弥助は、侍とは言えないようだ。

オンライン署名 · トーマスロックリー氏が広めた弥助に関する誤解の訂正を求める署名 - 日本 · Change.org

複数の肌の黒い方が日本に居たことも確かです。だからこそ、弥助が本当にモザンビーク出身者なのかというのは、諸説ある一つであると思います。
なぜならば記録がまともにない人のほうが、ほとんどであり、どれが弥助に関する記録なのかを判断するのも難しいことだからです。
あくまで、そういう説があるということだけです。(宣教師たちの記録には、cafreとしか記述がなく個人名などは記されていないようです。家忠日記と一部の写本のみに弥助という名前がでてくるのみだそうです。)

現代の私たちには、想像するしかないわけですが、信長の家臣として取り立てられたのだから、一般の町民より優遇された立場だったとは言えるかもしれませんが、家臣の中では見習い的な立場だったかもしれません。仕えた期間は、本能寺の変までの、15ヶ月くらいだったと言われています。

そして彼が侍であるかといえば、個人的見解を示させていただくならば、違うと言えるでしょう。(厳密な言い方をするのならば、どちらとも断定できないということにはなるのかもしれません。)一部の方が、侍と言って差し支えがないと断言しているみたいですが、その発言が許されるのならば「弥助は侍とは言えない」ということを断言することも差し支えがないと思います。なぜならば、どちらとも断言することが困難なくらい、史料が少なすぎる人物だからです。だから、もしも断言している人たちがいたら、その人たちは歴史の専門家とは呼べないことでしょう。

仕えた期間が短いこともあり、家名を与えるに値するだけの働きをする機会が彼にはなかったことが、一番大きな理由です。また、そういった大手柄をたてたような記録も残されていません。普通は手柄を立てるなど、相当の理由がなければ、他の家臣たちも納得しないでしょうし、新人であればあるほど、よほどの大手柄でもたてない限り、見習い的な立場から、いきなり高い役職に引き立てられることは、まずなかっただろうという、そういう推測ができるからです。そして新人でも引き立てられるような特別なケースがあったとしても、その場合には、特筆すべきことだから、そういう事例においては、きっと記録が残されたことでしょう。でも、彼には、そういった記録も残されていません。

信長公記には、本能寺の変で討ち死にした人たちの記録があります。
その記録には、家名のない人たちを中間(ちゅうげん)、中間衆として記録しているようです。

中間という身分は、歴史的に士分とは一線が引かれているようです。
中間衆は、武家社会において主に雑用を担当する下級の家臣を指す階層でした。

本能寺の変では信長とともに家臣、小姓、中間を含む約40名が討ち死にしたとされています。中間衆は、家名を持たない下級の従者であり、主に雑務や日常的な仕事を担当していました。武家社会の階層構造において、中間衆は家臣や小姓よりも下位に位置していました。

中間は侍とは言えません。
以下の理由から、武士身分ではなく、武家に仕える下級の従者として位置づけられていました。

中間は侍と小者の間に位置する身分でした。中間以下は武士身分とはされませんでした。

公家、武家、寺院などに仕える僕従の一つでした。主に雑務に従事していました。主人から名前を貰うことはできましたが、苗字は与えられませんでした。中間は、平安時代には現れ、武家社会を通じて広く見られました。江戸時代には、武士に仕えて雑務に従事する者の称として使われました。

中間は武士と農民の間に位置する下級の従者であり、侍とは明確に区別されていました。もともと信長の配下でもあった豊臣秀吉が発布した身分統制令にも、奉公人、侍、中間、小者、あらし子といった区分が残されています。

文明十年(1478年)には、中間、小者という身分が存在したこと、天正5年(1577年)、天正10年(1582年)の文章にも、侍、小者、中間という区分が出てくることが、過去の文献からわかります。本能寺の変が1582年ですので、織田信長の配下の区分において、侍と中間といった区分はすでに確立されていた区分だと考えてよいのではないでしょうか?

古文書フルテキストデータベース - 検索

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武家家法Ⅲ
天正五年十二月十二日
「無緩 可被申付事一雖為不肖、於侍者、以小者以下、聊之儀茂被申 被申付事一雖為不肖、於侍者、以小者以下、聊之儀茂被申 渡儀、不可可差遣候、其外 近辺之衆ヘハ、中間、房、沙汰人之儀者、不及口能 沙汰人之儀者、不及口能 候、於侍茂、従台所人夫差遣、召寄者茂候
小者已下之取沙汰、雖不及申候、堅可
可為同前事一番衆之儀、細々通中侍、遠侍之仁不昆之様可有載判 事前事一番衆之儀、細々通中侍、遠侍之仁不昆之様可有載判」

AI書き下し「無緩、申付けらるべき事一つ、不肖を為すと雖も、侍者に於いて、小者以下を以て、聊かの儀も茂く申され、申付けらるべき事一つ、不肖を為すと雖も、侍者に於いて、小者以下を以て、聊かの儀も茂く申され、渡儀、差遣すること不可、其の外、近辺の衆へは、中間、房、沙汰人の儀は、口能く及ばず、沙汰人の儀は、口能く及ばず、候、侍に於いても、台所より人夫を差遣し、召し寄せる者も候。小者以下の取沙汰、申すに及ばずと雖も、堅くすべし。同前の事と為すべき事一番衆の儀、細々と通じ、中侍、遠侍の仁不昆の様に載判すべし。事前の事一番衆の儀、細々と通じ、中侍、遠侍の仁不昆の様に載判すべし。」

AI訳「気を緩めずに、命じられるべきことが一つあり、たとえ不肖であっても、侍者に対しては、小者以下を通じて、些細なことでも多く申し上げる。命じられるべきことが一つあり、たとえ不肖であっても、侍者に対しては、小者以下を通じて、些細なことでも多く申し上げる。渡しの儀については、差し向けることはできず、それ以外の近隣の者に対しては、中間、房、沙汰人のことについて、口を挟むことはできない。沙汰人のことについて、口を挟むことはできないが、侍においても、台所から人夫を差し向け、召し寄せる者もいる。小者以下の取沙汰については、申し上げることには及ばないが、堅く行うべきである。同様の事として、一番衆の儀について、細々と通じ、中侍、遠侍の者が不昆(不調和)にならないように載判(判断)すべきである。事前の事として、一番衆の儀について、細々と通じ、中侍、遠侍の者が不昆にならないように載判すべきである。」

江戸時代の基準になりますが、侍は2本の刀(打刀と脇差)を差すことができましたが、中間以下にはそのような権利がありませんでした。(江戸時代の話ではありますが、非武士階級の農民などにも護身用として脇差(「道中差」とも呼ばれる)は許されていました。打刀とは異なり、脇差は正式な武器とはされず、百姓町人など非武士身分の者も携帯に制限がなかったとされています。)
中間は主人から名前を貰うことはできましたが、苗字(家名)は与えられませんでした。これは侍との明確な区別を示しています。
苗字と大小の帯刀が許されるか否かが、大きな区分だと言えるかと思います。

室町中期から安土桃山期にかけて見られた地侍という身分の人たちも家名を名乗ることが許されていたことを考えると、苗字(家名)というものが大事にされていたことが伺えます。

そして中間や小者の中から有能な者が侍に取り立てられることがあったという記録は、逆に言えば中間、小者は侍ではなかったことを示しています。

弥助が本能寺の変で討ち死にしていたら、他の従者と同じく中間以下の分類として記録されていたことでしょう。
ですから、彼を侍と呼ぶのは、外交関係者のリップサービスと言えるでしょう。(なぜならば、そもそも英単語に、過去の日本の武士の階級を示す単語、中間以下の区分を示す言葉もないだろうし、伝わっていないだろうからです。武士の中の階級が複数存在していても、それらを区別する単語が伝わっていないと思われます。)
ですから厳密な区分としては、きっと歴史的事実とは異なることになるかと思います。

また、とある一部の写本のみに、鞘巻を授かったなどといった記述があるようです。ただその場合にも、鞘巻と太刀は分けて考えるのが自然だと思われます。なぜならば信長公記では、御太刀と明記されており、鞘巻とは別に分けて書かれているからです

信長公記 巻之下 (我自刊我本) - 国立国会図書館デジタルコレクション「禁裏様より参りたる由也  御腰簑白熊 御太刀御のし付御むきそへはさや巻の熨斗付也  御腰に鞭をさゝせられ御ゆかけ白革にきりのとうの御紋有  御沓い猩々皮 立上は唐錦」
信長公記 - Wikisource では「御はきそへは」となっていますが、原本の拡大から「御むきそへは」ではないかと考え、修正して解釈します。

「禁裏様から贈られたものである。腰には白熊の毛皮をまとい、太刀には熨斗が付けられており、御むきそへ(おそらく太刀の一部や付属品)には鞘巻きの熨斗が付いています。腰には鞭を差し、乗馬用の鞍は白革で桐の紋が入っている。靴は猩々皮で、立ち上がると唐錦である。」
(「御はきそへは」「御むきそへは」をどう訳すのが正解かわからないので、AI翻訳をそのまま採用します。)

鞘巻とは、どんなものだったかは、次のサイトが参考になるかもしれません。
中世の腰刀拵 鞘巻 : 日本中世庶民の世界

また相撲取りなども、いろいろな機会に似たような報奨を授かっています。江戸時代などには、その後、一部、士分に取り立てられた方もいらっしゃるようですし、その記録も残っていますが、報奨を授かった全員が後に士分に取り立てられていたかどうかは、未確認です。

信長公記には、下記のような記述もあります。
東馬二郎 たいとう づかう 妙仁 ひし屋 助五郎 水原孫太郎 大塚新八 あら鹿 山田与兵衛 円浄寺源七 村田吉五 麻生三五 青地孫治 以上十四人
右御相撲取被召出何れものし付之太刀脇差衆御服かみ下御領中百石宛私宅等まて被仰付都鄙之面目忝次第也

左 御先小性 御杖持 北若 御長刀持 ひしや 御小人五人 御行騰持 小市若 御馬大黒に召れ惣御人数廿七人 右 御先小性御小人六人 御行騰持 小駒若 御太刀持 糸若 御長刀持 たいとう 御行騰地を金に虎の府を網に御鞍重(クラカサネ)御あをり御手続腹帯尾迄同前紅之綱房之鞦にやうらくを付させられ  御小人衆あかき小袖にこう地白の肩衣黒皮之袴一統也

六月朔日 夜に入老之山へ上り右へ行道は山崎天神馬場摂津国皆道也左へ下れは京へ出る道也爰を左へ下り桂川打越漸夜も明方に罷成候既 信長公御座所 本能寺取巻勢衆五方より乱れ入也 信長も御小姓衆も当座之喧嘩を下〳〵之者共仕出し候と被思食候之処一向さはなくときの声を上御殿へ鉄炮を打入候是は謀叛歟如何成者之企そと 御諚之処に森乱申様に 明智か者と見え申候と言上候へは不及是非と 上意候透をあらせす御殿へ乗入面御堂之御番衆も御殿へ一手になられ候〻御廐より 矢代勝介 伴太郎左衛門 伴正林 村田吉五 切而出討死 此外御中間衆 藤九郎藤八 岩 新六 彦一 弥六 熊 小駒若 虎若 息小虎若 初として廿四人御厩に而討死
御殿之内に而討死之衆
森乱 森力 森坊 兄弟三人 小河愛平 高橋虎松 金森義入 菅屋角蔵 魚住勝七 武田喜太郎 大塚又一郎 狩野又九郎 薄田与五郎 今川孫二郎 落合小八郎 伊藤彦作 久々利亀 種田亀 山田弥太郎 飯河宮松 祖父江孫 柏原鍋兄弟 針阿弥 平尾久助 大塚孫三 湯浅甚介 小倉松寿 御小姓衆懸り合〳〵討死候〻也

相撲大会で活躍した「ひし屋」さんは、「ひしや」さんと、おそらく同一人物でしょう。相撲大会でいい成績を残し、抜擢された後に、御長刀持としても役割を果たしたのかもしれません。同じく相撲大会で活躍された「たいとう」さんも御長刀持として登場します。「ひしや」さん「たいとう」さんは、のし付きの太刀や脇差、上下(かみしも)の服、百石の領地と私宅を褒美として与えられているわけですが、御行騰持の「小駒若」さんと、同じような扱いをされていると言えるかと思います。そして「小駒若」さんは中間衆として、本能寺の変において討ち死にが記録されています。また、もともと名字持ちで、相撲大会で活躍され、見出されたであろう「伴正林」さん、「村田吉五」さんは「御番衆」として討ち死にが記録されています。ちなみに「伴正林」さんは甲賀出身者のようです。

「三月三日に江州国中之相撲取を被召寄常楽寺にて相撲をとらせ御覧候 人数之事 百済寺(はくさいじ)ノ鹿(しか) 百済寺之小鹿 たいとう正権 長光 宮居眼左衛門 河原寺ノ大進(たいしん) はし小僧(こぞう)深尾又次郎 鯰江又一郎 青地与右衛門 此外随分之手取之相撲取共我も〳〵と不知員馳集其時之 行事は木瀬蔵春庵(きのせそうしゆんあん)
鯰江又一郎青地与右衛門取勝(とりかて)り依之青地鯰江被召出両人之者に慰斗付之大刀脇指被下今日より御家人に被召加相撲之奉行を被仰付両人面目之至也爰に深尾又次郎能(よき)相撲面白仕り候て被成御感御服被下忝次第也」
「3月3日に、江州(近江国)中の相撲取りを常楽寺に召し寄せて相撲を取らせ、ご覧になりました。参加した人数については、百済寺の鹿、百済寺の小鹿、たいとう正権、長光、宮居眼左衛門、河原寺の大進、はし小僧深尾又次郎、鯰江又一郎、青地与右衛門などがいました。このほかにも多くの相撲取りが『我も我も』と名乗りを上げて集まりました。その時の行事(審判)は木瀬蔵春庵が務めました。
鯰江又一郎と青地与右衛門が勝ち、その結果、青地と鯰江が召し出され、両者に慰労として熨斗付きの太刀と脇差が与えられました。そして、今日から御家人に加えられ、相撲の奉行を命じられました。両者にとっては非常に名誉なことです。また、深尾又次郎も相撲で見事な技を見せ、感謝され、服を賜り、ありがたいことです。」

相撲大会で見出された青地与右衛門さんも、もともと名字持ちのようで、大会で活躍して召し抱えられ、相撲奉行を任じられ、後に馬の調教を命じられたり、また馬を下賜する際の使者を任されたりしていることも記録が残っています。熨斗付きのものを授かることは、もちろん名誉なことなのでしょうが、「ひしや」さん、「たいとう」さんも、のし付きの太刀や脇差、上下(かみしも)の服、百石の領地と私宅を授かっています。

右 御先小性御小人六人ともあるように、小性を先頭に、その後ろに御小人などと一緒に「たいとう」さんたちが並んでいたのだろうと考えるのが自然です。小性を先頭に、御小人衆とともに、後ろに並ぶ役割を与えれていた人たちと言えるでしょう。

ちなみに姓を名乗ることを許された珍しい例としては、「東馬二郎」さんと「西馬二郎」さんの例が有名です。滋賀県近江八幡市に記録が残されています。

八月六日 江州国中相撲取被召寄安土御山にて相撲とらせ御覧候処甲賀の伴正林と申者年齢十八九に候歟能相撲七番打仕候次日又御相撲有此時も取すぐり則御扶持人に被召出 鉄炮屋与四郎 折節御折檻にて籠へ被入置彼与四郎私宅資財雑具共に御知行百石熨斗付(ノシツケ)の太刀脇指大小二ツ御小袖御馬皆具共に拝領名誉の次第也

八月廿四日午剋辰己へ向て先柴田権六かたへ向て過半かゝり給ふ散々に扣合山田治部左衛門討死頸は柴田権六取候て手を負候てのがれ候也佐々孫介其外究竟之者共うたれ信長の御前へ迯かゝり其時上総介殿御手前には織田勝左衛門織田造酒丞森三左衛門御鑓持の御中間衆四十計在之造酒丞三左衛門両人はきよす衆土田の大原とつき伏もみ合て頸を奪い処へ相かゝりに懸り合戦所に爰にて上総介殿大音声を上御怒なされ候を見申さすかに御内之者共候間御威光に恐れ立とゝまり終に迯崩れ候き此時造酒丞下人禅門と云者 かうべ平四郎を切倒し造酒丞に頸を御取候へと申候へはいくらも切倒し置候へと申され候て先を心かけ御通候つる 信長は南へ向て林美作口へかゝり給ふ処に黒田半平と林美作数剋切合半平左之手を打落され互に息を継居申候処へ上総介信長美作にかゝり合給ふ其時織田勝左衛門御小

「その時、上総介殿の御手前には、織田勝左衛門、織田造酒丞、森三左衛門、御槍持ちの中間衆約40人がいた。造酒丞と三左衛門の両名は清須衆で、土田の大原と組み合って首を奪おうとしていた。そこへ敵が襲いかかり、戦いになった。」

また上記の記録からも、御槍持ちとしての役割を果たしていたのが中間衆であったことがわかります。信長の家中においては、中間衆がそういった役割を果たしていたことからも、別の場面で類似の役割を果たしていた「ひしや」さん、「たいとう」さん、「小駒若」さんといった方々も、中間衆として役割を果たしていたであろうことが推察できます。「弥助」さんも、一部の写本の記述が正しいとして、太刀は与えられていたか不明だが、鞘巻などを与えられていたとするならば「小駒若」さんらと類似の扱いで、そのような人々と同じような役割を与えられていたのではないかと推測できるわけです。以上のことから、「弥助」さんが中間衆の一人として役割を与えられていたのではないかと推測することには、それなりの妥当性があると言えるかと思います。あるいは小者、小人などと呼ばれていた人たちの一人だったかもしれません。(あくまで推測です。)
** なお小姓と小者は全く異なるもので、英文で書かれているものには、それらを混同するものがそれなりに存在するようです。また日本語の文章で書かれている記事にも混同しているものがあるようです。

そして本能寺の変で小姓衆として討ち死にされた方は、基本的に名字持ちであることもわかります。「針阿弥」さんは、「一雲斎針阿弥」さんのことでしょう。公家や寺院への使者として働きがあったことが知られています。その時点で、小姓衆としての役割を与えられていた方たちと認識されていたと言えると思います。(同朋衆などとも呼ばれるそうですが、側近の一人だったことには変わらないでしょう。信長配下の小姓衆は、奇襲における切り込み隊長なども行っていました。)

なお弥助は本能寺の変では、本能寺にはいなかったようです。ルイス・フロイスの記述を信じるならば、世子の邸、つまり妙覚寺付近で戦っていたようですから、信忠さまがいらっしゃる場所に向かっていたのでしょう。彼も本能寺にいたのであれば、その時点で討ち死にしていた可能性は高かったことでしょう。(本能寺は包囲されていて、合流が難しかった人たちが二条新御所へ向かったといった記述も残されているようです。また明智勢を装って包囲網を突破して、信忠に合流した一部家臣たちもいたようですが、明智勢が包囲してからは、そのくらい合流ができない状態だったと思われます。別の寺などに向かった方もいらっしゃいるようですし、明智勢に投降を促されても、それを良しとせず自刃なさった方もいらっしゃいます。)
世子の屋敷(世子の邸)が妙覚寺、内裏の御子の屋敷が二条新御所というのは、複数の箇所での使われ方を考えると、多くの人の意見が一致するところのようです。ルイス・フロイスは世子の邸と書いており、弥助は、つまり妙覚寺にいたと受け取れます。ですから、その付近で戦っていて、捕縛されたと考えるのが自然なのかもしれません。
(下記の記事「弥助と本能寺の変」でも、弥助がいた場所は、妙覚寺ではないかと推測されています。本能寺、二条新御所の位置関係も、下記記事に説明があります。なお二条新御所と妙覚寺の間には室町通りや池などがあるそうです。また二条新御所は堀のある城郭御殿なのだそうです。二条新御所(二条古城)は発掘調査により3重の堀があったことが確認されています。なぜ信忠さまが、そこに移動したかといえば、もともと防衛のために作られた場所であり、より守りやすい場所だったからなのでしょう。)

”黒人侍”弥助、殿になる?ー宣教師の記録にあることとないこと|STST
”黒人侍”弥助と本能寺の変 ー 宣教師の記録にあることとないこと②|STST
“黒人侍”弥助とヴァリニャーノ神父と記録の混同 ー 宣教師の記録にあることとないこと③|STST

なお「ひしや」さん、「たいとう」さんの評価については、私だけの勝手な説でもなく、(岐阜市信長資料集編集委員会委員も務められていた)故 谷口克広さんという信長に関する著作をたくさん書かれている方も類似の見解を書かれているそうです。Weblioなどの小姓の説明の参考文献も谷口さんの著作になっています。
Weblioの記述を抜粋すると、
「小姓や奉行になれるのは元々武士身分の人に限られ、例えば力士などは信長から扶持を与えられても名字を名乗ることが出来ず、「たいとう」「ひし屋」などの力士は馬揃えのときの刀持ちをしているが、家臣であっても小姓にはなれなかった。」

つまり上記にあげた「伴正林」さん、「村田吉五」さんは「御番衆」として、また「青地与右衛門」さんは「相撲奉行」として記録されているわけですが、それは名字持ちで、もともと武士身分(武家)だったからというのが、谷口さんの解釈なのでしょう。

小姓 - 小姓の概要 - わかりやすく解説 Weblio辞書
信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材 (中公新書)

Yasukeに関する記録が、どれだけ限定的なものなのか、よくまとまっている動画がありました。
資料から見た弥助 - YouTube

Hatenaブログで、まとめてくださっている方が、いらっしゃいました。
弥助関連史料とその英訳 / English translated historical documents related to Yasuke - 打越眠主主義人民共和国

また(著者の推測に基づく、空想が多分に含む物語部分が含まれている)フィクションであると認識すべき「African Samurai」について、その作品をノンフィクションとすることの論拠がいかに乏しいか、具体的に著者の論文や書籍を取り寄せたうえで、検証した方がいらっしゃいます。
ドイツ語で説明されていますが、日本語字幕をはじめ複数言語の字幕が用意されています。
お時間があれば、ご覧になってみてください。

Einfach Japanisch / Simply Japanese - YouTube

弥助・伝説の侍の真実と問題 アサシンクリード シャドウズ【日本語字幕有り】 - YouTube

【日本語字幕有り】弥助&トーマスロックリー問題についての追記/アサシンクリードシャドウズ(ドイツ語) - YouTube

また次の@sengokubanashiさんの動画では彼の2つの著作を読んだ上で、日本語で問題点を解説してくださっています。(ほとんど史料が存在しないにもかかわらず、あとがきで学術論文を書くつもりで書いたような記述がなされている上に、ノンフィクションとして販売されていること。日本語版、英語版における「沖田畷の戦い」における記述の食い違いがあり、そこには矛盾があることなど。)
【弥助】トーマス・ロックリーの著書を読んでみた。 - YouTube

また以下のNaotoさんの英語記事においても、トーマス・ロックリー氏の日本語版の書籍「信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍」と英語版の書籍「African Samurai」との相違点にも触れられています。両作品の記述には食い違いがあるにもかかわらず、どちらも歴史ノンフィクション(Historical Nonfiction)として販売されています。注釈で小さく説明が書かれているらしいですが、歴史ノンフィクションは、あくまで小説だから、史実に忠実ではなくていい分野なのかもしれません。記録がなくても空想で埋めていい分野なのでしょう。そうであるならば、歴史的史料を検証したわけでもない記述が含まれるのですから、歴史に忠実、歴史を学べる、歴史的事実に基づいたといった主張をするための参考資料としては、価値が高くない作品群ということになるかと思います。


次の動画で、著者の海外での発言が、まとめられています。
【海外の反応】アサクリ問題!最強の侍は日本人じゃない!黒人侍を世界に広げたトーマス・ロックリー特集。YASUKE、assassin's creed shadows - YouTube

またWikipediaのTottoritom氏の、まとめ記事はこちらです。

”アフリカンサムライ”弥助伝説の誕生と拡散② ー ソースはウィキペディア(のソースもウィキペディア)|STST

問題は、「信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍」(2017)(ISBN 978-4778315566)(Thomas Lockley (著), 不二 淑子 (翻訳) )と「Aftican Samurai」(2019)(ISBN 978-1335141026)(Thomas Lockley (著), Geoffrey Girard (著))の両作品ともに歴史ノンフィクション(Historical Nonfiction)(Historical & Nonfiction)として宣伝され、販売されており、歴史的事実であると誤解する人が、大量に発生していることです。彼らの作品は、Historical Fiction、歴史小説と言うべきかと思います。上記の@Hiroさんのチャンネルの解説をご覧になれば、いろんな言語の字幕がついているので、ドイツ語がわからない人にも、弥助の記録がそもそも少ないことや、ロックリー氏の発言の問題点も知ることができるかと思います。
また上記のNaotoさんの英語記事をご覧になれば、ともに歴史ノンフィクションとして宣伝している日本語の著作と英語の著作の相違点なども確認できるかと思います。英語版の書籍においては、噂話レベルの言い伝えをもとにした、記録にないところからの、著者の空想も記述されており、それが混乱をもたらしているとも言えるでしょう。

歴史ノンフィクションは、もちろんある程度、著者が調べた史料をもとにした推測は許容される分野なのでしょう。あるいは歴史的ノンフィクションは歴史的事実ではないというのが、海外の常識なのであれば、いいのですが、海外の反応を見る限り、そうとは思えません。
「African Samurai」に関して言えば、明らかに少なすぎる史料しか残っていない弥助に関する著作を歴史ノンフィクションとするには、かなり無理があるかと思います。少なくとも、これらを参考資料にした作品が、史実に忠実とか歴史を学べると宣伝することは、誇大広告でしょう。
たとえば、信長の首を守る役目を与えられたといった記述は、史料のない後世のデスマスクの言い伝え、噂レベルのお話、そこから尾ひれがついたようなお話を盛り込んだ、著者の創作といっていいような歴史改変であることは明らかです。これを歴史的事実とすることには、かなり無理があります。また仮に弥助が信長の首を守っていたのならば、光秀の配下に捕縛され、イエズス会のもとに送られたときに、信長の首は光秀の手に渡っていたことでしょう。また、すでに記述している通り、ルイス・フロイスの記述を信じるならば、妙覚寺付近で戦っていたようですから、弥助が本能寺にいた可能性はかなり低いのです。そしてなにより彼自身の日本語の著作では、信長の首級に関しては記録がないことは説明されているのです。同じ著者の矛盾を抱えたとも言える作品が2作とも歴史ノンフィクションとして販売されているのです。

きっと歴史ノンフィクションという分野は、当時の記録に基づかない空想の記述が許される分野であり、歴史的な史実を語る場合の参考資料としては、存在感も軽いものなのでしょう。
そうであるならば歴史ノンフィクションとして、売られている作品をもとにしていたからといって、その作品自体に、記録がないと書きながら、著者の空想部分の記述も含まれているわけですから、そんな作品をもとにしていたのならば、史実に忠実とか、歴史的事実に基づいていると喧伝するのは無理があります。

また彼の日本語版の書籍では、学術的な部分と物語的な部分に切り分けられていて、物語形式の部分はフィクションだとおっしゃっている方がいました。前書きにでも、そういった説明が書かれているのでしょうか?
そうであるならば物語部分の記述は、歴史的には信憑性がない、著者の空想部分だと読者が区別して読まないといけないということでしょう。英語版の書籍でも、そういう物語形式の部分は、著者の推測に基づく創作であることなど、その区分が説明がされているのかは未確認です。

もちろん時代劇は、基本的にフィクションです。
歴史小説も、基本的にフィクションです。

たとえばジェームズ・クラヴェルの1975年の小説『将軍』(Shōgun)には、徳川家康も石田三成も細川ガラシャ(明智 玉)も登場しません。史実をベースにしていると、ある程度日本の歴史に詳しい人ならわかりますが、歴史上の人物名を登場させないことで、あくまでフィクションだと明確に示されており、歴史小説、時代劇として楽しめる作品になっています。そういった著者の配慮だとも私は思っています。

歴史小説や時代劇は、もちろん当時の雰囲気を出すために、時代考証を頑張ってなさっている場合が多いですし、それは素晴らしいことですし、だからこそ、独特の雰囲気を楽しむこともできます。
もしも、本能寺の変で信長が敗れず、弥助もその後武勲を立てて、他の武将たちに一目おかれるようなことがあれば、重用されていたかもしれません。信長に小者として仕え始めたと言われる秀吉が、普請奉行など、いろんな形で功績を積み、天下人とまで言われる立場になったように。もしも光秀の包囲網を破って、信長様を生きながらえさせた立役者になっていたならば、そんな歴史if物語を空想することも、楽しいものです。

ですが、それらは、すべてフィクションであり、決してノンフィクションにはなりえないのです。特に弥助のように、絶対的に史料が少ない人物については、日本人が描こうと、イギリス人が描こうと、どこの国の人たちが描こうと、フィクションにしかなりえません。もしも歴史ノンフィクションとして、描くのであれば、当時の記録がないところからの空想は含めてはいけないでしょう。
歴史小説として、歴史フィクションとして明記された作品を、フィクションとして、楽しむ分には、私個人は問題視することはありません。

日本にはインドの人も、アフリカの人も少数ではあったでしょうが、複数たどり着いていたようです。別の時代の、別の地域の人たちも、若干記録が残っているようです。でも、それが弥助の記述なのか、それ以外の人の記述なのかも現代の我々には、判別することさえ、難しいことなのですから。
(日本人が足かせをつけられ、船倉に放り込まれて、海外に連れて行かれたといった記録についても、その検証は難しいことですが、そういった事実があったからこそ、バテレン追放令につながったとも言われています。同じ類のことは、日本だけではなく、お近くの他の地域でもあったかもしれません。宣教師の一部は商人に対して抗議をしていたようだし、日本人奴隷貿易禁止の勅許公布も行われたみたいだが、それに反対する、従わない人々も大勢いたようです。少なくとも数万人以上の規模で日本人も他の国に連れて行かれたようですが、彼らも歴史の闇で、ほとんど記録が見つからないわけですが、一部の記録から、遠くヨーロッパやメキシコなどにも、連れて行かれた人たちがいたことは確かなようです。メキシコに連れて行かれた日本人の売買契約の記録にイエズス会の署名があったとされています。)
(イエズス会が奴隷交易に批判的な立場だったことは、確かではあるようです。実際、異教徒も含めた奴隷禁止令を教皇パウルス3世は出していました。イエズス会の成立自体はパウルス3世が即位するよりも若干前ですが、パウルス3世によってイエズス会の存在も公的に認められています。教会の威光が強く、全員がそれに従っていたならば、奴隷交易はもっと抑制されていたかもしれません。遠方だったから伝わるのに時間がかかったのか、商人たちが従わなかったからなのか、カトリック教会の威光が小さかっただけなのか?としか言えないわけですが、実際には奴隷交易はあったわけです。矛盾を抱えたまま、宣教師たちも、生きていたようです。そしてイエズス会が設立されるより前、別の教皇が異教徒を奴隷にする許可を与えていた時期があります。1452年、教皇ニコラウス5世がポルトガル人に対して、異教徒を奴隷にする許可を出したとされています。1494年、スペインとポルトガルはトルデシリャス条約を結び、この際、両国は教皇の許可を基に、それぞれの領域での奴隷制度を展開したとされています。1537年、教皇パウルス3世(イタリア)が異教徒を奴隷とすることを禁じる教皇勅書「スブリミス・デウス」を発布することで、教会の方針が変わったと言えるでしょう。イエズス会が発足したのが1534年で、その後、教皇パウルス3世によって正式に修道会として認可も受けています。教皇ニコラウス5世の指示から、教皇パウルス3世によって奴隷が禁止されるまでに、85年経っていますが、イエズス会の活動を認めた教皇が禁止令を出してはいますので、イエズス会が奴隷交易に批判的だったというのは、一応は筋は通っています。1596年、第2代日本司教ペドロ・マルティンスは、 関与した商人を破門するよう命じています。パウルス3世の勅令は伝わっていたはずですから、最初から破門にしていても、おかしくはないはずなのですが、本能寺の変が1582年、バテレン追放令が1587年ですから、その頃はイエズス会が容認していたし、契約にも関わっていたということになります。ガスパール・コエーリョ(コエリョ)やメキシコに連れて行かれた日本人の記録などからもわかるように、イエズス会が売買契約の署名をしていたりする場合もあったわけですから。また奴隷に洗礼を受けさせて、合法性の証書を発行するといった役割も担っていたようです。このことから、その当時の契約において、教会関係者、イエズス会やフランチェスコ会などが契約のお墨付きを与えるような役割を担っていたことが示唆されます。ですから、まったく無関係だったとは言えないでしょう。また洗礼で保護下におくことで、若干、それが助けになっていたとしても、それが信仰の強要だったとして批判されることもあります。)
(世界的にみれば、日本はいろんな記録がたくさん残っているほうです。ただそれでも江戸時代より前の時代においては、紙が貴重なものだったことには変わらないでしょう。本能寺の変で討ち死にした人たちについても、記録があまり残っていないのですから、たくさんの記録があることを望むほうが、おかしなことなのです。弥助のことを、イエズス会が記録にたくさん残してくれていたならば、本名やどこの出身者だったかといった情報も、本能寺の変以降の弥助の行く末も、現代に伝わっていたかもしれませんが、残念ながら記録はないようです。)

ですから歴史に忠実であるとか、歴史を学べる、歴史的事実に基づいているなどといった言葉は、フィクションを楽しむ歴史小説や時代劇や漫画、アニメ、舞台、それらをもとにしたゲームなどで、軽々に使うべき言葉ではないと思っています。仮に、その時代の歴史を学べるといった宣伝をするのならば、どの部分に関して時代考証に力を注いだかを明確化してもらいたいものですね。
ただ残念ながら、彼の作品に影響を受けて、歴史的事実とは異なるにもかかわらず、「事実に基づいた」といった吹聴をするような作品が増えてきそうです。記録にない空想部分の記述を参考にしながら、歴史的事実に基づくと主張することが、いかに空虚なことかを、舞台や映画、アニメ、ゲームなどの監修者には考えてもらいたいと思います。

上記のような理由から、また、その影響を鑑みるに「African Samurai」を、歴史ノンフィクション(Historical Nonfiction)と喧伝することは、不誠実だと思います。

オンライン署名 · トーマスロックリー氏が広めた弥助に関する誤解の訂正を求める署名 - 日本 · Change.org

#より考察が深そうなブログ紹介
「弥助 本能寺」 - 祖国は危機にあり(La patrie en danger) 関連blog
「弥助 新情報」 - 祖国は危機にあり(La patrie en danger) 関連blog

全体の流れが、よく整理されていて、非常に読みやすいブログ記事でした。
この方の記事を読んで思ったことは、小者と小姓を混同している海外の人たちが多そうなこと、またそのような英文記事が存在することも、混乱のもとなのだろうと思いました。そういった区分を、きっちりと書き分けることが難しいのだろうと思います。(日本語記事でも混同されている記事がそれなりにあるらしいです。)

# 追記
加藤清正の配下にも黒人の方が居たのではとされる論拠が「くろほう」という単語なのであれば、それは一部の人たちの見解に限定されるようです。文脈的に人ではなく物を差す言葉だと捉え、たとえば「黒芳」(練り香)のことではないかといった見解が示されています。ただ、別の記録もあるようですので、別の記録からの推測を否定するものではありません。
レファレンス事例紹介コーナー - 群馬県立文書館 - 群馬県ホームページ(文書館)

また日本人でも洗礼を受けている人たちもいて、洗礼名が記録されている日本人もいます。つまりキリシタンだからといって、ポルトガルやスペインの人たち、あるいは彼らに連れてこられた異国の人とは限らないということです。神父や宣教師とともに行動していたとしても、それだけでは異国の人とは限らないし、日本人の場合もあるということです。

黒坊、「くろぼう」「くろんぼう」なら、炭鉱夫かもしれないし、歌舞伎の黒子かもしれないし、黒い衣服のお坊さんかもしれません。日焼けした人かもしれません。そして、当時は珍しかった(アフリカ系かインド系か東南アジア系かはわからないですが)褐色肌の異国の方のことかもしれません。どれも同じ言葉、字をあてられているのですから、文脈だったり、他の史料と付き合わせないと、断定しにくいと思われます。

# 「アフリカ人奴隷を使うという流行が始まった」という表現について
Yasukeが仮に護衛として連れて来られていたのならば、信長へ雇用関係が移されたのであって、奴隷として売買されたことにはならないでしょう。仮にYasukeが奴隷として連れてこられていたのならば、イエズス会の立場からしたら信長への献上品扱いだったのかもしれません。日本語訳によると黒奴と書いている文書もありますが、単に黒人と書いているものもあるようです。原文だとcafreだけのようです。ポルトガル領のアジアの地域では、cafreが奴隷的扱いだった人たちを指す言葉だというお話もあるらしいですが、時代や地域によって、言葉の使われ方が異なることはありますし、それを記録に書いていた人たちが、どういう意味合いで使っていたかが重要なわけですが、そこは現代の私達には、正直、わかりにくい部分です。
もちろんYasukeを信長が頼んで譲り受けた際に、本人への意思確認があったのかどうかは記録がないからわからないですし、そもそも洗礼名や本名さえ記録に残されていない人物でもあります。ただ信長が鞘巻や扶持を与えたかどうかは、一部の写本に記録されているだけですが、部下の一人として召し抱えたことは事実でしょうし、信長の立場からしたら、決して物扱いではなかったことでしょう。ですから、その扱いが奴隷的扱いと言えるのかどうかが大事な論点でしょう。奴隷という言葉に対する認識は、人によってかなり幅があると思われます。だからこそ、どういう扱い、どのような待遇だったかが、より大事な論点になることでしょう。
仮に他の小間使いの家臣と同程度の扱いであるならば、奴隷的扱いとは言えないだろうとは思います。仮にYasukeが奴隷的扱いだったとするならば、織田家の小間使いの家臣みんなが奴隷的扱いだったということにもなるのですから。
ここで問題になるのが、彼の用いている表現の「(地元の名士の間で、)権威の象徴として、アフリカ人奴隷を使うという流行が始まった」という言葉です。この表現は、あまりにも配慮のない言葉であって、権威の象徴としてアフリカ人奴隷を調度品の一つみたいに、側にはべらせていたといった意味合いに取られかねない表現ではあるからです。Yasukeに関して言えば、他の家臣と同じように扶持を与えられていたのですから、同程度の扱いはうけていたと推察はできます。一般の町民からしたら、信長様の配下であったことには変わりなかったことでしょう。
Yasuke以外の事例で言えば、九州北部で残されている記録の文面から想像すると、異国の人の語学力を活かして交易のために召し抱えられた、あるいは砲台の扱いなどに長けていた、慣れていたから技術指導員として召し抱えられたといった意味合いのほうが近いだろうとは思われますが、こういう私なりに要約した説明の表現とロックリー氏の要約表現では、その扱いに対しての印象がかなり異なることでしょう。

#士分と石高についての目安となる参考情報
1000石程度の石高を持つ武将の中で最も有名な人物としては、江戸時代の旗本である「大岡忠相(おおおか ただすけ)」が挙げられます。大岡忠相は、江戸幕府の町奉行として知られ、その公正な裁判と行政手腕で名を馳せました。彼の家禄は1920石で、役高3000石の江戸町奉行に就任していたため、1000石程度の石高を持つ旗本の中でも特に有名な人物です。
明治2年に「大日本商業史」が出版されています。三浦按針(ウィリアム・アダムス)の石高が250石であるという記述は、この書籍に初めて登場したとようです。三浦按針は徳川家康から評価され、1605年に三浦郡逸見(現在の横須賀市の一部)に250石の領地と刀2本を与えられていたとされています。
1万石以上だと小さな藩の(小)大名と同程度といえます。いわゆる「お大名」様は、それ以上の石高の人たちといえます。もちろん、その土地の(政治的、軍事的な)重要性だったり、家格など幕府との関係性も勘案されますので、その地位は石高だけで決まるものではありませんでしたが、石高が高い「お大名」様たちは参勤交代が義務付けられていました。

# 参考サイト
日本人女性は「奴隷」として海外に売りさばかれていた…豊臣秀吉が「キリスト教」を禁止した本当の理由 天正遣欧少年使節がみた「日本人奴隷」の悲惨な姿 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
《記者コラム》16世紀に南米へ来た日本人奴隷とユダヤ教徒 - ブラジル知るならニッケイ新聞WEB

【前編】アフリカン侍の著者 トーマス・ロックリー氏によるwiki編集の全貌を辿る!どのように弥助が創造されたのか?そして鳥取トムとはいったい・・・アサシンクリードシャドウズにも多大な影響を与えた大騒動 - YouTube
【後編】日本語と英語でここまで違う!?弥助を扱うあらゆる記事の取材を受けるトーマス・ロックリー氏によるメディアごとの発言について!ハリウッド版ブラック侍の記事ではなんと・・・ - YouTube

資料から見た弥助 - YouTube

「弥助 本能寺」 - 祖国は危機にあり(La patrie en danger) 関連blog
「弥助 新情報」 - 祖国は危機にあり(La patrie en danger) 関連blog

【地道に確認】弥助に関する史料をちゃんと読んでみよう/さんぽ史料学📚後編 - YouTube

ゲームさんぽ、ついに弥助の史料を東大史料編纂所の金子拓氏と読んでいく後編を公開!に関する反応集【アサシンクリード/シャドウズ/反応集】 - YouTube

#参考資料
いわゆる豪商、豪農、庄屋さん的な存在の人たちは、戦国時代より前のいわゆる武士階級だった人たちも含まれます。もちろん公家など、それ以外の流れの人たちもいたでしょう。そういう人たちも一律に武士とよんでいいといった話にはならないでしょうし、また兵農分離をある意味推進してきたともいえる戦国時代の信長様の配下において、指揮系統として、また役割分担的にも必要だったであろう、階級的な存在を、他所の武家と同じ扱いで評価していいのかな、ということもあります。そういう意味で、信長の家臣だった人が、どんな認識だったのかを知ることができるという意味で、信長公記は参考になる資料だと思っています。

信長公記 巻之下 (我自刊我本) - 国立国会図書館デジタルコレクション信長公記 - Wikisource
家忠日記 第2 (文科大学史誌叢書) - 国立国会図書館デジタルコレク
ション

Biblioteca Geral Digital - Cartas que os padres e irmãos da Companhia de Iesus escreuerão dos Reynos de Iapão & China aos da mesma Companhia da India, & Europa, desdo anno de 1549 atè o de 1580.(1581年イエズス会日本年報(Luis Frois))
耶蘇会の日本年報 第1輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

Biblioteca Geral Digital - Cartas que os padres e irmãos da Companhia de Iesus escreuerão dos Reynos de Iapão & China aos da mesma Companhia da India, & Europa, desdo anno de 1549 atè o de 1580.(1581年イエズス会日本年報(Lorenzo Mesia))
耶蘇会の日本年報 第1輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

Biblioteca Geral Digital - Cartas que os padres e irmãos da Companhia de Iesus escreuerão dos Reynos de Iapão & China aos da mesma Companhia da India, & Europa, desdo anno de 1549 atè o de 1580.(1582年イエズス会日本年報(Luis Frois))
耶蘇会の日本年報 第1輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

次のサイトで、サイズは大きめですがpdfとして入手できます。ページなどは上記サイトと異なりますが、上記にあげた3つの文章も含まれています。(res-402-v_0000_capa-capa_t24-C-R0150.pdfの12,38,136ページ。)
Cartas qve os padres e irmãos da Companhia de Iesus escreuerão dos Reynos de Iapão & China aos da mesma Companhia da India, & Europa des do anno de 1549. até o de 1580: Primeiro [-segundo] tomo..., Em Euora, 1598 - Biblioteca Nacional Digital

右側のPDFです。
Cartas que os padres e irmãos da Companhia de Iesus escreuerão dos Reynos de Iapão & China aos da mesma Companhia da India, & Europa des do anno de 1549. até o de 1580

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136ページ Cartas qve os padres e irmãos da Companhia de Iesus escreuerão dos Reynos de Iapão & China aos da me...


弥助関連史料とその英訳 / English translated historical documents related to Yasuke - 打越眠主主義人民共和国


# 追記
参考リンクについては、誰が書いたか、誰が主張しているかは、重視していません。何を根拠にどういった主張をしているかを重視しています。ですから、参考リンクの人たちの他の発言については、個人的に賛同できないものもでてくるとは思いますし、その人たちの主張すべてに賛同しているわけではありません。

"My Pretty YASUKE/私の可愛い弥助" Music Video feat.アサシンクリードシャドウズ【非公式ソング】Assassin’s Creed Shadows - YouTube

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