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読書会と読書会のあいだで@月末読書会2020.6

スクショターイム!!!どうも、神山です。

本日は新写真論読書会(オフライン)でした。来週はオンラインでの開催となります。ハーフサイズ2時間程度ですので、興味のあるかたはご参加ください。

さて、今回の課題本は新写真論でした。全体の感想として以下。

 ・どうしてもメルマガでの連載記事のため、同じ話が繰り返しになっている。それぞれの章の横のつながりが強くないので、全体での波が多く、一気に読み通すと疲れちゃう。
 ・カメラ/スマホ、他撮り/自撮り、触っちゃいけない/触れるなどの対比はわかりやすいが、どうしてもガラケーやプリクラ、PCによる現像や加工など、その二極の間にあるものについての語りが少ないと感じられる(読書会参加者の世代がちょうどそれらを通過してきている、というのもある)。
 ・アビーロードの話を踏まえると(少なくともヒトでも動物でもなく、建築や自然を撮影している場合)、撮影するヒトすらも「写真」は必要としなくなってしまうのでは、というSF的発想もあるような気がする。カメラは進化してタップするだけで最良の写真を出力してくれる、という話を突き詰めていくと、ただそこにあるものは「こういった写真が欲しい」という人間の欲望に従って生成してくれるのでは(ハロワだ)。

話しそびれたけど、多分ハーフサイズでも忘れそうな僕の感想は以下。
 ・写真そのものについての本、というより、写真を取り巻く環境を含めた「あたらしい写真様式」についての本であり、今の「写真」のメジャーなところ、物量が多いところについての話は正鵠を射ているし、面白い。
 ・これの出版後に感染症の流行、リモートワークの流行があり、ZOOMなどで自分の顔を見る機会が増えていると思う、自撮りの捉え方はワンステップ進んだような気がする。また、他撮りについても、ZOOMグラフィーなど、離れたところから、他人を撮る、という現象もあり、「そこにいること」自体が揺らいでいるのかもしれない?

先週参加した「遅いインターネット」読書会のことを思い出したりもしました。

僕の通信環境のせいか(Zoomの録音機能かWindowsUpdateのせい)、発話するごとにめちゃくちゃノイズが入ったりするリアル「遅い」インターネット、というか重いインターネットのなかでの読書会でしたが、四象限の話や宇野さんファンとしての発言はできていました。新写真論も遅いインターネットも、現在の潤沢な通信環境が前提となったうえで、主題となっているものがどのように扱われているか、という話がされています。そのなかで特に重なっていると思ったのは「心霊写真」と「somewhereの人々」について。

心霊写真館につめかけた人々にとって、それが本物かどうかは問題ではなかった。長谷正人は「心霊写真は、一部の科学者たちを除けば、心霊の存在の証拠というよりも死者の思いをなんとかこの世に導入したいという人々の呪術的欲望の産物だったと言えるだろう」と言い、[……]つまり人々にとって心霊写真は追悼となぐさめのためのものだったのである。(新写真論p.76)
あたらしい「境界のない世界」の「Anywhere」な住人たちは、トランプの嘘を暴けば旧い「境界のある世界」の「Somewhere」な住人たちは自分たちの側につくと考えがちだ。[……]むしろ、こう考えた方がいいだろう。彼らはトランプのアジテーションを「信じたい」のだ。[……]フェイクニュースを人々が信じるのは、それが正確な情報だと判断するからではなく、それを信じたいからだ。[……]ほんとうに問題とすべきは、フェイクニュースの偽りとフィルターバブルの陥穽(だけ)ではない。むしろそれを望んでしまう欲望の方なのだ。(遅いインターネット 位置No.518)

ここで、19世紀の人間と現代の人間を似ている、とするのはだいぶ乱暴だと思うが、現代の人間も写真に対してフィルターや加工によって「よい自分」を信じたいと思っている(筆者である大山は「盛り」に対して肯定的)。

自分の見栄えに各種バージョンがある、というのは現在では当たり前のことだ。「盛った」写真がそれにあたる。[……]目を異様に大きくしたり、顎のラインを細くしたり、SNOWアプリで動物の耳や鼻をコラージュするといった「身体の異変」は、まさに現代の心霊写真にほかならない。

どうしてもシャーマンキングを読んでいるので、憑依合体とかオーバーソウルとかがよぎるのですが、なんにせよ善良な幽霊と共生していきたいですね。

さて、続きは来週のハーフサイズ読書会で。Zoom開催なのでお気軽にどうぞ。

ではでは。

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