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【試し読み公開】笑って泣ける! 老舗人形店の若社長の奮闘を描く『人形姫』(山本幸久著)第一章公開

『店長がいっぱい』で駅ナカ本大賞を受賞した山本幸久さんが描く、読みどころ満載のハートフル・ストーリー『人形姫』が12月9日に発売されました。本書の発売を記念して、こちらのページでは第一章の試し読みを無料公開いたします。

<あらすじ>
後継者不足に悩む老舗人形店に、外国人の若い女性が弟子入り志願!
お人好しな若社長は、仕事に恋に大奮闘!
亡き父のあとを受け、森岡恭平が社長を務める森岡人形は、低迷する売上げ、高齢化した職人の後継ぎ不在と、問題が山積。さらに恭平自身の婚活問題も難航しており……。
そんなある日、職人たちが足繁く通うパブで働くクリシアというフィリピン人女性が、社屋を訪ねてきた。職人の一人が、酔った勢いで「俺の弟子にしてやる」と、彼女に約束したと言うのだが……。
笑って、泣いて。読みどころ満載のハートフル・ストーリー。

<1>

 まずは生え際からだ。

 額と頭の境目に、縦の線を細かく描いていく。丁寧かつ手際よく迅速に、迷わず描いていかねばならない。

 それが済んだらつぎは眉である。おなじ墨を使うが、筆はさらに毛先が細いものに変えた。眉毛を一本ずつ描くわけではないにせよ、そのつもりで筆を動かす。

 「すごぉぉい」

 ごく間近から子どもの声が耳に入ってきた。男の子か女の子かはわからない。筆を止めて確認する余裕はなかった。

 ここは鐘撞市にある人形博物館だ。今年の二月にオープンして、じきに五ヶ月が経つ。第二・第四日曜には常設展の一角で、鐘撞人形共同組合の有志によって、人形の製作実演がおこなわれており、今月は森岡恭平の番だった。職場からは道具一式と女雛、男雛の頭をそれぞれ三十ずつ持ちこんできた。頭の下には菜箸のような棒が付いており、藁の束に差しておく。その状態は晒し首のように見えなくもない。

 実演は午前十一時と午後一時と午後三時の三回、いずれも一時間で、七月の第二日曜の今日、午後三時の回の真っ最中だ。

 思った以上に館内には客が多い。恭平のまわりにも入れ替わり立ち替わりで、終始二十人近くのひとが集まっている。製作実演は雛人形の陳列即売会の会場をはじめ、百貨店やデパートなどでちょくちょくおこなっていた。最初のうちはひとの目が気になって緊張するかと思いきや、作業をはじめれば平気だった。人形の顔を描くのに集中しているからだろう。今日もここが博物館だと忘れる瞬間さえあった。

 眉が描きあがった。しかし満足いく出来ではない。左右が微妙にちがう。素人が見たら気づかないだろうが、職人ならば一目瞭然である。いちいち反省をしていたら仕事がこなせない。つぎこそは、今度こそはと挑んではいるものの、完璧な顔など一度たりとて描けたことがなかった。

 恭平はべつの筆を手にする。筆先が丸く縛ってあり、薄墨に浸してから、眉と生え際のちょうど真ん中あたりに押し付けた。
 「なぁに、それ?」さきほどとおなじ、子どもの声がした。「なにかいてるの?」

 恭平が顔をあげると、目の前に六、七歳の女の子が立っていた。

 「駄目よ、モモ」女の子のうしろにいた女性が注意する。「職人さんに話しかけちゃいけないの」

 「かまいませんよ」

 恭平はにっこり微笑えむ。三十代なかばと思しき母親が言うとおり、〈実演中の職人へのお声がけはご遠慮ください〉とボードが立っている。だからといって、子どもの質問を知らんぷりするつもりはない。

 「位星といってね。この化粧をしているのはエラいひとの証拠なんだ」

 歌舞伎でも身分の高い貴族には、位星が施されている。

 「おひなさまはエラいひとなのね」

 「そうだよ。他になにか質問はあるかな」

 「どうしたらそんなにじょうずに、かけるようになるの?」

 「毎日、休まずに描いているからだよ」

 「どれくらいまいにち?」

 「オジサンは二十年近くつづけている」

 よほど驚いたらしい。女の子は目をまん丸に見開いた。

 「ほかにすることはなかったの?」

 女の子の発言に恭平は苦笑してしまう。

 「こら、モモ。失礼でしょ」

 「どうして? なにがシツレイなの、ママ」

 叱られても、女の子はピンとこないらしい。それどころか不服そうに頰を膨らませている。

 「他にすることはたくさんあったけどね。こうして人形の顔を描くのがいちばん好きだから、ずっとつづけてきたんだ」

 噓だ。家業だから継いだまでである。

 「モモもおえかき、すきよ。でもずっとつづけているとママにおこられちゃうの」

 周囲のひとから好意的な笑いが起きた。かわいいものだ。自分もこれくらいの歳の子がいてもおかしくない年齢ではある。

 「すきなことしていたのに、ジャマしてごめんなさい」

 女の子はぺこりと頭を下げる。

 「いや、いいんだ」

 恭平はさらにべつの筆を持つ。筆先に朱色を含ませてから、肩の力を抜く。

 優しくそっと触れる程度でいいんだぞ。
 父の声が耳の奥で聞こえた。

 わかっていますって。

 口の中でそう返事をしてから、人形の唇の形に沿って筆先を動かす。

 そのとき、モモの母親に見覚えがあるのに気づいた。どこかで見た顔だ。はて、どこでだろう。

 節句人形の製造元は雛人形か五月人形、どちらかに特化しているのがほとんどだ。恭平が社長を務める森岡人形は雛人形で、問屋や専門店などの卸売だけでなく、直売もおこなっている。
 創業百八十年と、鐘撞市内でも古参の店で、会社になったのは大正のおわりだ。なので恭平は社長としては四代目だが、創業から数えると八代目になる。そのため「八代目」と呼ぶひとが多い。

 森岡人形では昔ながらの手仕事で雛人形をつくっており、恭平も社長職だけでなく、一職人として働いていた。頭に髪、衣装、手足、小道具と、雛人形はそれぞれ職人がいて、べつべつにつくる。森岡家は代々、頭を専門につくる頭師で、恭平もそうだった。

 家業を継ぐと決めた高校一年の夏だった。そのときから七代目である父、一義に弟子入りをし、高校へ通いながら頭師の修業をした。職人として仕事を任されたのは、高校をでたあとである。
 恭平が二十歳のとき、母の公子は亡くなった。父よりも十歳年下だが、もとより病弱なひとだった。若いうちから入退院を繰り返し、遂には四十八歳で亡くなった。その七年後、父も六十五歳でぽっくり逝ってしまった。年末間近に工房で作業をしていたところ、突然うつぶせに倒れ、それっきりだった。葬儀は年を跨いで三ヶ日が済んでからおこなった。

 大変だったのはそれからだ。

 父としては、恭平には三十歳になるまでに職人として一人前になってもらい、そのあと会社のことをあれこれ引き継ぐつもりだった。本人から何度もそう言われ、恭平も不満を覚えることはなかったし、社員や職人など周囲のひと達も承知していた。

 ところが恭平が三十歳になる三年も前に、父は死んでしまった。とんだ番狂わせだ。おかげで恭平は帳簿の見方すら満足にわからない状態で、社長職を引き継ぐ羽目になってしまった。

 人形製作のスケジュール管理、原材料の仕入れ、百貨店や量販店、卸問屋に小売店など取引先との交渉、ショールームの運営、展示即売会の段取り、人形共同組合とのつきあいなど、あらゆることを父はひとりでこなしていた。このすべてを自分がやらねばならないかと思うと、二十七歳の恭平はうんざりした。

 父がマニュアルでもつくっていれば、まだどうにかなっていただろう。しかしそんなものは存在しなかった。父の携帯電話やパソコン、手帳などを手がかりに、洗いだしていかねばならず、手間と時間がかかった。

 厄介なのは職人達だった。最初のうちこそ父の死を嘆き哀しみ、坊ちゃんのためならなんでもしますと言ってくれた。だがしばらくすると、事あるごとに父と恭平を比べるようになった。

 「先代は」「七代目は」「あなたのお父様は」とやたら父を引きあいにだし、なにか言い返そうものなら、「八代目、それはちがいます」と長々と説教をはじめる始末だった。

 十年経ったいまでも、さほど変わらない。だが職人の数は半分以下になった。亡くなったひともいれば、高齢を理由に引退したひともいる。残ったひと達もイイ歳だった。上は七十七歳、下は六十八歳、平均年齢は七十三歳ときている。あと十年経ったら、さらに半分どころか、だれひとりいない可能性だってじゅうぶんある。

 この先、森岡人形がどうなっていくのか、考えるだけで恭平はぞっとする。すべてをほっぽりだして、どこかへ逃げ去りたいと思うものの、そうしたところでなにも解決はしない。創業百八十年もの歴史を誇る人形店の一人息子に生まれついた自分の運命を呪いつつ、日々の仕事をコツコツとこなしていくしかなかった。

 「コーチッ」

 道具その他を片付けているところに、声をかけてくるひとがいた。ふりむくと櫻田陽太が駆け寄ってくるのが見えた。鐘撞高校ボート部の部員である。

 「おわっちゃったんスか、実演?」

 「五分くらい前にな。いま片付けをしているところだ」

 「なんだ、残念だなぁ。部活おえて自転車を飛ばしてくれば間にあうと思ったのに」

 ボート部の部活は、鐘撞市を東西に流れる曳抜川でおこなわれる。人形博物館のここまで車で十分はかかる距離だ。

 「見たかったなぁ、コーチの面相描がき」

 「俺のなんか見たって参考にならんさ。きみのおじいさんのを見せてもらえばいいだろ」

 「嫌ですよ。そんなことしたら、跡を継ぐ決心をしたのか、ならば教えてやるって、じいさんが早とちりしかねないし」

 陽太は屈託なく笑う。いい笑顔だ。彼の家は鐘撞市にある櫻田人形だ。昭和二十五年創業と七十年弱の新参者でありながら、全国に十二店舗を展開、会社の規模は市内でも一、二を争うほど大きい。二十数年前には一・二階が売場で三・四階が工房、五階がオフィスの自社ビルを建てた。曳抜川にほど近く、まわりに高い建物がないので、ボート部の部活中、高校時代もいまも屋上の看板が視界に入る。

 「部活は滞りなくできたかい? 今戸先生、きてくれただろ」

 「きてましたけどね。土手の上でぼんやり眺めているだけでした」

 今戸先生はボート部の顧問だ。恭平よりも十歳以上若い男性だが、ボートどころかスポーツ全般が苦手で、練習にはほとんど姿を見せず、コーチの恭平に任せっきりだった。ただし今日は博物館の実演があったため、遠くから見ているだけでかまいませんからと、お願いしたのである。

 どうやら恭平の話を鵜吞みにして、ほんとに遠くから見ていたらしい。

 「コーチもその恰好だと、職人って感じッスね」

 恭平は作務衣を着ていたのだ。

 「人前で実演するときだけな。ふだんはTシャツにジーンズだよ」

 「そうなんスか。ウチは揃いの作務衣を着ていますよ。しかも背中にでかでかと家紋が入ったヤツです」

 「知ってるよ。展示即売会でも、櫻田人形さんは、あの作務衣を着ているからな」

 「あれ、めちゃくちゃダサくありません? お揃いっていうのがキモいんですよね。怪しげな宗教団体か安っぽい居酒屋にしか見えませんもん」

 恭平はうっかり笑ってしまう。陽太とおなじことを思っていたからだ。

 陽太の祖父、櫻田幸吉は八十歳を越えている。十数年前に社長の座を息子、つまりは陽太の父、大輔に譲ったものの、いまも現役の頭師だ。そしてまた鐘撞人形共同組合の理事長でもあり、いつの頃からか、〈鐘撞のゴッドファーザー〉と呼ばれるようになっていた。

 息子の大輔は恭平よりも七歳年上だ。東京の大学をでたのち、都内の有名百貨店で五年ほどバイヤーとして働いてから鐘撞市に戻って家業を継いだ。ただし職人ではない。販売に営業、広報、マーケティングまで手がけ、さらには自ら人形プロデューサーと名乗り、商品の企画および開発はする。だが製作はすべて職人任せだった。常識はずれで規格外の商品を企画し、職人達を困惑させることも多い。だがそうしたものに限って、ヒット商品になり、会社に莫大な利益をもたらしたことも数知れなかった。ちなみに櫻田人形の社員や職人に、揃いの作務衣を着せるアイデアを考えたのも大輔だった。

 仕事がデキて、コミュニケーション能力が抜群、面倒見もいい。恭平が十年前に会社を引き継ぐ際、大輔の許へ相談にいったところ、嫌な顔ひとつせず、あれこれ教えてもくれた。いまも時折、助言を求めるため、ふたりで吞みにいくことがある。

 「折角ここまできたんだから、なんか手伝いますよ」

 「あとは荷物を台車に載せて、車まで運ぶだけだ」

 「それ、やりましょう」

 陽太は恭平の返事を待たずに、さっさと荷物を台車に積んでいく。十七歳ではあるが、その背丈や身体つきは恭平とほぼ変わらない。筋肉などは陽太のほうが立派だった。もちろんボート部で鍛えているからだ。

 「これって来年の新作ですか」

 恭平が顔を描いていた雛人形の頭のひとつを見ながら、陽太が訊ねてきた。

 「そうだよ」

 男雛と女雛だけの親王飾りで、商品名は〈梅小径〉という。五月下旬から六月にかけて、人形販売業者向けに、翌年の雛人形の新作展示会をおこなう。その際に業者からは受注もいただけるので、これを元に大まかな生産数を割りだすことができた。そして夏前のいま頃から、生産をはじめる。森岡人形でも何点か新作を発表したのだが、その中でも〈梅小径〉は好評で、例年の新作よりも二倍近くの発注をもらっていた。数年振りのヒット作と言ってもいい。

 「この頭の原型はコーチがつくったんですか」

 「いや。宮沢さんっていう祖父の代からいる頭師だ」

 「そのひとについて、ウチのじいさんから聞いたことがあります。酔っ払ってさえいなければ、国宝級の腕の持ち主だって」

 「国宝級はおおげさだ」

 それに毎日のように深酒をするため、酔っ払っていないほうが珍しい。

 「いまどきの顔なのに、品格を失わずにいるところが、森岡人形百八十年の歴史を感じます」

 まさにそこが人気の秘密だった。新作展示会では〈梅小径〉の男雛女雛の顔を見て、いま活躍中の若い俳優やアイドルのだれそれに似ていますねと言う販売業者が多かった。

 宮沢にたしかめてみたところ、特定の人物をモデルにしたわけではない、ただし家ではテレビを付けっ放しにしてぼんやり眺めながら、世の中のひとはどんな顔が好みなのか、脳みそに滲みこませておくのだと言う。

 「ウチなんか技術は二の次で、顧客のニーズを的確に把握して、商品に落とし込むスキルこそが重要だとか親父が言って、職人につくらせているもんだから、あざとすぎるんですよね」

 でもそのおかげで売れているのも事実だ。

 五時の閉館まで四十分ほど、館内の人影はまばらになっていた。いつまでもここにはいられないので、陽太に台車を押してもらい、常設展の会場をでた。企画展の会場とのあいだにある〈関係者以外立入禁止〉のドアを開き、裏手に入っていく。

 恭平もまた鐘撞高校ボート部だった。二年の夏から一年間はキャプテンでもあった。二十年も昔の話である。その頃には五十人近く部員がおり、校内でも一、二を争う花形のクラブだった。

 インターハイや全国高校選抜には必ず出場し、好成績を残した。
 恭平も数々の大会で表彰台の上に立っている。高校三年の夏には、インターハイにシングルスカルと舵手付きクオドルプルで出場した。

 シングルスカルはひとり乗り、舵手付きクオドルプルはボートに五人乗って、四人がオールを漕ぎ、残りひとりが舵取り役、つまりは舵手となり、指示をだすクルーである。傍目からだと、舵手は四人を励ましているだけにしか見えないが、競漕相手の出方や状況に応じて、いかに自分達に有利な試合展開にすべきか、どのタイミングでスパートをかけるかといったことまで考えねばならない。恭平はこの舵手だった。

 そしていずれの競技も見事優勝を果たした。

 コーチになったのは、その実績を買われて、ではなく他にするひとがいなかったからだ。恭平とともに全国の高校ボート部としのぎを削っていた部員も、二十年近く経ったいまでは東京などへでていってしまい、ほとんど鐘撞に住んでいなかった。

 一年後輩で、舵手付きクオドルプルのストロークといって、舵手の真ん前で漕いでいた三上という男がいる。彼もまた人形会社のひとり息子だったが、着付師の父親が亡くなると同時に、会社は解散してしまった。三上自身は高校を卒業後、東京の医大へ進学、いまは市立病院で内科医として働いている。とてもではないが、ボート部のコーチなど務めることはできない。

 こうして恭平のところにお鉢が回ってきた。学校側からはつぎのコーチが見つかるまでの二、三年と言われていたのに、今年で五年目に突入だ。
コーチ就任時は二十年前とはちがい、部員も男女あわせて十数人しかおらず、全国どころか県内でもビリかビリに近い結果で敗退している有様だった。だがこれは致し方がない。かれこれ十年近く、専任のコーチがいなかったのだ。

 OB、そしてコーチとして現役生をインターハイなり全国高校選抜なりに連れていってあげたいとは思う。しかし自分が現役時代のコーチは少しも参考にならなかった。六十絡みの男性で、つねに竹刀を持ち歩き、部活中にサボっていたり、私語を交わしたりしていようものなら、容赦なくバシバシ叩くようなひとだったのだ。愛の鞭ならぬ愛の竹刀だと本人は言っていたが、もしもいまおなじことを恭平がしようものなら大問題だろう。コーチをやめさせられるどころか、世間から吊るし上げられ、下手したら森岡人形の売上げにも響きかねない。

 それに恭平が高校のときは、練習練習また練習で大晦日と元日以外、休んだ記憶がなかった。

 しかも連日、夜八時九時までが当たり前だった。ところがいまのボート部は週五日、月木金は校内でウェイトトレーニング、火日が曳抜川での乗艇練習だ。六時半に終了、七時に校門をでていなければならない。破ろうものなら、一ヶ月間の活動停止をくらうほど厳しい。なにかしらの競技会が迫れば、一週間ほど前から連日練習をおこなうにしても、事前に学校への申請をする必要があった。しかも定期試験前の半月間は部活が禁じられている。これまた破った場合には一ヶ月間の活動停止だった。短時間でどれだけ効率よく質が高い練習を部員達にさせることができるかが、恭平にとってつねに頭痛のタネなのだ。

 ボート部のコーチを引き受けたばかりの頃は、恭平の高校時代とほぼ変わらぬトレーニングメニューだった。これではマズい、なんとかすべきだと、ボート関連の本を買いこみ、ネットであれこれ検索したものの、調べれば調べるほど、どんなトレーニングが効果的なのかわからず、悩んだ挙げ句、県庁所在地にある国立大学のボート部に出向き、教えを乞うた。

 その甲斐あって記録は次第に伸び、昨年の春からは競技会でも好成績をおさめるようになってきた。ただし恭平の努力が報われたのかと言えば、それは二割、いや、一割程度で、残りの九割は陽太のおかげだ。去年の四月に入部するや否や、父親譲りのコミュニケーション能力を発揮し、陽太は部員のだれとでもなかよくなり、部内の雰囲気が一気に明るくなった。満足な結果をだすことができない二、三年の先輩達にも、がんばりましょうと陽太が一声かけるだけで、不思議と練習に熱が入り、顔つきも変わった。そしてひと月も経たないうちに、各自が記録を伸ばし、競技会の成績もぐんぐんとあがっていき、上位に食いこむようになった。

 陽太が二年になってからもそうだ。ほぼひと月前、六月のなかばにおこなわれたインターハイ県予選では六クルーが出場し、いずれも二位か三位の好成績を収めた。惜しかったのは男子舵手付きクオドルプルだ。県内一の実力を持つ強豪校、大凡商業と最後の最後まで競りながらも、一位を逃してしまった。

 恭平がコーチになってからの快挙ではあったが、インターハイは一位のみしか出場できないため、ボート部のほぼ全員がこの結果に泣き崩れたが、陽太ひとりが泣かなかった。彼こそが優勝を争った舵手付きクオドルプルの舵手であり、いちばん悔しかったはずなのに、涙に暮れる部員達に労いと励ましの言葉をかけてまわっていた。


「コーチって、高校んときから頭師の修業をしてたって、ほんとですか」
長い廊下を並んで歩いているあいだ、台車を押す陽太が訊ねてきた。裏口から駐車場にでる前に、イベント担当の学芸員に挨拶をして、入館証を返さねばならなかったのだ。

 「ほんとだ」

 「どうやって学校と修業の両立ができたんですか。当時のボート部って連日練習があったんスよね。とても信じられません」

 「俺も信じられん。一日、三、四時間しか寝ていなかったよ。授業中はずっと寝てたけどな」

 「その話、スズ姉さんに聞いたことがあります」

 「だれだい、そのひと?」

 「ミゾグチスズカって、わかりません?」

 そう言われ、溝口寿々花と漢字を思いだすのには、さして時間がかからなかった。

 「甲冑師の溝口さんの娘さんか」

 甲冑師とは端午の節句に飾る兜や甲冑を製作する職人だ。溝口寿々花は同い年で小中高と何回か、クラスがおなじになったものの、言葉を交わした記憶はあまりなかった。

 「そうです。娘とコーチの実演を見にきていたはずなんですが」あと数歩で事務室だったが、陽太は足を止め、スマホを取りだすと、何度かタップした画面を恭平にむけた。「気づきませんでした?」

 画面には実演中の恭平に話しかけてきた女の子と母親が、頰をピタリとくっつけている。高校卒業以来、二十年近く会っていなかったが、たしかに母親のほうは溝口寿々花だった。

 「そうか。甲冑師の溝口さんとこの奥さんって、幸吉さんの妹だったもんな」

 櫻田幸吉は五人きょうだいの長男で、四番目までが弟だが、十五歳下の末っ子だけが妹だった。

 「その大叔母の娘が溝口寿々花なんです。ぼくからしたら、いとこおばって言うらしいんですけど、子どもの頃からスズ姉さんって呼んでいましてね。去年の秋に離婚しちゃって」シビアな個人情報を陽太はさらりと言う。

 「モモちゃんが小学一年生になるんでって、この四月に東京からこっちに戻ってきたんです」

 「溝口さんのウチに?」

 「いえ」と陽太はほんの少し、眉間に皺を寄せた。「コーチは溝口のおじさんを知ってます?」

 「組合の寄合で話をする程度だ」

 六十代なかばで口数が少なく、酒を吞んでも変わることはない。

 「見た目は温厚そうなんですが、スズ姉さんの話では割と頑固で、口うるさいらしいんです。しかも世間体をやたら気にするほうで、スズ姉さんが離婚しただけでもブチ切れていたのに、実家に戻りたいと言ったら、出戻り娘に家の敷居を跨がせるものかと、烈火の如く怒ったそうで」

 「あの溝口さんがかい?」とても想像がつかなかった。

 「いつもは大叔母さんがあいだに入って取りなせば、どうにかなるところを、今回ばかりはどうしても許してくれない。だからウチの近所にアパートを借りて暮らしています」

 今朝、ボート部の練習にいこうと家をでると、陽太は娘のモモを連れて歩く溝口寿々花とばったりでくわし、せっかくの日曜だからでかけようと思うのだが、どこかいいところはないかと訊かれ、陽太は人形博物館を勧めた。

 「最初は乗り気じゃなかったのに、コーチが人形づくりの実演をしているって話をしたら、だったらいってみようかしらって。じつはスズ姉さん、インターハイの県予選に、モモちゃんと応援にきてたんですよ。そんとき、おわってからコーチと会って話すつもりだったのが、ウチらボート部みんな泣き崩れちゃって、大変だったじゃないですか。だから遠慮したそうです。でもスズ姉さん、今日もコーチとまともに会話しなかったみたいですね」


「イッテーアリテ、イチニンナシッ、イッテーアリテ、イチニンナシッ、イッテーアリテ、イチニンナシッ」

 掛け声をかけながら、恭平はローイングマシンを漕いでいた。ボートの動きを地上でも再現し、トレーニングできるマシンだ。ネットで目にした記事に寄れば、紀元前四世紀のギリシアで、海軍の兵隊が訓練に使うために開発されたのがはじまりだという。

 座面に座ったら、ワイヤーに繫がったバーを握り、すねが垂直になるまで膝を曲げ、そこから足を伸ばし、上体をうしろに運んで、腕を胸まで引っ張る。このとき背中の肩甲骨が中心に寄った状態でなければならない。そしてゆっくり前に戻る。これで一回だ。

 午後五時には博物館から自宅に戻ってきた。敷地面積百二十坪に、二階建てで住まい兼事務所の一軒家と、人形の頭を製作するための工房が並んで建っていた。

 ひとりで住むにはあまりに広過ぎて、寂しくてたまらない。ならばさっさとイイひとを見つけて身を固めろと、職人達に責め立てられるので、ぜったい人前では酔っていても口にしなかった。帰宅してすぐTシャツと七分丈のパンツに着替え、二階の自室に置いてあるローイングマシンを漕ぎはじめた。

 五年前、鐘撞高校のコーチをやると決まったとき、恭平は身長が百七十五センチ、体重が九十キロ弱で、ブヨブヨの身体だった。試しに家の近所をジョギングしてみたところ、瞬く間に息があがり、一キロ足らずでギブしてしまった。教える側の人間がこれではマズいと思い、このローイングマシンを通販で購入した。十五万円もした代物で、これだけ高ければ無駄にするまいと、奮発したのである。それが功を奏して朝晩かかさず最低でも三十秒六セットおこない、この五年間で十五キロも体重を落とすことができた。身体は引き締まり、お腹はキレイに六つに割れたとて、見せる相手がいなかった。

 「イッテーアリテ、イチニンナシッ、イッテーアリテ、イチニンナシッ、イッテーアリテ、イチニンナシッ」

 いま思えば高校三年間が、いわゆるモテ期だった。なにしろボート部見たさに、練習をおこなう曳抜川の河川敷には、おなじ鐘撞高校のみならず、よその高校からも大勢の女子が押し寄せてきた。ラブレターは山ほどもらったし、週にひとりはだれかしらに告白されていた。バレンタインデーのチョコは段ボール箱三箱にもなり、社員や職人に配ってよろこばれたものだ。

 なのに高校三年間、だれともつきあわなかった。いまの自分はボートのことしか考えられないとか、ボート以外にも家業を継ぐために修業をしているので女性とつきあう余裕がないとか、すべてお断りしてしまったのである。

 あの中のだれかと交際していれば、二十代で結婚できたかもしれない。実際、高校からつきあいはじめ、結婚に至ったその頃のボート部員は何人もいる。挙式に呼ばれ、祝辞を言わされたことまであった。

 あいつら、ウマいことやりやがって。

 恭平にはじめてカノジョができたのは二十一歳だ。当時まだツルんで遊んでいたボート部の同輩に誘われ、看護師との合コンに参加した。そのときに知りあった同い年のカノジョは、三年ほどつきあったものの、お互い仕事が忙しくなり、会う時間が減るにつれ、心も離れていき、合意の上で別れることになった。

 カノジョなんていつでもデキると当時は思っていた。ところが父が亡くなって、会社を継ぎ、あたふたしているうちに、気づいたら三十歳を越えていた。すると社内外から、いつ結婚をするのだ、相手はいないのか、そろそろ世継ぎをと言われるようになった。見合いの話も舞いこんできて、何人か会ったこともある。ところがいずれも、むこうから断られ、ついに三十七歳になってしまった。

 「イッテーアリテ、イチニンナシッ、イッテーアリテ、イチニンナシッ、イッテーアリテ、イチニンナシッ」

 この掛け声は鐘撞高校ボート部伝統のものだ。だれがいつはじめたかはわからない。一艇ありて一人なし。

 ボートは複数で漕ぐ場合、漕手ひとりひとりがどれだけ力を入れて漕いでも、みんなの息があわないと、バランスは崩れ、まっすぐには進まず、速度がでない。自分の力を十二分に発揮しながらも、チームの一員である意識を持ち、そのチームに貢献するからこそ、さらにまた自分も活かされる。個人でもあり同時にチームでもあるのが、ボートを漕ぐことの醍醐味だと言っていい。そうした意味が、〈一艇ありて一人なし〉という言葉に表されているのだ。

 「イッテーアリテ、イチニンナシッ、イッテーアリテ、イチニンナシッ、イッテーアリテ、イチニンナシッ」

 ボート部の大会では、漕艇場のコース横に伴走路と呼ばれる整備された道がある。そこをレースに参加する各チームの監督やコーチが自転車に乗って、ボートと並走し指示を飛ばす。競漕距離はオリンピックや世界選手権、全日本選手権などは二〇〇〇メートルだが、高校生はその半分、一〇〇〇メートルだ。どの種目もである。つまりおなじ一〇〇〇メートルをコーチである恭平は、自転車で、ボートにあわせた速度で走らねばならないのだ。 

 一昨年まで鐘撞高校のボート部は、大会に出場しても、種目はわずかで、たいがい初戦敗退だったため、さほど走る必要はなかった。しかし去年からは大会で勝ち進む種目が徐々に増えた。

 それだけ恭平も自転車で走らねばならない。正直しんどいが、うれしさのほうが勝っている。そのためにも毎日、ジョギングとローイングマシンで身体を鍛えているようなものだった。

 すると恭平の脳裏に、キツネにそっくりな顔の男が浮かんできた。大凡商業の監督である。恭平より十歳は若いだろう。大凡商業のOBで高校から大学、さらに社会人とボートを漕いできたらしい。訊ねていないのに自己紹介してきたのだ。恭平が高校の三年間しかボートの経験がない話をしたところ、蔑むような目をして、鼻で笑ったのをよく覚えている。その顔がキツネにそっくりだったので、恭平は腹の中でキツネ男と呼んでいた。

 六月のなかばにあったインターハイ県予選の男子舵手付きクオドルプルで、大凡商業とトップを競りあったときだ。自らの学校のボートと並走するので、伴走路でキツネ男と抜きつ抜かれつになった。そしてゴール手前だ。

 お先ぃっ。

 そう言ってキツネ男が自分を抜いていったことが、いまでも恭平は許せなかった。

 「イッテーアリテ、イチニンナシッ、イッテーアリテ、イチニンナシッ、イッテーアリテ、イチニンナシッ」

 テーブルの上でスマホが震えている。電話だ。ちょうどノルマをおえたところだったので、ローイングマシンから下りて、手に取ると、その画面には〈ドラゴンフルーツ〉とあった。鐘撞駅前の繁華街にあるフィリピンパブで、ここからだと車で五分足らずだ。用件はわかっている。だがでないわけにはいかない。

 「シャチョー」女性の甲高い声が耳に飛びこんできた。ドラゴンフルーツのママである。二十歳そこそこで来日し、恭平が生まれた頃に店を開いたのだから、じきに還暦のはずだ。

 「宮沢さんと遊木さんがまた喧嘩はじめた。だれも止められない。早くきて」

 〈フィリピンパブ ドラゴンフルーツ〉とネオン管で書かれた看板が、ケバケバしい色を放っている。その横にあるドアを開くなり、罵りあう男達の声が耳に飛びこんできた。

 「ざけんなよ、このヤロォ」

 「ふざけてんのはあんたのほうだ、この老いぼれが」

 「おまえだって老いぼれだろ」

 「あんたより三歳若いっ」

 「だったら先輩を敬え」

 「あんたみたいなクズ、先輩なもんか」

 「クズとはなんだ、クズとは」

 間違いない。宮沢と遊木だ。いちばん奥の一卓で胸倉を摑みあっていたのだ。ふたりとも森岡人形の職人である。左側のカウンターからママが叫ぶ。

 「待ってたヨ、シャチョー。早くなんとかして」

 「申し訳ありません」

 なにやってんだか、いったい。

 宮沢勝利は恭平とおなじ頭師、遊木明は人形の衣装をつくり、着付けをする着付師である。

 分業でつくられた頭、手、冠や扇、笏や太刀といった小道具をひとつにして雛人形を完成させるのも、着付師の役割だ。宮沢は七十七歳、遊木は七十四歳、そんなふたりが摑みあいの喧嘩をしているのだから、どうかしている。

 喧嘩をふっかけるのは、専ら宮沢だった。今日もそうだろう。もともと酒癖が悪かったのが、七年前に奥さんを亡くしてから、さらに悪くなった。ひとり娘は嫁にいき、二階建ての一軒家に宮沢はひとりで暮らしており、毎晩、職人のだれかしらを吞みに誘う。吞めば宮沢が絡んでくるのはわかっている。しかし無下にはできない。ひとりで寂しいのだろうとついていってしまう。

 そしてお互い酔っ払っうと、歯止めがきかなくなり、喧嘩になる。とくに遊木がそうで、宮沢の対戦相手になる数が、他のひと達よりも抜きんでて多かった。今日などは休日だから、宮沢はわざわざ遊木のスマホに電話をかけて呼びだしたにちがいない。遊木は奥さんと三人の息子、長男の嫁に孫ふたりと大所帯だ。家族みんなが引き止めるのをふりきって、ひとりぼっちの宮沢のために、遊木は駆けつけたのだろう。それで喧嘩をしていては世話がない。

 「宮沢さんっ、遊木さんっ」テーブルを挟んで真向かいから怒鳴りつけると、ふたりは摑みあったままで、恭平を見上げた。「お互い相手から手を放して。そしたら俺が真ん中に座りますんで、あいだを開けてください」

 ふたりは不満顔ながらも、恭平に言われたとおりに動く。恭平はソファに腰を下ろし、まずは右側に座る宮沢のほうをむく。

 「今後一切喧嘩はしないって、先月に約束しましたよね、宮沢さん」

 先々月も先々々月も約束した。だが宮沢は一度も守ったことがなかった。

 「でも八代目。遊木の野郎、人形の出来はすべて着付師の腕で決まるって言ったんですよ」

 「そうは言っていない。多少、頭が不出来でも、着付師の腕でよく見せることができると言ったんだ」

 「俺がつくる頭の出来が悪いと言うのか」

 「それも言っていない。あんたはいつもひとの話を悪いほうに取る。ひがみっぽいから、そう聞こえるんだ」

 「俺のどこがひがみっぽいって言うんだ」

 そう言って遊木に摑みかかろうとする宮沢を、恭平は押しとどめた。

 「人形の善し悪しは頭で決まるんだ。着付師ごときが生意気を言うなっ」

 「ごとき? ごときとおっしゃいましたか、宮沢さん」

 「おっしゃったさ。着付けなんざ技術がなくたって、だれでもできるっつうの。それを着付師でございなんて、職人面するんじゃねぇ」

 「ふざけんな、てめえっ」

 今度は遊木が宮沢に摑みかかろうとした。そんな彼を抑えようとしたところ、宮沢もまた応戦するために右腕を伸ばす。するとその拳は、恭平の右頰にヒットした。

 「八代目っ」

 だれよりも先に声をあげたのは、とうの宮沢だ。彼にしても予想外だったのだろう。七十七歳にしては重いパンチ力だ。まともに食らった恭平は床へ倒れていった。

 「八代目になんてことするんですか」

 「俺はおまえを殴ろうとしたんだ。そこに八代目が」

 「だいじょうぶです」

 恭平はむくりと起きあがる。あまりだいじょうぶではない。殴られた右頰はじんじんと痛み、瞼を閉じれば、その裏にはチカチカと星が瞬いた。

 「どうぞ」店の子がひとり、恭平の許に駆け寄ってくるなり、冷却パックを差しだしてきた。

 「殴られたとこに当てるとイイですよ」

 少しクセはあるものの、流暢な日本語だった。クリシアという子だ。ドラゴンフルーツで二、三年は働いているはずだ。どういうわけか人形博物館で、何度か見かけたことがある。今日の昼間も、恭平の実演を見にきていた。

 「いらっしゃいませぇえ」

 女の子達の嬌声に近い声が、店内に響き渡る。客が数人、ぞろぞろと入ってきたのだ。

 「だいじょうぶ、シャチョー?」

 「お会計をお願いします」

 冷却パックを右頰に当てたまま、恭平はママに言った。


 「ニラレバ定食、お待たせぇ。どちら様ですかぁ」

 「俺だ、俺」

 そう答える宮沢の前に、店員がトレイに載ったニラレバ定食を置いた。
ドラゴンフルーツの会計はふたりで七千七百円だった。午後四時半から六時までのタイムサービスで、ひとり三千五百円に消費税十パーセントだった。

 飲み放題ではあるが、ママの話によると、頼んだのは瓶ビール二本だけ、その大半を宮沢が吞んでいたらしい。

 ドラゴンフルーツをでてから、恭平が食事に誘ったところ、遊木は家で食べますと帰っていき、宮沢とふたり、繁華街の中にある中華料理屋に入った。店先には赤地に金色の文字で〈道頓堀飯店〉とでかでかと店名が書かれた看板が掲げられ、赤い提灯がいくつも並び、窓にはひっくり返った『福』の字が貼ってある。

 森岡人形は毎年、桃の節句が明けたあと、この店で吞み会を開いていた。恭平が小学生の頃には二階の座敷も借り切って、社員のみならずその家族も訪れ、上へ下へと行き来して、それは賑やかなものだった。大人達が酒盛りをしているあいだ、社員の子ども達とボードゲームやトランプ、鬼ごっこやかくれんぼをして遊び、楽しかった記憶がいまだ残っている。

 あんなに盛りあがることは二度とないだろうな。

 恭平はぼんやり思う。自分が社長を引き継いだときからは二階を借りずに済んでいる。一階でテーブルが四つもあればじゅうぶん事足りた。家族で訪れるのは、いまや遊木家くらいなものである。

 そもそも社長の俺に家族がいないし。

 「八代目、ビール、吞みません?」

 恭平は宮沢を軽く睨んだ。右頰は冷却パックを当てていたが、溶けて柔らかくなり、頰の痛みも引いていた。

 「俺、車なんで。宮沢さんだって吞み過ぎないほうがいいですよ。もっと身体に気を遣ってください」

 森岡人形では職人達に毎年、健康診断にいってもらっている。高齢になり、いよいよ自分の身体が心配になったせいか、ここ数年は社長の恭平が促さずとも、自ら進んでいく。そんな中、宮沢は一度もいったことがない。もともと病院嫌いで、自分の身体は自分がいちばんよくわかっていると言い張るのだ。

 「小瓶一本だけでいいんで」宮沢はねだるように言う。そこにちょうど店員が恭平の餃子定食を運んできたので、ビールの小瓶を一本頼み、グラスは一個でいいとも言った。

 「一本だけですよ」

 恭平は念を押してから、冷却パックを置いて、餃子定食を食べはじめた。
「おっと、そうだ」宮沢は箸を置くと、床に置いたバッグを開け、キレイな紙に包まれた平べったい箱を取りだした。「明日、工房に持っていくの忘れたら面倒なんで、いまのうちに八代目にお渡ししておきます。加山雄三ミュージアムで買ってきた土産です」

 宮沢が加山雄三のファンだなんて聞いたことがない。どういうことだと思っていると、彼はニラレバをパクつきながら話しはじめた。

 「先週のなかばに舞から電話がありましてね。盆と正月に鐘撞に戻ってくるだけなのが、いきなり会って話したいことがあると言うんで、ならば俺のほうから西伊豆へいくといったんです」

 舞は宮沢のひとり娘である。恭平よりも三歳年下で、子どもの頃にはよく連れ立って遊んでいた。恭平を恭平兄さんと呼び、活発な子で、いつもどこかに擦り傷をつくっていたものだ。舞の結婚披露宴には恭平も出席した。社長になったばかりなので十年くらい前か。会場は目黒雅叙園だった。白無垢に身を包んだその姿を見て、恭平ですら目頭が熱くなったものだ。新婦の父親でありながら、宮沢は披露宴なかばで酔い潰れてしまい、会場のスタッフに別室へ運ばれていったのを、はっきりと覚えている。

 旦那は舞と同い年だが、ベビーフェイスで若いというよりも青臭く見えた。名前はタカシだかヒロシだったはずだ。目黒区に本店を構える信用金庫に勤めていたが、二年前に脱サラをして、西伊豆にサーフィンショップをだし、夫婦で引っ越したのだ。宮沢から聞いたのではない。舞からの年賀状で知ったのである。自分達の店をバックに夫婦並んだ写真がプリントされていたのだ。店の名前は『ビッグ・ウェンズデー』といい、初心者むけのスクールも兼ねており、舞もスタッフの一員として働いている旨が綴られていた。恭平兄さんもぜひサーフィンを習いにきてね、とも書いてあった。その住所はたしかに西伊豆のあたりだった。

 「昨日の夕方にいって、娘んとこに一泊しましてね。今朝、話のタネにと娘夫婦にそこへ連れていかれたんです」

 小瓶のビールとグラスが運ばれてきた。宮沢が持つグラスに、恭平はビールを注ぐ。

 「舞さんの話って、なんだったんですか」

 「西伊豆で暮らさないかと言われました」

 「いまのウチはどうするんです? 頭師の仕事だってあるじゃないですか」

 「俺もそう言いましたよ。そしたら舞のヤツ、家と土地は売ればいいし、お父さんもイイ歳なんだから、このへんで引退したらどうかって」

 森岡人形にいる頭師は宮沢に恭平、そしてあとひとり、峰市三郎の三人だけだ。宮沢が欠けたら、ふたりでやっていかねばならない。峰も今年で七十歳だ。このままでは恭平ひとりきりになってしまう。いったいどうすればいいのだろうと考えていたところだ。

 「娘夫婦はウチを売った金と、俺の退職金を当てにしているのでしょう。口にはださないが、暮らしぶりを見ればわかります。サーフィンの店も閑古鳥が鳴いていましたからね。だいたいイイ歳だから引退しろとはなんだ。俺の腕はまだ衰えちゃいない。職人っていうのは、いくつになってもより高みを目指していかねばならない、職人は生涯、職人なんだぞって」

 「舞さんにそうおっしゃったんですか」

 「喉のここまで」宮沢は喉仏のあたりを指差した。「でかかったんです。そしたら舞のヤツ、結婚十年目にして、ようやく子宝に恵まれたって言いましてね。来年の春には生まれるんです。初孫ですよ、初孫」

 「よかったじゃないですか。おめでとうございます」

 「ありがとうございます」宮沢は俄に相好を崩した。「その話を聞いたら、心が揺らぎまして、引退して孫と暮らすのも悪くないとも思ったんですよ。だけど俺がいなくなったら、八代目はお困りでしょ?」

 「いや、まあ、それは」

 恭平は口ごもった。否定はできない。宮沢がいなくなるのは困る。だからといって肯定もしづらかった。引退をして孫と暮らすのが、宮沢にとっての幸せに思えたからだ。

 「舞にはしばらく考えさせてくれと言っておきました」

 宮沢はグラスのビールを一気に吞み干す。そして皿に残ったニラレバを、茶碗のメシにかけ、かっこんでいく。かと思うと途中で箸を止め、呟くように言った。

 「遊木が羨ましいですよ。家に帰れば灯りが点いていて、食卓を囲んでメシを食う家族がいる。じつはさっき喧嘩したのも、人形の出来云々の話の前に、あの野郎が携帯電話で、孫ふたりの写真を店の子に見せていたのが許せなかったんです。俺への当てつけに思えて」

 「考え過ぎですよ」

 「わかってますけどね。すみません、もうだれとも喧嘩しません。酒も控えます」

 それからまた、宮沢は箸を動かした。


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