おたよりコーナー#7#8のやつ!
記事化していなかった!完全にコピペです!
(あとからリンクとか貼ります)
#7のやつ (ほぼ別記事と同文、おたよりの前振りは未保存でした)
アニメ『少女☆歌劇レヴュースタァライト』は、聖翔音楽学園第99期生の9人「九九組」をめぐる物語である。
テレビアニメ版のあらすじは、主人公である愛城華恋は幼馴染で転校生の神楽ひかりとともに学園祭の演目”スタァライト”の主役を目指すというもの。しかし、スポ根作品のように、各人の演技力や歌唱力の競争によって主役の座、”ポジション・ゼロ”を奪い合うのではない。実態はそうなのかもしれないが観客=視聴者が見せられるのは、地下劇場と呼ばれる空間で、剣や弓や斧といった武器を扱い、舞台装置を駆動させ、相手の上掛けを落とせば勝利という”レヴューオーディション”という戦いである。何故か舞台少女はバトルロイヤルの参加者なのである。更に、物語中盤では登場人物のひとりが何度も去年の演目を繰り返したいという欲望によって時間をループさせていたことが明らかになる。愛城華恋と神楽ひかりは、ループを脱し、強者を下し、見事ふたりで主役を演じ、最終回を迎える。
表向きの演劇系女学園モノであるという設定は、女性アイドルコンテンツ(『アイドルマスター』『AKB48』『ラブライブ』など)の延長線上にあり、裏での地下闘技場でのバトルロイヤルや、戦いがループ構造をもち、何度も繰り返されているという設定は『仮面ライダー龍騎』『ひぐらしのなく頃に』『艦隊これくしょん』などの延長線上にある。キャラクター同士の巨大な感情のぶつかり合いが、日常的なシーンだけでなく、戦闘のなかでなされるという点では、『HiGH&LOW』シリーズと共通する点もあるだろう。
『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』では、高校3年生に進級し、最上級生として新入生育成に携わる傍ら、九九組はそれぞれ卒業後の進路について、進学や劇団所属を選択することになる。九九組は劇団見学へ向かう途中”レヴューオーディション”ではなく”ワイルドスクリーンバロック”と呼ばれるステージ、新たな戦いに巻き込まれる。一方で愛城華恋は悲願であった”スタァライト”の上演を終えており、将来の目標がなくなってしまっていた。”ワイルドスクリーンバロック”と、愛城華恋の幼少期、神楽ひかりとの出会いから聖翔音楽学園への入学までの前日譚がストーリーラインの二本柱である。
九九組の9人の縁は、彼女たちの舞台人生のなかでたった3年間しかない、かけがえのない学園生活での関係性であり、”レヴューオーディション”は限られた時間・空間で最もキラめくトップスタァは誰なのかを決めるステージである。その3年間が終わった今、誰が一番優秀なのか、正しいのか、完成なのかといった階級の構造は崩れ、それぞれが別々に巣立った先で舞台人として生きていくことになる。”ワイルドスクリーンバロック”での勝敗はケジメであって優劣ではない。勝つことで選べること、負けることで選べることがある。九九組でなくなる9人が道を分かつ為の通過儀礼として存在しているのだ。
キャラクターたちが卒業し進路を決めてしまった今、観客である我々はどうすればよいだろうか。アニメだけではなく、ミュージカルやゲームによって作品世界は拡大を続けており、コンテンツの終幕は先のことになりそうだ。しかし、少なくとも九九組のアニメ作品としての物語は完結した。
振り返れば、主席はどんなに強大に描かれていても、欲深き人間だった。主人公は奇跡の力をもつ存在ではなく、ただ努力研鑽した人間だった。『少女☆歌劇レヴュースタァライト』は、実は恩田陸の『夜のピクニック』や『六番目の小夜子』のような青春物語だったのだ。であれば、高校生という戻れない「いま、ここ」にいるからこそ立ち現れるキラめき、そこでの競争と表彰は、武器を手にした戦いに依らずともよかったはずである。観客=視聴者がキャラクターたちの関係性をより強く、より激しく求めたことによって、巨大な感情が渦巻き、派手で壮大で残酷で破壊的に見えるステージ、”レヴューオーディション”や”ワイルドスクリーンバロック”として表現されてしまったのだ。
そうであるならば、他作品からの影響、考察や解題によって物語に燃料を与え、戦いのステージに彼女たちを引き戻すのはまだ先のことでいいだろう。私は、ひとつの物語が終わったことに対して、ただ割れんばかりの拍手と喝采を送ることを選択する。
お読みいただきありがとうございました。
こんばんは、神山です。6月のおたよりコーナー、オンタイムで見ることはできませんでしたが、さやわかさん、コメント欄の皆さん共々、『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』についての、自分の文章に対しての反応、ありがとうございました。ご指摘の通り、「キャラクターが傷ついている!どうすればいいのだ…」という部分の理屈をぶん投げた、エモい終わり方を意図して書いていました。書いている途中はいいのですが、結び方にいつも迷ってしまいます。結果として、論理の投げ方が下手だったし、ちゃんと理詰めをしたうえで表現を選んで結ばないとならないな、と思いました。
今回は、昨年写真家の青山裕企が出版した写真集「少女礼賛」についての文章を送ります。
青山裕企は『スクールガール・コンプレックス』のひと、と言えば、どんな写真を撮るひとか、ピンとくるだろうか。アイドルだと指原莉乃や生駒里奈の写真集を担当したカメラマンである。『ソラリーマン』(2009年)にせよ『スクールガール・コンプレックス』(2010年)にせよ、そこで撮影されるモチーフは”日本社会における記号的な存在”であり、彼が撮る写真は、それが個人アイドル名義の写真集だったとしても、どこか交換可能な、被写体の内面と同じくらい、纏っている「属性」について着目しているものである。そういったフェティッシュな(あけすけに言えば、えっちな)属性だけに目を向けた『絶対領域』(2011年)『パイスラッシュ ―現代フェティシズム分析―』(2012年)といった写真集も刊行している。
誰にでも撮れそうで、唯一性が得られそうで、嗜好を満たしてくれそうだ、という安易な理由でポートレートやグラビアの撮影会に参加したり、コスプレイヤーを撮影している人は少なからずいるだろう。私自身もそういったイベントに参加していた。そこでは「属性」を強調した写真が撮られ、いいねの数やフォロワーの数などの競争に発展していく。これは青山の『絶対領域』『パイスラッシュ』などの延長線上にあり、極端に言ってしまえば「下着のみ」を超えて「ほぼ全裸」という状況すらあるし、それを前面に売り出している会もある。カメラマンの欲望の対象が誰でもいい状況で、肉体に触れることがないという点では安全かもしれないが、モデルやアイドルといった被写体へのケアが後回しとなった、インスタントな消費を提供されている。
青山は2018年の夏からひとりの女性を撮り続けている。どのような経歴の人物なのか、まったく不明。ただ、彼が提供する写真作品のなかでのみ、存在を認識できる女性である。日々写真が蓄積され、それが2年経ち、1冊の写真集となった。フルヌードが収録されていることからも、彼女は児童の定義にあたる年齢(満18歳未満)にはあたらないらしい。そういう意味では、彼女は「少女」ではない。しかし、青山は彼女に「少女」というタグをつけた。
顔・表情が入った写真がなく、関係性や肉体のフェティッシュさを強調する『スクールガール・コンプレックス』や『絶対領域』『パイスラッシュ』といった写真集とは異なり、『少女礼賛』は顔を写し、匿名ではあるけれど一人の人間としての「少女」が写っている。青山の写真一枚一枚はあまり大きな変化はない。しかし、匿名性に包まれた写真を生成しているのにもかかわらず、単なる属性の写真だったものが大量に集積することで、想像力が動き出し、単なるコンテンツではなく自分と同じ人間であることが思い出され、ひとつの属性への収斂が困難になってしまう。
被写体は魅力的な属性、パーツさえあれば「誰でもいい」から、その被写体の人格や人生への「ケアを蔑ろにしてしまう」という状況への対抗策の一つとして、物量によって唯一性のある人格や人生への想像を駆動させることができるということが講じられた。勿論、このように大量の情報を提供することそのものが、被写体を搾取する構造になる危うさも考えられるだろう。そうであっても、青山は被写体自身をマネキンでなく人間たらしめる方法のひとつをポートレート撮影の最前線にいる一人の写真家として示したのだ。写真集『少女礼賛』は、撮られていない時間の「少女」について、想像、あるいは妄想を促し、かけがえのない存在であると認識させる、これまでのポートレート写真集に対して挑戦的な一冊である。
お読みいただきありがとうございました。