北海道おたより、まとめ
さやわかのカルチャーお白洲のおたよりコーナーで読まれた、北海道おたよりのまとめになります。あんまり見返してない!
1.おたよりコーナー#31
さやわかさん、おたより戦士のみなさん、こんばんは。神山です。今回は知名度とか売れ行きとかの文脈をぶった切ってゴールデンカムイとフランチェスカを併置するぞ!というトンチキ論考を送ろうとしていたのですが、前提となる北海道の話だけでボリュームが出てしまいました。なので、北海道についてのおたより、です!
「北海道」という言葉がもつイメージの力は道内外問わず強力である。北海道ミルクや北海道メロンと北海道の文字が入っていれば、ちょっとした特別感を感じる人がいるだろう。商品のちょっとした質のよさを担保してくれそうな雰囲気「北海道らしさ」がある。このカッコ書きの「北海道らしさ」に縛られた作品として『フランチェスカ』があることを、以前おたよりでお送りした(おたよりコーナー#9)。そして今年、明治時代の北海道を舞台とし、『フランチェスカ』と登場人物のモデルが重なるマンガ作品『ゴールデンカムイ』が完結した。この作品もまた、「北海道らしさ」を踏まえたものだったと思う。
フィクションや観光用の雑誌だけでなく、『北海道民のオキテ』(さとうまさ&もえ、KADOKAWA/中経出版 2014年4月)『BRUTUS特別編集 北海道の大正解』(マガジンハウス、2021年8月)『地球の歩き方 北海道』(学研プラス、2022年6月)といった、北海道についてより知れるという触れ込みの書籍が書店に並んでいる。これらの需要は、より正確な北海道像を確保したいという消費者が増えていると予感させる。これも「北海道らしさ」を巡る現象と言えるかもしれない。
このカッコ書きの「北海道らしさ」を振り返りつつ、イメージの大地たる北海道について思考を巡らせていこう。
ゲンロンカフェにて行われたトークイベント『さやわか×武富健治×春木晶子 北海道を衝け――番外地はいつミルクランドになったのか』では、北海道は外部からどのようなイメージを持たれているのかを内面化し、自己イメージの操作に特化している土地と語られた。他者からの過度なイメージ変化を拒絶するのではなく受容し、イメージの再生産を繰り返す気風があるとも言われていた。
イベントに登壇した批評再生塾4期総代、元北海道博物館学芸員(現江戸東京博物館学芸員)の春木晶子は論考『あなたに北海道を愛しているとは言わせない』で、村上春樹の作品分析と近世における蝦夷地という空間の扱い方を通して、現在の北海道について次のように述べている。
春木の言葉を借りれば、近世では禍々しいもの、理解しがたいものを押し込めた『蝦夷地』、近代以降はナチュラルでピースフルなイメージを押し込めた『北海道』という扱いを内地=道外・中央からされている。にもかかわらず、道民=北海道のヒトはそういった外部からのイメージの使われ方について、前向きなものとして受け取っている。それらのイメージは既に禍々しい過去、血腥い排斥や収奪、戦争といった歴史から目を背ける口実になる、という文脈から切り離されている。
ここまでの「イメージ」、事物が記号化したものを指す言葉は、人物(実在・架空問わず)が記号化したものを指す「キャラクター」とほとんど同じ用法だろう。前述のゲンロンカフェ北海道イベントに登壇した物語評論家・さやわかは、ゲンロンβ連載の『愛について』にて、『動物化するポストモダン/東浩紀』(講談社、2001年)を通し、以下のようにキャラクターについて述べている。
北海道は、より分厚い「今の北海道らしい」毛皮を求めてキャラチェンジを繰り返している。さやわかの言葉を借りれば、北海道は外部から与えられたひとつのキャラクターを継続しているだけではなく、自らデータベースを書き換えているとも言えるのだ。
ゲンロンカフェイベントかアフタートーク配信(要出典)にて、インターネット言説と北海道のイメージ操作の親和性、類似性について語られていた。ここでのインターネットとはweb2.0、ユーザーが作成した作品をプラットフォーマーが提供するサービスに載せてコンテンツが拡散し、その切り抜きを別の空間でも連鎖するような構造をもつインターネットである。簡単に言えば、ユーザーやプラットフォームがコンテンツをフルサイズで共有するだけでなく、要所要所を切り取った断面をみんなが再利用できるものになった状況ということである。これについて、さやわかは『さやわかのカルチャーお白洲 理論編(ノウハウ #30)「説明の技術」⑦~文脈とは何か?どう文脈を理解すればいい?簡単ですよ…?』(2022/8/24配信)にて、
と述べた。もちろん、この抜き出し自体が私の論考に都合のいい使い方ではあるにせよ、構造を知った上でコンテンツや言説に目を向けなければ、切り抜きや要約といった語り手にとって都合のいい背景に基づく言説が力を持つようになってしまうとも述べられていた。
『ゴールデンカムイ』の連載開始や『フランチェスカ』のアニメ放映が始まった2014年は『天体のメソッド』という洞爺湖を舞台とするアニメが始まった年であり、2013年に一度引退した北海道応援キャラクター『北乃カムイ』が復活し現在に至る活動を始めた年であり、新千歳空港国際アニメーション映画祭が始まった年でもある。
更に周辺の年に目を向ければ、初音ミクがさっぽろ雪まつりのキャラクター『雪ミク』となったのは2010年、荒川弘による漫画『銀の匙』が始まったのは2011年であった。もちろん、ビジネスモデルとしての聖地巡礼などが着目され、日本の複数の地方で同様の機運が高まった期間だったという、道外からの影響もある。それを踏まえても2010年代前半は、北海道が農林水産物や景観といった土地と切り離せない観光資源とは別に、マンガやアニメといったサブカルチャー(ポップカルチャー)の中に強く進出する何度目かのタイミングだった。
ひとびとの語りの断片によって文脈が見えなくなり、個別の言説に振り回されるようになったWeb2.0以後。そのインターネットを実装してしまったような北海道という土地と、フィクションと現実世界が交差するような作品構造は相性がいい。『ゴールデンカムイ』『フランチェスカ』に限らず、北海道は多々そういった都合のいい空間として用いられており、自らその構造をメタ的に分解し、再生産しイメージを改変し続けている。
フィクション作品から離れても、そういう動きはいくつも見られる。あまりにも有名な「試される大地。」というキャッチコピーとロゴもその一つだろう。いまは公的に使われていないものの、残置されている広告などを目にしたこともあるだろう。このコピーとロゴは1998年の北海道イメージアップキャンペーンで公募されたものだ。このキャッチコピーについて北海道Likersというポータルサイトに掲載されている「意外と知らないかも!? 北海道の代名詞「試される大地。」が生まれた理由」という記事が詳しい。これによるとキャンペーンは2000年代に入る直前、新時代に北海道が目指す方向や生き方、理念を広く問いかけようというコンセプトで開かれたものだった。最終的に選ばれたキャッチコピーとロゴは道内在住者の作品ではなく、横浜の人、京都の人のものだった。しかも、後者については北海道に訪れたこともなく、イメージのみで作ったものが採用されたとのことだった。更に、長時間の会議を経て選ばれたコピーについて当時の道知事は【“試される”とは、決して辛い意味で「試される」というものではなく、「自らに問いかける」あるいは「世に問う」というプラス志向を示す言葉であるとともに、「try」の意味が込められている】という解釈を述べている。
このコピーは残置されているだけではない。2009年から北海道札幌市豊平川河川敷(中島公園駅近く)で開かれている『チルノのパーフェクトさんすう教室踊ってみたオフ』(通称・チルノオフ)の動画に付けられたタグは『試されすぎた大地、北海道』であり、10年を超えた今でもオフは行われており、使われ続けている。『呪術廻戦17巻 第146話/芥見下々』(集英社、2021年)でも主人公・虎杖が北海道を指して「流石 試される大地」と言っているコマがある。キャッチコピーが『その先の、道へ。北海道』に変わったとしても、『試される大地。』というコピーは未だに北海道をイメージさせる言葉として流通しているのだ。
今後も、北海道を舞台としたフィクション作品はマンガ・アニメに限らず多く制作されていくだろう。そこでは多くの「イメージとしての北海道」が扱われる。もしかすると多くの道民は北海道企業は個々のコンテンツの内容に踏み込まず、ただ北海道が取り扱われていることに着目するかもしれない。外部の現象に一喜一憂し、商業的に効果があるかどうか、公共的に効果があるかどうかを判定基準として作品に接していくだろう。『ゴールデンカムイ』に多くの変態囚人が登場し、主人公が下半身を露出したり、シマエナガを食べたりしている作品であることを知らないで、カッコいいコマやシーンの切り抜きを見てヨカッタヨカッタと思っているように。
北海道新幹線が通り、札幌オリンピックを招致しようとしている今、行政や企業はより強い「北海道らしさ」を求め様々な書き換えをするだろう。自戒を込めながら述べるが、具体的に自らの消費活動に影響がある現象があるにも関わらず、それを言葉に遺すという動きはあまり見られない。人々は雪まつりで毎年雪像が作られては壊されていくように、文化の盛衰についても捉えているのかもしれない。すでに大通のファッションビル4丁目プラザが2022年1月末に閉店し解体されており、今後も札幌駅地下の商業施設PASEOが来月9月30日に、大通のファッションビルPIVOTも2023年5月末に閉店する予定となっている。イメージの強化やキャラクターの更新だけに気を取られるのではなく、自らの目や耳、手を用いて150年しかない北海道の歴史、それぞれの建物や施設の歴史を振り返る泥臭い作業を始める必要がありそうだ。コロナ禍が終わり、再び経済活動が本格稼働しはじめる今、ダークな面も、ハッピーな面も、それらをメタに組み替えている面も包含する、複雑な存在として改めて北海道を捉える時期に来ている。
2.おたよりコーナー#33
2022年7月19日、北海道を舞台としたマンガ『ゴールデンカムイ』は単行本最終巻が発売された。北海道を舞台とする作品としては、アニメ作品中心の地域振興プロジェクト『フランチェスカ』がある。2つの作品を通して、北海道とフィクションの関係について考える。
『ゴールデンカムイ』は2014年から集英社ヤングジャンプにて連載されていた野田サトルによるマンガ作品である。日露戦争直後の北海道を舞台とし、アイヌ、第七師団、土方歳三など北海道に縁のある歴史上の存在と、主人公・杉元佐一や網走監獄の脱獄囚など架空の人物が、アイヌの遺した黄金を求めて北海道を右往左往する物語である。ジャンルは多岐に渡り、冒険・歴史・文化・狩猟グルメGAG&LOVE和風闇鍋ウエスタンという呼称が用いられていることからも、単に黄金をめぐる駆け引きを主題としているわけではなく、北海道各地を移動し文化や歴史に触れつつ、時にサバイバルを、時にグルメを、時に戦争を挟み込み、ギャグ漫画とシリアスな展開、スリリングな騙し合いやバイオレンスな殺し合いを往復するといった作風である。
『ゴールデンカムイ』の基本的な歴史は現実の北海道史に重ねられており、アイヌ史・文化についても積極的に取り入れている。その重ね方は徹底しており、巻末には道内のアイヌ研究者や博物館などの名前が列挙されるほどである。そういったエビデンスに基づいている作風にみえる一方で、大蛇や怪鳥の存在など、伝承や伝説、噂話を起点とした「物語」を根拠としている部分もある。たとえば、土方歳三について、遺骨が存在していないという史実から導かれるIFの物語を論拠とすることで、戊辰戦争での死から生還させている。つまり「史実・伝承・伝説・噂=物語」を混ぜ合わせ「人物、怪物=キャラクター」を登場させることで、作中における虚構と現実の並列を描いている。
また、キャラクターそれ自体も生ける伝説として語られる対象となることで、単なる人間ではなく、超常的な存在になるという構造をもっている。たとえば、「不死身」と名付けられることで杉元は不死身となり、「脱獄王」と名付けられることで白石は脱獄において万能となり、「不敗」と名付けられることで牛山は敗けなくなる。彼らは語り継がれることで超人的な活躍をする。作中世界に限り、様々な史実、伝説といった物語は並列のものとして扱われているのだ。アイヌが遺したとされる黄金すら、噂として存在する部分が基点となって作中現実に存在していく。第一話でアイヌの黄金について言及するキャラクターがいなければ、この物語は始まりすらしないのだ。最終話においては、虚構と現実の並列化の究極形として、現在の現実の北海道やアイヌを取り巻く自然・言説が『ゴールデンカムイ』で語られたフィクションによって支えられているかのように描いている。この終幕について、実在のアイヌは弾圧されており、遺骨の返還問題などは現在も続いているのだから、アイヌ民族・文化との関係を綺麗な物語としてほしくないという声も散見された。又、単行本で追加された第二次世界大戦を巡る短い物語でも、同様の手法が用いられている。
一方、『フランチェスカ』は北海道発のアンデッド系ご当地アイドルキャラクターとして、サブカルチャー的表現を通して北海道ブランドを広めるというコンセプトのもとで2012年に生まれた地域振興プロジェクトである。プロジェクトの一環として2014年にテレビアニメ全24話が制作された。アニメ作品としては、現代の(アンデッドがよく出る土地としての)北海道を舞台とし、北海道庁職員のエクソシストと美少女アンデッド・フランチェスカが、アンデッドとして蘇った石川啄木、新選組、クラーク、新渡戸稲造などと戦ったり仲良くしたりしながら、北海道に降りかかる未曾有の危機を防ぐというもの。地域振興プロジェクトとしては、多くの企業とコラボしオリジナル商品を展開したり、道内各所のイベントでフランチェスカブースやトークショーなどを拡げていたものの、北海道のカルチャーとして定着しなかった。アニメ終了後もラジオドラマなどで続編を匂わせていたが、結果として、元々の制作会社である株式会社ハートビットが倒産したことから、2期以降の展開は絶望的となっている。
『フランチェスカ』もまた『ゴールデンカムイ』と同様に伝説・伝承の存在を根拠としたキャラクターやストーリーの展開をすることがあった。第一話の導入では、アンデッドの多い土地であるということあわせて、北海道にまつわる伝説なども流れている。たとえば第13話「伝説の武者、見参デスカ?」は、源義経が北海道へ逃げ延びていたという義経北方伝説を用いている。「義経試し切りの岩」という観光名所がある稚内を舞台に、義経=チンギスハン説を組み合わせ、フランチェスカと源義経アンデッドが出会うストーリーである。第16話「洞爺湖には、いるんデスカ?」も洞爺湖に潜むと言われる首長竜トッシーが登場する。その他『札幌ラーメンからスープカレーへの変遷』『幸せの黄色いハンカチ』など、グルメブームやドラマコンテンツといった物語をも取り込んでいる。しかし、官民一体となり地域振興としてアニメなどのコンテンツを進行させていたプロジェクトであったにもかかわらず、北海道以前のアイヌ、先住民族や文化について深く考えていなかった。前述のように、語られる伝説は近代以降、開拓以降における物語である。
2作品に共通する事柄は、名物グルメ、新選組、戦争、伝説、伝承、不死身……など多々挙げられる。両作品ともに伝説や噂といった、事実かどうか不明確な情報=物語を作中の事実としてキャラクター化し表現しているという部分も似通っている。
逆に、共通しないものとして明確なものはアイヌに関係する事象だ。北海道を扱っていることは同じだが、『ゴールデンカムイ』はアイヌ描写を積極的に取り入れ、『フランチェスカ』はアイヌの描写を避けた。『ゴールデンカムイ』は前述した通り、研究者や博物館などが協力し、アイヌ史や北海道史、その他の専門事項に裏打ちがあると明示されているが、『フランチェスカ』にはそういった後ろ盾がほとんどない。『フランチェスカ』では戊辰戦争における箱館での戦いは描かれるものの、本来存在するはずのアイヌ民族や文化については描かれない。そもそも、アイヌ施策推進法が施行されたのは2019年5月のこと、それ以前の作品である『フランチェスカ』がアイヌを重要視していないということは、単に北海道におけるアイヌの扱いがその程度だったということでもある。プロジェクトのリソースの限界の為に切り捨てられた可能性もあが、アイヌと和人・過去と現代の功罪を取り入れる民族共生的な視点は無い。あくまで『フランチェスカ』は名産地や景勝、偉人を扱った観光的な需要に応えるためイメージを操作するためのプロジェクトだったのだ。
『ゴールデンカムイ』は実際の地名、人物、歴史や文化と密接に関わりながら展開されるフィクションであり、実在する資料館や史跡が舞台として描かれていることからも、現実とのつながりが強く感じられる部分が多々ある。結果として、現実の北海道やアイヌ、それらを取り扱う資料館や博物館、はたまた道内銘菓などといった商品は作品を通して注目を集めた。『フランチェスカ』もまた(アイヌが存在しないものの)北海道に実在する名所や名産品、人物を扱う作品であり、企業コラボした商品も複数あった。商業的に全国に知らしめる効果はなかったかもしれないが、目指したものは現在の『ゴールデンカムイ』のような広告効果だろう。
そういった広告の中では、『ゴールデンカムイ』における変態的行為や『フランチェスカ』におけるクラークや新渡戸稲造がカッコ悪さは省略される。カッコいい、カワイイ、売れている、といった都合のいい部分だけが切り取られ、宣伝に用いられてしまう。両作品が行っている物語と虚構の接続とは真逆の、作品の切り貼りによる、断片化した北海道のイメージに紐づけられていくだけなのだ。文脈を破断する都合のいい切り貼りによる暴力に抗いながら、改めて北海道の歴史や文化を考える必要があるだろう。
3.おたよりコーナー#58
北海道という土地は虚構(フィクション)を用いながら、「北海道らしさ」というイメージ/キャラクター性を再生産してきた。再生産を重ねるごとに歴史の実態は忘却されていく。いまも多くの商業ビルやランドマークが閉店、解体され、新たな活用法が検討されている。ただし、再生産の試みは全て成功するわけではない。2030年に見込まれていた北海道新幹線の札幌までの開通と札幌五輪の誘致が延期された。この2つの延期は殆ど同時に発表され、どちらが先に決まったのか、因果関係があるのかということは明確にはなっていないものの、2030年の北海道・札幌圏の躍進という想像図は描き直しを余儀なくされている。五輪については、誘致延期に対して見直しが求められている状況だ。
もちろん、北海道以外の都府県でも同様の失敗や外力による変化はある、大阪万博のような大きな話だけでなく、地方の鳴り物入りの大型施設のような身近な規模の話まで、大なり小なり様々な事業がイメージ通りに開催、運用されるわけではない。ただ北海道は、歴史が浅いという自己認識の強さと、無自覚に開拓を肯定してしまう性質という、ふたつの特徴によって、他の地域よりも容易くイメージを切り替えていってしまう。今回はこのふたつの特徴に焦点を当て、北海道の在り方について考えていく。
歴史感覚の浅さについて-建築ジャーナル・特集:アイヌ民族と建築‐を通して
歴史感覚の話に入る前に、改めて北海道の歴史を振り返る。縄文時代以後、内地は弥生時代に変遷しいわゆる「日本史」へと進んでいくが、北海道はそのまま続縄文時代に入り、アイヌ文化へと変遷していく。時代が進み、室町時代頃には豪族が北海道南西部・渡島半島南端に館を構え、江戸時代の松前藩へとつながっていく。そして明治維新後、開拓史が置かれた1869年に「北海道」が誕生する。北海道以後現代までつづく開拓と開発、文明化のなかで、和人によるアイヌへの征服・侵略行為があったことは確かだろう。たとえば、日本政府は明治32年にアイヌを日本国民に同化させることを目的とした「北海道旧土人保護法」を制定した。土地を付与して農業を奨励することをはじめ、医療、生活扶助、教育などの保護対策をすることを旗印としていたが、実態は、和人の移住者に大量の土地を配分した後にアイヌに改めて土地を付与した上に、アイヌに付与された土地の多くが開墾できずに没収されたり、戦後の農地改革で強制買収されたりと、アイヌの土地を和人がコントロールするものであった。しかも、平成9年7月に『アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律』が施行されるまで、旧土人保護法は効力を持ち続けた。法律による政府と民族との関係だけでなく、実際の北海道の地における開拓の際、アイヌの文化とは異なる手法での狩りや文明化により、失われた生態系や文化などもあるだろう。
こういった北海道の歴史に対して、北海道で生まれ育った人が抱える感覚について考えると、明治維新以前が見渡しにくくなっている。先住民族であるアイヌが文字を使わず、基本的に文様や口伝によって情報を伝達してきたということも一因かもしれないが、多くのひとがイメージする「北海道」は開拓以後から始まっている。アイヌ語由来の河川、例えば北海道大学札幌キャンパス内を流れるサクシュコトニ川など、由仁町のヤリキレナイ川などを日本語での音や意味合いで名前で面白いと言ってしまう無邪気さも、開拓以後日本史に合流したという錯覚に基づくものだろう。このことについて『建築ジャーナル2023年10月号特集・アイヌ民族と建築』(以下、建築ジャーナル23年10月号)にて、日本近世史を専門とする北海道大学文学研究院教授・谷本晃久は次のように述べている。
谷本は1970年札幌生まれである。座談会では、地方によってアイヌ文化とのかかわり合いに濃淡はあるものの、多くの北海道生まれのひとが抱えている歴史認識は明治維新が境となっており、かつアイヌを透明化してきたことが示唆される。同じ座談会のなかで谷本は、北海道の子どもたちが修学旅行で明治以前から長くある和風の歴史文化に触れることや、指導要領における東京基準の「身近な歴史」のありかたと、現実の北海道の歴史の差異によって、北海道の歴史が浅いという認識を子供の時から得てしまうことを指摘する。筆者自身も中高の修学旅行で鎌倉や奈良・京都へ行っており、各地に観光で渡り明治以前の歴史的建造物や遺構を見て、教科書における日本史と自身の経験を擦り合わせていた。他都府県よりも過去の記憶や記録の継承経験が少ないという実感もある。
また、建築ジャーナル23年10月号では札幌アースダイブと題した、札幌を中心としたアイヌ民族と建築をめぐる旅が提案される。この旅では、札幌市内では北海道大学や、北海道博物館、北海道百年記念塔(7月頃、2/3程度が解体されてしまった状態)に、加えて札幌市外では白老町のウポポイ(民族共生象徴空間)や旭川市の川村カ子トアイヌ記念館等に訪れている。旅程を終えたあとの座談会にて、札幌アースダイブではセトラー・コロニアリズム(入植植民地主義)が鍵概念となっており、開拓後150年以上経った今も、北海道をめぐる価値観に影響していることを、小田原のどか(1985年宮城県仙台市生まれ。彫刻家・評論家・出版社代表)は指摘する。
山川、小田原、マユンキキ(アイヌの伝統歌を歌う「マレウレウ」「アペトゥンペ」のメンバー。アイヌ語講師。札幌国際芸術祭2020におけるアイヌ文化コーディネーター)は同座談会にて以下の通り、ウポポイの民族共生象徴空間という名付けや、その展示についても言及する。
このことについては筆者自身も訪れた際に、その小綺麗さや、あえて順路を決めていないこと、館内マップにおける過剰なアイヌ語表記など、以前の白老ポロトコタンや、他の町にある小さな郷土資料館のような、いまの生活と連続性のある表現での情報の使い方ではなく、生活と切り離され客観的に資料を見せられる佇まいに違和感を覚えた。
既に解体が完了している北海道百年記念塔は新しいモニュメントに置き換えてもよいと考えられてしまうし、明治以前からの住人であるアイヌに触れる際には「民族共生象徴空間」をはじめとする、アイヌ文化を発信する空間の特別視、切り取りを挟んでしまう。
「アイヌ文化」を空間的に区切り、内包していたはずの歴史から外部化することで、トレンディドラマや漫画・アニメと同じ位相の物語と読み替え、「北海道らしさ」の強化するための外付けの要素として扱っているとも言えるだろう。
建築ジャーナル23年10月号は建築だけでなく、北海道の土地や地盤を巡る言説・文化について広範に語られている。和人やアイヌ、あるいは世代や居住地といった単純な垣根を廃して、広い目で北海道としての歴史の在り方について、再検討していくべきだろう。そのために、本書とは違う切り口で、北海道の歴史に切り込んできた作品として、2022年に発売された『ポケットモンスターLEGENDSアルセウス』(以下、『アルセウス』)に着目する。
無自覚な侵略の肯定-『ポケットモンスターLEGENDSアルセウス』をめぐって-
ゲーム『ポケットモンスター』シリーズは時間軸を現代をベースとした、日本や世界各地をモデルとした架空の地域を舞台とする。たとえば『ポケットモンスター赤・緑』の舞台となるカントー地方は、その名の通り日本の関東地方がモデルであり、最新作である『ポケットモンスタースカーレット・バイオレット』の舞台となるパルデア地方は、スペインがモデルとなっている。『アルセウス』が舞台とするヒスイ地方は、モデルが明治維新直後の開拓使がやってきた北海道。『ポケットモンスターダイヤモンド・パール』の舞台となるシンオウ地方が現代の北海道をモデルとしており、ヒスイ地方はその過去の時代での呼び名である。
『ポケットモンスター』は、そういった各地方で主人公を操作し、ポケモントレーナーとしてポケットモンスター、ちぢめてポケモンと呼ばれる生物を捕獲、育成し、地方でもっとも強いポケモントレーナーを目指しながら、ポケモンを悪用する組織の撲滅や、伝説のポケモンをめぐる神話に巻き込まれるストーリーである。但し『アルセウス』では既存の作品と違い、ポケモンを用いる制度設計が不完全であることから、地方で最も強いポケモントレーナーを目指すシステム(ポケモンリーグ)が構成されていない。
『アルセウス』の物語は主人公は現代から過去へタイムスリップし、ヒスイ地方に流れ着くところから始まる。ヒスイ地方(北海道)にはカントーやジョウトといった様々な地方(内地)から渡ったギンガ団の集落と、ヒスイ地方で生活を営んできたコンゴウ団の集落・シンジュ団の集落がある。複数の集落と団=民族の存在は、明らかに和人とアイヌから着想を得ている。未開発な地方のため、フィールドの大半には野生のポケモンたちが多く存在し、ギンガ団の人々はポケモンたちを恐れて集落の外にも出られない。主人公は、ギンガ団から衣食住を提供されるのと引き換えに、ポケモンの生態調査=ポケモン図鑑埋めをすることとなる。
本作はポケモン世界のなかで北海道の歴史を扱ったことで、野田サトルによる漫画『ゴールデンカムイ』(2014,集英社)と同じくコンテンツツーリズムの点からも注目を集めた。しかし、良い点ばかりではないだろう。前章でも引用した建築ジャーナル23年10月号の座談会において、山川は以下のように発言している。
この「打ち克つべき敵=自然」に「ポケモン」が加わったのが『アルセウス』の世界観である。本作ではポケモンを捕獲し使役する技術が発達しておらず、誰もがポケモントレーナーになれるわけではない。既存作品では、基本的に野生のポケモンが出現しない”道路”と、ポケモンが潜む”草むら”のように、人間が整地し管理している空間と、野生のポケモンが存在する空間が分けられているが、本作では明確な分割がなされていない。集落マップに野生のポケモンは出現しないまでも、荒野や森林といった未開拓エリアのマップでは、道路も草むらも関係なくポケモンが闊歩しており、人間はポケモンに襲われないように草むらに隠れる必要がある。基本的に現代の人間とポケモンの関係が逆になっているのだ。
『アルセウス』のストーリーは、外部からやってきた主人公が、ギンガ団・シンジュ団・コンゴウ団という3つの勢力を橋渡しすることや、人間とポケモンとが共生できるような仕組みがつくられる方向に進んでいく。そのなかで、単純にギンガ団(内地側・和人側)の価値観を肯定するのではなく、シンジュ団・コンゴウ団(アイヌ側)の、ポケモンを神仏に近い存在として信仰するような文化とギンガ団の価値観が衝突しながらも合流してゆく。最終的には、地方の呼び名がギンガ団の名付けたヒスイから先住民族たちが崇める神の名前を借りシンオウへと変わり、現代の『ダイヤモンド・パール』の世界とつながる。つまり、『アルセウス』の世界では、開拓まもない段階で、先住民族と開拓民がともに生きるということを選ぶ=旧土人保護法のような一方的なコントロールを前提としない、現実とは異なる歴史の展開を描くのだ。これはポケモンが単に日本だけをマーケットとする作品ではなく、世界中にプレイヤーがいることも意識された選択でもあるだろう。
しかし、ゲームシステムは必ずしもストーリーが目指した世界観と重ならない。ギンガ団の技術により主人公が野生のポケモンを捕獲し、支配するという収集・育成要素は、シンジュ団やコンゴウ団の伝承と畏怖で成立していた、自然現象にちかい不思議な生物たちを図鑑に収めることで、固有の名を持つ既知の存在として扱うことを可能にする。すなわち、カムイ=神たる自然を科学によってコントロール可能なものに貶めるという構造となっている。このとき現代人である主人公がギンガ団=和人側になる、というのはプレイヤーが選択できることではなく、ゲーム側が強制的にプレイヤーに与える役回りである。
『アルセウス』をプレイすることはそのまま、和人としてカムイをコントロールする側にプレイヤーを立たせてしまう。そもそもポケモンを乱獲したり交配させ、そのなかで最も強い個体を厳選するというゲーム性自体がシリーズを通して多くのプレイヤーを魅了しているのも事実だろう。そういった中、捕獲するポケモンを最小限にするというプレイの幅は許されるし、一応のエンディングにたどり着くこともできる。ただ、このゲームの真のエンディングは、すべての種類のポケモンを捕獲し、図鑑をすべて埋めることで向かうことが可能となる仕様である。したがって、ゲームとして用意されたゴールに行き着くために、プレイヤーはある程度侵略者として振る舞わねばならないという問題を構造的に孕んでいる。プレイヤーが強制的に侵略者たる和人としてストーリーを進行し、他の民族の文化や思想は尊重するも、こと自然=神=カムイたるポケモン自体に対しては開拓行為を肯定せざるを得ないのだ。
ここまでの『アルセウス』のポケモン支配をめぐる議論は、フィクションにおける開拓、文明化とわたしたちプレイヤーとの関係にすぎない。しかし、いまもなお現実の北海道において「フロンティア精神」が無邪気・無批判に自分たちに根ざす哲学のように語られることも多い。たとえば、北海道大学(旧札幌農学校)はこの言葉を教育研究に関わる基本理念として掲げている。
約150年前の明治2年に開拓使が設立され、北海道、そして開拓の拠点としての札幌市の歴史が改めて始まった。あわせてクラークなどを御雇外国人を招きアメリカ等からの技術を実装する場としての札幌農学校の開校や、北海道博物物産陳列場をはじめとする博覧会や物産展の会場となる中島遊園地(現・中島公園)の整備、大通公園・円山公園の設計開発と進んでゆき、いまの札幌の風景が存在する。建築物や公園は重要とされ、いわゆる赤レンガ庁舎や時計台、天皇とゆかりのある清華亭や豊平館については移転や補修により保全されている。北海道百年記念塔は雪まつりの雪像のように、役割を終えたものとして解体されたにもかかわらず。
座談会における北海道百年記念塔の在り方についての言及において、北海道がいまもなお開拓時代を尊重する目線が論じられる。
百年記念塔の解体と開拓時代の歴史遺産の保護が並列している状態の歪さや、北海道の人のほうがむしろアイヌ民族への言及を忌避してしまうこと、北海道が積極的に開拓を肯定してしまうことの功罪への言及が目立つ。
『建築ジャーナル2023年10月号-特集:アイヌ民族と建築-』や『ポケットモンスターLEGENDSアルセウス』はそれぞれ、今なお問題を抱えている開拓やアイヌの問題について、リアルとしての歴史とフィクションとしての物語、ふたつの方向から切り込んでいる。北海道で歴史について触れるとき、いまもなお、開拓の文化とアイヌの文化を分解し、別々の空間に切り出すことが多い。北海道は、歴史認識を浅いままに留め置いて明治維新以前以後を連続したものとして認識しないこと、開拓行為を無批判に前向きに捉えて歴史を脱臭することを、試み続けてしまっている。この試みに抗い、新しい北海道観を展開する必要がある。そのためにいまいちど、2010年代の北海道について振り返ろうと思う。
#おたよりコーナー#61
イメージ/タグ付けの現在
前章では、現代の北海道のメンタリティの再確認を主題として論を進めてきた。北海道は今後も自らの本来の姿、歴史への態度を改めず、開拓を前向きなものとして肯定し、実態を「北海道らしさ」というフィクションで包み込んでいくだけなのだろうか。大きな主体としての北海道は、「北海道らしさ」の模索というイメージの操作と、大きな事業のための開拓の再演=スクラップアンドビルドを主な手段として再生産をしている。北海道はピースフルなミルクランドとしてのイメージや、「試される大地」に代表されるキャッチーなフレーズ、歴史が浅いという自己認識、開拓を誇りとするフロンティア精神といったわかりやすい要素に覆われている。これにより、連綿と続いてきた文化を見直すこと、歴史を再構成することが難しくなっている。
2020年代現在、イメージに覆われているのは北海道だけではない。2022年11月から生成AIの一種であるChatGPTが流行した。生成AIがつくる画像や文章は事前学習した情報と、ユーザーが入力したプロンプトを組み合わせたものであり、これはそれなりの文字列や画像が表面的な情報の順列組み合わせで出力できることを示した。写真家・大山顕は『コロナ、戦争、生成型AI……『新写真論』の大山顕が写真をめぐる変化を通して見る「欲望」の現在地 https://exp-d.com/interview/14070/ 』というインタビューのなかで、美少女グラビアの画像生成が発展しているという文脈で、その生成手順について、以下のように言及する。
大山の発言では画像生成AIについて述べていることから、写真・画像が主な対象となっているが、当然生成AIは画像のみならず、文章や動画も生成することができる。多くの人が事物をタグ化し言葉の組み合わせに落とし込み、フレーズや概念をプロンプトとして入力することで、AIに様々なコンテンツを生成させている。翻って、北海道がイメージによって埋め尽くされているということは、大量のタグ=言葉によって北海道が規定されている、ということだとも言えるだろう。人々は「北海道らしさ」を文字列化されたタグやプロンプトとして解釈し、#milkland で #hokkaido_love を満喫することで、北海道に触れる。本来血腥い語りが隣り合っているはずの #開拓 #アイヌ といったフレーズも同様に、単語レベルに圧縮された印象だけを用いることで、過去の征服や侵略、あるいは差別といった問題へ目配せをするだけで、時間をかけて吟味することはせず、文明化や平和や共生といった面だけを扱うようになっている。その帰結が『北海道開拓記念館』が『北海道博物館』という名前に変えることや、アイヌの歴史・文化を学び伝えるナショナルセンターに対する『民族共生象徴空間』という、ある種言い訳じみた名付けにもあらわれているだろう。
ここまで、『タグ』についてInstagramやTwitter(現X)といったSNSを前提として述べてきた。SNSにおけるハッシュタグ機能は、ユーザーが自由に字面・見出し語だけを貼り付けるのみの機能であり、タグ自体の意味や文脈が形成されないという特徴がある。ただし、タグはそういった「見出し語のみの文字列」として投稿同士を関連付けるだけのものではない。たとえば、ニコニコ動画上で用いられている「試されすぎた大地、北海道」タグは、単にタグを読んだユーザーが「『試される大地』のパロディだな」と思うために用意されているわけではない。動画ページ上にあるタグをクリックすると、タグの文脈や用法、含意、初出などについての説明をニコニコ大百科というウェブサイトで読むことができる。前述したSNS類にはこのような百科事典はないものの、はてなダイアリーにおけるはてなキーワード(現 はてなブログ タグ)やpixivにおけるpixiv百科事典も類似の関係性を持つ。タグは検索のソートだけでなく、意味の集積ができる概念である。
Wikipediaがよく知られている一例だが、非専門家のユーザーが項目を作ったり編集したりして、様々な事柄の百科事典をウェブ上に作っていくというサービスは、2000年代に広まった。今も辞典の項目が追加され、内容が更新され続けているものもあるだろう。一方で、2010年代にスマートフォンでのインターネットアクセスが増加し、TwitterやInstagram、TiktokといったSNSが流行するにつれて、ブラウザではなくアプリベースでサービスに接続するユーザーも増えた。サービスの横断が減少したことで、リンクしている辞典側に豊富な意味をもっていたタグは、辞典との接続が断たれ、単純な識別子へと変化していくこととなる。Youtubeやシラスでも、同一タグを持つ動画を検索するために、タグ機能を使うことはできても、そのタグがどういう意味のものかをサービス内で調べることはできない。文化の継続は、タグと百科事典との間にハイパーリンクをつなげること、百科事典を厚くしていくことだろう。
タグ=識別子はAIのためのプロンプトに変わっていっただけではない。2020年代の今、ひとびとは過剰に「意味がある」ことを良いことと思っている。たとえば、マンガに描かれる要素すべてを伏線=全ては意味のある識別子としてしまう考察の流行は、手癖や描き間違いといったエラーも作者の意図するものと信じ「意味がある」としてしまう。逆に、意味がないことの価値が下がっている。意味がない時間があると、視聴者が次の動画に移動してしまい、インプレッションを得られない。ゆえにショート動画で息継ぎをカットする編集が流行しているとも言えるだろう。コンテンツの語りや動画の編集というメディアの読解や製作のレベルで、コンテンツにタグが無い事物=空白は不要とされ、大量のタグを詰め込めるものが有用だと思われつつあるのだ。
タグを通して、現在の「北海道らしさ」は、様々なコンテンツの「カッコいい」「カワイイ」「売れている」といった表層の上張り、単純な識別子としてのタグを切り貼りしたものである。百科事典とタグとのつながりを思い返すと、北海道にまつわるタグはおおよそ、ハイパーリンクが切れている状態の、2010年代以降のタグ文化だと言えるだろう。改めて、タグが百科事典に紐づいた多くの意味を持つものである、という2000年代的なタグへの読み替えができれば、「開拓」や「アイヌ」のみならず、様々な北海道らしさを示すフレーズ、イメージに歴史を、文脈を紐付け直すことが可能になるのではないか。
タグをもう一度、意味や文脈を持つ百科事典につなぎ直すため、北海道における2010年代―『雪ミク』の誕生(2010)から始まり、荒川弘によるマンガ『銀の匙』の連載開始(2011)、『北乃カムイ』誕生(2013)、『ゴールデンカムイ』『フランチェスカ』『天体のメソッド』連載・放映開始(2014)した年代―にどういった変化が北海道に起こっていたか振り返ってみる。
北海道2010年代史
地理的にもジャンル横断的にも網羅はできないが、まずは、2010年代に北海道内で新たに作られたものについて、ハード面・ソフト面ともに並べてみる。主に札幌圏での事象の列挙になることをお許し願いたい。
北海道の空の玄関、新千歳空港の増改修リニューアルが2010-2012年にかけて行われた。リニューアル前は扇型の建物の外周部分で国内線・国際線をともに扱っていたが、旅客増に伴い、扇の中心部から道路を挟んで反対側に国際線ビルを新築、ふたつのビルを跨がる連絡施設からなる建物に変貌した。元々扇の要・中央部分にあった商業施設も箱型に増築され、映画館や温泉といった、これまでの空港になかった施設も取り入れた。2010年以降の新千歳空港は北海道ショールームというコンセプトで、空港でありながら、北海道有数の商業施設という側面も持ち合わせるようになる。
札幌市内では、2010年に北洋大通センターがオープン。1998年に破綻した北海道拓殖銀行の旧本店ビル跡地に建つ、北海道の第二地方銀行である北洋銀行(第一は北海道銀行)の本店ビルである。2011年3月には札幌市営地下鉄さっぽろ駅と大通駅を接続する地下歩行空間(チカホ)が開業。チカホは多くのビルの地下階にある商業エリアと接続しており、大通駅・すすきの駅を接続する南北に伸びたポールタウン、大通公園に平行して東西に伸びたオーロラタウンを含めて、札幌市中心部に地下商業エリアを形成している。但し、チカホはポールタウン・オーロラタウンと異なり、路面店は一部であり、通路・広場としての機能がメインとなっている。2018年には北1条西1丁目、創世1.1.1区(そうせいさんく)と名付けられたエリアに、図書館、劇場、アートセンターという公共施設と、オフィスや放送局といった民間施設が一体となったさっぽろ創世スクエアがオープンした。
札幌圏の外部では、2013年に代官山蔦屋書店のコンセプトを継いだ、蔦屋書店ブランドを全国展開する1号店として函館蔦屋書店が開店。2018年に江別蔦屋書店がオープンした。蔦屋書店は単なる書店ではなく、地域の経済圏・文化圏にコミットし、ワークショップなどのイベントも開催する。函館蔦屋書店のオープンと同じ2013年、道東の大樹町でロケット開発をするインターステラテクノロジズ株式会社(IST)が事業を開始し、2019年には観測用ロケットMOMO3号機が民間初の宇宙空間へと到達した。ISTは堀江貴文がファウンダー(創業者)である。堀江はロケット開発に留まらず大樹町発のプロジェクトを複数プロデュースしている。
公共施設・商業施設といったハード的側面だけでなく、ソフト面ではどうか。前述したマンガ・アニメといったコンテンツの連載開始や活動開始のほか、毎年数万人を動員する洞爺湖温泉街を中心としたコスプレイベント、『TOYAKOマンガ・アニメフェスタ(TMAF)』が2010年から始まっている。TMAF以後、苫小牧(2014-)、小樽(2014-)、札幌市街(2017-)を含め様々な地域で、自治体ぐるみの屋外型コスプレイベントが企画されていく。2012年から開催されている『Public Art Research Center(PARC)』は、チカホを会場の中心とし、現代のパブリックアートとパブリックスペースを多角的に考察していくアートプロジェクトであり、チカホで通行人がいる中でのトークショーやアートパフォーマンスなどが行われている。アートの文脈では『札幌国際芸術祭(SIAF)』は2014年から3年に1度、美術館や資料館、果ては北海道庁旧本庁舎(赤レンガ庁舎)まで会場として、札幌市全体の複数の施設にまたがり、現代アートを中心としたイベントとして開催されている。2014年からは新千歳空港国際アニメーション映画祭が空港内映画館だけでなく、国内線ビルの中央にある催事エリアも使い、「空港全体で発信する、空港だからできる映画祭」を目指してスタートした。
2010年代の北海道において生まれたものを見返すと、人々が集まれる場所の拡大と市民や団体による運動が接続したことによって、イベントやコンテンツが発生しているということができる。ここにある論理は、2020年代の北海道における、民族共生象徴空間ウポポイのような公的な正しさを帯びたものとも、日本ハムによるボールパーク構想のような資本主義的な強さを帯びたものとも異なる。スクラップアンドビルドによって生まれた空間が、新しくなにかを始める集団を排除しないことで文化が成立しているのだ。
こういった集団やイベントが生まれたことは、2010年代のインターネットの特徴も関わっているだろう。2011年の東日本大震災以後、TwitterなどのSNSを中心とした、いわゆる動員の革命が謳われた。SEALDsによる国会前デモの波は北海道にまで強く波及はしなかったが、SAIFは2010年にプレ企画の実行委員会を民間の有志によって発足させていたり、東京をはじめとした地方各地で行われている「文学フリマ」も2015年に札幌事務局が設立され、2016年に文学フリマ札幌の第一回が開催されていたりする。コスプレイベント等を含め、北海道の地域性を保ちながらの動員は様々な面で発生していたのだ。國分功一郎による『中動態の世界: 意志と責任の考古学』(医学書院,2017)が発行された際、北海道弁における「押ささる」という「私は(ボタンなどを)押していないが、現実には(私のせいでなく)押された状態となっている」という表現が、中動態的な表現として注目された。この主体性を動作主から引き剥がすような表現が、和人による征服後150年以上続いているとするならば、2010年代の北海道は中動態だけではなく、能動的な動きをする個人や団体が可視化されはじめた時期とも捉えられる。
タグ付けの暴力に抗う
2010年代が、北海道の中で能動的な活動ができる人々が増え、可視化され始めた時代であることは、いくつかの例を通して提示できたかと思う。これらの活動が、単なるタグ付けではなく、百科事典の一項目と繋げて、意味を集積することは可能だろうか。
『呪術廻戦(芥見下々,2018-,集英社)』というマンガ作品がある。本作における超能力の一種として「術式」というものがあり、呪霊を祓う呪術師のなかには術式を駆使して戦う者もいる。基本的に呪術廻戦の世界で術式が用いられる時、呪術師は世界の解釈=意味を押し付けて攻撃をする。そればかりか、発展形である「領域」では、相手に意味を適用し必中必殺の攻撃を加えることもできる。作中最強の呪術師として存在する五条悟の『無下限呪術』は、現実には理論的に存在しない無限という概念を現実に発生させ、逆に五条と同世代の呪術師である禪院直哉の『投射呪法』は時間を有限に分割するというルールを自分もしくは触れた相手に強制する。悟の領域である『無量空処』は相手を強制的に無限思考させる効果をもち、直哉の領域である『時胞月宮殿』は相手を空間的にも有限化するものである。基本的に領域は結界術を含み展開されるものであり、呪術師の能力によってその適用範囲が決められる。術式・領域に対抗する手段として、術式を無効化させる「領域展延」や「簡易領域」といった呪術がある。ともに意味=術式が存在しない空白を作り出し、空白に相手が押し付ける意味を流し込むことで、呪術師本人への影響を減衰させるというものだ。
なぜ突然『呪術廻戦』の戦闘解説をしているのか、舞台は北海道ではなく、作者も北海道出身でないこの作品は、北海道は関係ないのではないか、と考えた読者もいることだろう。しかし、北海道のことを考えるために、北海道と縁がある事物のみにとらわれる必要はない。むしろ、関係がないように見えるものを用いて語れる自由さが、タグの意味を深めることに必要である。あらゆる要素の「タグ付け」「伏線化」「無意味の拒絶」は、呪術廻戦における「術式」に似ており、それを前提とした議論は「領域」での戦いに似ている。ならば、その対処法は「術式」や「領域」で押し合い、塗り潰すだけではない。「領域展延」「簡易領域」のような空白を作り出すことも戦い方のひとつだと言えるだろう。
現代はコンテンツを要素に分解し、タグをつけたり、伏線とみなしたりする能力が重宝される。主観的な感想では、客観的な価値の付与ができないことと、多くの人が認識してしまっているからである。端的に言えば「それってあなたの感想ですよね」という有名なコメントを真面目なものとして人々が扱っているのだ。議論をショーとして見せる中では、エビデンスがない主観的な発言は短時間でギャラリーを味方につけることは困難かもしれない。とはいえ、個人がコンテンツに触れた感動を、自分の言葉ではなく、誰もが理解できる識別子の羅列で表現してしまうことは、識別子ごとの意味の再確認にはなるが、あなたの感想それ自体を捉えること、扱うことが難しくなってしまう。識別子としてのタグが1つの意味合い、識別子に固定されることを防ぐことができれば、個人個人の自由な感想が流れる状態を作り出せる。同じタグに対して、人々が思い思い様々な意味を考え語ることで、タグをひと目見るだけで理解できる、という単純な世界観は通用しなくなる。複数の意味や使い方が同じタグに重なるとき、タグと接続した百科事典の必要性が再確認されるだろう。
北海道の話題に戻ると、札幌駅-大通駅間の地下歩行空間・チカホは通路でありながらイベントが開かれ、歩くだけではなく、休んだり立ち止まったりすることができる、公園的な地下空間となっている。札幌出身のミステリー作家・川澄浩平による小説『探偵は教室にいない』(2018年,東京創元社)では次のように表現されている。
大道芸はまさしく、公園や広場で行われるものだろう。チカホは、ただ歩くだけ、休んだり立ち止まったりできない「地下街」とは違って、多様性や自由を確保できているのだ。また、多様性のある空間の一例として『呪術廻戦』のノベライズ作品である『呪術廻戦 逝く夏と還る秋』(北國ばらっど、集英社、2019)では、札幌というまち自体が次のように言及される。
少なくとも札幌の中心部では、いくつもの欲望が分割されず、隣接した場所に存在する。たとえば、流行りの洋楽を求めてCDショップに行った足で書店に行きSFの新刊を買い、更に他の専門店と行くというジャンルを跨いだ行動が中高生の徒歩や自転車の範囲で、つまり町から町へ電車などの移動なしにできる。このような趣味間の越境が容易な環境で育った人々が、アートやポップカルチャーを、自分たち趣味人だけでなく、通り過ぎる市民や観光客も巻き込んだかたちで展開する。
まとめよう。第一章では、北海道は自らのイメージ=「北海道らしさ」を歴史に立脚したものではなく、都合がよく響きもよいものに貼り替え続けている。これは、ゴールデンカムイにおける下ネタ(下品なもの)や差別(深刻なもの)から目をそらし、カッコいいコマの切り抜きただ切り貼りしていることと同じであると指摘した。
続く第二章では、建築ジャーナル2023年10月号(特集:アイヌ民族と建築)や、ポケットモンスターLEGEND アルセウスを通して、北海道民の歴史感覚が名維持維新で途切れてしまうことや、開拓を称揚してしまうことを継続しつづけていることを指摘した。
第三章にあたる本章では、改めて「北海道らしさ」というイメージが、2010年代以降のSNSにおける「タグ」のように、言葉の組み合わせでしかないことを指摘した上で、2010年代の北海道における都市や建物といったハード、あるいはイベントやコンテンツといったソフトの変化を通じて、「タグ」に改めて歴史や文脈を紐付けられないかを検討した。
都市部や観光地のど真ん中にある、用途が不特定な余白のような空間で、イベントや芸術祭、映画祭を開催するようになったのが、2010年代の北海道である。イベントのはじまりは、官製のハコモノや、鶴の一声による一回限りのイベントと見分けがつかない。多くの人がただ集まっているだけに見えるイベントは、ハロウィンにかこつけて渋谷に集まる= #ハロウィン にかこつけた群衆と同じようにも見えるかもしれない。ただ、毎年あるいは周期的に開催し、5年10年と淡々と続くことにより、趣味人の中ではもちろん、通りすがりのひとからも、景色のひとつとして認知されていく。その中には共に活動し始めるひともいるかもしれない。全てがそう、ということは言えないが、先に列挙した個々のイベントは、アーカイブや参加者・認知者の増加によって、単一で存在するタグではなく、文脈や歴史をもった百科事典が作られ、ハイパーリンクによって繋げられるものになっていく。そのために、チカホのようなスペースのある通路、一般客から見えるところでイベントが開ける函館蔦屋書店や新千歳空港のような商業施設など、余白のある空間に何かしらの団体がイベントを持ち込む必要がある。閉ざされた区画ではなく、開かれた空間で、今あるルールと調整をしながら、新しいものを生み出していく。ルールの変化を、イベントが続いていくことで、直接参加していない人の認知も含めて許容していくエコシステムとなっている。
「北海道らしさ」というイメージ=タグを人々が個別にもつ文脈や歴史と紐づけることで、一回性のアテンションを獲得するだけでなく、時空間的な広がりが獲得される。2010年代の北海道で生まれ、現在も根付いているイベントは、新しく作られた空間が用途を限定していないことや、本来とは異なる使い方に対してゆきかう人々が寛容であることで成立している部分がある。更に、札幌市が顕著だが、人々の複数の欲望を分割しない空間で行うことによって、同じイベント、同じタグに対して一対一対応の意味ではなく、参加者ごとに異なる意味や文脈を重ねることに成功しつつある。異なる文脈の積み重ねは、タグから参照される百科事典のような情報集積となり、ひとびとが同じタグを使うことでネットワークがつながり、タグが内包する意味を書き換えながらイベントやカルチャーが継続していく。
北海道は150年程度の歴史しかなく、我々はその歴史の最先端にいる、としたり顔で語る経営者や政治家もいるかもしれない。開拓百年記念塔が屹立し、旧土人保護法があった時代を生きてきた人々に、その認識をリセットせよということは困難だろう。加えて、コスパ・タイパを良さと捉える価値観のなかでは、明確な意味や目的のない空間が、無駄なものと指摘されるかもしれない。それでも、開拓前の北海道が何も無いと捉えるのではなく、別の価値観における豊かさがあったと見直すように、あるいは、北海道が意味=タグ=イメージに溢れていることを無批判に受け入れないように、不明瞭な余白自体を武器だと認識することの重要さは変わらない。余白があることで、ひとびとは「参加者」「ファン」「通行人」といった複数の立場・視点でイベントやコンテンツに関わり、これまで作られたイメージを書き換える可能性に手を伸ばしていくこととなる。
わたしたちはこれからも、異なる属性を架橋しながら、「北海道らしさ」のタグと繋がる百科事典に新しい項目を書き足したり、書き換えたりし続けることで、いつの間にか複雑なままの新しい「北海道らしさ」を手に入れていく。あるいは、北海道について単純化せず、それぞれの立場のまま、いろいろなことを考え、語り、遺し、繋いでいく。北海道を好きでいること、愛しているということは、#hokkaido_loveをタグ付けすることではなく、そのタグの裏側にある意味や文脈を自分なりにつなげていくことなのだ。
以上!なんだかんだ一年以上かけて書くことになりました。当初は発刊されていなかった『建築ジャーナル 2023年10月号』などと繋げながら、どうにか一旦ここまでというところまでおたより(?)として送れたと思います。さやわかさんに読まれることで、手直しの方向性などもなんとなく見えていますので、いつか文フリなどには、出せたら、出せるかな……普通に自家通販かも……?頑張ります。呪術廻戦パートはもう少し練って、突然出てきている感じじゃないようにしたいな、というのと、書いてから時間が経ってることで「北海道らしさ」って変容してる?という検討ができるといいですね。