文字列と時間:掛け算順序問題について(コラム!!)
掛け算順序問題、というものがある。延々とSNS上で揉めているもののひとつで、宗教、戦争、政治と同様に人前で言わない方がいいというジョークが生まれるほどの論争の種である。どういうものかというと、足し算や掛け算は交換法則が成り立つため、a×bはb×aと書いてもよい、ということを提示する人と、(かける数)×(かけられる数)なのだから、逆にしてはならないと主張する人との揉め事である。
たしかに、小学生のころは「する・される」の関係を考えて、文章題から式を作って、答えを求めていたと思う。先生によっては、想定の書き方があり、逆順にするとバツになったかどうか…はわからないものの、このやり方で進めましょうと教えていた気がする。一方で、小学校高学年や中学数学以降では加減乗除のうち加法と乗法については交換可能(減法、除法についても負の数や逆数を用いて加法や乗法に書き換えられる)と学んだとも思う。
掛け算順序問題が現れる多くの時、交換法則が成り立っているのにも関わらず、テストでバツがついたという画像がバズり、それに対して数学者や数学に親しんだ人は「○だろ!」と言い、「×になる理屈もある!」と算数教育をしているひとが述べたりもする。数学としては当然交換法則が成り立つ以上、書く順は関係がない。一方で、教育者の立場からすれば「教えた通り」でないときに、偶然答えのみが当たってしまったと判断しうることも分からなくはない。
私も理系の端くれで、一応中学受験をした(落ちています)身でもあるので、数学的な考え方に寄ってはいるものの、数学的に正しいかどうか、あるいは教育的に正しいかどうか、とは別の視点がこの問題を語るのに必要なのではないか、と思う。それが「時間」だ。
早押しクイズ、というものがある。これは、次のような問題が読み上げられ、分かった時点でボタンを押し、回答するというものだ。
読み上げ、という仕組みがあることで、次の2つのような発展形もありうる。
早押しクイズ文構造については、QuizKnockのCEO・伊沢拓司が著した『クイズ思考の解体』(朝日新聞出版、2021年)が詳しいが、これらのようなひっかけクイズは問いが読まれることで成立する問題である。早押しクイズは、ボタンを問題文の途中で押す。したがって、上記のような問題において全文が目の前に表示されているわけでもなければ、回答者が認識しているわけでもない。回答者は聞いた文章から問題文を想像し、ボタンを押して回答をしている。
これが、文章における「時間」である。これと似たような話を『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む』(大和書房、2024年)の著者の一人であり、書名にある「本を読んだことがない32歳」当人であるみくのしんが次のように語っている。
記事の図解を参照しながらだとわかりやすいが、要するに、「長い一文をどうにか【。】まで読めれば、その全体が理解ぼんやりとでもできることを知った」ということである。早押しクイズの問題文やみくのしんの発言を「時間」を絡めて言い換えると、問題文や文章が一区切りすることで一文全体に流れていた時間は止まり、好きに振り返ったり考えたり理解することができる、ということだ。時間が流れていると、それらを行うのは難しくなる。
これが、掛け算順序問題に隠された根本的な問題、ボタンの掛け違いだ。
つまり、掛け算に順序がない(交換法則が成り立つ)と主張している人は、既に書かれた問題文あるいは、一文全体を見た上で言及しているのに対し、順序がある(べきだ)と主張している人は、現在進行形で読まれる文字列として式を理解している、と整理される。数学的に当然前者が正しいという前提で、読み手が意味を取りやすい書き方を選択していますか、頭から順番に読まれる文字列としていますか、と問うのが後者の主張と言い換えることもできる。
最初から相手の手札がわかっていれば、ババ抜きもポーカーも「あの時ああすればよかったのに」とはならない。わからないから、その時々で適切なものは何かを考えてカードを選ぶことになる。カードを選んだときの思考を、掛け算順序にこだわる人は、回答から読み取ろうとしているのではないか。
早押しクイズの問読みを聞くように数式を読むとき、想定していた数字が先に出てこないというのはストレスとなりうる。先程の早押しクイズの例を出せば、3×2が2×3になることが、
と、掛け算順序にこだわっているひとには見えているのかもしれない。国語あるいは文構造としてシンプルな方がよいという主張であれば、掛け算順序にこだわることも理解可能である。
前述のとおり、義務教育すべてが終わってしまった私が過去を振り返って、小学生時分にリアルタイムでどのように計算順番について考えていたのか覚えていないし、こだわるあまりバツをつけるような教師に巡り合ってもいない。ただ、すべてが終わってから振り返るという行為は、リアルタイムで一文字ずつ式を追う、文章を追うという行為側に立っていない。
すべてが既知である、という前提は、書き終わっている文字列には有効だ。こと算数だから、数学だから、明確に定義されているから、全体を見通してしまえば「どのようにしてもよい」と決められる。算数、数学なのだから、それが誤っているということはけしてない。
たとえば一行あるいは一文字読むたびに次の文字が現れるような仕組みの文書や数式があったとき、我々は全体が見えていた時と同じ読み方ができるのだろうか。
という式も、すべてが見えていれば答えが出せる。しかし「2」「+」「3」「×」…と一文字ずつ提示されるとき、同様に考えることは可能だろうか。思考実験に過ぎないが、全体を把握したからこそ、全体俯瞰を前提として語れるのだ。文字列、文章が頭から順番に読まれるということは、多くの場合忘れられがちである。児童が答えを書くときに、そこに流れていた時間は解答用紙の上では止まっている。全体が成立していれば順番は関係ないというのは当然である。合わせて、文構造を正しくせよ、読みやすい順番を心掛けようということは、算数・数学というが教科が担っているわけではない。
文字列を読み、文字列を書くというフォーマットである以上、順番を考える、書くのに流れる時間があるという視点を抜いての議論では、ボタンを掛け直すことはできないのだ。
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