クイズ思考の調理法
私のことは嫌いでも、クイズのことは嫌いにならないでください。どうも、神山です。
10月末こと11月6日に実施した『クイズ思考の解体/伊沢拓司』読書会、参加人数は少数で、会場も普段とは違うという状況でしたが、結果としてこれまでの読書会で取り扱った対象とも呼応する、今年ベストな読書会となりました。読書会本を出した翌月にやった内容として完璧!その感想をつらつら並べるのはTwitterでやりましたので、それを基に批評っぽい文章を書いていこうかと思います。
クイズ思考の調理法
・クイズとはなにか
クイズとは何か。QuizKnock代表であるクイズプレイヤー・伊沢拓司は『クイズ思考の解体』でクイズについて、次のような共通項を述べている。
伊沢が本書で試みていることは、天才的なクイズプレイヤーがマジック的に展開する解答にはそこに至るロジックがあり、それは特権的なものではないと提示することである。QuizKnockでの活動や東大王は、もちろん伊沢だけの力では成り立っていないものの、そういった思考をもとにしたムーブメントを形成している。では、マジックからロジックに焦点を移したときクイズは、またクイズ以外はどのように捉えることができるのだろうか。
そもそも一口に「クイズ」と言っても、テレビでのクイズ番組もあれば、クイズプレーヤーが集まって開催される大会もあり、友人との会話のなかで出てくるクイズなどレクリエーションの一環としてのクイズも存在する。個別の問題だけではなく、それが取り入れられたゲーム全体の名前も、それらが行われる文化までを包括した単語として「クイズ」である、という旨を伊沢は述べている。『クイズ思考の解体』では、総論や歴史の検討でこそ広義のクイズを用いているが、各論については概ね「早押しを想定した単文のクイズ問題」と「競技クイズ大会におけるクイズ」、テレビなどのメディアにて行われていない「アマチュアクイズ文化」といった個別のクイズ文化に対象を絞り語られている。
以降本稿では「クイズ」という単語について、広範なクイズ文化ではなく、「個別の単文クイズにおける問題」を指すこととする。この場合の「個別の単文クイズにおける問題」としてのクイズとはどういったものだろうか。まずは前述のクイズの共通項から「論理的に解答へ至ることができる」を採用する。また『クイズ思考の解体』Chapter2「早押しクイズの解体」における問題文の構造解析において、最終的に出題者が想定した一つの回答に至れるように調整されている問題文が進むほど回答選択肢が狭まっていく=デクレッシェンドする、ことを採用する。そして前述した「個別の単文クイズにおける問題」を「2要件を満たすもの」と言い換え「クイズ」とすることができる。まとめよう。
以上が、『クイズ思考の解体』から再構成されるミニマムなクイズの定義である。この定義を用いて、他のコンテンツについて検討していく。いわば「クイズ思考による解体」である。
・クイズと試験問題
クイズと似ているもの、問いがあり、知識を運用するということを念頭に入れて思いつくものの一つは勉強だろう。勉強において、答えが一つになるように作られているものといえば、試験である。試験はクイズと似ているのだろうか。いくつか具体的な試験における問題を参照してみよう。
これらはセンター試験に実際に使われた問題である。それぞれの問題文は論理的に解答へ至ることができる。できなければ、そもそも同一の基準で採点できず、公平に試験結果を比較することができない。したがって、クイズの要件①は満たしている。では要件②、伊沢のいうところのデクレッシェンドはどうだろうか。問題を前半部のみ・後半部・全体と区別しても、全ての選択肢を検討することで解答できる構造であることが多く、問題文が進むほどに選択肢の剪定は進まない。社会科や理科の用語を問う問題など解答となる単語がクイズと似通ったものであっても、問題の構造はあまり似ていない。では試験よりもクイズに似ているものは何だろうか。答えを得るために問題が出されるという構造を持つものとしては謎解きやミステリーが思いつくだろう。その他に身近な例を考えたところ、ひとつ思いつくことができた。「レシピ」である。
・クイズとレシピ
次のレシピは、樋口直哉による「最高のおにぎりの作り方」である。
レシピはその手順に従えば料理が出来上がるのだから、クイズの要件①を満たす。そして、要件②についても「お米と塩をつかう」「水分を飛ばす」「にぎる」というように、手順が進むほど完成に近づく。レシピの書き方はミニマムなクイズの定義を満たしている。答え=料理だけを見ては、どうやって作られたのかはわからない。レシピの最初だけでは、何を作ろうとしているのわからない。工場見学クイズなどが成立するのは、同様の構造があるからだろう。
先のレシピを問題文風にアレンジすると、次のようになる。
この問題文に従って、実際に手を動かしてもおにぎりができるだろう。それは、クイズの形をしていながらも、レシピであり続けているということである。このように、実は試験よりもレシピの方がクイズに近いのだ。
・クイズと謎解き
では、クイズにより近いと考えられる謎解きやミステリーはどこがクイズと似ており、何が似ていないのだろうか。その類似あるいは相違から何を述べることが可能なのだろうか。
クイズと謎解きについて。ここにおける謎解きはいわゆるクロスワードパズルや数独のようなパズルから、なぞなぞ、間違い探し、マッチ棒問題、合体漢字などのひとつひとつバラバラな問題について検討する。リアル脱出ゲームや人狼なども謎解きの一種かもしれないが、ひとまずここではそういった複数の手番や要素によるゲーム全体を指したものではなく、「単問のクイズ」と同様の範疇で語るために「単問の謎解き」を採用するということだ。
このとき謎解きはたとえひらめき問題と言われていても、解説などで納得や理解される必要があることから、論理的に解答へ至ることができるだろう。すなわち要件①を満たしている。ヒントという形で解答への導線が引かれることはあれども、問題全体がそのままの場合、特段解答への選択肢は狭まらない。すなわち要件②は満たしていない。しかし、回答者は試行錯誤することで謎を解くことができる。なぜならば、回答者自らがデクレッシェンドしているからである。
ひらめき問題における「ひらめき」とはこれまでの経験(演習)から様々に問題を読み替え、試行し、答えに至らない方法を削っていくこと、と言い換えることができる。クイズも謎解きも、解けるようになるためには理屈だけでなく演習によるパターンの叩き込みが必要。謎解きはひらめきによるものであり、知識や暗記と対置されることも多いが、そんなことはないのだ。逆にクイズについてもすべてを暗記しているわけではなく、ベタ問=セオリー問題など、重点的に対策することで問題文の部分だけで反射的に答えられる問題は多いとされている。
謎解きとクイズの相違点と共通点について、古川洋平は『ユリイカ・特集クイズの世界』にて次のように述べている。
これは古川がクイズ法人カプリティオの代表であり、サプライヤー側としてクイズ(イベント)や謎解き(イベント)を提供することによる視点である。前述の個別単問ごとについてのクイズや謎解きとは異なるが、単問レベルでのデクレッシェンドを仕掛ける主体によって、ゲーム全体がスポーツ(競争)的になるか、レクリエーション(協力)的になるかが変わると言えるかもしれない。
・クイズと本格ミステリ
ミステリー、特に作者から読者へ問いかけが行われる本格ミステリと呼ばれるジャンルについて、クイズ・謎解きと比較してみる。本格ミステリにおける「問題」はいわゆる読者への挑戦状というものである。読者への挑戦状とは、小説をいわゆる「問題編」「解決編」と分けたときの中間に挟まれるもので、物語の流れが中断され、あるいは登場人物が、あるいは作者が読者に向けて「ここまでの物語において、提示されている謎を解くための情報は出揃った。読者も作中の探偵の通りの謎解きをしてみせろ」といったものであり、雑誌掲載などにおいては言い当てた読者に賞金を与えるといった懸賞クイズ的な使われ方をすることもある。
本格ミステリにおける読者への挑戦の問題文それ自体は、試験問題に近く、これだけを読んでもデクレッシェンドは与えられないし、読者がデクレッシェンドすることもできない。但し、問題編含めて問題文と捉えるのであれば、作者によるデクレッシェンドは発生している。ワトソン役がホームズに対して解答とは異なる答案を提出し、却下されるとか、物語前半における容疑者に後半に強固なアリバイが発生し犯人たり得ないと判明するとということである。このデクレッシェンドはクイズほどホスピタリティに溢れていない。クイズは「正解される」意識のもとで作問される、と伊沢は『クイズ思考の解体』Chapter4「クイズと作問」で述べるが、本格ミステリにおいてすべてが読者にあからさまになるような書き方がされることは稀であろう。理論的に解くことは可能であるが、誰もが解けるような動線を置くことではない。それに対抗するため(挑戦状を受ける)読者は、自らデクレッシェンドを試みながら答案を作成する。つまり、本格ミステリは読者への挑戦のみを取り出すと試験問題に、読者への挑戦と問題編の組み合わせであれば、クイズであり謎解きに似ている、ということである。
本格ミステリはクイズや謎解きと異なる点として、物語が存在していることを挙げられる。物語をもつような形でのクイズや謎解き、即ち複数の単問クイズ・謎解きから成立する大会やイベントあるいはゲームは、本格ミステリと似ているのだろうか。物語の上でのクイズについて物語評論家・さやわかは『答えは人生を変えない』(『世界を物語として生きるために』所収・初出は前述の『ユリイカ クイズの世界』)において、次のように述べている。
引用の前半部は批評の序盤にあたり、ゲームの登場人物の物語とプレイヤーが答える問題に世界観レベルで重なりがないことを提示している。そのうえで後半部=批評の終盤は、問題に答えることと物語が展開することがまったく断絶しているにも関わらず、何故か接続してしまうとプレイヤーが錯覚し、感動を覚えることを指摘する。ここでさやわかは特にコンピュータゲームにおけるクイズについて述べているが、これは現実の競技クイズ大会やリアル脱出ゲームのような謎解きゲームでも起こりうる。
第31回高校生クイズの優勝を決めた最後の問題が「明治時代 第一高等学校在籍中は 二塁手として活躍 英語の「ベースボール」を「野球」と訳したのは誰?」であることは、灘高校と開成高校が一点差で競り合っている状況や、優勝を決める可能性がある状況とは全く関係がなく、問題順により偶然そうなってしまったものであるし、殺人事件を解決することがテーマのリアル脱出ゲームにも関わらず、絵合わせパズルやしりとりを提示されることは、そのテーマと合致していない。けれども、参加者あるいは観戦者はその一問に一喜一憂し、感動すらするのである。
一方、本格ミステリにおいて発生する事件や、解決の糸口となる情報は物語の流れに従って作者から提示され、読者が拾い上げていくことになる。つまり、情報の埋め込まれ方が本格ミステリとクイズ・謎解きは異なるのである。この埋め込まれ方の違いは、答えと論理性の扱いにも表れる。(単問の)クイズや謎解きは、直観的に思いついた答えが、用意された答えと合致していれば正解となるが、本格ミステリにおいてはそうではない。物語に情報が埋め込まれていることにより、答えだけではなく答えに至る論理自体も正誤判定の対象となることが多い。
・クイズの論理と倫理
さて、クイズ・謎解き・ミステリーの類似と相違について検討してきた。もちろん前提として理由(セオリーを知っているか、クイズの演習を積んでいるか、など)があるが、一問一答としてのクイズや謎解きは答えがあっていればよいし、本格ミステリは答えだけではなく理由の提示が必要である。前者はロジックが欠けていても正解となってしまうことから、マジック的な演出と相性がよく、クイズ王や天才といった想像上の存在をつくりやすい。ここにおいて伊沢の試みはクイズの答えに至るロジックの部分に着目させることであり、QuizKnockでの活動や東大王の構成は純粋なマジックを解体しロジックの部分を見せても尚、エンターテインメントなりえることを証明しつつある。
もちろんフルコースを楽しむとき、スーパープレイを楽しむとき、あるいはサスペンスフルな解決シーンを楽しむとき、時にロジックが表面的には不在でもいい。しかし、ロジックに裏打ちされていることを知っている方が、マジシャンとしてクイズプレイヤーを認識するよりも、倫理的にクイズを楽しむことができる。複数の確率論が躍る複雑系のなかではあれ、どんな問題がウイニングアンサーを誘発しようとも、クイズプレイヤーが勝利できるという結果は、やはりプレイヤーの信じるロジックに駆動されているのだから。
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余談
というのが、読書会の内容を踏まえたうえでの『クイズ思考の解体』の自分なりの調理法でした。余談としては、ミステリの考え方を物語ではなく現実に持ち込むと陰謀論になってしまうことや、フィクションながらその整合をメタに取ろうとすると後期クイーン問題(AIにおけるフレーム問題、クイズにおける「ですが?を無限に重ねられる」問題)となったり、『涼宮ハルヒの直観』的な想像力の介入や、『文学少女対数学少女』のような作者の絶対性の顕現などに足を突っ込むこととなるな、など。日常の謎と呼ばれるジャンルや、名探偵が出した答え=マジックの論理=ロジックをワトソンがトレースして謎解きを開陳するといった作品も多くあり、何故謎を解くのか?というトレンドのうえに、伊沢さんの「マジックからロジックへ」は接続できるのではないだろうか、と考えたりもしました。読書会に参加していただいたみなさん、ありがとうございました。
ではでは。
2022年10月、SF作家・小川哲が、クイズ小説を発刊しました。クイズでありながら、ミステリでもある作品で、デクレッシェンドの話などを前提に読むとより一層楽しめると思います。もちろん、参考書籍として『クイズ思考の解体』が挙げられています。
以下、関連図書など
「ですが?を無限に重ねられる」問題
何故日常の謎を解くのか?
ロジックをワトソンが説き直すミステリ