Somewhereな写真のことばかり
どうも、神山です。
今年読んだ本で印象に残っている、「新写真論」と「遅いインターネット」のことを考えています。年の瀬ですし、そろそろ考えていることをアウトプットして、いったん終わりにした方がいいような気がするので、ざくざくと書いていきます。
ここまでのあらすじ①遅いインターネット(文化の四象限について)
ここまでのあらすじ②新写真論について(人間を信じているということ)
「遅いインターネット」は世界の観測を上滑りしたものにならないように、非日常や他人に振り回されすぎず、自分の日常のなかで生きていくため、速くなりすぎたインターネットでの生きていく術として、文章を丁寧に読み、読みながら書き、噛み砕いていけるようになろう、という本として読みました。
一方、「新写真論」はスマホによる撮影の自動化、簡略化により、誰もがよい写真を撮れるようになっていく、そもそも経験をシェアする、というものが現代の写真のメインの需要であるなら尚更「そこにいる」ことが(さらに先に進めば、そこにいなくても、ですが)、写真の生成に必要な行為となっていく、という本と感じました。
写真を撮るということについて、文化の四象限(『遅いインターネット』より)に当て嵌めたとき、写真/撮影はどこにでも入り込めてしまう。
第1象限:他人の物語×非日常の体験
第2象限:他人の物語×日常の体験
第3象限:自分の物語×日常の体験
第4象限:自分の物語×非日常の体験
撮影行為そのものは「自分の物語」にあり、カメラあるいはスマートフォンを使うという体験は「日常の体験」であり、第3象限に立っているといえるでしょう。しかし、その撮影する空間は日常とは限りませんし、被写体については「他人・他者」である(自身が写真のなかには存在しない)ことも多々。つまり、写真撮影は『遅いインターネット』が目的としている、第3象限の強化に寄与するはずです。しかし、技術躍進とSNSとの組み合わせにより、むしろそれ以外の象限の強化につながっているのが、現代のスマホ×SNS×写真で生成されるモノなのです。
もちろん、それぞれが正反対な本というわけではないのですが、ざっくりとまとめてしまうと「新写真論」的な世界観のうえでは、おそらく文章についてもAIが添削し、生成してくれるようになり、人間はもっと速くインターネットと生きていけるようになる。「遅いインターネット」的な世界観のうえでは、もっと人間の手に写真撮影を取り戻す、よい写真を判断できる目を養い、自らの意志でよい写真/瞬間を撮れるようになる。ある瞬間に対して反射的にシェアまでもっていく「新写真」的な感覚と、反射を堪えて情報を蓄積し、練り上げていく「遅いインターネット」的な感覚のちがいがあると思います。
noteで文章を書いているということはどちらかといえば、「遅いインターネット」的試み(勿論、PLANETS CLUBに入って訓練しているわけではないですが…)です。又、僕がしている写真撮影が「新写真」的かといわれると、こちらも「遅い写真」という感じがあります。
私が使っているカメラの話をしましょう。現在使用している以下の4つ(自身の肉体を除く)。
①EOS 8000D:メインの一眼レフ機。
②SIGMA dp1 Quattro:サブのコンデジ。foveonセンサー機。
③SIGMA fp:次期メイン機。初のフルサイズセンサー機・ミラーレス機
④HTC 10 :スマホ。そろそろ買い換えたい。
「新写真論」にてメインで語られる写真は「シェアされる写真」であり、スマートフォンが現代の主たるカメラとされています。僕が持っているなかで、そういった写真を簡単に生成できるのはもちろん④と①になります。①はWi-Fi通信機能があり、撮った写真を即座にスマホにダウンロード→SNSなどでシェア、が可能となっています。
②③のSIGMA機については、重量こそ①より全然軽いものの、挙動や機能などについてはまったくもって「スマート」でないし、「速く」ない。前述した①とは違って、Wi-Fiとも接続していないし、書き込みの速さも①の方がいいように感じる。なんなら、②はすぐオーバーヒートするので、こいつ1台で延々とパシャパシャはできない。SIGMA機が便利でないことについては、いまさら僕が語っても仕方ないくらい、様々な記事やコメント、ツイートが流れているので、ここではあまり突っ込んで記しませんが、他社のデジカメやスマートフォンとは全然異なる思想を持った機器でありメーカーだな、と感じます。でも、おそらく春以降は、この2台をメインとして写真を撮っていくでしょう。
僕個人の話ではなく、一般的な話に戻すと、チェキや使い捨てカメラなど一回性に縛られたインスタントカメラや、オールドレンズや中華サードパーティ製の安価なマニュアルレンズなど、操作がオートでない、カメラ本体の能力をフルに活用できないようなモノが流行り始めていると思っています。
機器の挙動や機能がスマートでないこと、すなわち「バズる」「盛れてる」「エモい」みたいな触感に撮影行為が直結しておらず、シャッターを押す、画像が生成される、デバイスに読み取る、SNSなどにアップロードする、といった行為の前後に時間があること。反射ではなく、意思によってさまざまな検討をする余地があります。この余地によって、よりよい写真撮影とはなにか、ということに触れられる気がします。
そういった「遅い写真」の存在を意識しながら、日々SNSに流れていく「速い写真」をタップして/させている。そんなことを考えた2020年下半期でした。
ではでは。
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