投影しないようにするのではなく、図太く腹の底から赦したい。
ラファエルにたいして、先生のような、神のような、私をジャッジする力をもった存在を投影し、恐れていて、関係性をコントロールすることで何かを避けることができると思っている。
今日、自分のブログに書いた「神とは異なる決断をした」という言葉にすごく恐れを感じているのに気づいた。
何か本当に自分一人だけ、とんでもない間違ったことをしでかしてしまったみたいな。
ラファエルへの投影に象徴されるような、この世界で体験するあらゆる恐れや罪悪感は、この神とのあいだにあると思っているとんでもない罪悪感・恐れを見たくないがための投影のような感じがした。
そしてまた、
「たとえばラファエルにたいする投影みたいな、こういう投影をしないようになれば、心が平安になるのに・・」
みたいな思考があるのにも気づいた。
ここで心に思い出されたことがあった。
献身滞在で何度かラファエルが言っていたこと。
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ジーザスは「投影するな」とは言ってません。
投影は起こります。というか今この瞬間すでに起きています。
私たちは全宇宙を投影しているわけですから。
多くの人が「赦すとは投影しなくなることだ」と考えてますが、投影は起こり続けます。
ですから私たちは「投影しないようにしたい」という欲求を手放していいんです。
投影を抑え込もうなんてすると、気が狂っちゃうよ。笑
ジーザスはそんな事は言ってません。
ジーザスは、赦そうと言ってます。
投影について私たちにできるのは、それを赦すことだけなんです。
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投影は、起こっている。
神とは違う決断をしたと信じたとこから、その恐れと罪悪感から、投影はすでに起こっている。
それについて、その自分がした決断のところからまるまる認めて、投影された知覚まで、そのすべてを、その自分のすべてを赦すことができるのか。
投影をやめようとしたり、投影をやめることでこの知覚レベルの経験をもっとこころよいものに変えようともがくのではなく。
この感覚はとてもありがたい、いい感じがした。
「投影するなとは言ってない。それを赦そうと言ってるんだよ。」
という話が、初めて自分ごととして入ってきた感じがする。
投影していること、その根本原因の「神とは異なる決断をした(と信じてる)」こと、それにまつわる恐ろしくてたまらない感覚や耐えられないような罪悪感、そういうとこからこの投影してる知覚レベルまで、すべてまるごと、それについて自分を赦すことができるのか。
赦したい。
すごくこれは赦したいと思う。
やってることすべてまるごと。
野太く、図太く、腹の底から、自分がやってることすべてまるごと赦したい。
そのあと、それでどうやって救われるかは知らん、今の私の感知できるところじゃない感じ。
とにかく、野太く、図太く、腹の底から、自分がやってることすべてまるごと赦したい。
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