お仕事って何ですか?
『揺れて歩くラジオ』というインターネットラジオを聞きました。
しみてつ✖️ながやん 妄想ラジオ(現在は「揺れて歩くラジオ」として放送中)
https://www.facebook.com/shimitetsu.nagayan.mousouRadio/
「揺れて歩く」という本の感想文から生老病死や医療専門職のあり方的なことを取り上げられていました。自分の感想文も含めて話されていたので、聞き入っていたのですがその中で「あなたにとって仕事って何ですか?」「あなたは今、どんなことを自分自身の役割として、日々をくらしていますか?と問いを投げかけられました
あらためて仕事ってなんだろう…
振り返りながら考えたいと思います
●究極職務は代わりのきく仕事
昨日アーカイブで篤姫を見ました。もう12年前になるんですね。2008年の大河ドラマ「篤姫」。「もう仕事を辞めよう!」と初めて思ったのが2007年2月。そしてそれを色んな人に支えられて乗り越えることができた自分と重ねながら見ていたのが篤姫でした。
篤姫は「一本道」をキーワードに揺れながらも嫁ぎ先も地元の薩摩も家族として「愛する心」が描かれていてとても好きなドラマです。なんだか私に取っての仕事の意味を振り返る機会をもらったような気がしたので、この時のことを振り返りたいと思います
私は地域包括支援センターという部署で働いている保健師です。これが私の俗に言うお仕事です。私は保健師の仕事が大好きで辞めようと思ったことはそれまで全くありませんでした。
ただこの地域包括支援センターができた時、それが揺らぐ出来事がありました。
2005年に市町村合併と介護保険の大改正。それとともに2006年に地域包括支援センターを設置することになり、3職種3人いるはずの体制が私以外の職種は兼務で会議室だった4つのデスクがある部屋に、一人きりで始めることになりました。自分でも介護保険にずっと携わって来た自負もあり、これは私でなくてはできない仕事だとプライドもあったのだと思います。
孤独感を持ちながらも、次々に来る相談とそれまでケアマネさんがたてていたケアプランが地域包括支援センターに更新申請のたびに順次移行されるというケアプランの仕事と地域啓発と包括の仕事をほぼ一人していました
人員体制を整えるよう上司に相談しましたが、現状を見てみないと何とも言えないといわれ、とりあえずこの体制で頑張れと言われたこともあり踏ん張っていました。
特にケアプラン業務は当初保健師業務とされ、一部介護支援専門員への委託以外は、その他の包括専門職対応を認めてはいませんでした。(のちに色んなパターンが認められるようになりました)
毎日更新される要介護認定、その度に担当する方が増えます。しかもそれまでの様式とは違う様式のため情報収集も一からになります。訪問もものすごい件数でした。
書類様式もエクセル表が配布されているだけで、業務システムもない。やってもやっても終わらないどころか増えていく業務。誰も変わりがいない中で、計画策定の業務で毎日が追われていました。
しかも、合併前から一緒に仕事をしてくださっていた嘱託のケアマネさんも都合によりお辞めになることになり、八方塞がり…
もうなんとか頑張るしかないと必死でした
その頃、子供たちは4年生、1年生、年中さん
主人は自営で飲食店をしており夜は仕事をしていて、義母のフォローでなんとか仕事を続けていました
6時前に家に帰り着きご飯を作り(義母のフォローのおかずをありがたく頂きながら)、一緒に食べてそれからお風呂に入れて寝かしつけ、20時過ぎに事務所に戻りケアプランを作り12時過ぎに帰る日々
土日は義母に子供たちをあずけ、終日ケアプランを作り、夜はちょっとだけ子供たちと遊び学校の準備をする…
PTA活動や時々主人の店の手伝いもあり、ほぼ休み無く3ヶ月が過ぎました。
そんなことを続けていて身が持つはずありません
3ヶ月後めまいで立てなくなり、ドクターストップ。2週間休むことになりました。
ちょうどその月から、介護支援専門員の方がお辞めになるのと入れ替わりで、保健所の紹介で保健師と介護支援専門員の資格を持っている方が嘱託で来てくださることが決まりホッとしたからか疲れが一気にでたのかももしれません。
強制的に休めと言われ休んでみると…
夫も子どもたちも私が家にいることを喜び、逆に上司は現状が理解でき体制整備を急ぐ形で考えてくださることになりました
あー意地を張ってひとりで抱えてしまっていたのだなーと反省。
職務としての仕事は、究極「絶対にやらなくてはならないこと」「代わりがいないこと」って基本的にないのだと学んだ出来事でした。
方法は違えどなんとかなるのです。
自分じゃないとと思うのは自分のプライドでした。もちろんそれは職業人として技術を高めクオリティを保つという意味では大事なことです。
でも身を削って命の危険を取ってまでするかどうか、安全な方法は他にないかどうかは、少し立ち止まって考えなくてはいけないのだと思います。
「命あってのものだね」だと。
ただ私自身は、不思議なことに、こんな風になっても辞めたいとは思わなかったんです。
大変だったけれど、「すべての人々に健康を」という公衆衛生看護に携わるこの仕事は私の人生の中で大きな使命を与えてくれます。まさに愛につなげてくれるのです。
基本的に人と関わる仕事は好きで、元気になっていかれる姿や、困りごとが解決してきて明るい表情になっていかれる姿、地域活動で出会う元気なお母さん・お父さんの出会いは愛に満ちワクワクする仕事なのでした。
辞めたいと思ったのは、この半年後のことでした
●かわりのいない仕事
2007年主任介護支援専門員の講座が始まりました。
それまで介護支援専門員の指導者研修は受けていましたが介護支援専門員の資格は持っていませんでした。
でもみんなで変わりができる体制を作るために、まず私がダブルライセンスになろうと資格試験を受け2006年度に介護支援専門員をとりました
そして2007年度、主任介護支援専門員取得に向け、現任研修1、現任研修2、主任介護支援専門員研修と日々の業務をこなしながら一気に研修を受けることになりました。
宿題も多くその度にレポートを書く
鹿児島市内まで出かけることになり、帰りはどうしても遅くなります
そして日頃の業務も押し気味になり、帰る時間が遅くなっていきました。子どもたちの食事は義母が作ってくれて家に連れてきてくれて待ってました。
子供たちがご飯を食べている安心感で、私もどこか甘えていたのだと思います。これが終わったら楽になるからねと自分に言い聞かせていたようにも思います。
そんな主任介護支援専門員研修の後期の1週間が10日後せまった日曜日の夜。宿題を書き終えて夜帰り着くと義母がご飯もお風呂も済ませてくれて、子どもたちは寝ていました。
ホッとして自分のご飯を食べようと食台をみると、手紙が置いてありました。
「やさしいお母さんへ」
3人の子供たちのそれぞれの想いが書いてありました。
「早く帰ってきてほしい」という想いのあふれる手紙でした
特に長女からの手紙は、私を待って外に行って泣いている妹や弟にかける言葉がない。お母さんも早く帰って来て休んでほしいという内容でした。
古い表現ですが「後頭部を鈍器で殴られたような気持ち」でした。
でもあと1週間だし、子供たちにちゃんと話してがんばろうと思いつつ、過ごしていた2日後。
さらに衝撃的な出来事が追い討ちをかけました
仕事で鹿児島市に向かうフェリーの中で、携帯がなりました。小学校の教頭先生からでした。
次女が意識をなくして救急搬送されたという連絡でした
引き返すこともできないフェリーの中、主人に連絡を取り、上司や相手先に連絡を取り帰りました
娘は病院のベットで寝ていました。いのちに別状はなかったのですが、私はバチが当たったと思いました。
自分の職務であればSOSを察知してすぐに対応する状況を、我が子に関してはどこか自分と一体のものと勘違いして我慢をしいていたのではないか…
ああ私は多分これからもこんなふうに生きてしまうかもしれない…
取り返しのつかないことをしてしまうかもしれない…
だから仕事をやめよう…
休みをもらって娘を看病している間ずっとそう思っていました。
そして無事退院した日。子供たちにあやまりました。
そしてお母さんはお仕事辞めようと思うと伝えました。
すると子供たちからは思っても見ない返事が返って来たのです。
「やめてほしいとは誰も思っていないよ」と。
目をパチクリしながら「なんで?」というと
「仕事しているお母さん好きだよ。お母さん仕事好きでしょ。お母さんが楽しそうに仕事しているのは好きだよ。だけどいつ帰ってくるかわからないまま待っているのはつらい。何時に帰ってくるかちゃんと教えてほしいんだよ」との答え
なんと!そんなこともわからなかったんだねお母さん。でもお仕事大好きで走り回ってる母を受容して、好きだよって言ってくれるんだね。
なんとなんと子供の情は親より深い…
そんなことを思いしった出来事でした
家事などすることの変わりはあっても、この世に産み出した責任と子供たちを育て慈しむ仕事のかわりはいない、母としての「愛する」という仕事、役割はちゃんと態度として見せていくことがとても大事。
それは「代わりのない仕事」だと実感した出来事でした
それから帰る時間を知らせるようにはなりましたが、結局今も約束を守れないことが多いです。でも対話の中で愛情を感じてくれているのか、私はどちらの「仕事」も続けられています。
●日々の暮らしの中で
暮らしの中での私の仕事を考えると、職業としての仕事、生計を立てるための仕事とともに、飲食店を営む夫の妻としての仕事、3人の子供たちの母としての仕事、義父にとっての嫁しての仕事、両親にとっての娘の仕事…色んな仕事があります
そう思うと1日の中で様々な繋がりの中で様々な仕事が複雑に絡んで私を構成していることに気づきます
仕事って結局人生そのものなのかもしれないなあと
何歳まで生きるのかはわからないけれど、生きている限り「しなければならないこと」は形を変えて与えられ、そして生きている時間を構成していってくれるのでしょうね
仕事とは「生きている限り与えられる役割」
振り返ってみての私の着地点。「仕事って?」の今のところの回答です