(Re:)誰のための探偵小説―『天帝のはしたなき果実』とその生る樹について
X.載らなかった前口上、あるいは、祈り
2014年6月28日、東京、吉祥寺シアター。
ぼくはそこにいた。「いま、ここ」にしかない煌めき、その為に。
舞台・天帝のはしたなき果実。
―ヒトとヒトが分かりあうために。
青春に咲く衒学のSF舞台劇、
その緞帳は上げられる―。
原作:古野まほろ、脚本・演出:松澤くれは
第35回メフィスト賞受賞作、『天帝のはしたなき果実』が舞台化されると知るや否や、万障繰り合わせてでもその場に立ち会うと決めた。
映像にも残されていない、たった六回の公演のうちの一つを見ることが出来たこと。古野まほろファンの一人として、それ以上に『果実』という作品に魅入られてしまった人間として、至上の喜びであった。
「もうひとつの『果実』」。松澤はインタビューで、舞台についてそう表現している。確かにあの舞台は、小説とは異なりつつも、目指すところは小説と違わない、まさしく同じ樹に生った、もう一つ別の『果実』であった。
古野まほろによる『果実』。
松澤くれはによる『果実』。
本稿はそれら『果実』の生る樹がどういったものなのかを探求し、その上で『果実』について思考するものである。根から幹、そして『果実』が生る枝へと論を進めていく。
もちろん古野による作品以外にも、これまでぼくが触れてきた作品に言及していくことになる。可能な限りそれら作品の核心には触れないように心掛けるが、必要に応じて展開や構造について解説を入れてゆく。お許し願いたい。
前置きはここまで。物語のちからに、どうか祈りを。
(info from fromHにて公開)
0.はじめに
『天帝のはしたなき果実(以下、果実)』は、古野まほろによる第3回メフィスト賞受賞作である。古野まほろ、東京大学法学部卒。リヨン第三大学法学部第三段階「Droit et Politique de la Sécurité」専攻修士課程修了。フランス内務省より免状「Diplôme de Commissaire」授与。警察庁Ⅰ種警察官として交番、警察署、警察本部、海外、警察庁等での勤務の後、警察大学校主任教授にて退官。およそすべての小説作品に探偵小説的要素(本文で示された情報によって論理的に解明可能な犯人・手口・動機など)が含まれているミステリ作家である。
2007年に『果実』でデビュー。本作から始まるシリーズが天帝シリーズであり、現在、『天帝のはしたなき果実』『天帝のつかわせる御矢』『天帝の愛でたまう孤島』『天帝のみぎわなる鳳翔』『天帝のあまかける墓姫』『天帝のやどりなれ華館』の6作が出版されているほか、単行本未刊行作品として短篇作品がいくつか存在している。初出である講談社ノベルス版は旧訳○○(○○にはシリーズ全体を指して「天帝」の他、「果実」「御矢」などの単語が挿入される)、全面改稿された幻冬舎文庫版は新訳○○と呼称される(本稿では全て新訳天帝について言及するため、○○のみで記述する)。
他に、探偵小説シリーズ(講談社ノベルス)、セーラー服シリーズ(KADOKAWA)や悲劇シリーズ(光文社)などのミステリ作品群、『身元不明』(講談社)や『ヒクイドリ』(幻冬舎)、『新任巡査』(新潮社)などの警察小説を執筆している。小説だけではなく新書(警察論、『残念な警察官』、光文社新書、2016年)の執筆や作詞(『ファンタムジカ』池澤春菜、WAVEMASTER HAPPIES、2012年、うち3曲)なども行っている。
本論は、『果実』をそのまま果実として捉え、その実を成すために必要な果樹の諸要素に擬えながら、他のコンテンツや作家などについて述べていく。その読み取りの軸として用いるのが、古野作品に通底するテーマ〈ヒトとヒトは分かり合えるのか〉という問いである。この問いは、『果実』の生る樹の一部を構成するものと考えられる。そのテーマがどのように表現されているのかにも注目しながら、根から幹、そして『果実』が生る枝へと論を進めていく。
もちろん古野による作品以外にも、これまで私が触れてきた作品に言及していくことになる。可能な限りそれら作品の核心には触れないように心掛けるが、必要に応じて展開や構造について解説を入れてゆく。お許し願いたい。
では、はじめよう。
1.土壌〈小説であるということ〉
小説は文字によって記述された物語である。探偵小説においては、文字によって記述されることでいわゆる叙述トリックという方法を用いることができるだろう。しかし、それだけではない。文字という記号で表現することは、映像や音声では不可能な表現を行うことができるということでもある。
古野と同じメフィスト賞受賞者に清涼院流水という作家がいる(第2回メフィスト賞を受賞、『コズミック 世紀末探偵神話』でデビュー)。彼の著作『カーニバル 二輪の草』(講談社文庫、2003年)の東浩紀による解説では、彼の文字記述への拘りについて以下のように記されている。
古野もまた、文字による物語というものに自覚的な作家である。たとえば天帝シリーズでは、過剰な装飾によって文字が連なっていく。以下にその例を示そう。
これは単なる一例であり、端的に示すため短くまとまっているところを引用したものなので、すべてのページにおいてこのペースでルビが多用されているわけでもない。しかし、常用外漢字は当然のことながら、平仮名片仮名古語漢語俗語英語仏蘭西語露西亜語等がルビに本文に並べられていく様には圧倒される。
また、探偵小説シリーズでは、心理描写が(官能的方向に)過剰になることがある。以下に一例を示す。
文字で記述された過剰装飾の中には、今後の展開に必要とされる伏線として用いられるものもある。しかしながら、その多くはストーリー展開上という一面からでは必須とされるものではないし、また全ての古野の作品がこういった装飾をされているわけでもない。あくまで語り手の意思によって、文章の装飾が行われるからである。一人称視点による物語はキャラクターの言葉によって紡がれる。主に未成年(高校生)が主人公である時、装飾性が顕著になる。天帝シリーズの古野まほろ、探偵小説シリーズの水里あかね、セーラー服シリーズの島津今日子など、それぞれに特徴ある文章が構築されていく。
キャラクターの言葉によって、物語が紡がれるとはどういうことだろうか。SF作家伊藤計劃はゲーム『メタルギアソリッド4 ガンズ・オブ・ザ・パトリオット』(2008年、KONAMI、小島プロダクション)のノベライズ作品『メタルギアソリッド サンズ オブ ザ パトリオット』(同年、角川書店)のあとがきで、以下のように記している。
物語が語り手を通して伝わっていくこと、それ自体が物語と同等の意味や価値をもつ。古野まほろが、水里あかねが、島津今日子が物語を語るとき、彼らは視点人物であるというだけではなく、その世界がどのようなものなのかを定義づける重要な存在なのだ。すなわちそれらの作品は、もちろん作家・古野まほろによる物語でありながら、同時に、語り手であるキャラクターたちの物語となるのだ。
2.根〈探偵小説なるもの〉
探偵小説、時にミステリ、推理小説とも呼ばれるものについて。広義では「何らかの謎について、登場人物が解くもの」であり、解く主体となった登場人物は探偵という役割を担っている。また、提示された謎は論理的に解けるとされており、それを厳密に突き詰めていったものをとくに、本格探偵小説と呼称する。これについて、古野は『孤島』の登場人物にその探偵法を次のように語らせている。
基本ルール第一、および後半部については、どんなに机上の論理が通っていても物理法則の無視や魔法といった超常現象が突如関与することの否定である。基本ルール第二は事実認定、すなわち「既に読者へ公開されている情報」によって因果関係を説明できるもののみを論理の礎にできる、ということである。具体的に言えば、解決編以前に提示された情報で探偵と同様に、読者も謎の答え、真相に至ることができるというものが本格探偵小説である、ということである。
基本ルール第一については、「自然発生する」とはいえども、それは読者の住むこの世界における自然ではなく、作中世界の自然であるということを留保する必要がある。たとえば魔法や超能力が存在する世界を舞台とした探偵小説も存在する。しかし、特記あるいは現実世界と異なるという描写が為されていない限りは基本ルール第二によって縛られるため、記述の範囲外での超常現象が提示される真相に関わることはない。
何故このように探偵小説は読者と作者との間に複雑な取り決めがなされるのか。端的に言えば、読者と作者との信頼関係のためである。犯人が謎を設定し、探偵がそれを解くという非対称な関係性と作者・読者の関係性は相似であり、これをフェアなルールで縛るということは、読者と作者との信頼関係を結ぶ=探偵と犯人との信頼関係を結ぶことでもある。作者=犯人は論理的に解ける謎を構築し、読者=探偵は構築された謎を論理的に解く。謎を通したやりとりによって、探偵と犯人は互いに分かり合う糸口を手にすることができる。
探偵=読者と犯人=作者との信頼関係を核として用いた作品として、『うみねこのなく頃に(以下、うみねこ)』を挙げる。
『うみねこ』は2007年から2010年にかけて、竜騎士07率いる同人サークル07th expansionによって作られた、全部で8つのエピソードといくつかのサブストーリーから成立するビジュアルノベルゲーム作品群のことであり、キャッチコピーとして「推理は可能か不可能か」「アンチミステリーVSアンチファンタジー」というものが用いられた。EP1~EP4までが問題編、EP5~EP8までが展開編とされている。
『うみねこ』は、1986年10月5日に六軒島という絶海の孤島で右代宮家の親族会議が行われ、翌日までに最終的には親族全員、あるいはうち一人を残して死ぬ―アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』や綾辻行人の『十角館の殺人』を彷彿とさせる―クローズドサークル状況下での惨劇を発端とする物語である。その惨劇は後年、六軒島から流されたメッセージボトルに封じられた手紙が発見されるまで、明らかにされていなかった。その手紙に記された物語を素材として構築される推理と、そこから導かれる真相を巡る人間と魔女の推理合戦を中心として世界が展開されていく。それらを読み解きつつ、本編では決して明示されない〈真実〉を考えるのが、この作品である。
この推理合戦こそが前述のキャッチコピーにおける「惨劇の実行は人間に不可能である」ファンタジーと「惨劇の実行は人間の手によるものである」ミステリとの対決である。そして、プレイヤーは自分の判断で、このゲームの〈真実〉を手にすることを求められる。推理合戦は魔女のチェス盤(ゲーム盤)と呼ばれる世界を参照しながら、それよりも高次の(メタ)世界で行われる。
『うみねこ』の主要登場人物
・右代宮戦人/主人公。6年ぶりに六軒島に訪れることになった。メタ世界における人間犯人説支持者であり探偵役。
・ベアトリーチェ/六軒島に住まうとされる魔女。メタ世界における魔女犯人説支持者でありゲームマスター。
・右代宮縁寿/右代宮戦人の妹であり、1986年の親族会議には不参加だった。そのため、惨劇に見舞うことなく生き残り、12年後、1998年、六軒島で何が起こったのかを調査する。
ゲーム盤の世界では惨劇の起こっている2日間が再現される。それらの惨劇は幾多のパターンがあり、これはメッセージボトルから再構成されたものだけではなく、未来から観測可能な事実から想像される惨劇も含まれる。作中では「この2日間の六軒島は、シュレディンガーの猫を入れる箱(猫箱)」―作中での意味合いとしては「この2日間は幾つもの真相(可能性)が重なっている状態であり、ある一つに絞ることができない」というもの―と呼ばれる。
メタ世界では、人間も魔女も存在することが可能であり、探偵とゲームマスターとが人間犯人説と魔女犯人説とを互いに主張、反論して推理合戦を行う。チェス盤で展開される物語について、すべての叙述が信頼できるわけではない。文章通り解釈すると、魔女犯人説を採用せざるを得ないが、その叙述には一定のルールがある。また、完全に観測できていない情報についても、魔女は「赤字(必ず正しいと保証されるモノ)」による情報開示が可能であり、人間は「青字(考えうる可能性の提示)」で赤字での解答義務を誘引することが出来る。
前述したとおり、実際の六軒島での事件を経て12年経過した1998年の世界(作中における現実世界)も存在する。主人公は右代宮縁寿であり、彼女が探偵として未来から過去の事件の真相を掴もうとするのがこの世界である。ここでは、六軒島から流れてきたとされるメッセージボトルから再構築された物語、いわゆる「偽書」の作家である八城十八や、事件当日に六軒島に行けず、惨劇に巻き込まれなかった右代宮縁寿、その護衛である天草十三などが登場する。
世界構造についてまとめよう。『うみねこ』は三層構造の物語である。最下層にあるのはゲーム盤の世界、六軒島における惨劇を再構築した、実際にあった「かもしれない」世界である、この世界はいくつも存在するが、雛形となった真の六軒島殺人事件は原理的にひとつである。中間層にあるのは、魔女と人間がゲーム盤を用いて、推理可能性の有無をぶつけ合うメタ世界。この世界では魔女や魔法が人間と共に存在できるが、そのことがゲーム盤の世界での魔女の有無に干渉はしない。更にその上層にあるのは1998年の世界(作中の現実世界)である。ここから縁寿はメタ世界に介入し、真実を探す。
右代宮戦人について。彼は特殊な立場の存在である。物語の駒であるとき、即ちゲーム盤上での彼は探偵として機能していない。むしろ六軒島において探偵はおらず、犯人であるベアトリーチェ(を名乗る誰か)が一方的に右代宮家の人々を殺していく。しかしながら、メタ世界においては、彼がベアトリーチェと対峙する、人間犯人説を証明せんとする探偵である。魔女を認めるということは、不誠実な思考停止の結果生まれる回答であるとして、魔女犯人説を退ける。
右代宮縁寿は、六軒島の事件から12年後の世界から、過去に何があったのかを解き明かそうとする探偵である。その世界では六軒島の事件時に流されたボトルメッセージとそれを基にした偽書が出回っており、それらから真実を汲み取ろうとする。物語の中盤で彼女は最も真実に近いと思われる偽書を書いた作家、八城十八の下に辿り着き、そこで更に物語を読み進めていく。ここでゲームをプレイするプレイヤーと、偽書を読み進める縁寿とが重なるのである。
しかし、探偵であったはずの戦人はEP6にて、出題者、魔女のゲームにおけるゲームマスターの資格を得る。これは、エピソードであるEP5の終盤で、彼はベアトリーチェが用意した物語の真相を至ったためである。そのため、EP6から続くEP7,8では、既に戦人は答えを得ているが、縁寿は得ていない。ベアトリーチェと戦人の戦いであったはずの物語が、終盤のエピソードでは縁寿のためのものとして機能し始めるのである。
それもまた、これまでと同様に人間犯人説と魔女犯人説とのせめぎ合いによって行われる。推理合戦というかたちで、探偵(縁寿)が〈真相〉に至ることを祈る犯人(出題者=戦人)が存在するからである。フェアなルールの下で相手と謎を共有し、出題・解答というプロセスの中で、込められた想いを理解すること。作者と読者の信頼関係に基づく探偵小説という舞台は、〈ヒトとヒトは分かり合えるのか〉、その問いを立てるための根底に必要なものなのだ。
3.幹〈ヒトのこころ〉
繰り返し述べてきたように、古野まほろ作品には〈ヒトとヒトは分かり合えるのか〉というテーマがある。これについて、もっともストレートに記された作品『その孤島の名は、虚(以下、虚)』を通して理解を進めたい。
『虚』の設定はまとめると次のようになる。
公立女子高バンドの雄、東京都立吉祥寺南女子高等学校(吉南女子)吹奏楽部の女生徒たちが、夜遅くまで練習に励んでいた五月のある日のこと。彼女たちは音楽室ごと「この世界」から蒸発し、謎の島へ飛ばされた。その島は「この世界」とは異なる法則に支配されていた。そこに存在する影のように真っ黒なヒトや螢のように光るヒトたち。島は女子高生たちを惑わす。彼女たちはこの島から脱出することができるのか、そしてこの島を支配する法則とは何なのか。
この世界とは異なる法則によって構築された孤島で、彼女たちはそれぞれの見たモノの違いから、楽器(クラリネット・トランペット・ホルン)パートごとに分かれてしまう。この分断が起こるとき、本文では以下のように語られる。
異世界の孤島という極限状況の中、団結するべき彼女たちはそれぞれ「影族・シルエット人」「光族・キラキラ人」「おシマさん」という、以前からこの島に存在していた存在の下へと身を寄せる。彼らはそれぞれ対立関係にあり、特にシルエット人とキラキラ人はそれぞれを憎悪している。その憎悪に当てられて、彼女たちもまた楽器ではなく武器を手に、争いを始めてしまう。ただ一人、おシマさんは一応の中立派であり、その下に身を寄せたクラリネット組は、おシマさんから次のような言葉をかけられ、パーリー(パートリーダー)である中島友梨が、この島の謎と格闘することになる。
このように物語は終始、団結の必要性とその難しさについて、そして異世界の合理的なルールの存在に言及し続ける。
そして物語半ばにて、三つの楽器のパーリーによる会談が設けられる。しかしながら交渉は決裂、影族・トランペット組と光族・ホルン組の戦闘状態へと発展してしまう。……戦闘が終わり、再び吉南女子吹奏楽部が集まったとき、友梨は次のように言葉にする。
〈ヒトとヒトは分かり合えるのか〉と問い続ける古野の作品で突き付けられる、その難しさ。複雑性が排され、現実世界とは異なる「合理的な」世界だからこそ、その難しさが露わになる。『虚』終盤では、このことについて友梨は次のように問われる。
世界の複雑性によって、単純で合理的なときにも増して、ヒトとヒトが簡単に乖離し、諍い、殺し合ってしまう。そのなかでどうやって「一緒の道に帰るのか」。これこそが、古野が『虚』を通じて〈ヒトとヒトは分かり合えるのか〉というテーマから引き摺り出した問いである。人々は分かり合えると信じている。分かり合えないという状態に寂寥感や恐怖を覚えてしまい、盲目的に信じてしまう。分かり合えていると思っていても、そのつながりは簡単に切断してしまう。
切断してしまったときようやく、人々は分かり合うことが難しいことであると気付く。離れてから、道を違えてから、気づいてしまう。道を違えてしまったあと、相手のことを想像して、想いを言葉や音楽といった表現にして、初めて分かり合える可能性が生まれる。「分かり合うための努力」を放棄してはならない。それが、ヒトがヒトと分かり合うために必要なことなのだ。
4.枝〈古野まほろが張り巡らせたもの〉
古野まほろ作品は、大きく「現代日本をベースにした世界の物語」「天帝世界と呼ばれる世界における物語」のふたつに分けることができる。
前者については多くの作家が現代日本を舞台にするときと同じく、実在する土地や機関に新たなモノを付加して作られる。警察小説としての作品が多く、その際、警察官僚だった作者のもつ経験や情報と照らし合わせながら再構成されることが多い。『虚』もおおよそ異世界の孤島で物語は進むが、吉南女子の生徒が存在した大元の世界はこちらの世界である。『虚』の場合、付加されたのは『異世界に飛ばされる』『その世界はある法則に従う』といった条件といえる。
後者については、舞台『果実』公演の販売ブースで特典として配られた『天帝世界設定集』を下敷きにし、次のようにまとめた。
・主となる舞台は「日本帝国」であり、第二次世界大戦後、GHQの下で大日本帝国憲法を抜本改正した新・帝国憲法の規定に基づく立憲君主国、パラレルワールドの日本である。よって昭和戦前期と同様に軍部は存在し(戦後新しく帝国空軍が新設されている)、華族制度等も残っている。更に広く「世界」を捉えると、「天帝」と呼称される存在(カトリックにおける「神」)が、造物主であり、かつて存在した「楽園」の主だったが、ヒトによって天使と天帝が楽園から追われてしまったという物語が明らかになっている。彼らは楽園を取り戻すために「7つの祭具」と呼ばれる世界を左右できる兵器・システムと「金毛九尾」と呼ばれる人類駆逐を目的とした肉人形を地球に遺棄している。
天帝シリーズは金毛九尾、7つの祭具と特別な関係を持ってしまった主人公・古野まほろと彼の所属する勁草館高校吹奏楽部の面々が祭具を巡った大規模殺人事件についての物語である。
それを軸の物語とし、古野まほろの高校の先輩であり、恩師の同級生である二条実房が主人公の物語や、妹である古野みづきが主な登場人物となる探偵養成学校を舞台とした物語など、多くの作品が作られている。
また『墓姫』において、この世界設定は、『本格探偵小説』としてのアトモスフィアを維持するために採用されたものであって、何らかの政治的・社会的な意図から用意されたものではないと明記されている。したがって、天帝世界を用いて作られた物語は、その設定上前述した『本格探偵小説』を志向して作られたものである。
本格探偵小説の―すなわち作者と読者の、そして犯人と探偵との信頼関係が前提とされた物語の―ための世界である。前述した『虚』は、天帝世界よりも更に単純で堅牢なルールによって作られた世界で、ひとびと(少女たち)が他者をどれだけ信頼できるのか、という物語だった。
天帝シリーズもまた、〈ヒトとヒトは分かり合えるのか〉というテーマを巡る物語である。天帝世界を用意することで、探偵小説としての遊戯性をより高めながら、より効果的にそのテーマを活かすことが出来るのだ。
5・果実〈探偵古野まほろと、彼の存在理由〉
前述したとおり、天帝シリーズの主人公は古野まほろ、作者と同名の主人公である。これまで、作家である古野まほろを〈古野〉と表記してきた。これと区別をつけるため、以後、登場人物である古野まほろを〈まほろ〉と表記する。作者と同名の人物が登場する作品といえば有栖川有栖、法月綸太郎、芦辺拓らのものが本格ミステリ作品としてはよく知られており、特に探偵と作者名が同一なものとしては法月綸太郎が挙げられるだろう。
古野が初めて買ったという探偵小説は『陽炎図書館』所収のエッセイ(メールマガジン『ミステリーの館』2007年1月号初出)によれば、有栖川有栖の『月光ゲーム』と法月綸太郎の『密閉教室』であり、『果実』が青春作品でありながら本格探偵小説であるという形式のルーツの一つであるとも考えられる。なお、法月綸太郎の作品群の読解については『セカイからもっと近くに』(東浩紀、東京創元社、2013年)に詳しい。では、本題に入ろう。
探偵としてではなく、一個人としてのまほろについてから考える。天帝シリーズは基本的にまほろの一人称で物語が進行する、そのため前述したとおり過剰装飾な文章表現はまほろの意識を反映している。語り手がまほろではない、そもそもまほろ自身が不在の天帝シリーズ作品として『華館』があるが、そこにおける登場人物紹介欄(非出演者枠)にて、まほろは「衒学はどうなった‼」「ルビが少ないぞ‼」と叫んでいる。彼が装飾過剰で衒学的な言葉を飾りたてるのは、根拠のない不安から目を背けるためであり、そうして飾り立てられた〈自分の世界〉を壊されないよう守りつづけるためだろう。そういった強い自意識を持ちながら、同時に強い劣等感を抱えているのがまほろなのである。
彼は『果実』序盤にて、吹奏楽部の面々に「何故音楽をするのか」と問う。しかし彼は、問い返された時に、自らが音楽をする理由を答えることができなかった。まほろはこころを病んでおり、人一倍傷つきやすく、眩しい他人のいる世界に憧れている。だからこそ吹奏楽部メンバーとの他愛もない、いつか消えてしまう日常の為に、努力し続け、音楽をしているのだろう。
そんな彼は親友の死=日常の突然の崩壊を境に、探偵として提示された謎を解き、犯人を突き止める役へと変化する/させられる(こういった、日常からの非日常への突然のジャンプによって探偵になってしまう者は少なくないだろう)。
天帝シリーズに限らず、高校生がメインとなっている古野作品は、『いま、ここ』性に縛られている。
その瞬間の、ただ一度しかない、かけがえのない輝き。『果実』をはじめとする天帝シリーズは、勁草館高校吹奏楽部の青春物語であり、まほろの甘く苦い恋物語でありながら、彼にとって残酷な探偵劇でもある。友を失い、日常を失ったまほろは、それでも自分の拠り所となる人と世界のために、探偵をする。
彼は『果実』で以下のように語る。
このように彼は「仇討ちがしたかった」、そう心情を吐露する。しかし、親友を殺した犯人と肉薄したとき、彼は仇討ちを選ばなかった。真犯人と会ったとき、彼は以下のように発言する。
以後の作品でもまほろは、何故殺したのか、事件を起こしたのか、その動機・理由を犯人に問う。それはひとえに、彼が他者との理解を(それが原理的には不可能だと知っていても)望むからである。彼が探偵し、導くことができるのはその手法(ハウダニット)と犯人(フーダニット)のみ。動機(ホワイダニット)を尋ねるのは、ヒトのこころは客観的に解読することができないからである。まほろはたしかに、最初は仇討ちや、誰かからの依頼で探偵として行動することになるが、最終的にはその理由を問うため、何故殺さねばならなかったのかを問うために探偵として物語を動かしていくのだ。
天帝シリーズは彼だけが探偵というわけではなく、まほろは探偵をする中でも孤独ではない。複数の『探偵』たちが推理合戦を行うのもまた、このシリーズの特徴である。
『果実』にのみ話を絞るなら、第3章にて吹奏楽部メンバーそれぞれの推理が披露される。彼らそれぞれの推理の過程で、事件を構成する前提条件が段々と積み上げられた上で、最後にまほろが答えを出す。探偵小説というジャンル上、それがどのようなものかは読者自らの目で確かめて欲しいが、その答えは、まほろ一人では出さなかっただろう答えである。
探偵であることは孤独である。それはいくつもの探偵小説でも繰り返し語られてきたことであり、いわゆる助手役(探偵:ホームズに対してワトソン役と呼ばれることもあり、作家であることが多い)が孤独な探偵を支える唯一の存在となっていることもある。しかし、前述したとおり、まほろは作家でありながら探偵でもある。ひとりでホームズとワトソン、二つの役を行っていることで彼はひとりぼっちで謎に立ち向かわなければならない。しかし、複数人探偵が存在することによって、彼は事件の間、孤独であることから解放されているとも考えられる。
また、探偵としてではなく犯人として振る舞うまほろも存在する。彼は基本的には先ほどまで記してきたように「探偵」である。しかしながら、彼は時に自らの考えで提示する真相を捻じ曲げてしまうことがある。それは、時に復讐であり、時に真犯人を庇うためでもある。彼は彼の倫理観で行動し、世界が(あるいは舞台が)直截にその真相を要求したとしても、必ずしもそれには従わないのだ。それは時にエスカレートし、犯行を継続させる(殺人を幇助する)ということもある。
たとえ相手が大量殺人犯であっても、あるいは人外の存在であっても、言葉を交わせる以上、まほろは〈ヒトとヒトが分かり合える〉ことを信じて他者と触れ合う。彼が時に(事件の最中であっても)肌を重ねるのも、分かり合うための方法の一つであるし、前述したこととも繋がるが、彼が吹奏楽、音楽をする理由もそこにあるだろう。こころが弱いから、寂しいから、相手と触れ合い、分かり合おうとするために罪を犯す。人と人は根本的に、完全には分かり合うことができない、けれども、言葉によって相手に伝え、分かり合おうとすることができる。故に惨劇の真相を隠し、事件の解決を先延ばしにすることで、相手の心をわかろうとするのである。故に、彼は物語の幕を引く「名探偵」ではなく、あくまで事件について考えを巡らせ行動する「探偵」なのだ。しかし、これは読者の考える謎解き・解決―作者と読者の間で行われるフェアプレイな戦いにおける勝利―とは異なる論理での行動だろう。
まほろは自分の世界の為に探偵する。彼が存在することで、物語は続いてゆく。『果実』でまほろの親友であり吹奏楽部部長の柏木は次のように伝える。
まほろは、ただ物語の語り手として天帝シリーズに存在しているわけではない。ただ謎を解決する探偵として存在しているわけでもない。言葉が語られ、それが誰かに伝わるとき、その物語は受け手の何かを変化させる。その変化の積み重ねこそが、ヒトとヒトが分かり合うということの一端である。傍点付で強調された「対になる」、それは、まほろはヒトを愛することが、そして、ヒトに愛されることができる存在だということを指し示している。犯人と謎を共有し、推理と共犯、(そして告発)という捩れた過程の中でその裏に込められた想いを理解することが、彼のもっとも重要な役割なのだ。
6.おわりに
ここまで様々な作品や作家を参照しつつ、私なりの『果実』読解を続けてきた。
小説というメディアがどういったものなのか、その上での探偵小説というのはどういう意味が込められるものなのか、その中で作家に通底しているテーマはどういったものなのか、ではそのテーマのためにどういった世界を用意しているのか、そして『天帝のはしたなき果実』はどういう作品で、そこにおいて古野まほろはどういった存在なのか。これらが本論で述べられたことである。
あくまで、私がどういった接続を作品内外から読み取っているのかというところにフォーカスされている。故に、すべてがここで解き明かされたわけではない。
はやみねかおる論(invert vol.2所収『夢見るこどもと赤い月』)のように可能な限り他の作家を参照せず、対象作家の作品のみの読解を通して、『果実』について、古野まほろについて思索するという方法もあった。しかし、選択しなかった。私よりも古野まほろを愛す、旧訳天帝や探偵小説シリーズからの愛好者(まほろにあん)たち(例えば、天帝小説研究会に参加していた方々)がより相応しいだろうと思ったからであり、またひとりの作家、作品に集中し深く掘り下げていくことよりも、自身の心中で他の作品や作家とどういったつながりを持って、『果実』が物語として活きているのかを明らかにすることが重要だったからである。
本文中で語られた『うみねこ』を司るキーワードとして「愛がなければ視えない」というものがある。前述したように、『うみねこ』の〈真実〉は本編では決して明示されない(『うみねこのなく頃に~最後で最初の贈りもの~』所収「我らの告白」にて真相が明示された)。しかし、それを構築するための情報は作中に散りばめられており、その情報を作者や語り手を「信頼して」手にすることが出来るのか、真実へ至ることが出来るのかどうかが、このキーワードには込められている。
「本格探偵小説として作者と読者の信頼関係が成立されつつ、物語として犯人と探偵との信頼関係をも成立されている」という構造は、作外で読者と対になる古野、作中で他人と対になるまほろという二人の古野まほろがいなければ成り立たない。そして当然のことながら、この構造に触れるためには、読者自身が意識して作者と対峙しなければならない。作者を信頼し、本格探偵小説の流儀に則ることによって。
これからも古野まほろは多くの作品を紡いでゆくだろうし、彼やその作品に影響されて、執筆など創作活動を始める人も出てくるだろう。そうして、果実は種を、次の世代へと継いでゆく。時を経て、物語は姿形を変え、芽生え、新たな実を結ぶ。
この論考も、ヒトからヒトへ、言葉を介して伝わってゆく物語を捉えた一つの果実となり、あなたに食まれることを祈っている。
『invert vol.3』2016年 所収論考を改稿
参考資料
『天帝のはしたなき果実』古野まほろ、幻冬舎文庫、2011年
『陽炎図書館』天帝小説研究会、2011年
『カーニバル二輪の草』清涼院流水、講談社文庫、2003年
『探偵小説の為のエチュード「水剋火」』古野まほろ、講談社ノベルス、2008年
『メタルギアソリッド サンズ オブ ザ パトリオット』伊藤計劃、角川文庫、2010年
『天帝の愛でたまう孤島』古野まほろ、幻冬舎文庫、2014年
『うみねこのなく頃に』07th expansion、同人ゲーム、2007-2008年
『うみねこのなく頃に解』07th expansion、同人ゲーム、2009-2010年
『その孤島の名は、虚』古野まほろ、KADOKAWA、2014年
『天帝世界設定集』古野まほろ、2014年
『天帝のあまかける墓姫』古野まほろ、幻冬舎、2011年
『うみねこのなく頃に~最後で最初の贈りもの~』竜騎士07、双葉社、2015年
『僕が愛したMEMEたち』小島秀夫、ダヴィンチ・ブックス、2013年
いまの自分のルーツとして一番強い影響をもっている文章である。ぼくの本格ミステリにおける探偵観や、探偵犯人・作者読者・作品批評の関係についてvol.1論考よりも踏み込んで書いた。もちろん、今読み返すと古野作品の読解についても、うみねこ読解も、MGSや伊藤計劃についての考えも思いつき程度でしかない。
古野まほろについては、改めて考えている最中である。学生が主人公の物語(天帝世界や吉南女子)から大人が主人公の物語(警察小説)への変遷や、非現実世界における『ルール』にしたがうSFやファンタジーに近い作品の話など、警察に関する新書の話など、語りたいことは多々ある。デビュー作の話ばかりではなく、最近の物語を軸にして作家を捉え直すことも必要だろう。
以前書いた古野まほろに関するおたよりはこちら。
では!
2022.10.1に公開解禁された最新刊、『侵略少女 EXIL girls』(光文社)の帯文に「絶筆」の文字が。そして、古野まほろ公式サイトに公開されたふたつの文章により、古野先生が現在記憶に関する何かしらの病に侵されていることが推定されます(引用を後述)。本論に描いた天帝シリーズに連なる、天帝世界を舞台とした物語はまだ完結しておらず、現実世界を舞台とした諸作品も未完のものが多いなかの衝撃的な告白でした。
まだ用意できていない、いつか書かれるぼくの古野まほろ論には、子供と大人、青春と老獪を各作品に見つけつつ、古野文学が本格探偵小説であるだけでなく、さまざまな病との闘うひとびとの物語であることを述べる予定です。デビュー作に始まり、あらゆるところに死とは異なる、病の匂いがある世界。病に冒された探偵が犯人が実存を賭けて犯行と推理とに臨むというエッセンスが、古野が示したリアリティなのではないか、という試論です。殺人劇の探偵小説には生と死しかない、すなわちパズルを解く者、解かれる者、パズルになる者しかいない。もちろん、そのエッセンスはパズルを構成するピースのひとつです。しかし、そこに意味を見出すのが探偵であり、批評家の仕事だと思います。だから必ず書きます、古野まほろの名を歴史に刻まんとするひとりの読者として。
古野先生の病状がいかなるものか、不可逆的なものなのか、寛解、回復の可能性があるものなのか、わかりません。一読者として、もっと読みたかったと思いますし、欲を言えば広げた風呂敷を畳んでほしかった。そんな我儘を言いたくなるくらい、古野文学は魅力的なものです。
いま祈れることは、一日もながく古野先生の冬瓜を育てる日々が続いてほしいということだけ、です。
くそくやいおとのめたうあびたたふ
てくなやじばとこのれかわはらなよさ
もし、古野文学をまだ読んだことがない人がいるのなら、一冊でもお手に取ってもらえたらと思います。最新作『侵略少女 EXILgirls』を含む”戦う少女本格”シリーズがおすすめ。ファンタジックな世界観はちょっと、という方には『新任巡査』や『老警』を。ゴリゴリの本格探偵小説アトモスフィアを求めるのであればデビュー作『天帝のはしたなき果実』をおすすめします。
ぶっちゃけ、公式サイトから好きな表紙で選んでもよいと思います。
わたしが好きなのは『命に三つの鐘が鳴る 埼玉中央署 新任警部補・二条実房』『復活 ―ポロネーズ第五十六番―』です。
では。