預言や予言について。

不思議なお話をたまには書いてみます。
昨今、動画などでも、いろんな不思議な動画が存在するし、書籍などでも存在するので、不思議なことのなかでも、預言や予言について、書いてみたいと思います。

科学がいかに発達しても、科学の成り立ちを考えればわかる通り、科学で明らかにできることは、森羅万象のほんの一握りだけです。それでも、科学は、この地球上で再現性が高い事象を、いくつも明らかにしてきました。その事自体は素晴らしいことですし、多くの人の生活に役に立っていることもたくさんあることでしょう。でも、すべてを人類が明らかにできる日は、永遠に来ないでしょう。なぜなら人間は有限の存在だからです。人類が存在する前から、自然は宇宙は、森羅万象は存在します。今よりも、科学や技術が発展する前までは、観測技術もなかったし、気象予報も難しかったでしょう。現代でも地震予知はできないだろうと考えられています。古来より、古今東西の賢者いわく、どんなに賢い人でも、知らないことがある、そのことを知っているのが本当の智者であるとも言いますし、それで良いのだと思います。

さて、未来のことを考えすぎると、心配になったり、不安になることもあります。お天気が悪ければ、作物の生育にも関わります。衣食住が人間の生活で大事なのは、昔から変わらないわけですが、お天気は、その食にも関わることですから、お天気だったり、これから先のことが気になることは、ある意味、昔から人間が感じる、根源的なものといってもいいかもしれません。そして未来はわからないけど、何かの決断をしないと行けない場合ということは起きてきます。特に人をまとめたりする立場の人たちは、その責任の重さもあるわけです。占いや、卦を読む、(手相以外も含めた)観相学など、あるいは神託なども、そういうある種、決断を迫られる立場の人の心を軽くするためのものだった側面もあるのかもしれません。中には、優れた見識の持ち主だったり、正しく予見、予想できる人たちもいて、重宝された場合もあるやもしれませんが、どんな世界にも、それらの能力や立場を悪用する人というのも、でてくるものです。仮に、本当にそういうことに長けていたとしても、そういった能力の片鱗があったとしても、正しく使いこなせるかどうかも、また別のお話です。

前置きが長くなりましたが、預言というと、未来についてのことが多いことでしょう。ここに仮に未来がわかっている人たちがいたとします。
それは人間の身からすれば、幸せな未来だけではないわけですが、例えば大きな災害が起きることがわかっていたとして、それをそのまま伝えられて信じる人が、どれだけいるでしょうか?また伝えられても、できることも限られています。その予言があたっても、知らないほうが良かったと言われるかもしれません。

また、このまま行くと、そういうことが起こりうる、でも、こうすれば回避できる可能性もある。そういうことがあったとします。それを事前に伝えて、信じて動いてくれる人が、どれだけいることでしょう?一部の信じてくれる人たちだけに伝えたとします。そして、そのことが起きてから広く伝えても、なぜ事前に私達にも伝えてくれなかったの?と文句を言う人がきっとでてくることでしょう。

そして仮に伝えても、信じてもらえないことが多いでしょうし、信じてもらえる人だけに伝えて、その人たちが難を逃れることができても、逃れられなかった人たちから、なぜ私たちには教えてくれなかったの?伝えてくれなかったの?と言われるものなのです。

つまり未来の兆しや可能性をなんとなく感じている人たちは、それをそのまま広く伝えても、一部の人たちだけに伝えても、ある意味、理不尽なクレームを受けることになるものです。

そして、もちろん外れることもあるでしょう。このまま行けば、そうなりうる可能性が高いということだから、場合によっては、流れは変わりうるものですから。また100%確実ではないからです。そう前置きしていたとしても、外れた場合には、狼少年と呼ばれるかもしれませんね。嘘つきと中傷されることでしょう。いわば、そういう言いがかりともいえる、誹謗中傷を受ける覚悟を持ちながら、伝える意義が果たしてあるのだろうか?ということです。信じもしない人たちに、事前に伝える意味ってありますか?ということです。また伝えても、特段、普段と変わらない生活を繰り返す人たちに、そういうことを伝えたとしても、意味があるでしょうか?

だから仮にそういう能力があったとしても、信じてもらえないこともわかっているから、そのまま直接的には伝えないのです。仮に広く伝えても、気が触れている、ちょっとおかしくなったのかなと思われ、憐れみの視線が注がれるのは、自明の理だからです。特に現代の科学でわかることだけが、大事という価値観の人たちからは、そう見られることでしょう。
一部、大胆な人は、書籍まで出して、予言めいたことを広く伝えたりします。でも全部が全部は当たらないでしょう。全部が全部、はっきりとわかる人なんていないし、そして、それを書いた人が、正しく受け取れているか、読み取れているかは、別の話でもあるし、書籍で書いて、発表した時点で、流れも変わる部分もあり、そのために形が変わって、発生する場合もあるのだから、当然と言えば当然です。ただ仮に半分でもあたっていれば、それは、人間の想像力と未来予知との関係性の研究の研究材料として、ひょっとしたら扱われるかもしれません。

では次に、その預言のすべてが的中するような、ものすごい人が、仮にいたとします。そういう人が、仮に現実に居たならば、その人は、きっと恐れられることでしょう。また現代社会において、脅威に感じられることでしょう。なにか裏で、そういうことが確実に起きるように働きかけているのではないかと、言いがかりをつけられるかもしれません。そのくらい人間離れした存在として、脅威に感じられることでしょう。

だから予言は基本的にはしないほうがいいのです。神々からの言葉を預かる預言も、少しでも難を逃れるきっかけになるように、備えだったり、きっかけになるような働きかけくらいしか、人間としては出来ないので、預言は、基本的にそういうものしかないことが、多いはずです。
そして何より夢見などの予知夢と言われる世界のものは、自分が見せられているもの、あるいは見ているものが、正しいとは限らないのです。世の中、上には上がいます。それと同じように、あの世の世界、夢見や予知や霊界にも良い存在もいれば、おかしな存在もいるからです。また、文字や言語が異なれば、伝わり方が異なるように、そのメッセージが正しく伝わるとは限らないからです。正しく受け取れるとは限らないからです。また基本的に良き存在に守られていたら、あまり気にしなくても良いことのほうが多いのだから、あまり不可思議な世界には心を奪われすぎないことをおすすめします。

人は、誰でも、いつかは、あの世へ旅立ちます。遅かれ早かれ、すべての人に訪れることなのです。あの世へ旅立てば、あの世で答え合わせがきっとできるので、そこまで生きている間に、不可思議な世界を探求して、慌てる必要はないのです。そういった世界もあるかもしれないな、くらいの気持ちでいたら、それで十分だと思います。
この世のことは、この世の理を基本的に大事にすれば良いのです。あの世に旅立ったならば、この世の人たちにおまかせすれば良いのです。
もちろん、たまたま縁があって、そういった予知のようなものを知って、それをきっかけにして、難を逃れられたなら、それはその幸運に感謝すればよいし、それを気付かせてくれた、導いてくださっている、個々人を守護している存在に感謝すれば良いかと思います。それは産土様かもしれないし、個々人を守る方々かもしれません。何代か遡れば、ご先祖様も人数がどんどん増えるので、その中には立派なご先祖さんはいるものです。徳の高い方、霊覚の高い方は、必ずいらっしゃるものなので、そういう方々が協力して守ってくださったのかもしれないなと、そのことに感謝すれば良いのです。

私は人生に一つだけ、人の身ではできないことをさせていただいたことがあります。一つだけ、あの世の神々にお許しをいただいて、日時を教えてもらったことがあります。その日時は、とある方の還暦の誕生日の一週間前でした。その日時に災が起きるから、その当時の周囲の人たちに、それに備えてもらいました。例えば避難訓練の日時を近い時期に設定するなど、人々の意識を向けてもらって、少しでも対応できるように、それが可能な立場の人であるならば、そういう働きかけをするようにお願いしました。また基幹道路に近い建物などに、それなりに備蓄しておくなどです。そういうことをお願いすることくらいしか、私にはできませんでしたし、思いつきませんでした。何年も先の出来事の日時を伝えても、普通には信じてもらえるはずがないこともわかっていますから、大っぴらに世間様に協力も仰げません。だから仮に預言を受けても、人間にできることって、こういった限定的なことしかないのです。
もちろん無形の世界に向けて、みんなで心を一つにして祈りを捧げる、そういったことはできることでしょう。そのことも素晴らしいことだと思います。でも現実世界に働きかける事柄に関して言えば、その程度の限定的なことしかできないのが、人間というものですね。人間は有限の存在なので仕方がないことではあります。

今は体調も崩して、その組織におんぶにだっこで、ご面倒をおかけすることもできないので離れましたが、人生に一つだけ、人の身では普通には考えられないようなことを、一つだけ、取り次がせてもらいました。
でも、重ねて言うと、未来は確定している事柄ばかりではないことは、確かなことです。すべてが確定しているのならば、何をしても無駄に思えてきて、人は努力もしなくなるだろうし、なにより生活に張り合いもでてきません。なにかに取り組む機会が減れば、達成感を味わう機会も減ることでしょう。

だから預言はありえますし、予言もありえるというのは、実体験も踏まえて肯定はします。否定はしません。でも、仮にそれができたとしても、その意図を正しく受け取ることは、その人の霊覚に応じた受け止め方、受け取り方、解釈の仕方しか、基本的には無理なのです。
だから私も本当に、その日時に災いが起こるのか、何度も確かめました。くしろをとりました。たぬきに化かされていないかと、何度も何度も確かめました。でも、ほぼ間違いないだろうということで、覚悟を決めました。私が、ことの重大さもあってか、体調を崩し、その組織から離れて、数年の歳月がたって、それは起こりましたが、多少なりとも、人の身として、その命運に足掻けたのならば、それはそれで良かったのかもしれません。

だから、やみくもに、なんでも伝えられることもないし、伝えられても信じる人は一部だし、信じても、できることも限られているから、仮に神々は分かっていたとしても、すべては伝えてくださらないのです。きっと人間が、言いなりのロボットになることを、神々も望まれてはいないのでしょう。

基本的に、預言は不自然ともいえることでもあるし、例外的なこと以外では行われないし、行うべきではないというのが、私のスタンスです。日々の積み重ねの祈りの日々と、ものすごい魂の集中と、神々のお許しがあってこそのことなので、人生に一つだけとこと分けて、ご無理を申し上げて、お願いして、そういう体験をもっているというだけなのです。それが本当に良いことだったのかという、自問自答を時々しながら、今は、神々にそこまで無茶なお願いをせず、一人の人間として、ただただ祈りを捧げています。

もちろん人や社会の行動の規範を変えるキッカケは、いろんな働きかけを通じて、お作りになってくださっていることでしょう。そういう働きかけで、社会のあり方を、良き流れへと変えようとするくらいしかできないというのは、人の心を動かすことは、神々にも、それだけ難しいことだからです。

いずれにしても、いつかは、誰もが、あの世へと旅立ちます。それまでに、縁のある人と、手の届く範囲で、幸せを感じて、生きていけたなら、それもまたいい人生ですね。生きがいや、やりがいを持てたら、それも素敵ですね。あるいは身近なことに、素朴なことで幸せを感じられていたならば、それも素晴らしい人生ではあることでしょう。

太陽は、何億年か、何十億年か、人間が存在する前から、輝き続け、地球という惑星に命が育まれてきました。
太陽にも、地球にも、月や星々、星辰、自然、森羅万象の神々が存在しなければ、私達も存在しません。そして、その太古の自然の神々との間にたって導いてくださっている、人として神上がりなさっている神々のご守護やお導きも、またありがたいものだと存じます。
いつかは、そんな存在になりたいものですが、未熟者ゆえ、まだまだ何回か生まれ変わりが必要そうです。

祈りの習慣があるわけでもなく、信仰をもっているわけでもない、そんな人が大勢いて、仮に良いことがあっても、また特段、悪いことが起きていなくても、日々の生活に感謝することもなく、ちょっと良くないことがあれば、不平や文句を言う。それが昔から、変わっていない、人間の性というものです。

昨今の風潮から、ときに宗教という言葉は敬遠され、また比較的新しい言葉でもあるので、信仰という言葉でも良いかと常々思っていますが、良き信仰をお持ちの方々が増えれば、自ずと、神々も現実世界への、私達の社会への働きかけがしやすいかと存じます。明治期よりも前からある、神道の本来の信仰の道が、廃れることなく、蘇っていくことを願っております。

かんながらたまちはえませ。

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