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(Re:)死にゆく世界に生きるということ

・はじめに

作家・思想家である東浩紀は「震災でぼくたちはばらばらになってしまった」と、自らが編集をした雑誌「思想地図β vol.2―震災以後」の巻頭言で言葉にした。「ばらばらになる」が示しているのは「意味を失い、物語を失い、確率的な存在になってしまった」ということである。これは東日本大震災があった故に「ばらばらになった」ことを指しているのではない。日本の半分以上に被害が及ぶ巨大な災禍によって、人間が「確率的存在=モノとしての存在」であることを思い出したということを意味しているのである。

その災禍から2年半以上経過して、我々は思い出したことを再び忘れ始めているのではないだろうか。物理的被害に遭った地区に今もなお住む/住んでいた人々は(現実としてそれらが横たわっている故に)忘れることはできないだろう。しかし、それらの土地に直接関係をもたない(もしくは意識的に避けている)人々の記憶は段々と風化しているのではないだろうか、また現実とは違う物語が上書きされてはいないだろうか。そういった「ばらばら」な現実に生きる私たちは今、どのように生きればいいのだろうか。

本論考は三部構成である。第一部は作家・清涼院流水によって曝されてしまった「剥き出しの命/世界」と、そこで生きる人々について。第二部はアイドルグループ・AKB48のシステムが顕現させてしまった事象について。第三部は二つのテーマをまとめ、人々がどのようにして生きていくべきかを考える。第一部と第二部はどちらが先行ということはなく、平行したものと考えてもらって差し支えはない。

この文章が「確率的/物理的に災禍=絶望から逃げられる人と逃げられない人がいるという現実を乗り越えてなお存在できる連帯」に近付くための目印として残ることを祈る。

・「清涼院流水」

清涼院流水は、1996年『コズミック 世紀末探偵神話』(講談社ノベルス)で第二回メフィスト賞を受賞しデビューした作家である。彼は自らの作品を「個人の物語を記述する」小説に対して「世界そのものを記述する」大説と名付け、自らを大説家と称している。広義のミステリ(謎)を扱う作家で、既存のジャンルに拘らない作品を世に送り出している。
※現在では英語学習やキリスト教など、フィクションの世界からビジネス書に近い著書を送り出している。流水大説とは本来そういう性質のものであるということは、どこかで述べたいと思う。

本稿では主として清涼院の処女作『コズミック』から始まる、推理小説の体裁をとりながらも、謎を論理的に解明するという推理小説の核となる構造の放棄や、大量の探偵(例:350人の探偵を抱える組織JDC)と尋常ではない規模の事件(例:1200の密室殺人や全人類殺人計画)を扱っている他に類を見ない作品群である、JDCシリーズを扱う。

何故彼を本論考のテーマとしてとりあげるのか。それは、彼が東日本大震災以前に想定外の災禍―具体的には阪神淡路大震災―を経験したことによって、作品群を生み出したからである。そのことについて彼は、自身について書いた作品『清涼院流水の小説作法』で次のように述べている。

6000人を超える(しかも何人もの知人を含む)震災の死者の山を目の当たりにしたぼくにとって、12の事件でさえ[引用者注:コズミックは初期の構想では12の密室殺人であった]、もはやリアリティが感じられませんでした。(中略)ぼくが1200の密室殺人を扱う決意をしたのは、そのくらい深い大震災の絶望―この世界の闇―と向き合うためでした。

『コズミック』では殆どの章で死人が出たことが記述される。前半部では一人一人細かな描写で殺されるまでが描かれるが、後半部では淡々と死者が報告されていくだけとなる。東浩紀が「ばらばらになってしまった」と表現したように、清涼院流水は阪神淡路大震災で「この世の中は、何が起きてもおかしくない」 「人間は、いつ死んでもおかしくない」そう気付いてしまった。

しかし、1200の密室殺人のような大きな事件を描いてもなお、自らの感じた絶望を描ききれなかったと思った彼は、全世界規模で大量殺人事件―犯罪オリンピック―が起こる『カーニバル三部作』(講談社ノベルス)を紡いだ。この作品は今までの彼の作品よりもさらに推理小説という枠組みから外れていたため、荒唐無稽で支離滅裂な作品だと評価され、多くの人に嘲笑されていたようだ。しかし、その評価は2001年9月11日の、いわゆる米国同時多発テロによって一変する。彼の描いた絶望―嘲笑の対象とされた絶望―が、現実に起こってしまったのだ。テロリストに似た組織による大量虐殺や廃墟と化すニューヨークなどは既に一度、『カーニバル』に描かれていたのである。これにより彼は(結果的に)自ら直面した世界の闇を描くことに成功してしまった。それでもなお、彼は深い絶望を扱う作品を作り続ける。そうすることで読者に警鐘を鳴らし続けているのだ。

清涼院流水は多くの作品で「世界」に直接結合する「事件=謎」を扱っている。孤島や山荘など既存の推理小説で扱われてきた閉鎖空間とは一線を画す巨大な箱の中ではすべての人類が当事者となってしまう。事件の起こらない世界から観測していた自分たちが当事者となってしまうことによって、確率的な存在であるということを忘れていた人々は目を醒ましてしまう。自分たちはヒトではなくモノにすぎないと気付いてしまう。故に人々は突然、災禍の対象となってしまうのだ。彼はデビュー当時からそのことについて自覚的である。そうして彼は人の命や世界の在り様というものを剥き出しのまま読者に曝してしまった。

では、その剥き出しの世界で生きる人間たちはどのように描かれているのか。JDCシリーズにおける探偵について考えるとしよう。

JDC(日本探偵倶楽部という巨大な探偵事務所)に所属する探偵には法務省からブルーIDカードという犯罪捜査許可証を与えられる。これは従来の推理小説では暗黙の了解だった「探偵の刑事捜査への介入」を司法や行政が既に認めている状態だと考えて差し支えない。そのようなシステムが構築されることで、多種多様な探偵(例:「集中考疑」という推理法を用いる鴉城蒼司や「傾奇推理」と呼ばれるアナグラムや暗号(合)解読などを用いた推理法を行う龍宮城之介、必要な情報が全て集まると真相に至る「神通理気」を行う九十九十九など) が「同時に」現れる。何故、清涼院流水はこれら多くの個性的な探偵を生み出したのであろうか。単純な回答としては「相手が巨大な謎だから」であろう。
※※さやわかは、この探偵法の先に鬼殺隊におけるXの呼吸がある、と指摘している(方法を問わず謎を解く=方法を問わず鬼を殺す)

また、推理(探偵)小説・ミステリと呼ばれるジャンルに属する作品が氾濫し、探偵と事件が、所謂「新本格ミステリ」以降のミステリ作品の増加や大衆文学としての推理小説の流行によって、虚構の日本(世界)にひしめいていることを暗示しているのかもしれない。しかし、前述したように彼の作品を「命を剥き出しにしてしまう/人を確率的存在として置いてしまう」と捉えたとき、彼らはどんな意味を持つのだろうか。事件による人々の死が確率的なものだということは、即ちその死・命自体に特別な意味付けはないということである。そう考えたとき、彼の世界の探偵たちは「探偵する」ということにおいてのみ、特別な存在となれるのではないだろうか。

ここで留意するべきことは、あくまで「探偵する」から「特別」なのであって、命それ自体としては他の人々と変わらない(故に数人の探偵は事件に巻き込まれ命を落としている)。探偵が事件の外部装置(犯人の想定外の存在)として組み込まれる多くの推理小説の世界とは違い、既に全人類規模の謎が相手である以上、探偵は特別でありながら、周りの人と同じ確率的存在に過ぎないのだ。

清涼院流水はJDCというシステムによって、確率的存在である人間―モノとしての人間―であるにも関わらず、探偵することによって謎に向かい生きる人間―主体性を保とうと足掻くヒト―を描こうとしたのではないだろうか。自らがモノであるということを認識し、それでもなおヒトとして謎を解こうとする探偵たちを。

・「AKB48」

 AKB48は情報化した社会の中、握手会や劇場での公演など、ファンが実際にアイドルと直接関係性を築けるシステムと、TwitterやGoogle+などのSNS(ソーシャルネットワークサービス)を用いて仮想的な関係性を築けるシステムの二つが活用され、テレビという既存の大きな媒体を介さずともファンがメンバーと接することが可能となったアイドルの代表的存在である。彼女たちが組み込まれている(新世代の?)システムは何を生み出しつつあるのだろうか。

仮想的な関係性、例えばSNSに投稿されたメンバーの言葉や写真は、まとめサイトや個人のPC内のフォルダなどの記録、もしくは記憶として蓄積される。また、ファン個人の直接的な体験は握手会や劇場公演などにおけるレポートなどの形で彼らのコミュニティで共有される。実際に起こったことでも、客観性のないレポートや感想などは仮想的なものと変わらない形で蓄積される。それらはファン同士のコミュニケーションの中で引用されていく。時にはファンの個人的感覚によって曲げられた、事実とは異なる幻想がそこに蓄積されることもある。そうして「こうあってほしい」と「こういうことがあった」という事実と幻想とが混ざり合い、本人とはズレがあるアイドル像が生まれるのだ。

そうして生まれたアイドル像に自らを合わせていくメンバーもいれば、そんなことは関係なく今まで通りに行動するメンバーもいる。さらに情報は蓄積され、アイドル像は更新されていく。テレビや雑誌など一方通行的なメディアが中心にあり、それらのカメラの前でのみアイドルでいればよかった過去とは違い、絶え間なくアイドル像を意識しなければならなくなった、ということを示している。つまり、所謂「トイレに行かないアイドル」はもはや存在せず、むしろ、どのようにトイレに行くのかを設定されてしまうアイドルとなってしまったのだ。

しかし、AKB48にはそうして設定されたアイドル像を破壊してしまうような祭典がある。所謂、シングル選抜総選挙である。ここでは今までファン(とメンバーが)蓄積してきた幻影としてのアイドルがどれだけの力を持っているかが、客観的数値として顕にされてしまう。運営に推されていたから大丈夫だと思っていた若手メンバーが圏外となってしまい名前を呼ばれなかったり、事前に公開された速報よりも順位が下がってしまうメンバーがいたりする。勿論その逆に、速報圏外からランクインするメンバーも存在する。そうして現実としての客観的数値に曝された結果、少女たちは自分が自惚れていたことを知ったり、ファンを信頼しきってなかったりしたことに思い至るだろう。自分自身の在り様は、自分一人ではどうにもできず、自分の投稿を、歌と踊りを、笑顔を喜んでくれるファンの存在によって成り立っていたことを理解する。そうして、作られていたアイドル像は綻び、素の彼女たちの姿が垣間見えるのだ。

彼女たちは、匿名実名関係なく、また賞賛非難関係なく外からの声に曝され続けている。例えば、第三回選抜総選挙で当時メンバーだった前田敦子は第一位となったときのスピーチで「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」と自分が最も人気があると認められたにも関わらず口にした。自らの支持の裏には無視できない数の非難の声があることを知っていたからであろう。多くの声に曝されながら、時に傷つきながらも夢を見ることを続けられるのは、非難する声だけではなく、自分がファンに「推されている=託されている」ことも知っているからであろう。必死に前を見て進んでいく彼女たちを「アイドル」という既存の呼称で指すことは難しい。最早彼女たちは、作られたイメージに沿った振る舞いを願われ、それに従い、夢の世界で命を吹き込まれた人形ではないのだから。彼女たちは言うなれば、アイドルであろうとしながらも、アイドルであることを否定してしまう存在、「反(アンチ)アイドル」なのだ。願われた通りに夢の中で歌い踊るアイドルから、託されることで必死になり現実を生きるアンチアイドルへと変化する「覚醒」は何のフィルターをも介さない生々しい力や言葉に曝され、己の無力感を認識し、自らに託された想いを知らなければ起こらない。AKB48というシステムはそれらが起こる確率を上昇させ、「覚醒」を量産してしまうのだ。

・「Who are you? / Who am I?」

第一部では、「剥き出しの命/世界」、端的に言えば世界や人間の在り方は確率的なもので、観測者なるものは存在せず全員が当事者であり、非日常と日常の境界というものもまた存在しないということが示された。そのうえで探偵になるという選択をすることで、客観的確率的に存在しているだけではなく主体性を持って人々は生きていこうとすることができる。このことが、清涼院流水が我々に示したことなのではないかと考えた。

第二部では、AKB48のファンとメンバーとその周りの環境が成すシステムによって、ただの少女たちが主客混ざり合った複数の視線に曝され続けながらも、そこから逃げずに前を進み、自らの無力感を自覚して「アンチアイドル」へと覚醒するということについて論じた。

第三部は、まず、それらが成り立つための根源に踏み込んでみる。即ち「私」や「君」、一人称をもつ「個人」とはなんなのかということ。それがあるからこそ、「探偵になる/アンチアイドルへと覚醒する」のだから。

情報伝達の方法が多様に、多大になったことで、物事にまつわる情報は断片化され、世界は切り分けられていく。その全体を同時に観測することは難しくなった。それは事件や事故だけには限らない。すべてのモノが断片化された情報と化している。その中で、個人を規定するものは何なのだろうか。

現在、多くのネットサービスはアカウントを作成する ことでその利益を享受できるようになっている。これは個人識別をすることで、その人に合わせたサービスを提供するためのシステムだ。しかし、それによってネット世界での「私」はそのアカウントに仮託されるようになった。そのアカウントの振舞いや同期しているサービスによって「私」に色々なタグが付随していく。そしてその集合体がネット世界における個人を規定するようになりつつある。インターネットが一般に普及する前からも、現実世界で我々はタグ付けされて生きていたのかもしれない。客観的にわかる学歴や出身地、世代などは以前からその人がどんな人か想像するのに使われてきた。その人がいままで読んだ本、好きな食べ物、政治的発言に対する反応などの個人的なことは客観視できるように記録されていなかった。可視化されづらかったため、認識できなかったのだ。行動全てが蓄積されうるようになったことによって、それが現実として眼前に姿を現したのである。関わる全ての情報の断片の集合体としての「私」。しかし、それが「私」であるかどうかを判別するためには自他の境界を引くもう一つの「私」が必要ではないだろうか。同一平面上に情報の断片があったとしても、それぞれはお互いを別の断片と捉えるだけで、「私」のなかの断片か否かの判別ができない。それではタグによって成立する「私」は存在しないことになってしまう。そこで、その境界を認識し線引きをする「私の中心」を考える(下図)。

「私の中心」と「断片化した情報」、そして「私でいられる境界」すべてがあって「私」なのだ。こう考えたとき、我々は断片化した情報の集合体ではない。情報の集合体だけでは「私のようなもの」しか生まれないのだ。

前章までで語られた「モノとしての人間/アイドル」とは「断片化した情報の集合体」のことである。それは簡単に再現可能で、確率的にその命を失うものである。そして「ヒトとして生きようとする人間=探偵/アンチアイドルへの覚醒」とは、剥き出しの世界からの暴力で断片化した情報、タグが剥がされてもなお残る「私の中心」があることなのではないだろうか。

我々は震災以前―もしくは端的にゼロ年代―まで、断片化した情報の集合体という空虚な存在だけでも生きられると錯覚していたのかもしれない。地方に住んでいても都会に住んでいても、ネットワークに接続しさえすれば、誰もがそんなこととは関係なく、時間を共有し趣味を楽しめるという風に。しかしたった一つの大きな災害によって、その世界は危ういバランスの下で供給されているものだということが露呈してしまった。

どんな希望も絶望も長くは続かない。またいつの間にか全てを忘れ、平和な日常を送るのだろうか。私たちは自らを構成する情報の断片が削られても、実体(肉体)がなくならない限り生き続けるしかないというのにもかかわらず。

次の文は『カーニバル・デイ』からの引用である。

……どんな印象的な事件も、時が経てば鮮やかな彩りは失われる。どんな感動も、瑞々しい輝きは時の流れに洗われて色褪せる。この世に不滅のものはない。物も、ヒトも、感情も、物語も、言葉も、一瞬一瞬だけがリアル。生々しいのは、現在という幻想の中での錯覚。過去の回想も、未来の夢想も、時を隔てるほどに、嘘臭い夢の記憶のように曖昧にぼやけてしまう。やがて、なにもわからなくなる。
 なにもかも、ずいぶん昔のことのように思える。
 あの事件から――もう、二年が過ぎてしまった。

ここにおける「事件」とは、勿論作中の事件のことである。しかし、現実世界の「事件」にもそのまま当てはまることだ。不意に日常が裂け、非日常が顔を出すことを我々はいつまで覚えていられるだろうか。ただ、震災以前のように自分の中心を見失い、単なるモノとして生きることはもうできないのだと、それだけは認識し続けていくべきではないだろうか。周りの人が自分のことを肩書きだけで語ろうとも、物事に対するスタンスだけで固定観念を抱かれようとも、それらに振り回されず、自分を規定する芯―私の中心―を忘れないように。そのやって「確固たる私」がそこに存在できるようにすることが、私たちが今から始められることなのだ。

『invert vol.1』2013年 所収論考を改稿


参考文献
『コズミック 世紀末探偵神話』清涼院流水、講談社、1996年
『ジョーカー 旧約探偵神話』清涼院流水、講談社、1997年
『カーニバル・イヴ 人類最大の事件』清涼院流水、講談社、1997年
『カーニバル 人類最後の事件』清涼院流水、講談社、1999年
『カーニバル・デイ 新人類の記念日』清涼院流水、講談社、1999年
『コズミック・ゼロ』清涼院流水、文藝春秋、2009年
『清涼院流水の小説作法』清涼院流水、PHP研究所、2011年
『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』東浩紀、講談社、2001年
『アーキテクチャの生態系―情報環境はいかに設計されてきたか』
濱野智史、NTT出版、2007年
『前田敦子はキリストを超えた:〈宗教〉としてのAKB48』濱野智史、
筑摩書房、2012年
『AKB商法とはなんだったのか』さやわか、大洋図書、2013年
『グラビア美少女の時代』細野晋司、集英社、2013年
『思想地図β vol.2-震災以後』東浩紀編、合同会社コンテクチュアズ、2011年
『日本2.0 思想地図β vol.3』東浩紀編、株式会社ゲンロン、2012年
『PLANETS 8』宇野常寛編、第二次惑星開発委員会、2012年


2013年、神山六人の名で書かれた初めての論考である。青い。恥ずかしい。どこかで読んだ流水の話とAKBの話を繋げて、私とは何者か、をやっている。今読み返すと、中間項が抜けているせいで成立させられた探偵とアイドルの接続である。そもそも動物化するポストモダンの時点で、「キャラクター」という概念を得ているのだから、中間にキャラクターが存在していること、キャラクターが他人に規定されることから逃れる必要がある、という提案に過ぎない。

この文章は、キャラクターや言説が文脈を無視して切り貼りできるようになったインターネットにおいて、人間のままではいられないから、自らの謎に挑み続ける探偵にならねばならないし、観客の要求の範疇から逸脱したアンチアイドルにならねばならない、というものである。第三部における、インターネットサービスにおいてアカウントを作るパートは、それぞれのサービスにおいて生まれるキャラクターの話に他ならない。

一方で、これが書かれてから10年経っても、他人にキャラクターを規定される、自らそのキャラクターを不変なものとしてしまうことは常態化している。敢えて今書くのであれば、マスクやワクチンという記号はツインテールや猫耳と同じようなものになっている、という話が盛り込まれるだろうか。いたるところでエビデンスが問われ、フェイクが飛び交う世界では、勝手に謎を見つけて解く探偵も、自己を無闇に発露するアイドルも、陰謀論者と片付けられてしまうかもしれないが。

この青い文章に書かれた理念について、形や手法を変えながら今も続けられている。恥ずかしいが、公開しておこう。


清涼院流水について。おたよりコーナー#21でお送りした、2022年2月22日の出来事について、後日談というか、総まとめがアップロードされていました。無料で電子書籍が読めるようです。


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