少女☆歌劇 レヴュースタァライトとはなんだったのか②
だいぶ時間がかかってしまったな。どうも、神山です。
去年の12月に書いた『少女☆歌劇レヴュースタァライト』のミュージカルとアニメの本編について、どういった作品だったかを書いた記事(途中穴が開いてはいる)の続きです。煮え切らない部分もありますが、前後編合わせてちゃんとした形でいつか発表しますね。
・観客について
①では、『少女☆歌劇レヴュースタァライト』TVアニメと劇場版アニメ、舞台第1作と第2作について検討し、愛城華恋を中心としたキャラクターたちが舞台少女として成長し、ループを超え、舞台少女はたとえアニメという枠が終わっても、実存としては終わらないことを述べた。一方で、作中の苛烈な表現の原因として観客が存在することが述べている。後編では舞台創造科=観客について考える。
『少女☆歌劇レヴュースタァライト』では演劇とアニメにおける観客を異なる存在として捉えているだろうか。空間的に演劇は舞台の上の役者や背景について、観客が自ら見る範囲を決めフォーカスが出来るメディアである。これはカメラによって焦点が、画角が決められる映像作品と根本的に異なる部分である。また、時間的に演劇はその一回しか存在しないものであり、同じ脚本、同じ役者、同じセット、同じ舞台であっても、毎回完全に同じものとはならない。間のとり方、距離の置き方、それぞれが異なる。しかし、アニメは毎回同じ時間が流れる。演劇は観客ひとりひとりが見ているものが同じでありながら、違う切り取られ方をしている。舞台版については、もちろん観客が画角や焦点を選択する。アニメ版については、製作側が意図した画面が観客に提示されるが、その「意図」自体が観客の望みの反映であると、TVアニメ版ではキリンにより指摘され、作中で愛城が繰り返していたことは、「同じ舞台は二度とない、これはアニメではなく、舞台なんだよ」ということである。キリンの指摘、愛城の主張から、アニメと舞台の観客も演者も同じ存在の別の側面に過ぎず、それぞれが独立したものではないことがわかる、
『少女☆歌劇レヴュースタァライト』において観客は「舞台創造科」と呼ばれる。作中ではB組・舞台創造科が九九組属するA組・俳優育成科の同級生として、舞台装置や脚本を手掛ける。地下劇場の管理人たる「キリン」もまた、舞台少女の立つ空間・舞台を用意する者である。劇場版アニメでは更に舞台少女の燃料と表現されるモノとして「トマト」が追加される。舞台少女はトマトを口にし、ときに潰し、それらエネルギー源として動くものだと示される。舞台創造科、キリン、トマト。劇場版アニメではキリンがトマト(と同属性と思われる野菜)に変化するシーンも描かれる。これらは、次のような差があるものとして表現されていると考えられる。
キリン:自身の拡大再生産の為に投資され続ける資源=固有名のある巨大な資源(資本)
トマト:舞台少女のキラめきの為に消費される燃料=匿名の資源
舞台創造科:演者と相互に価値を供給しあう並列の存在=演者と同様に唯一性をもつ存在
キリン=資本は週ごとに変わる特典で観客を動員させ、劇場公開期間が延長されることで、幾度も戦いのステージに彼女たちを引き戻す。それらに惹かれ、観客=舞台創造科は舞台に足を運ぶ、グッズを買う、ゲームを遊ぶ、アニメを見るといったスタァライトコンテンツそのものに時間や費用といった資源=トマトが使われる。舞台創造科は卒業するまでの間、キリンとトマトの狭間で舞台少女と並走する。
『少女☆歌劇レヴュースタァライト』は、舞台少女の刹那性と戯曲や舞台といった存在の永続性が対比され駆動する青春物語である。『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』は、舞台少女たちの決意の物語であり、遺書である。勿論、舞台やゲームなど、同プロジェクト内の他のメディア展開は残っているものの、少なくともアニメシリーズの時系列の中に舞台少女としての九九組は、もういない。勿論、舞台少女だけが舞台人なのではなく、舞台創造科も舞台を成立させる主体であり、九九組だけでなく多くの俳優育成科と舞台創造科の協力によって聖翔祭のスタァライトが生み出されることはTVアニメでも、劇場版でも明示される。作中の舞台創造科B組は九九組が属する俳優育成科A組とともに卒業し、卒業後の未来を生きていく。ともに同じ時間軸の中で生きているのだから、刹那性に属するだろう。
一方で作品外の舞台創造科である我々は、卒業せず作品と関わり続けることが可能である。我々は作品が終わっても構成要素や原典について考察し、言明する。おそらく、舞台やゲームといった他のメディア展開が終わったあとも。これは最早戯曲や舞台といった存在と同じく永続性に属するだろう。すなわち、舞台少女=刹那性=舞台創造科/戯曲・舞台=永続性=我々という対比が可能となる。これは資本的に燃料を与えつづけるキリンとも、個々に燃料となるトマトとも、卒業する舞台創造科とも異なる。
・舞台創造科だった我々
舞台創造科だった者=我々は他作品や社会情勢からの影響について考察し、作中に散りばめられた諸要素の解題をする。古典文学の中にスタァライトを見出すかもしれない、現実の東京タワーに約束を重ね合わせるかもしれない。世界の諸要素にキラめきを見つけるとき、我々は世界に彼女たちを思い出させることができる。
舞台少女たちは次の舞台へ進み、舞台創造科もともに次の舞台へ進む。愛城は神楽をループから取り戻すために、戯曲スタァライトを自ら翻訳し、新たな解釈を提示した。過去99回のスタァライトでは提示されなかった新たな可能性は、101回目の新しいスタァライトにも繋がっていく。我々はアニメのように繰り返される作品を、演劇のように視点を切り替え観劇し、新たな物語を構築することができる。それは二次創作と呼ばれるのかもしれないし、ファンアートと呼ばれるのかもしれない。観客がとりうる責任があるとすれば、自身の好きな方法で『少女☆歌劇レヴュースタァライト』を語ること、ただそれだけなのかもしれない。
(完?)
前段にも書いた通り、アイデアはあるものの歯切れのいい形になりませんでした。①も含めて1本芯の通った評論文にしたいですね…。
と思っていたところに、ばななんと、有志による劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライトの合同評論(考察)誌の発行が決まりましたので、即参加を決めました。完全版、ここで書きます。
…といっても、字数制限や卒業論文という条件があるので、おそらく究極完全体グレート評論は次回文学フリマ札幌にて発行予定の「カルチャーお白洲おたよりまとめ本(仮)」で発表になるかと思います。
まずは合同誌を刮目して待つべし。ではでは。
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