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おたよりコーナー#31で読まれました

れ、連載になるのか…?どうも、神山です。
久々におたより更新。リアルでは北海道各地に彼女とキャンプに行ったり、直売所で野菜などを買ったりしており、なかなかオンタイムで参加していませんが、アーカイブを信じてやっていきます。
キャンプ、つよつよ装備じゃなくても全然楽しいですね、ありがとうDCMホーマック。


さやわかさん、おたより戦士のみなさん、こんばんは。神山です。今回は知名度とか売れ行きとかの文脈をぶった切ってゴールデンカムイとフランチェスカを併置するぞ!というトンチキ論考を送ろうとしていたのですが、前提となる北海道の話だけでボリュームが出てしまいました。なので、北海道についてのおたより、です!

「北海道」という言葉がもつイメージの力は道内外問わず強力である。北海道ミルクや北海道メロンと北海道の文字が入っていれば、ちょっとした特別感を感じる人がいるだろう。商品のちょっとした質のよさを担保してくれそうな雰囲気「北海道らしさ」がある。このカッコ書きの「北海道らしさ」に縛られた作品として『フランチェスカ』があることを、以前おたよりでお送りした(おたよりコーナー#9)。そして今年、明治時代の北海道を舞台とし、『フランチェスカ』と登場人物のモデルが重なるマンガ作品『ゴールデンカムイ』が完結した。この作品もまた、「北海道らしさ」を踏まえたものだったと思う。

フィクションや観光用の雑誌だけでなく、『北海道民のオキテ』(さとうまさ&もえ、KADOKAWA/中経出版 2014年4月)『BRUTUS特別編集 北海道の大正解』(マガジンハウス、2021年8月)『地球の歩き方 北海道』(学研プラス、2022年6月)といった、北海道についてより知れるという触れ込みの書籍が書店に並んでいる。これらの需要は、より正確な北海道像を確保したいという消費者が増えていると予感させる。これも「北海道らしさ」を巡る現象と言えるかもしれない。

このカッコ書きの「北海道らしさ」を振り返りつつ、イメージの大地たる北海道について思考を巡らせていこう。

ゲンロンカフェにて行われたトークイベント『さやわか×武富健治×春木晶子 北海道を衝け――番外地はいつミルクランドになったのか』では、北海道は外部からどのようなイメージを持たれているのかを内面化し、自己イメージの操作に特化している土地と語られた。他者からの過度なイメージ変化を拒絶するのではなく受容し、イメージの再生産を繰り返す気風があるとも言われていた。

イベントに登壇した批評再生塾4期総代、元北海道博物館学芸員(現江戸東京博物館学芸員)の春木晶子は論考『あなたに北海道を愛しているとは言わせない』で、村上春樹の作品分析と近世における蝦夷地という空間の扱い方を通して、現在の北海道について次のように述べている。

ピースフルでナチュラルな、「果てしない大空と広い大地」の「北の国」。今日、かの地に注がれるポジティブな眼差しは、決して外から与えられるばかりのものではない。北海道に暮らす人々もまた、それこそが北海道らしさなのだとぼんやりと、疑うことなく信じている。人々は、そうした愛される北海道をこそ、愛している。[中略]牧歌的なポジティブイメージにとって、アイヌ民族の土地と文化の収奪、移住者や労働者(士族/民間移住者、囚人労働者、タコ部屋労働者)たちの夥しい犠牲によって成し遂げられた北海道の形成といった辛気臭い「開拓」の歴史は、邪魔である。「自然豊かな北海道」「自然と共生するアイヌ民族」。行政やメディアが主導する宣伝文句が、無批判に無邪気に繰り返され、蔓延するというわけだ。

あなたに北海道を愛しているとは言わせない(前編)より

それ(引用者註:『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド/村上春樹』における二つの世界の関係)は、一元化の論理におさまらないものや禍々しいものを蝦夷地や鬼門に押し込める、近世以来の日本の態度そのものだ。[中略]近代から今日にかけては、羊の毛皮のごとき、ナチュラルでピースフルな北海道のポジティブイメージを愛し続けている。それが元来禍々しさを封じ込める形であることや、可哀そうで空虚な内実を覆う皮であることを忘却しながら。

後編より

春木の言葉を借りれば、近世では禍々しいもの、理解しがたいものを押し込めた『蝦夷地』、近代以降はナチュラルでピースフルなイメージを押し込めた『北海道』という扱いを内地=道外・中央からされている。にもかかわらず、道民=北海道のヒトはそういった外部からのイメージの使われ方について、前向きなものとして受け取っている。それらのイメージは既に禍々しい過去、血腥い排斥や収奪、戦争といった歴史から目を背ける口実になる、という文脈から切り離されている。

ここまでの「イメージ」、事物が記号化したものを指す言葉は、人物(実在・架空問わず)が記号化したものを指す「キャラクター」とほとんど同じ用法だろう。前述のゲンロンカフェ北海道イベントに登壇した物語評論家・さやわかは、ゲンロンβ連載の『愛について』にて、『動物化するポストモダン/東浩紀』(講談社、2001年)を通し、以下のようにキャラクターについて述べている。

ある人について記号的に捉え、固有の人格ではなく類型的な特徴による理解を優先すること。これを筆者は「キャラクター化の暴力」だと考える。 もともと「キャラクター」という言葉は、日本ではアニメやマンガ、ゲームなどのポップカルチャーの登場人物を指す言葉だ。それがゼロ年代以降、人間を語るのにもよく使われるようになった。ときには「そのキャラらしさ」に沿って行動することが同調圧力的に強要され、そこからはみ出そうとすれば「キャラと違う」などと諫められる。[中略] 東のデータベース消費モデルでは、データの読み込みと書き出しが頻繁に行われ、そのプロセス自体の存在をユーザーが常に意識することが、短絡の検知部として機能する。[中略]私たちはこの往復運動を意識することで、不断に記号とデータベースの照合を行い、あるいはデータベースを書き換えながら、記号と現実を切り離すことができるはずだ。

愛について──符合の現代文化論(7) 符合のショートサーキット(2)より

北海道は、より分厚い「今の北海道らしい」毛皮を求めてキャラチェンジを繰り返している。さやわかの言葉を借りれば、北海道は外部から与えられたひとつのキャラクターを継続しているだけではなく、自らデータベースを書き換えているとも言えるのだ。

ゲンロンカフェイベントかアフタートーク配信(要出典)にて、インターネット言説と北海道のイメージ操作の親和性、類似性について語られていた。ここでのインターネットとはweb2.0、ユーザーが作成した作品をプラットフォーマーが提供するサービスに載せてコンテンツが拡散し、その切り抜きを別の空間でも連鎖するような構造をもつインターネットである。簡単に言えば、ユーザーやプラットフォームがコンテンツをフルサイズで共有するだけでなく、要所要所を切り取った断面をみんなが再利用できるものになった状況ということである。これについて、さやわかは『さやわかのカルチャーお白洲 理論編(ノウハウ #30)「説明の技術」⑦~文脈とは何か?どう文脈を理解すればいい?簡単ですよ…?』(2022/8/24配信)にて、

別々の場所に存在する断片が統合されることでコンテンツとなりつつ、また別の場所から参照されていく=常に断片化を伴う=常に別の文脈に晒される。

理論編ノウハウ#30より

と述べた。もちろん、この抜き出し自体が私の論考に都合のいい使い方ではあるにせよ、構造を知った上でコンテンツや言説に目を向けなければ、切り抜きや要約といった語り手にとって都合のいい背景に基づく言説が力を持つようになってしまうとも述べられていた。

『ゴールデンカムイ』の連載開始や『フランチェスカ』のアニメ放映が始まった2014年は『天体のメソッド』という洞爺湖を舞台とするアニメが始まった年であり、2013年に一度引退した北海道応援キャラクター『北乃カムイ』が復活し現在に至る活動を始めた年であり、新千歳空港国際アニメーション映画祭が始まった年でもある。

更に周辺の年に目を向ければ、初音ミクがさっぽろ雪まつりのキャラクター『雪ミク』となったのは2010年、荒川弘による漫画『銀の匙』が始まったのは2011年であった。もちろん、ビジネスモデルとしての聖地巡礼などが着目され、日本の複数の地方で同様の機運が高まった期間だったという、道外からの影響もある。それを踏まえても2010年代前半は、北海道が農林水産物や景観といった土地と切り離せない観光資源とは別に、マンガやアニメといったサブカルチャー(ポップカルチャー)の中に強く進出する何度目かのタイミングだった。

ひとびとの語りの断片によって文脈が見えなくなり、個別の言説に振り回されるようになったWeb2.0以後。そのインターネットを実装してしまったような北海道という土地と、フィクションと現実世界が交差するような作品構造は相性がいい。『ゴールデンカムイ』『フランチェスカ』に限らず、北海道は多々そういった都合のいい空間として用いられており、自らその構造をメタ的に分解し、再生産しイメージを改変し続けている。

フィクション作品から離れても、そういう動きはいくつも見られる。あまりにも有名な「試される大地。」というキャッチコピーとロゴもその一つだろう。いまは公的に使われていないものの、残置されている広告などを目にしたこともあるだろう。このコピーとロゴは1998年の北海道イメージアップキャンペーンで公募されたものだ。このキャッチコピーについて北海道Likersというポータルサイトに掲載されている「意外と知らないかも!? 北海道の代名詞「試される大地。」が生まれた理由」という記事が詳しい。これによるとキャンペーンは2000年代に入る直前、新時代に北海道が目指す方向や生き方、理念を広く問いかけようというコンセプトで開かれたものだった。最終的に選ばれたキャッチコピーとロゴは道内在住者の作品ではなく、横浜の人、京都の人のものだった。しかも、後者については北海道に訪れたこともなく、イメージのみで作ったものが採用されたとのことだった。更に、長時間の会議を経て選ばれたコピーについて当時の道知事は【“試される”とは、決して辛い意味で「試される」というものではなく、「自らに問いかける」あるいは「世に問う」というプラス志向を示す言葉であるとともに、「try」の意味が込められている】という解釈を述べている。

このコピーは残置されているだけではない。2009年から北海道札幌市豊平川河川敷(中島公園駅近く)で開かれている『チルノのパーフェクトさんすう教室踊ってみたオフ』(通称・チルノオフ)の動画に付けられたタグは『試されすぎた大地、北海道』であり、10年を超えた今でもオフは行われており、使われ続けている。『呪術廻戦17巻 第146話/芥見下々』(集英社、2021年)でも主人公・虎杖が北海道を指して「流石 試される大地」と言っているコマがある。キャッチコピーが『その先の、道へ。北海道』に変わったとしても、『試される大地。』というコピーは未だに北海道をイメージさせる言葉として流通しているのだ。

今後も、北海道を舞台としたフィクション作品はマンガ・アニメに限らず多く制作されていくだろう。そこでは多くの「イメージとしての北海道」が扱われる。もしかすると多くの道民は北海道企業は個々のコンテンツの内容に踏み込まず、ただ北海道が取り扱われていることに着目するかもしれない。外部の現象に一喜一憂し、商業的に効果があるかどうか、公共的に効果があるかどうかを判定基準として作品に接していくだろう。『ゴールデンカムイ』に多くの変態囚人が登場し、主人公が下半身を露出したり、シマエナガを食べたりしている作品であることを知らないで、カッコいいコマやシーンの切り抜きを見てヨカッタヨカッタと思っているように。

北海道新幹線が通り、札幌オリンピックを招致しようとしている今、行政や企業はより強い「北海道らしさ」を求め様々な書き換えをするだろう。自戒を込めながら述べるが、具体的に自らの消費活動に影響がある現象があるにも関わらず、それを言葉に遺すという動きはあまり見られない。人々は雪まつりで毎年雪像が作られては壊されていくように、文化の盛衰についても捉えているのかもしれない。すでに大通のファッションビル4丁目プラザが2022年1月末に閉店し解体されており、今後も札幌駅地下の商業施設PASEOが来月9月30日に、大通のファッションビルPIVOTも2023年5月末に閉店する予定となっている。イメージの強化やキャラクターの更新だけに気を取られるのではなく、自らの目や耳、手を用いて150年しかない北海道の歴史、それぞれの建物や施設の歴史を振り返る泥臭い作業を始める必要がありそうだ。コロナ禍が終わり、再び経済活動が本格稼働しはじめる今、ダークな面も、ハッピーな面も、それらをメタに組み替えている面も包含する、複雑な存在として改めて北海道を捉える時期に来ている。
(つづく?)

お読みいただきありがとうございました。

おたよりが不定期連載・北海道について、みたいになってしまった……。書いているうちに春木さんの「羊の毛皮」と金カムの「刺青人皮」が似ているのでは?など思いつき、放っておくと観光消費の最終関門・新千歳空港批評に突入するところでしたが、それはまたの機会に!では!

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