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「統合/アラインメント」についての超重要な話|4月合宿最終日

4月合宿もめちゃめちゃありがたかった。

中でも最終日のラファエルとのりこさんの「統合/アラインメント」についての話は、今やっていること、やろうとしていることの全体像と重要さをしめしてもらえたように感じた。

何度も振り返りたいと思ったので、自分にとってわかりやすいように文字に起こしてみました。

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心のレベルの図(文中の「五心円」)

ーーーーーのりこpartーーーーー


「みこころのままになさしめたまえ」と祈るんだったら、
(その祈りが意味をもつためには)

あの五心円の中心部分(=願望・欲求)からの

何を信じる、
何を考える、
何を感じる、
何を知覚する(=言動のレベル)

っていうのが、コアから一直線に連なっている必要がある。

もしこれが一直線に連なることがないのであれば、
その祈りはいったん保留にしたほうがいい。

口先で祈ってもただのお念仏になる。

「あなたが本当に望むものを祈るべき」。


自分の願望、目的、決断、祈りと、
言動(=知覚のレベル)まで一直線に貫かせる、一致させる訓練が必要。

「祈ってないことはやらない」
「願ってないことはやらない」

言ったのなら、それはあなたが望んでいることなんだからできるよね、とか、そういうこと。

それをいつもバラバラにしないように生きる。

分裂させていると、真の自己に戻ろうにも戻るに戻れない。


もしずれているなら、ずれていることに気づいていって
「本当はこう思っている、こう望んでいる」っていうことに気づいていく。
平安へのツールと多分同じこと)

ずれっぱなしでいると、
ずっと心に戻れない。
浄化を受け入れられない。



ーーー統合について by ラファエルーーー


何かを話したり行動したりといったこと(言動)は、知覚のレベルの話です。

こころのコアに願望があり、
願望から信念がうまれ、
信念から思考が生まれ、
思考から感情が生まれ、
感情が反映されて知覚の世界ができます。

ジーザスは言います。
「あなたは自分が内側で感じていることを知覚する」。

つまり、
一番外側の知覚の輪のレベルでは、
あなたは自分が内側で感じているものだけを知覚している、ということです。

ということはつまり、
私たちは自分の思考だけを知覚しています。(さらに内側の輪っか)

ということはつまり、
私たちは自分の信念だけを知覚しています。(さらに内側の輪っか)

ということはつまり、
私たちは自分の願望だけを知覚しています。(さらに内側のコア)


ジーザスは言います。
「統合とは、これらすべてが一直線にそろって一致していること」だと。

別の言い方でいうと、真の正直さ、真の透明性とも言えます。



統合=真の正直さ=真の透明性の練習


この統合=真の正直さ=真の透明性を練習するためには、
「良い学習者でいよう」「スピリチュアルな人であろう」といった試みを手放す必要があります。

なぜなら、真の正直さ、真の透明性、統合を実践するためには、
私たちは「感じていることを話す」(=言動・知覚のレベルで)必要があるからです。

そしてもし私たちが「感じていることを話す」なら、
それは、
「私が考えていることを話す」
「私が信じていることを話す」
「私が願望していることを話す」
ことになるのです。


感情については、私たちがそこに入り込んでコントロールすることはできません。
感情というのは、コアにある願望・欲求からの”ダイレクトショット”(直撃弾)だからです。

つまり感情については私たちに選択肢はないし、
感情をコントロールすることはできません。

自分でチェックしてみたらわかるでしょう。
感情を選ぶことはできません。
それはただ「やってくる」ものです。


例えば、
もしまさこさんが「次のリトリートでカメラマンをやってください」と言われたとして、
即座に「いやだ!」という感覚が出てきたにも関わらず
「はい。私は聖霊に従います」とか口走ったとしたら、
そこには統合性はなく、
分裂しています。


「何を感じてるか?」を話すことは、
何を考えているかを話すことであり、
何を信じてるかを話すことであり、
何を願望しているかを話すことを意味します。

なぜこのようなマインドトレーニングが
重要なのかというと、
「意識で気づいていること」のみが癒やされることが可能だからです。

私たちが赦すことができるのは、あらわにされたものだけだからです。


隠されていたら、それを癒やすことも赦すこともできません。
それは悪ではないし間違いでもないけど、
ただ時間の浪費になるだけです。

もし「いい人であろう」「良い学習者であろう」という試みが優先されているなら、
統合性を練習・実践することはできません。

「いい人」や「良い学習者」というのは、自我によってでっちあげられたものだからです。


癒やしは言動のレベル=知覚のレベルでは起きない


でも「いい人であろう」「良い学習者であろう」というのが深いところで、隠された目的になってしまっていることがよくあります。

これは「癒やされないため」の自我のトリックです。
なぜなら、「いい人であろう」「良い学習者であろう」とすることは、
一番外側の知覚のレベル(言動のレベル)にフォーカスすることになるからです。

そして赦しや癒やしは、知覚のレベルでは起こりません。

赦しや癒やしが起こるのは、
願望/信念/思考という深いレベルにおいてです。

ですからもし私たちが統合されていないなら(それは悪ではありませんが)
私たちは時間をムダにしています。

なぜならそのような状態では癒やしは不可能だからです。

願望から知覚までのすべてのレベルが一直線に一致していないなら、
癒やしは不可能なんです。

そこには分裂があるから。

癒やしが起こるためには、
まず第一に私たちが自分自身にたいして本当に正直で透明である必要があります。



ひとつの例題


実践的な話をするために、ひとつ例をあげましょう。

ラファエルとのりこが祈って
「次のリトリートはまさこさんがカメラマンをするというのがガイダンスだね」となったとします。

そしてみんなもそれがガイダンスだと感じてると言うけど、
まさこ自身は「いやだ!」と感じたとします。

でももし、まさこさんがその感覚を抑圧して、
笑顔で「はい、私は従います」と言ったとします。

そのような状態でリトリートが起こっていったとしても、
きっとまさこさんは幸せを感じることはないでしょう。

このケースでは機会の損失が起こったのです。

癒やしが起こるためには
「私はそれをやると感じない」「嫌だ」と言う必要があったのです。

「間違ってるかもしれないけど、今はやりたくない感じがする」と。



自分に正直であった場合の2つの可能性


このように言った場合、その後には2つの可能性があります。

ひとつは、のりことラファエルの祈った結果が間違っていた(まさこがカメラマンをするというのがガイドではなかった)、という可能性。

この場合、まさこは自分で聖霊につながった感覚(=「これはガイドではない」という聖霊からのこたえ)を話したわけで、
これは聖霊との関係を深めるのにとても重要なことです。

私たちがこのように聖霊にチューニングするとき、それ自体がとても癒やしになります。


このひとつめの可能性について、私自身の例を話すことができます。

数年前に、多くの人が祈った結果、私にあるファンクションをやってほしいという話がありました。

でも私自身は、「自分はこれをやることにはなっていないように感じる」と感じていました。
多くの人の祈りの結果と一致していないわけなので、疑いもありましたが、
「これは自分にとってガイドではないように感じる」と感じていたのです。

そして私は映画を撮影するようガイドされてるように感じていました。

結果、その自分の内なる感覚の方に従うことで、この日本での話が展開していったわけですが、
これは非常に大きな癒やしをもたらしてくれました。

マイゴッド!私は本当にジーザスの声を聞いたんだ、
私はガイダンスにチューニングしたんだ、
聖霊の声に耳を傾けたんだ、と。

これは本当に癒やしの経験でした。


聖霊やジーザスとの直接的なつながり・関係性を経験するということは本当に癒やしの経験なんです。

デイビッドはこれがコースの唯一の目的だと言っています。
聖霊・ジーザスとの直接的な関係を持ち始めるということです。
そうしたらもうコースなんて必要なくなります。

でももし私たちが「良い学習者」「スピリチュアルな人」であろうとするなら、
聖霊・ジーザスとの関係を深めることはできません。

もし私たちが自分が感じていることを話さないなら、
ガイダンスにチューニングして聖霊と直接的に関係する機会をもつことができません。


さて、以上がひとつめの可能性です。

そして2つ目の可能性は、それがただ、まさこさんの抵抗だったという可能性です。

このケースにおいては、
その抵抗が上がってくるのを許可して、
表にあらわしていくことが非常に非常に重要です。
マスクをつけるのではなく。

それが抵抗を癒やす唯一の方法だからです。
光=愛のもとにそれらをあらわにするということです。

ジーザスがコースの最初で言っているように、
「コースの唯一の目的は、あなたと愛との間にある障壁=抵抗を癒やし、取り消すこと」だからです。



感じていることを話す=コアの願望レベルから言動のレベルまでを一致させる


もしまさこさんが笑顔のマスクをつけて「はい、従います」とばかり言っていたなら、
これら2つの可能性のどちらも起こりえません。

たとえばもし心の内側で「こいつムカつく」と感じているなら、それを話す必要があります。

これが真の統合の重要性であり、
知覚のレベルで起こっていること、つまり私たちが話すこと・行動することは、
私たちが感じていること、考えていること、信じていること、願望していることと一直線に一致している必要があるんです。



抵抗というものは上がってきます。
それについて選択肢はありません。

抵抗は上がってきます。
実際のところ今この瞬間私たちはすでに抵抗してるんです。

この道は、抵抗をほどいていく道、抵抗を癒やしていく道なんです。

同じように、この道は赦しの道であり、
「投影しない道」ではないんです。

ジーザスは『投影してはいけない』なんて言ってません。
『「ムカつく!」と言ってはいけない』なんて言ってません。

これは微妙ですが、非常に重要なポイントです。

なぜなら多くの人が「赦すとは、投影しなくなることだ」と考えているからです。

投影は起こります。というか今この瞬間すでに起こっています。
私たちは宇宙全体を投影してるわけですから。

投影は起こり続けるんです。

ですから私たちは
「投影しないようにしたい」
「投影を抑え込みたい」
という欲求を手放すことができます。

「私はこの合宿であんまり投影しすぎないように気をつけなくちゃ!!!」とか。笑

投影を抑え込もうなんてしてると、心が狂ってしまいます。

計画を立てて「この合宿では3つ投影して、次の合宿では投影は2つまでにして・・」とか。笑

ジーザスはそんなことは言ってません。

ジーザスは赦しましょう、と言ってます。

あなたは投影について、それを赦すことしかできません。

ジーザスは投影が起こることを知っています。
実際それはすでに起こっています。



真の原因と結果

最後に、この統合性を練習することがなぜ重要なのかというと、
ジーザスは私たちにミラクルワーカーになってほしいと思っているからです。

そうやって贖罪を受け入れて目覚めることができるように。

そしてデイビッドは
私たちが「真の原因と結果」について理解したときに初めて
ミラクルワーカーになることができると言っています。

つまりこの五心円です。これが真の原因と結果です。

私たちには知覚のレベルに原因があるように見えていますが、
真の原因はこの中心、願望のところにあるんです。


ジーザスがコースの一章で言ってるとおり、
奇跡は意図せずに起こるべきものなんです。

奇跡とはこの外側の知覚のレベルで、意図せずに、自然発生的に起こるものなんです。

なぜなら、心のコアの願望のレベル、信念のレベル、思考のレベルでの働きによって、その場所から奇跡はやってくるからです。

私たちが統合されていて、トレーニングされたマインドをもっているとき、
私たちが考えていることが言動を生み、
私たちが奇跡を考えると奇跡を体現することになるんです。

ですから統合性(五心円において一直線に一致していること)を練習することが重要なんです。


デイビッドが言うには、
彼の毎日や聖フランチェスコといった神秘家の毎日は、奇跡の渦のようだといいます。

でも彼らの誰一人として「奇跡を起こそう」とはしていません。

ただ心が「奇跡志向の心」になっているだけなんです。

奇跡のための決断があり、奇跡のための思考があり、
統合されている状態であるための多くの練習・マインドトレーニングがあるんです。

もし私たちが統合されている状態であるためのマインドトレーニングを本当にするなら、
私たちの知覚のすべて、
人生とか家とか周りにいる人々とかそういったすべてが、
どんどん私たちが思考したことの”ダイレクトショット”(直撃弾)になっていきます。
私たちの思考がダイレクトに反映されたものになっていくんです。

ですから私たちが奇跡志向の心になるなら、
私たちの行動や話すことが奇跡になるんです。

でもそのためには練習が必要です。

五心円の中心から外側まで、願望から知覚まで、一直線に一致しているという練習です。

それが唯一の道です。


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