合宿
合宿。
「愛はない」という設定で生きてきて、
その設定に適合した自己像で生きてきたのに、
愛があふれる空間に投げ出されたような動揺。
「やめてくれーーーーー!!!!!」
「死ね!!!!!!」
「オレの前から消えてくれ!!!!!!!!!」
じゅんことエバの愛の交歓や、
じゅんこのメッセンジャーグループへのメッセージにたいして
こんな反応が起こる。
またじゅんこからのメッセージには、
「上から見下されて、癒やしのために利用されたんだぞお前は!」という怒りの声が内側で上がる。
愛がない設定にしたはずの自分の世界のあちこちに風穴があき始めて、
そこから愛が溢れ出してきて、
愛にフタをするために何重にも覆い重ねていた怒り、悲しみ、無価値感が浮き上がってくる。
愛の嵐のなかに投げ込まれて、これまでコントロールできてきたものを失いかけているような感覚。
(映画DUNEの、砂嵐の中の飛行シーンみたいに)
そのなかで、あらためて心のレベルのホームページを開いて、じっくりとそこに書かれていることを受け入れたくなった。
この嵐のなかの動揺のなかでその文章に触れてみると、
これまで何度も平安へのツールをやってきたときとは違ったレベルで、
嵐に投げ出されたなかでこそ、のような感じで
こころに浸透してくるものを感じた。
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私は、私が(すでに)感じている感情(無価値感や悲しみ)にもとづいて、
「起こっていること」(じゅんこやエバの言動)に反応する。
私は「この知覚」に感情の原因があると思っている。
この場所こそが、中心に戻っていく旅路のスタート地点。
私は知覚のレベルの下に何があるのかを知る必要がある。
私が毎日の日常を(合宿や兄弟との関係の知覚を)どのように経験するかを決定する要因が、心のなかに幾つものレベルの層として存在している。
これらの層は、長い間マインドのなかで条件づけされ強化されてきた信念から来ている。
「形のある問題」として現れるすべての表面上のものごとは、
私が内側にある信念をみないよう、邪魔をするために作られている。
自我は決して、私がこのことを学ぶのを望まない。
自我は、原因がこの知覚にあると私に考えてほしいと思っている。
過去が未来の原因になると考えてほしいと思っている。
だが真実は、原因は(こころの)中心にあり、結果が周辺にあるということ。
私の欲求が私の信念に影響し、
私の信念が私の思考をコントロールし、
私の思考が私の感情をコントロールし、
私の感情が私の知覚をコントロールしている。
変化への力は中心にある。
私のハートの欲求・祈りはつねにこたえられている。
私の問題はただひとつ、私が神から分離することは可能だと信じていること。
他のすべての「問題」は、このひとつの信念から派生したもので、
この原初の問題を私が直視するのを邪魔し続けるものでしかない。
なぜならもし私がこの原初の問題を直視するなら、
私が神から離れることは不可能だということが(道理/理性/神)によって告げられることになるからだ。
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(心のレベルのHPより)
私が、この怒りを、深い無価値感を感じるんだ!と決断している。
その決断をして、その感情を感じた上で、それを正当化する事象を探して納得するために
この世界を経験しようとしている。
じゅんこが・・・・(どうこう)・・・・じゃない。
私がその決断をしている。
この嵐になげこまれた混乱のなかで、
平安へのツールと心のレベルで言われていることが、
この嵐のなかでこそ、感じられるところがある。
ありがたい🙏🙏🙏
つねに自分が何を決断しているのか、を見ること。それだけでいい。
じゅんこが、とか、◯◯が・・・じゃなく。
それを見るために、この世界のすべてのものごとがある。
コースのテキストからのメモ。
「私は無にいのちを与えようとしている。
だが、無を生かすことはできない。
そのようにしている私は実存を知らない。」
合宿の自分の映像を見てみると、
自分が「無にいのちを与えようとしている」、
その結果としてこのけんたというキャラクターが動いているように感じた。
うそくさい。
うすい。
無だからか。
合宿の空間のなかでも、
もっともっと、こころの中心から存在したいと思った。
それは自分だと思ってきたもの、無にいのちを与えようとしてつくったキャラクターを完全に手放すこと。
嵐のなかでポールが操縦桿を完全に手放したように。
「ポール・アトレイディスは死ぬ必要がある!」
「ケンタ・ヨシモトは死ぬ必要がある!」
無にいのちを与えようとしている私は、
無を生かすことはできないことを受け入れる必要がある。
それはコンフォートゾーンから出ることになる。
そもそもじゅんこやエバに見る愛の嵐そのものが
私にとってはアンコンフォートで、
コンフォートゾーンの外に出ることを余儀なくされる。
今までたよりにしようとしてきたもの(無にいのちを与えようとして作ったもの)を手放すことになるので、
コースに出会ったときコースに向かって「教えてください教えてください」と祈っていたラファエルのように、
すべてを投げ出した状態で(「オレは無価値なこういうやつだ」「オレは罪悪感があるこういうやつだ」とかもすべて手放して投げ出した状態で)、
わけもわからない嵐のなかで、
教えてください!教えてください!
と叫び続けるしかない。
そしてそのプロセスでどんな恐れや無価値感、罪悪感が上がってきたとしても、
「苦痛の箱」に手を入れても絶対にその苦痛・恐怖を現実にしないという
地から天までつらぬくような強く深い決断をしていたポールのように、
そういう強く深い決断をもって超えていける。
闇に触れても、闇に沈み込むことなく、超えていける。
闇を現実にしようとする「自分」を、強く深い決断をもって完全に手放していきたい。
映画DUNEからの言葉。
私は怖れない。
恐怖はマインドを殺す。恐怖は完全な抹殺をもたらす小さな死。
私は私の恐怖に向き合う。
私は恐怖が私の上を通り過ぎるのを許し、私の中を通り過ぎるのを許す。
恐怖が過ぎていった通り道に内なる目をむけると、そこには何も残っていない。
ただ私のみが残る。
プロセスは、それを止めることによって理解することはできない。
理解は、プロセスの流れとともに動き、それとひとつになり、それとともに流れなければならない。
生命とは、解決する必要のある問題ではなく、経験する必要のあるリアリティ(=愛)だ。
🙏🙏🙏🙏🙏🙏🙏🙏🙏🙏
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