をさらってみたら、どや』なんて私に囁いたんだね」
「そや。俺の囁きはマキバ子ちゃんの口から中園巡査に伝わった。巡査は沼底に沈んだ村上の死体を引き上げた。これによって、俺の推理の正しさが証明されたちゅうわけや」
白い柵の向こう側、ルイスは得意そうに、その長い鼻を高く持ち上げる。そして彼は今回の事件について、順を追って説明をはじめた。
「正直、清水夫妻のどっちが主犯か共犯かは判らん。けど便宜上、隆夫のほうが主犯と仮定してみよか。まず隆夫が村上を殺害したんは、乗馬クラブが休みやった日の昼間のことや。殺害の動機とか手口とか詳しいことは、俺も知らん。ただ一個だけ確実なんは、隆夫は村上が椅子に座った状態で殺害して、そのまま夜まで死体を放置していた、ちゅうことや。昼間のうちは人目につくから、夜になったら捨てにいこうと、安易にそう思ってたんやろな。ところがどっこい。いざ夜になってみると、村上の死体はすっかり死後硬直が進行しとった。股を開き、両脚を折り曲げ、前かがみになった恰好のままガチガチ、いやもう、ガッチガチや。法医学に疎い隆夫は、まさかそうなるとは思ってなかったんやなぁ」
「なるほど」と頷く一方、ではなぜルイスは法医学に明るいのか。ただの馬なのに。家畜なのに――と素朴な疑問を抱く私。でも面倒くさいので、とりあえず「それから?」と彼に話の続きを促す。ルイスは得意げに続けた。
「死体の捨て場所として黒沢沼という選択肢は、隆夫の頭の中に当然あった。その場合、運搬方法として馬を使うことも想定してたはずや。黒沢沼までの細い山道に車は入れへんからな。問題は、座った恰好のまま硬直した死体を、どうやって馬に乗せるかや。硬直してへん死体なら鞍の上に横向きに乗せるところや。昔の西部劇とかで、よう見かけるやろ。けど今回に限って、それは不可能。そこで隆夫は座った恰好で硬直した死体を、ロックの鞍の上に跨るように乗せた。美里の助けを借りながらな」
「要するに、私たちが通常、馬に跨るときと同じような恰好だね」
「そや。ただし、村上の死体の両脚は折れ曲がってて、背中は丸まっとる。結果、その姿は競馬のジョッキーがやるモンキー乗りみたいな感じになった。けどまあ、しゃあない。
隆夫は死体の足の位置に合わせて、あぶみの長さを調節した。そして、あぶみと死体の足をロープで結び付けて固定した。それ以外にもロープを使って死体の何箇所かを鞍とか馬体とかと結び付けたはずや。途中で落っこちたりせんようにな。そうして準備万端整えた清水夫妻は、乗馬クラブの門まで馬を移動させた。さあ、ここからが緊張する場面や。
門を出て、例の脇道へ入っていくには、短い距離やけど一般の車道を進む必要がある。まあ、深夜の田舎道やから、用心すれば大丈夫。死体にはビニールシートでも掛けとったら、万が一見られることがあっても何の荷物か判らんはずやし――と思ったちょうどそのときや、想定外のアクシデントが起こったんは!」
「え、想定外のアクシデントって!?」
「放馬や、放馬。ときどきあるやろ。馬が暴れたんか、隆夫がウッカリ手綱を放したんか、それは知らん。とにかくロックは勝手に走り出した。背中に死体を乗せたまま門を飛び出し、車道を猛スピードや。隆夫も慌てて車道に出て、ロックの後を追いかけた。美里は門の陰あたりでオロオロしてたんやろ。その状況で偶然、同じ道を歩いとったんが、例の二人組の大学生や。しかし事情を知らん彼らは、馬の背中に乗っとるのが、まさか死体だとは思いもせん。それを追いかける小太りの男が殺人犯だとも思わへん。彼らは訳も判らんまま、ただ呆然としてその場を立ち去っていくだけやった」
「二人の話を聞いた中園さんも、似たようなものだった。彼は、村上さんが馬泥棒で隆夫がそれを追いかけている、そういう場面だと推理したみたい。でも、事実は全然違ってたんだね」
「そやから俺、いうたやろ。あの男の推理はゴミやって」
「うん、確かにゴミかも」
私は辛辣な言葉を口にして、ルイスの話を促した。「で、それからどうなったの? 放馬したロックと、それを追いかけた隆夫は――ハッ」
突然、私の脳裏にハッキリと不吉な絵が浮かんだ。勝手気ままに走り回り、脇道へと入るロック。それを追う隆夫も同じ道へ。暗闇の中で相対する隆夫とロック。隆夫がロックの手綱を取ろうとしたその瞬間、振り上げたロックの右前脚が隆夫の額を打ち据える――
「そっか。やっぱり興奮したロックが隆夫を蹴り殺しちゃったんだね」
「そやな。その直後、美里がひと足遅れて脇道にやってきた。美里は夫の突然の死にショックを受けた。けど、このままじゃマズイと思い直した彼女は、自分でロックの手綱を引いて黒沢沼へ。そして彼女はひとりで村上の死体の処分をやり遂げた。――とまあ、そう考えることも、いちおうは可能や」
「え、いちおうは可能って――ルイスには別の考えがあるってこと!?」
「もちろんや。まあ、考えてみい。マキバ子ちゃんのいまの推理どおりやったら、美里にとって何もかも都合良すぎるやろ。村上の死体はちゃんと処分できて、しかも悪党の片割れである隆夫は勝手に死んでくれた。『私は何も知らずに自宅のベッドで寝てました』と美里がいいさえすれば、事のすべては村上とロックの仕業にできる。美里は旦那を馬に蹴り殺された可哀想な奥さんを演じとったら、それでOKちゅうわけや。――な、出来すぎやろ?」
「確かに。じゃあ、ひょっとして美里が自らの手で隆夫を?」
「そや。ロックが隆夫を蹴り殺したんやない。放馬したロックは、追いかけた隆夫の手でなんとか無事に捕らえられたんや。再び合流した隆夫と美里はロックを引いて、あらためて黒沢沼を目指した。死体を沼に沈める作業は、二人がかりで滞りなく済んだんやろう。
二人は身軽になったロックを連れて、乗馬クラブに戻った。これで死体の処分は無事完了。二人組の男に余計なところを見られたけれど、どうせあいつらよそ者やから、なんとかなるやろ。――と、そう思う隆夫に、いきなり美里がいったんやろな。『私、あの脇道に大事な携帯を落としてきたかも……』とかなんとか。ま、携帯でも財布でも、そこは何でもええんやけれど」
「要するに、美里が隆夫を脇道に誘い出したんだね。二人は再び脇道に向かった……」
「そのとき美里は厩舎から持ち出したあるものを隠し持っとったはずや」
「蹄鉄だね。美里はその蹄鉄で隆夫の額を打ち据えた。隆夫は草むらに倒れて死んだ」
「そや。美里はその蹄鉄を厩舎に持ち帰った。そしてロックの右前脚の蹄鉄を外して、持ち帰った蹄鉄を打ち直した。ま、これは昔から犯罪者がよう使う常套手段やな。簡単なトリックやけど、例の大学生たちの証言と合わさったら、効果テキメンや。なにせ、あの二人組はロックに乗った村上と、それを追いかける隆夫の姿を目撃しとる。その上で、ロックの蹄鉄から隆夫の血液が検出されて、なおかつ村上が行方をくらませとったら、どや? あのボンクラ巡査やなくても、『村上がロックをけしかけて隆夫を殺したのでは?』って想像してしまうやろ。それが美里の狙いやった。そうなることを期待して、美里はロックを乗馬クラブの敷地の外に放したんや。血に汚れた蹄鉄を履かせてな――」
「そしてそのロックを、翌朝、通学途中の私が見つけた。そういうことだったんだね」
「ああ、そういうことやったんや。どや、納得したかいな、マキバ子ちゃん?」
白い柵の向こう側で、ルイスはこちらを見下ろして得意げな顔。悔しいけれど私もルイスの人並み外れた、いや、馬並み外れた推理力には感服せざるを得なかった。ただし納得いかない点もひとつ。私はそのことを指摘した。
「ねえ、ルイス、あなたさっきから私のこと、『マキバ子ちゃん』って呼んでるけど、私の名前は牧陽子。牧場子じゃないから間違えないでもらえるかな?」
するとルイスは意外そうな顔で「え、そうなん!?」と驚きの声。だが、すぐに気を取り直すように長い尻尾を悠然と振って、「まあ、ええやないか、マキバ子ちゃんで」
そしてルイスは疲れた喉を潤すように、バケツの水へと顔を突っ込むのだった。
ところでルイスの語ったこの推理を、どう現実に反映させたら良いのだろうか。なにせルイスは馬なのだから、『皆を集めて、さて……』というわけにはいかない。やっぱり中園巡査にそっと耳打ちしてやるべきだろうか。
そんなことを思い悩んでいるうちに、当の中園巡査がまたまた牧牧場へとやってきた。
興奮気味の彼は私を前に一方的に喋り出した。
「例の事件、犯人が捕まったよ。誰だと思う? なんと清水美里だ。あの奥さんが旦那さんの隆夫を蹄鉄で殴って殺したんだ。県警の刑事たちは、もともと美里の態度に不審を覚えていて、彼女を厳しく問い詰めたらしいんだな。結果、彼女がボロを出したそうだ。
――え、村上直人は自殺だったのかって? いや、それがまた驚きでさ、なんと村上は密かに殺害されてたんだよ。しかも殺したのは隆夫らしいんだな」
中園巡査の話によれば、隆夫は若い村上さんと美人の奥さんの関係を疑っていたようだ。その件を追及すべく、隆夫は休日に別の用件を装って村上さんを自宅に呼び寄せた。
美里は友人とショッピングに出掛けて不在だった。なので、そのとき隆夫と村上さんの間に、どのようなやり取りがあったかは誰にも判らない。だが、話し合いが紛糾したことは想像に難くない。そして激昂した隆夫は思わず村上さんを手に掛けた――
「椅子に座った村上さんを背後から両手で絞め殺したらしい。夜になって美里が外出先から自宅に戻ってみると、リビングの椅子の上に村上さんの死体が、そのままの状態で放置されていた。驚く美里に、隆夫はいったそうだ。死体の処分を手伝ってくれ――ってね」
「ふーん、そういうことだったんだねえ」すべて判ったとばかりに頷く私。
すると中園巡査は慌てた様子で「いやいや、陽子ちゃん、本当に驚くのはここからなんだ」と片手を振る。そして私にとっては全然驚けない話を続けた。「二人は死体を黒沢沼まで馬で運ぼうと考えた。ところが死後硬直の進んだ死体は座った恰好のままカチカチだ。そこで二人は、その死体をどうしたと思う?」
「えー、死体をどうしたかってー?」
私は困ったように顎に指を当てながら、くるりと中園巡査に背中を向ける。目の前にあるのは木製の柵。その向こう側では栗毛のサラブレッドが悠々と干草を食べている。
私は彼に向かってウインクしながら問い掛けた。
「さあ、いったいどうしたんだろうねー、ルイス?」
ルイスは顔を上げて答えた。「もう判ってるやないか、マキバ子ちゃん」
いまの私にはハッキリと聞こえるルイスの声。
だが、その同じ声が中園巡査の耳にはまるで聞こえていないらしい。彼はキョトンとしながら私と馬とを交互に見返すばかりだった。
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