当時17歳だった祖母の戦争体験記
※これは私が書いた話ではありません。
私の祖母が書いた体験記です。
読む前に、祖母のことを少し。
私の祖母は北朝鮮に疎開し、18歳で日本に帰国したのち、結婚も出産もしない人生を選びました。
実父から捨てられた私の父を引き取り、女手のみで育てて現在に至ります。
結婚しようとしてた人はいたという話はチラッと耳にしましたが、今はもうボケてしまって対話もままならないので詳細は永遠に解りません。ただ、左手薬指にはずっと金の指輪をつけています。そこに関する物語めっちゃ気になる……!
ちなみに、私の父は継母からひどく虐待を受け、実父からも「奥さんと反りが合わんから邪魔」と捨てられた子供なのでお察しな人格になるかと思いきや、大らかで暴力は一切はたらかない、とても頭の良い人間です。
諸々有って後ろから鉄パイプで殴ったことも有ったのですが、その時ですら怒りという感情を露わにしたのは一瞬だけでした。
多少の歪みはあったものの、虐待されて捨てられた子供をそこまで理性的で優しい人間に育てられたのはこの祖母の人格あってこそだと大人になった今つくづく思います。
祖母もまた、とても理知的でいつもニコニコしていて負の感情を表に出さない人でした。私は幼少期ほとんど祖母に育てられたのですが、祖母に怒られたとか怒鳴られたという記憶は一切ありません。結局、祖母が怒りという感情を発露する瞬間をお目にかかることは人生の中で一度も有りませんでした。
祖母は鏡と喋る癖のある人で、一日の出来事などを鏡に映ってる自分に話しかけてました。「ふんふん、そうね」という言葉も発していたので、一方的に語り掛けていたのではなく、恐らく祖母の中では何かしらの対話が為されてたのかと思います。
それと、寝る時に必ずテレビをつけて寝る人でした。
人の声がしてないと寝れない、という話をしていたような記憶が有りますが、大人になってからこの体験記を読み、勝手に色々察して泣きました。
両親は子育てがダメダメな大人だったのですが、私たち兄妹は祖母のおかげで飢えだけは味わうことはありませんでした。
幼少期から常にキッチンに蒸かしたさつまいもやとうもろこし、チョコレートなどが用意されていて、それでも別のもの食べたい~って時は祖母に「お腹空いた」と言えばすぐに何か腹の満たされるものを作ってもらえました。今思えばすげぇワガママ…。
その甘やかしも恐らく、祖母の戦争体験で味わった飢えへの忌避感、嫌悪感からかと思います。
飢えという苦しみを私たちが味わうこと無いよう、常に食べ物を用意しておいてくれた祖母の優しさが、愛が、今は本当に身に沁みます。
とても余談なのですが、昔とうらぶ二次創作でよく見かけた「美味しいおやつを分けてくれる=愛」みたいな方程式が本当に苦手で、一時期地雷だったんですね、私。
たかだか食い物で愛を量るな!みみっちい!って思ってたのですが、それは飢えを味わったことが無いからなのかな、とこの体験記を読んでふと省みた覚えが有ります。
美味しい、と感じること、飢えを感じなくて良いということ、は、生物が一番幸せな瞬間なのかもしれないな、と最近つくづく思います。
美味しいものを食べさせたい、ひもじい思いをさせたくない、という想いは、一番解り易い愛の形なのかもしれない。この体験記のおかげでそう思い至り、地雷は解除されたのでした。
自分の生きている日常がいかに幸せであるか、飽食であるか、ということを、この体験記を通して思い知らされた記憶が有ります。
もっと壮絶な戦争体験はいくらでも有るかと思いますが、ありふれた一般人、”普通”の17歳のリアルが描かれているからこそ、色々と刺さるものが有ったのだと思います。
それでは、どうでもいい余談を長々と失礼しました。
↑祖母の手書きの原稿
出版する予定だったらしいんですが、何故か断念したらしい
(詳細は謎)
↑資料も付いてた。
たぶん脱出のルート
夜陰に乗じて
著:八重子
大韓航空機事故にかかわる蜂谷真由美の韓国送還――テープで口をふさがれ、おぼつかない足取りで飛行機のタラップを連行されていく痛々しい姿はまだ記憶に新しい。
そして、一月十五日の蜂谷真由美こと、実は金賢姫(きんけんひ)という北朝鮮工作員云々の衝撃的な記者会見。終始うつむいてはいたが、まだ、あどけなさの残る育ちのよさそうな美女であることが、百十五名の罪の無い命を奪ったという大それたことと結びつかない。この女性の言うことが真実なら、ここにまた国家権力による「教育」の恐ろしさを見る。嘗て「肩を並べて兄さんと今日も学校へ行けるのは兵隊さんのおかげです……」登下校に列を組んで唄い「欲しがりません勝つまでは」「撃ちてし止まん」大本営発表を夢々疑わず、玉砕の精神と竹槍訓練の教育を受け、国敗れるなど露ほども思わず、耐乏生活にもめげず銃後を守った挙句が――「無条件降伏」。そして惨めな敗戦後を異国で味わった屈辱……金賢姫にかぶせて、往時を顧みるのだった。
敗戦を北朝鮮で迎えた折は私十七歳。今でも思い出すと、辛いし悲しい。そして口惜しい。
(昭和63年2月記)
一、流れ星
満州(中国・東北部)と朝鮮半島の国境である鴨緑江(おおりょくこう)。その川を超えて朝鮮側に入ると新義州駅である。藁に駅を三つ四つ南下して郭山駅へ下り立ったのは昭和二十年八月十二日朝、すでに太陽は暑さ厳しい一日であろうことを兆していた。
二十輌編成の列車は、うしろ十輌の疎開民を降ろすと、前十輌の疎開民と共に再び黒煙を穿いて南下していった。
朝鮮平安北道定州郡にあるこの小駅へ降りた人々が、役場の手配により、それぞれ分散して落ち着いた頃は陽も大分西へ傾きかけ、少しではあったが風も落ちて来た。私たち家族五人は小高い丘の上の幼稚園舎に収容された。
板戸で仕切られた隣の教会へも幾人かが収容され、子どもの声や、ざわめきが伝わってくる。
園舎の一隅に荷物を置き、居場所を確保。汗を拭いつつ、窓からの風にホッと一息いれて一昨日からのめくるめくような出来ごとに思いを馳せらせていった。
八月九日未明、突如鳴り響いた空襲警報に眠りを醒まされ、ほどなくしてソ連参戦を知った。新京の空も厳しい様相をみせてきた翌十日昼頃、町内会長通達で「出征家族並び遺族はは今夜密かに児玉公園に集結せよ」「すぐ治まると思うが、しばし難をのがれるため疎開させよ。……お上からの触れである」とのこと。
その”すぐ”を私達なりに解釈して、ほんの手回り品をリュックに詰めこみ、同じアパートに住む吉野辺さん家族と共に行動することになった。
昭和十九年暮れに兄が鞍山高射砲隊へ入営、義兄は今年(二十年)七月末日應招して家を出る。灯火管制の施(し)かれた街を、町内会長の自家用馬車(マーチョ)で、集合場所の児玉公園に向かった。
公園内は闇の中――。係員の懐中電灯の誘導で、並んでるらしい列の後ろに立たされた。どれ程の人が集結してるのかわからないが、時折、静寂の中から伝わってくるざわめきのようなもので、相当な数だなと察した。
幸いに警報は鳴らなかった。空中へ幾何学模様を描くように交叉するサーチライトを眺めながら何時間かをその場所で過ごした。
少しも動かない列に苛立ちはじめた頃、隣の列がざわつき、程なく私達の列も動き出した。前方の淡い光にあらわれたのは軍用トラックの後部であった。幌のかかった真っ黒な中を手探りで乗り込んだ。訳わからないまま乗ったトラックは、やがて眠りの中にある新京市街地をよぎり郊外へ出た。
トラックを降りた私達は再び闇の中を誘導されて列を組んだ。「指示あるまで楽にして待つように」と言い渡された。果てしなく続く星空の下であったから、目が慣れてくると周りの人の顔がおぼろげながらも見えてきた。生後八か月の朋子は姉に抱かれ、四歳の眞は母の膝にあって眠っていた。
程なくして、急激な冷えが足もとからのぼって来て大あわて……幼き等をかばい、肩を寄せ合って、夜明け前の寒さを凌いでいた。と、「流れ星だ!」の声に、どよめきに似たものが起きた。遮るものは何もない曠野(こうや)に空から幾筋も尾を引いて一瞬の美を展(ひろ)げつつ遥かな地平線に消えていった。
明治生まれの母、大正の姉、そして昭和の私、年代の違う母子三人が呆然となった一瞬だった。現在おかれている身の程を忘れて、暫くは声もなく曠野の大自然のドラマに感動していた。
程なく東の地平線が横一文字に白み、徐々に曙色の帯状が広がり夜明けを迎えた。少しばかり甘い感傷に浸っていた私達は、辺りが明るくなるほどに、頭をガーンと殴られたような驚きで、しばし唖然となった。
ここは東新京駅前広場(貨車専門の駅だったと思う)で、おびただしい邦人の群れもさることながら、その人達が持っている荷物の嵩に驚いた、鍋、釜、布団の類まで持ってるグループもある。愕然となった私達の荷物はと言えば、当面の衣類をリュックに詰め込んで来ただけ……「すぐに収まる」を鵜呑みにした浅はかさを思い知らされたのだった。
「一週間か十日で戻れるのでは」との姉の問いに、後ろのグループの女性は「さぁ、どうでしょうか? 長期になるかも……とも聞きましたが――」と言葉を濁した。
吉野辺さんと顔見合わせた姉は、「八重子っ!」声と共に荷物を抱えてトラック降車場目指してすっ飛んで行った。朋子を背負った母が続き、私は眞を抱き、背中のリュックを揺らしながら、あとを追った。
「こちらへ戻って来る便はないから思い直すように」という係員の制止もきかず、再びトラックへ乗り込んで、まだ醒めやらぬ新京市街へ戻り、わが家の敷居をまたいだ。
係員の言うように、もう東新京駅へ行く便はない。どうする当てがある訳もなく、母も姉も無言で荷物作りに精を出していた。
二人の乳幼児を抱えた二十六歳の姉・里子、老境に入った母は五十二歳、そして十七歳の末っ子の私……どれ程の荷が持てるだろう? あれやこれやと迷いつつ、時折、鳴り渡る警報も無視して荷を作っていった。
二、迷い
夕暮れになるのを待って家を出た。持てる限りの荷を負って新京駅へ向かう。
混雑を予想していた駅は、燭を落とし不気味なほど静かであった。出札窓口に声をかけても応答する駅員の姿はなく途方にくれた。無人の改札口を通ってホームへ出た。誰もいない暗いホームは、私達を更に不安にした。
やがて目が慣れるに従い、無人に見えたホームの隅に幾組かの邦人が屯ろしているのを見てホッとする。同時に汽車は来るのだろうか? 停車せずに通過してしまうのでは? 等々新たな不安に襲われながら――。
時折の警戒警報に怯えつつ、身を寄せ合って、ひたすら汽車の早く来ることを願った。
どれ程の刻が過ぎたのか、音もなく突如と現れた無蓋貨車が灯りも点けずに滑り込んで来て、鈍い音をきしませて停まった。
「満員だっ、ほかの車輌へ行けっ」と鬼の声――「少しずつ詰めてあげたら」と仏の声――それらを聞き流して遮二無二乗り込んだ行先不明の疎開列車であったが、何はともあれ「乗車した」という安堵で胸撫でおろし、サーチライトの交叉する新京市をあとにした。二度と帰れない等、露ほども思わずに――。
列車は闇の曠野を南下して、公主嶺、四平の各駅はまたたくまに後ろへ飛んで行き、奉天駅もそっけなく通過。
「まるで逃亡者のようね」と私。耳打ちされた姉が笑って頷いた。(疎開ではなく逃亡であったと知ったのは敗戦直後だった)。
やがて朝鮮の国境に近い安東駅に停車して夜明けを迎えた。
この駅で、生死を分ける岐路に立たされたことを、あとで知るのだった。
発車の合図が出る直前に、反対側のホームへも邦人を満載した貨車が入って来た。と、私の勤務先である間組(はざまぐみ)の方々が乗車していた。双方とも手を振って驚きの声を発した。こっちへ来いとい手招きされたが、同行者の吉野辺さんのこともあるし、迷ってるうちに時がたち、列車が動き出した。手を振って別れを告げた。
スピードをあげた列車は、やがて鴨緑江を渡り、朝鮮へ入った。
この迷いは今なお心の奥深く、しこりになっている。もし、もしもあの時、間組と行動を共にしていたら母も姉も死ぬことなく帰国出来たのではないだろうか。
建設業界では五指に入る大手企業であり、各支店、営業所に連絡網があり、現地の人との接触も深い。何らかの形で早く帰国出来たのではなかろうか。
”疎開”という綺麗ごとを見抜けなかった私たち家族に”運”がなかったのだろう。
◇
敗戦後の北朝鮮で飢えと寒さ、死の恐怖におののきつつ十か月余の収容所ぐらしは、十七歳の私の心に深い翳となって残った。
三、独立の夜の郭山
戸惑い多い仮住まいに、落ち着かないまま迎えた八月十六日、緊急電令により炎暑の校庭に集合した。一日遅れで我が国の無条件降伏を知らされたが、俄かには信じられず、半信半疑のうちに解散。別段変わったこともなく夜を迎えた。
と、町の方角から急に喚声が起り、万歳万歳の連呼と共に、ざわめきが大きくなった。訝る私たちが間もなく知ったのは朝鮮独立宣言だった。”敗戦――無条件降伏”がこういうものなのかを体験した一瞬でした。
前方の山に煙と炎が上がった。神社に火が放たれたのが始まりで町の各所で次々に火の手があがった。商店などの日本字の看板が焼かれ、その都度湧く興奮した減声が高くなり、ざわめきは次々にこちらに来る様子。
やがて校門辺りで大きな音とガラスの割れる音。私たちに向けられた罵声と怒号。闇の中で息をのみ、鳴りをひそめ、すさまじい成行きに怯えていた。
怒号と罵声のつぶては代わる代わる襲って来て深更まで及んだ。
恐怖の一夜が明けた。窓から見る景色は、向かい側の山の上の神社と鳥居が消えたが、あとは何ごともなかったような山の姿だった。
暴徒から守ってくれたのは、町の保安隊と一部の町民の方々と知らされた。ありがとうございました。
これから敗戦民として、どのような迫害を受けるのか、暗澹たる気持ちで口に入れた朝の握り飯は砂を噛むようであった。
四、疑問
ソ連進駐軍の兵士五人が入口に立ちはだかった。前もって「逆らわないで、要求の品を差し出せ」の触れが出ていたので、トラブルは起きなかったが、腕時計、万年筆、指輪などを没収された。
満州方面のソ連兵の乱暴ぶりは、ここへも伝わっていたので、固唾をのんで身構えたが、地元の保安員立ち合いの故か、婦女子をどうのこうのという要求はなく、没収品をかき集めると嬉々として引き上げていった。
車の立ち去るのを見届けてから「馬鹿っ、阿呆っ、今に見とれ!」など、女性にあるまじき罵詈雑言を吐いて憂さを晴らした。
駐屯兵たちが酒宴を開く夜は、保安員の誘導で姉と共に裏山へ避難し、息を潜めていた(このように守ってくれた郭山当局に、感謝の意を深めてる現在である)。
全くの情報ゼロの中で、新京へ戻ることも内地へ帰る見通しもないまま、焦燥のうちに八月が暮れ、九月に入ったがかりの朝のこと、校庭へ集合させられた。
「われわれは三十六年間、君たちの祖国に虐げられ苦しめられた。今、ここに解放され独立した(略)。君たちの血をすすり、肉を食み、骨を齧っても恨みは消えないが、そのような報復手段はとらない(略)……」他にもいろいろと述べたが「三十六年間云々」が再三出て来て不審に思い、ここだけが記憶に残った。三十六年間の日・朝の歴史に何が有ったのか? 母子家庭で育ち政治や国際的なことには全く無知だった私は、疑問を抱いたまま散会、すぐ忘れてしまった。
この闘志あふるる演壇の人が金日成氏で、のちの北朝鮮の首領となった。
五、使役に泣いた
初めて就いた労働は、郭山駅の機関車防空壕の解体作業だった。機関車一輌分を覆う土豪を崩すのだ。
触れたこともないツルハシ、担いだ経験のないモッコ。スコップは雪掻きで使った程度……三種類のうちから選んで作業につけと命ぜられても戸惑うばかりだった。姉と話し合って、モッコを選んだ。
崩した土をモッコに入れて貰い、牛車まで運ぶのだが、担いだだけで足許はフラフラ。
九月の太陽はまだ厳しく、鉄路の反射が目に痛い。担いだモッコとの重心がとれずに左右にふらつき、足も前に出ない。滝のような汗が涙と共に頬を伝った。後ろから姉の叱声が飛んで来る。ようやく一歩を踏み出したが、肩が砕けてしまいそうだった。
三回運んで力つきてダウンという情けない結果に終わり、肉体労働の厳しさを知った。
次に与えられた作業は”山で伐り出した生木の松丸太を町の松脂工場まで運ぶ”だった。片道四キロ弱の杣道を、肩幅の倍ほどの丸太を荒縄一本で背負い下山、指定の場所へ納めて終了。
この作業は、縄が肩へ食い込むのを我慢すれば気晴らしにはなった。工場所有の山らしいので、里の人はもちろん、誰にも逢わなかった。細い径であり一列になっての登・下山は気が滅入る。と、前方から小声ではあるが「若い血潮の予科練の七つ釦は桜に錨♬」唄声は後方へとつながっていった。呟くようであるが歌は勇気をくれる。大方が兵士の妻であり、乳・幼児を抱える二十代の若いおかあさん達なのだ。頑張れ!おかあちゃんっ。
やがて食料並び栄養不足からくる体力に限界が出始めた頃、この作業も一段落した。
のちに、この人里近い道添いの山家の人達が、収容所内へ、ふかし芋やお餅を売りに来て飢えを救ってくれたのを考えると、”生木運び”は無駄ではなかったのかも。
六、新しい収容所
町はずれではあるが、国道沿いの山を拓いて、私たちの収容所八棟が建った。地形の関係であろうか棟の大きさは一定ではなかった。
三尺の出入り口には扉の代わりに蓆が下がっていた。オンドル式の床は、塗り込みが足りないのか、石の凹凸が目立った。
校舎、園舎、駅の倉庫を占拠した私たち疎開者は、新しい居場所を造って貰い、粗壁のまだ乾かぬうちの移動であった。
小春日に恵まれた十一月初旬、移動が始まった。幼稚園・学校組は午前中、倉庫組は午後からとの通告を貰い、忙しい一日となった。
部屋割りは、帰国先である内地の県別になっていて、義兄の実家を指定した姉の計らいで、母と私も共に兵庫県赤穂郡赤穂町(現・赤穂市)で、関西方面の方々と同室になった。共に新京を逃れた吉野辺さんとは、ここで別々になった。
部屋の大きさは十畳ぐらいだったろうか? 入口の反対側に五十糧四方の明り取りの小窓があったが、板戸のため越冬中は開くことはなく、今まで過ごした三方ガラス戸の明るい幼稚園舎とは一変して昼暗き部屋は息詰まるようであった。
蓆一枚に二人の割合で、私達五人家族には二枚半の面積があてられた。殆どが子持ちのお母さん方なので、さしたる混乱もなく収まった。
姉が乳児を、母が甥を抱いて…私は母の背中に顔を埋めて眠りにつくのだった。お互いの体温が唯一の暖房でした。
街道に近い本部棟の入り口には〈郭山日本人疎開隊収容所〉木の香漂う看板が掲げられた。禁足令が出て、街道の向かい側の小川に行くのは許されるが、その他は許可なくては、この”格子なき収容所”を出るのは禁止。
オンドルを焚くのは夕方から出、割り当て分の薪がなくなれば終わり……支給の薪は生木で、少しばかりの焚きつけでは燃えず、当番泣かせであった。
陽のあるうちは外で日向ぼっこ、というよりは虱退治。動物園の猿舎で見かける蚤取りの母子猿と全く一緒の光景が随所で始まる。
曇天、雨や風の日は寝転がるより他に暖のとりようがなく、亀のように顔だけ出してお喋りや歌に気を紛らせた。わけても風の日は悲惨だった。扉代わりの入り口の蓆が舞い上がり、容赦なく吹き込む寒風に縮み上がった。
街道に沿って流れる清流が、収容所の生活用水だった。この川に氷が張るほどの酷寒地だったが、雪が積もったのは一回しか記憶にない。たまたまその年は降らなかったのか、もともと雪の少ない土地柄なのか、分からない。
広げた母の着物裏に、簡単服やスカートなど夏の衣類を幾重にも綴じつけて、更にもう一枚着物を合わせて縫いつける。即ち二枚の着物の間に夏衣類をアンコにする。掻い巻き代わりの出来上がり……。
新しい収容所で、このようにして越冬態勢を整えながら、只管、待たれるのは内地への帰国許可だった。
七、食糧調達
疎開した翌日から、一日二個の握り飯と一椀の汁、一つまみの野菜の煮付けが支給された。いつも空きっ腹であった。収容者の七~八割が乳幼児を抱えた二十代の”お母ちゃん”であり、出征家族なのだ。姉もそのうちの一人で、二月に産まれた朋子へ与える乳の出るのが悪くなった。
生活の変化、それとも栄養不足からか”生理”は見なかった。止まって幸いだった。手当てする綿花がないのだから――。再潮を見たのは、内地へ帰って二年後だった。
北国の冬の訪れは駆け足でやってくる。
作業場へ向かう街道の家の軒には、収穫した大根、白菜などが干され、また、軒下には幾つもの細長い甕(かめ)が並ぶ。この村では、キムチの甕の数で貧富の差を知る、ということだった。
畑から青いものが消えると、収容所の食糧事情は日増しに厳しく、朝は握り飯一個、夕方は水分の多い粥一椀、副菜なしが多くなっていった。
作業所へ通う山の中腹に数軒の部落があった。誰が緒口(いとぐち)をつけたか知らないが、その中の一軒が物々交換で食べものをくれるとのことを内密に聞きこんだ。
次の日、姉はコートの下に、食料に代えるべき”皮靴”をしのばせて作業についた。帰路、隊列が乱れた隙をみて、松丸太を背負った姉が林道の右手に消えた。示し合っていたので、姉に構わずに後続の一団に紛れこんで下山した。
パカチに盛られた御飯、辛いので、ヒィヒィと口の中で転がしながら食べたキムチ、とろけるようなさつま芋の甘煮、辛いことを忘れた一刻(ひととき)だった。(パカチとは干瓢を二つ割りして中の実をくりぬいたもの。器として多目的に使えて重宝した)
かくて”靴”は五人の胃袋を満たしてくれた。十日に一度の割合で見廻りのものが消えていったが、この山家の援けがなかったらどうなっていただろうか。
さまざまに飛び交う流言蜚語、例えば①満州へ送り返される。②焦土と化した日本には受入体制の力がなく、海外の者は見捨てられる。③シベリアに連行された兵士は銃殺刑になった。等々に惑わされつつも、五人揃って昭和二十一年の新しい年を迎えた。
情報の殆どがデマばかりの中の一つに(三十八度線の南では、すでに「日本人の内地送還」が始まっている)これは立ち消えることなく、収容所内にくすぶっていた。
食べ物は日を追うごとに悪くなり、炒って塩味をつけただけのおからになった。来る日も来る日も――。
余談になるが、とうもろこし、さつま芋は食べられるようになったが具が沢山入って見るからに美味しそうなのを出されても、おからだけは箸をつける気になれず、未だに”おから恐怖症”である。
八、”春”来たれども
焦燥の明け暮れのうちに四月に入った。春遅い北国だが少しずつ寒さがゆるみかけ、ホッとしたのも束の間、熱病で倒れる人が相次いで出た。あっという間に収容所内へ蔓延していった。虱(しらみ)の媒介による発疹チブス――。
四歳の眞が高熱を出して隔離された。付き添った姉が一日おくれで罹病、そのまた一日あとに私という順に伝染した。
病室へ運ばれた。姉たちの付添いをしてた母に迎えられたまでは覚えているが、記憶の糸はここでぷっつり。空白の刻が幾日流れたのであろうか。
闇の中から母の声を聞いた。その声を追いかけるように、黒い列車が音もなく近付いてきた。
「母ちゃん汽車を止めてッ。その汽車を止めてえッ。」叫んだつもりが声にならない。ちぎれんばかりに手を振ったが、灯りのない汽車は目の前を通り過ぎ、やがて闇に消えた。
と、不意に暗黒の幕が上がり眩しい草原が広がった。限りなく続く碧い空、遠くに母の呼ぶ声があった。「ヤエコッ、ヤエコォッ!!」
大草原が広がる。彼方から一頭二頭とあらわれた羊が、忽ち巨大な群れにふくれて取り囲まれた。身動きがとれない息苦しさに母を呼んだが、またも声にならず、逃げ出そうにも足が前に出なかった。と、羊の一頭が手首に噛みついた。
「ヒェーッ」
「八重子ォ、しっかりしてェ」
「眠っちゃぁ駄目ッ」母の呼びかけに応えようと目をあけた。焦点が合わないのか、母の顔がぼやけてる。
「か・あ・ちゃ・ん……」
「うん、うん」涙目で答えた母。
夢の中で、羊に噛まれた手首……は、脈を診ていた山谷医師の指先の冷えだった。
「もう大丈夫だ。峠は越えた。頑張れよ」の言葉を残して、山谷さんが病室を出た。白湯を飲むのに半身を起したら、隣の眞が心配そうな顔で私を見ていた。ニヤッと笑顔を見せたら、彼もニコッと笑った。
母が浮かない顔で黙ってるのが気になったし、姉の姿もないのも変だナ。トイレにしては長すぎる。姉だけ部屋を変えたのかとも考えたが……朋子は母の背中だし……熱で思考力がない。
「里子が死んじゃったよ」呟いた母。
「……」
「里子が死んじゃったよ」唇を噛んだ母。
「……」
「里子が死んじゃったよ」嗚咽する母。
母の顔がボワーッと白くなり、声がエコーとなって遠のいていった。
九、風とともに
フッと目覚めた私は、暫くぼんやりと目を宙に泳がせていた。気分は悪くない。額にのった生乾きの手拭いがすべり落ちた。
室内はまだ眠りの中にあって静かである。左へ首を向けると眞の顔が見えた。熱は下がったのであろうか、安らかに寝入っていた。右に母の背中があった。
辺りを憚りながら、小声で、
「母ちゃん」
「……」
続けて二、三回声をかけてみたが、応えはなく、肩をそっとゆすっても起きてくれない。更に頬に触れてみた。ひんやりした感触が指先に残った。
諦めて軽く目を閉じたら、また眠ってしまったらしい。
額に冷たい物を感じて目が醒めた。病室巡回当番さんの手であった。咽喉の渇きを訴えて、抱き起してもらい、水を含みながら母を見た。母の腕の中から朋子の寝顔が覗けて、心和むのだった。
「母ちゃんの顔が冷たいんだけど」
「あんたは熱の故(せい)で、そう感じるのよ。おばあちゃんも疲れてなさるから起こしちゃ駄目だよ」
私の額に濡れ手拭いを当てて当番さんは、気忙しく奥へ移っていった。
◆――◆
上体を当番さんに抱えられ、眞の小さい手を握って、母の遺体の傍にいた。当番さんの支えがなければ坐っていられなかった。ふっと意識が遠のく――と、当番さんの「しっかりしてッ」叱咤にハッとした。読経の声は男の方、遺体が蓆(むしろ)に巻かれ、戸板に移されて更に縄でくくられた……までは記憶にある。
戸板をかついだのが四人の男性だったのも覚えてる。
「お念佛を……」当番さんに促されても、口を噤むだけで、呆然自失――。
風の音が激しくなった。
耳もとで唱える当番さんの念佛を他人ごとのように聞きながら、風の音と共に去りゆく”母”を乾いた目で、ポカーンと見送った。
(私の意識が元通りになるのには、更に日数を要したのだった)
後日、手にした死亡診断書によると、姉が昭和二十一年四月十九日心臓麻痺、母は三日後の四月二十二日脳溢血――と記されていた。
母の死と引き換えに、私は”命”をもらったようである。四日後の朝には眞と共に回復室へ移された。朋子は元の部屋の人に預けられたとのこと――手許に引取れないのが口惜しいが、体力がつくまでは流れにまかせるより術がなかった。
十、姉へ宛てたハガキ
恢復室へ移った翌日の午後、一枚の郵便ハガキが世帯別に配られた。赤十字の働きかけで、内地へ届けるということだった。
本当に届くかどうか半信半疑ながら、一縷の望みを託して、愛知県一宮市へ嫁いでる長姉へ宛てた。
「新京を脱出して北朝鮮へ逃げたこと、義兄と兄は消息不明、噂ではソ連へ連行されたらしいこと、母と次姉の死、姉の遺児二人を抱えた私も熱病の余後であること、三人とも明日のことは分からない」と結んだ。
姉の許へハガキが届けば五人が死んだ場所だけは知っていてくれる、それだけで充分だった。
一字一字に別れの思いをこめてしたためた。枕もとへ一晩置いて、長姉の手許に届くことを祈ってやまなかった。
十一、朋子よ
快方に向かいかけると栄養失調から来たのか、聴力を失い、四、五日間だったと思うが音のない世界になった。まだ読み書きの出来ない眞とは手まねで、それでも通じない時は当番さんの助けを借りた。
二人は夜昼の区別なく、うつらうつらと眠ってるのか起きてるのか分からないような日を送っていた。
回復は眞の方が早かった。別棟の便所へスタスタ行けるようになったのに、私はまだ壁伝いに這うが如き状態だった。そんな或る日、間に合わずに粗相して泣くにも泣けず、這いつくばって始末をした惨めさは、今なお忘れることが出来ない。
そんな状態の所に、本部から人が来て「朋子ちゃんが風邪をこじらせて快(よ)くない。傍へ連れて来てはどうだろうか」渡されたメモを読んで困った。自身のことも満足に出来ない上に、聴力がなくどうやって朋子の面倒を見たらいいのか。
言葉もなく、メモをみつめて途方にくれた。そんな私の肩を軽く叩き、部員さんは部屋を出ていった。(この時、はっきり「危篤」と知らされていたら、ためらわずに引取ったであろう。例え、一晩でも私の腕の中で眠らせ、死なせてやりたかった。遠まわしなメモが、あとになって恨めしく思えたのだった)
亡くなった姉と同年配の人が面倒をみてくれてるという安心感に甘えていたのかもしれない。
頭が冴えて寝苦しい一夜であった。
朋子の死を知らされたのは翌日の昼近くであった。あまりの早さに呆然としながら、本部の人の介添えに支えられつつ、朋子の許へ行った。
仄暗い部屋には誰もいなくて、一まわりも二まわりも小さくなった朋子がぽつんと寝かされていた。
目が馴れてくると、何やら顔の上に黒い粒が蠢いていた。それは頭から這い出して来た毛虱だった。やり場のない憤りと哀しさに体が震え、朋子を抱くと表へ飛び出した。
「ごめんね、トモちゃんごめんね」
虱を払い落としながら他に言葉がみつからず、只々「ごめんね」を繰り返して泣いた。
十二、人形になった朋子
十四カ月の短い生涯のうち、半分以上を収容所で送り、発育不良で立つことも歩くこともなく逝ってしまった朋子。
誰かれなく愛嬌をふりまいてマスコットだった朋子。私がもっとも愛した姪っ子だった。
マスコットにふさわしい死出の装いは、一度も手を通す機会がなかった赤い友禅の着物を選んだ。
兵庫県赤穂の城下町で呉服屋を営む朋子の祖父母からの当時としては貴重な贈りものであった。帯が見当たらず、亡き姉の黄色い帯揚げを兵児帯(へこおび)の代りとした。爪と遺髪を封筒に収めたのち、前髪をおかぱに切り揃えたら「朋子」が市松人形の顔になった。
”市松人形”は小さな担架に乗って収容所の裏道から街道へ出て、すぐ家並みにかくれてしまった。
ほどなく左手の村道へ折れて、再び姿を現した時は、片袖が担架からこぼれて揺れていた。時折吹く晩春の風が紅い袂を翻し、それは、あたかも手を振って別れを告げるように見えて切なく、私の眼裏に焼きついた。
曲がりくねった畷(なわて)の中を次第に遠去かって行く市松人形――やがて赤い点となって山裾へ吸い込まれ、視野から消えた――。
十三、筍生活(たけのこぐらし)
平熱の日が続き、正気に戻った私を襲ったのが”心細さと淋しさ”だった。奈落の底へつき落とされたとは、こういうことかも知れないなどと、なまじ生かされたことが恨めしかった。
陽が西に沈みかけ、東に淡い夕月を見る頃が、とりわけ切なく寂しく、かつ心細かった。
「一人じゃない、マコちゃんがいるじゃないか。ガンバレッ、ヤエちゃんッ」室内に篭ってはいけないと気付き、外へ出るようにした。
晩春の陽は惜しみなくふりそそぎ、長い寒さから解放された。棟から棟をつなぐ凍てついた道も、折からの雪解風(ゆきげかぜ)にとけ始め、赤土のぬかる道になって、難儀だった。
この頃には治安も落ち着き、篭を抱えたり、頭に乗せたオモニが収容所内へも出入りしていた。独立した北朝鮮だが、急に生活(くらし)が変わるわけもなく、生活は楽でないらしい。餅、ふかし芋、炒り豆、キムチなど、食中りしないものを売りに来ていた。
品物を現金に換えてくれたのもオモニ達であった。(オモニは「お母さん」の意味)
最初に換金したのは母の着物だった。掌のお金を見て、心を痛めたのは一瞬で、「私一人じゃ持って帰れないもん」都合のよいように自分を納得させた。どうにでもなれというような自暴自棄もあった。
難民の筍ぐらし――いつまで持ちこたえることやら。
十四、葱坊主
或る日の午後のこと、川の洗い場で知り合った小母ちゃん(殆どが出征兵士の妻で、二十代の若いママさんだが、十代の私から見れば小母さんであった)に誘われて、川沿いの土手で摘み草をした。
近くの土手は殆ど採りつくされて摘むべき草はなかった。いつの間にか収容所の棟が小さくなっていて足をのばしすぎたことに気付いた。リーダー格の小母ちゃんの呼びかけで土手を駆け下り、灌木をくぐり抜けて畑に出た。さらに畦道を伝って街道へと急いだ。と、先頭を切っていたリーダーの足がとまった。
畑の窪みに腐りかけた菜っ葉や縄切れ、藁屑、薹(とう)が立ったネギが捨ててあった。
ためらっていたリーダーが畑へ飛び降りた。と、ネギを素早く私たちの足許へ投げてくれた。三人は四、五本を袋にねじ込むと一目散に街道へ出た。
「日本人」という誇りを捨て、落ちぶれたものだという、わが身の情けなさに誰もが無口で収容所への坂を上った。
幾度となく味わった”敗戦民”の哀しさを、また一つ心に刻んだのでした。
石ころ三つをコの字型にしただけの竈(かまど)、鍋はアルミの弁当箱、菜箸は小枝、燃料は枯枝や松かさなど、これが私の炊事用具であって炒り豆や炒り米が作れた。
摘み草と拾ったネギは飯盒を借りて茹でたが、塩も醤油もなく”惨め”を味付けにして無理矢理に喉を通過させた。
この時から二十数年が経った昭和四十年のこと、俳句吟行会で名古屋近郊の農道を歩いた。畑の隅にあの「球」のついた葱の一群れが風に揺れていた。葱の花、葱坊主、葱の擬宝珠(ぎぼしゅ)と言い、晩春の季語であると教えられた。「よく気がつきましたね」のお褒めの言葉を貰ったが、東京のど真ン中で生まれ育ち、八百屋で売られてる物しか知らない私が……と思うと、収容所ぐらしも無駄ではなかったかも――。
十五、二人だけの丘
京都府、大阪市、兵庫県への帰国者で占められているこの班の会話は、当然のことだが関西弁だ。おばさん達のやりとりは外国語を喋っているようで、私はポカーンと聴いているだけ――話の輪へ入って行けない淋しさもあって、天気の良い日は、裏山へ登るようになった。山というより「丘」であった。
今日もよく晴れて、丘の上はアカシアの香りが満ち、仰ぐ空には、ちぎれ雲が浮かび、見下ろせば農耕の人影、牛の鳴き声も長閑(のどか)な田園風景が展(ひろ)がっていた。
ごろごろしている岩の一つに腰かけて四方を眺めながら、一握りの炒り豆や炒り米を、時間をかけて口に放りこんでいた。
時には童謡や軍歌を……歌に飽きれば鬼ごっこに岩飛び――。飛び損ねて転げ落ち、アカシアの棘に悲鳴をあげたりして、眞と二人だけの楽しい世界を持った。
陽が西へ傾く頃、街道の面倒を煙りを吐きつつ汽車が南下して行く。トンネルへ入る汽笛を聞きながら、二人で手をつなぎ、丘を駆け下りるのだった。この汽車に乗れる日が刻々近づいてるのも知らずに――。
こうして何の由縁(ゆかり)もない小母さんたちの間にあって、苛められもせず、母や姉の死後も、眞と共に生かされていた。
十六、重大発表を聴く
昏(く)れかかった頃、突然「炊事棟前に集合せよ」との触れが回った。久しくなかった集合令に、集まった人々は硬い表情で肩寄せ合っていた。
やがて疎開隊長が、どの位置からも顔が見える突き出た岩の上に立った。
「これから話すことは重大なことだから、一切外部へ漏れないように気をつけて下さい」の注意があって……「郭山を脱出します」小さなざわめきがあちらこちらで起こった。
「郭山を出ます。日本人解放令が出ました。と同時に今まであった食料の無料配給が打ち切られます。食糧調達の対策はどう検討しても皆無です。このような小さな町には働く所はありません。また、有ったとしても既に私達の体力は限界を越えてます。皆さんも知っての通り、春になって死者の数は増えるばかりです。郭山を出るしか方法がありません。ここを出てどうなるのか見通しは極めて暗く無謀かも知れない。けれど手を拱いて死を待つより、力ある限り這ってでも南へ前進し、祖国へ一歩、いや半歩でも近づいて、その折、その時の天命を待とうと考えます
隊長の足もとに置かれたカーバイトに灯がともり、夕闇がかそかに揺れて緊迫した空気の中を臭気が漂い、流れていった。
「三十八度線南の日本人は内地へ帰国してるという確かな情報を得ています。三十八度線南北の境界地域は七里とか八里あって、交通が一切断たれており、徒歩での越境しか方法がないそうです。また検問所は山頂にあって、追いはぎが出没するという噂もあります。どのような山道なのかはわかりませんが、山越えとなれば落伍者を考えなければなりません。非情なようですが、一人の落伍者のために多くの人を犠牲には出来ません。落伍者は容赦なく捨てていきます。あとは自力で活路を拓いて下さい。郭山へ引き返すことは出来ませんので、よくよく覚悟してほしく思います。一か八か私たちの命を賭けて、三十八度線を突破しようではありませんかッ!!」
訥々(とつとつ)とした言葉の中に、隊長の熱意と悲壮な決断が感じられ、心打たれたのだった。
「全員を三つに分けました。第一隊は本州、第二隊は九州北部と四国、第三隊が九州南部と、現在、病床にある人。第一隊出発は三日後、その一週間後に第二隊、第三隊は病人の様子を見てからになりますが、更に一週間後を予定してます。尚、第一隊を引率するのは東京の大門さんです。出発時間など詳細はまた連絡します。全員無事に脱出できることを祈ってやみません。散会します」と結んだ。
どれほど今日の来るのを待ちわびたであろうか。それなのに、あまりにも厳しい現実を目前にして諸手を挙げて喜べなかった。眞を連れて山越え出来る体力が私にあるだろうか? 落伍したらどうなるんだろう? 三十八度線、三十八度線と呟きながら、心細さは刻が経つにつれて深くなっていった。”母ちゃんッ援けてぇ””里ちゃん、勇気を頂戴”
くそッ、こんな所で死んでたまるか!! 何が何でも生きて帰るぞォ――。
十七、惜別の涙
墓参りへ行くとのことので、各遺族は申し出よとの知らせを受けた。
この部屋で出産して、十時間後に嬰児を亡くされたNさん、奥さんに先立たれたEさん、そして私の三家族だった。少し体の不自由なEさんは参加を辞退された。
反故紙を四つに切った。一とつまみの炒り豆を入れて、おひねりを三つ作った。残りの反故紙で鶴を折って、お参りに同行出来ない甥の名前と”さようなら”の言葉を記した。
初めて行く墓地は、収容所から三十分ほど歩いた山の中腹にあった。土葬である。盛り土に立てられた板切れには名前と年齢が墨書してあった。意外に思ったのは一つの墓に日本の墓標が立っていたこと。
「鶴嘴(つるはし)とシャベルだけで、凍てた土を掘り起こすのは並大抵ではなく、日々増えていく佛さまに墓の方が間に合わず、一穴二体の措置をとりました」の挨拶があって納得。改めてその労に威謝したのでした。
母は三歳の男児と埋葬され、朋子は女の人と同穴、姉だけが一人で眠っていた。一番最初に目に飛びこんだのが「松田朋子」の標だった。折鶴とおひねりを置いて、わずかな水筒の水をかけたら涙がどっと溢れた。
時間が迫る――母と姉の標を探す。二人のは小径を二筋ほど離れた反対側にあった。
泣き乍ら別れを告げると共に「眞は守ります。私に勇気と力を与えて下さい」
短い時間の別れだった。手向ける香華もなく、一ひねりの豆を水筒からそそぐ僅かな水――別れを惜しむ私の大粒の涙がせめてもの供養になったであろうか、乾いた墓土へ丸い点となって浸透していった。
燦々とふりそそぐ首夏(しゅか)の太陽はあまりにも明るく、今日のこの墓地にはそぐわなかった。やがて合図の笛を聞いて丘を下る。幾度も振り返り、振り返りつつ……。
――さようなら母ちゃん
――さようなら里子姉ちゃん
――さようなら朋ちゃん
――さようなら皆さん
十八、流れるままに
六月五日快晴。荷物など無いに等しい私たちは、いつでも出発できる体制で待機していた。開き直ったとでもいうのだろうか軽い冗談が出るほど部屋は明るかった。
ついこの間まで母と姉に庇護されていた私が、百八十度の転換で今度は幼い眞を守る立場になった。母・姉亡きあとは戸惑いつつも日々責任感みたいなものが私の中で育っており、小母さんたちに負けまいと精一杯背伸びして突っ張り、頭の上から足の先まで緊張の塊になって今朝を迎えた。
落伍したらどうしようの恐怖も、部屋の人たちの感化で〈なるようになるさ〉で割り切ったら、大分気が軽くなった。
行く手に何が待ち受けていようと〈前進〉は〈希望〉につながると考えれば、足止めされていた郭山を出るのは、とても嬉しい。
終着駅「金郊」行の片道切符と、握り飯二個が収容所最後の支給品になった。
車内での私語は一切つつしみ、目立たないように行動せよ、ときつく言い渡されていたので、身も心も小さく縮めて一般乗客にまぎれ込み、午後の汽車で郭山駅を発った。
汽車は町並みを出て、収容所が建つ丘の前にさしかかった。炊事棟の前では一列に並んで十二、三人の人が手を振って見送ってくれた。
お世話になりました。別れの言葉は心の中で……目を彼方うしろへ転じたら碧空に浮雲が一つ。あの下辺りが母たちが眠る丘であろうか――ふっと心が揺れ、あわてて俯いた足もとに涙の一粒が散った。
人それぞれの思いを乗せた列車は、郭山に別れを告げ、汽笛を鳴らしつつ、トンネルへと入って行った。
かくて母や姉の七七忌日の明けるのを待たず、恩讐の郭山をあとにし、難民の群れの一人になって”運”を天に任せたのだった。
十九、ソ連兵に怯える
平壌駅で乗客のあらかたが下車して空席が出来た。私の前の四人掛けの席も空いた。眞が目で座っていいか? と問いかけて来たが、即座に首を振って同じ車輌に散在してる収容所の小母さんたちに目を転じた。席に着かないのを確認し、三、四歩移動して空席から離れた。敗戦民としての遠慮か、卑屈か? やや間のある停車時間に、再び乗客で席はふさがっていった。と、窓外を二人のソ連兵が通りすぎた。いやな予感が適中。車内に入って来た兵士は私のうしろをすり抜けて二つ先の席についた。そのうちの一人はこちらを向いている。
満州へ進駐したソ軍の日本人に対する殺人、略奪、婦女暴行などの数々の話は、収容所内にも断片的に伝わっており「恐い兵隊」の先入観がある。顔が引き吊っていったのは私一人ではなかったと思う。
眞の肩を引き寄せ、汽車の揺れを利用して少しずつ出入り口近くへ移動した。
兵士は三つ先の駅で下車して消えた。
二十、夜陰に乗じて
終着駅・金郊のホームに降り立ったのは日没近くであった。駅前の建前のかげに身を寄せ合って待機、次の指示を待った。
やがて駅舎の西に陽が沈み、かそかな風を誘って夕闇がおりて来た。汽車が再び北を指して出て行った。汽笛の余韻を耳に、目は白煙を追いながら〈あとへ退けない〉の思いを深めたのだった。
列車が出たあとの駅周辺は人影も絶え、ホームと構内の照明も少し落ちて、すべての動きが止まったかのような静けさの中で、私たちは息を潜めて待機した。
その静寂を破ったのは三台のトラックだった。直ちに乗車、乗り込んだのを見届けると早々と駅前広場をあとにした。
車に揺られながら昨年夏の新京脱出を思い出していた。児玉公園の暗闇の中でトラックへ乗り東新京駅へ運ばれたことが甦った。今、再びあの夜と同じように荷台に押し込まれ、夜陰に乗じて北朝鮮を脱出しようとしている。目指すは〈死の三十八度線〉といわれる国境越え――。
車の振動は激しく、窪みにはまると横転するのではないかと思う位に傾き、冷や冷やした。未舗装の街道はまさに大小のエクボ道路。掴るところのない真ン中に坐って体勢は不安定であった。車輌が陥(お)ちこむとドーンと体が宙に浮き、戻る時はしたたかにお尻を叩かれて、骨と皮ばかりの痩せた身にはたまったものでない。
もの言えば舌噛みそうな揺れの中で、眞を抱え、振り落されないよう身構えるのに精一杯だった。このような荷台の人のことなどにお構いなく車はひたすら宵闇深まりゆく街道を突っ走っていた。
初めての検問所は乗車したまま、三分ほどの停車で難なく通り抜けた。この検問所を出る時、一輌目と三輌目が入れかわり、私の乗った車は殿になった。わずかな停車時を利用して、全員が向きを後方へかえて坐り直した。道はゆるやかな登りになって左へ折れた。
どれほど走ったろうか「あッ、蛍だ」の声で顔を上げた。
通り過ぎた後ろの闇に三つ、四つと小さな灯が飛んだ。と見るままにその灯は数を増していって、妖しくも美しい光の響宴が宵闇に展がり、息をのんで眺めていた。
水辺を走ってるのだろうかと左右を見たが、樹々の茂みに遮られてわからないし耳を澄ましたが、車のエンジンで瀬の音も聴こえない。
新京市(現・長春市)を出る日の未明、遥か曠野の果てから上りくる太陽に感動――そして今、北朝鮮を脱出するに当って、このような”蛍の光”に見送られるとは吉兆なのかそれとも多難な知らせか?
二つ目の検問所では、全員に降車命令が出て一人ひとり電灯で顔を検められ、名前を聞かれた。車上の荷物へも、さっと灯りが走った。再び車へ戻ったが、引率責任者の大門さんが尋問を受けていた。時間にしたら六、七分であっただろうが、固唾をのんで待ってる私たちにはとても長く感じられた。
通行許可が出ても、車が動き出すまでは不安であった。
後々になって気がついたのだが、あの異常な雰囲気の中で、子どもが誰も泣かなかったことだ。
子どもなりに、何かを感じたのだろう。
検問所を出て、すぐ車は山道へ突入した。道の凹凸は更にひどく、カーブも増えて、たちまち顔が引き吊った。
こうしてトラックは暴れ放題で、夜陰深まる山の中へ吸いこまれて行くのだった。
山の”夜”が無気味に更けていく。
大きな振動の度にヒィーヒィー言ってた眞が静かになった。眠ってしまった眞の体を両膝にはさみ直し、力いっぱい足を踏ン張った。手は、いつでも隣の人にしがみつけるように空けておいた。
かくして長い暗い夜の刻が経っていった。
◆
道が下りばかりになり、木の間から左手下を望むと、里の野原も小径も白々と明けかかっていた。が、山中はまだ暗い。九十九折(つづらおり)を車は真っしぐらに暁の里を目指して下っていった。
里へ入って暫く走っても人家は見当たらない。と、車が停止。荷物を持って下車との指示に従った。
屋根に十字架が見えた。教会であった。と言うことは、ここは町か村であったのでは? ……周囲を見廻したが、目に飛び込んだのは雑草生い茂る野原のみ――。
三十八度線の領域に入ったのだろうか?
トラック上の激しい揺れとの闘いで一睡もしていない。廃墟と化した教会の椅子の上で足を伸ばし、束の間の眠りについた。
二十一、国境地帯を行く
この先は自力で難関を越えねばならない大事な正念場を目前にして、体力のなさが弱気につながった。また一方では、こんなところで死にたくないの思いも強くあり、日本へ帰りたい這ってでも帰りたいの望郷の念は深まるばかりだった。
郭山で聞かされた〈一歩でも日本へ近づき天命を待とう〉それらの言葉を思い出して気持ちを引立てるのだった。
泣こうが喚こうが後戻りはないし、進むより他にとるべき術はない。祖国はまだまだ遥けき彼方にあった。
眠りから覚めない眞の足に草鞋(わらじ)を括った。姉が生前に編んだものである。このか細い足がどこまで頑張れるだろうか? そして私も? ……またまた心細くなった。
それらを振り切るように〈マコ、しっかり歩いてネ。おねえちゃんも負けないから〉結び終えた草鞋の足をポンと軽く叩いた。
ポカッ。開いたつぶらな瞳、寝起きの良い顔と共に私の懐に飛び込んで来た。抱きとめた私の耳もとへ”おしっこ”言うが早いか小さな風を残して腕からすり抜けていった。
私の心に”勇気”の灯がついた。
昨日と同じく暑くも寒くもない脱出日和に恵まれた。お天気良いのが何よりの味方でした。教会前には牛車が二台用意された。荷物を積んだ牛車を先頭に、いざッ出発進行!!
街道の道幅は農道を少し広げた位だったと記憶する。牛車の轍が無数に交わり合って乾いており、先端を踏むと痛かった。
七時に教会をあとにしてより、かれこれ三時間は経ったであろうか……人にも出合わず、犬猫の影も見なかった。たまに飛んでる鳥が視野に入るだけで、ふりそそぐ太陽の明るささえも不気味に映える。
やがて、大きな一本の樹木の下へ来た。牛車はここまでであった。荷を下ろした牛方は無表情のまま、折り返して去った。
目の前に放り出された荷物を持っていける体力はすでに私にはなかった。眞と私の衣類を適当に二人のリュックに詰め込んだ。姉のコートを細長く折り畳み、私のリュックにくくりつけた。
家族の”思い出”だからと、姉が持ち出した写真。姉の思いを酌んで何とか持って帰ろうと選び出した二十枚ほどだったが、惜しみつつも松の根方へ置いた。
出発ッ!!
道はおのずから山へ近付きつつあって、やがて水音が風にのって聞こえた。更に三、四十分ほど歩いただろうか、道と川が平行になった。川の向こうは雑木山らしい。
川沿いの道はまだ続く。この頃より遅れる人が出はじめて、隊列が長く伸びていった。
「小休止、三十分ッ」まさに天の声!!
川原に荷物を投げ出し、水辺に走った。煌めく清流を掬い乾いた喉へ流しこむ――水は甘く優しく体内へ吸収されていった。郭山で貰った最後の一個である握り飯も、川の水と共に胃袋におさまった。
汗の顔を洗い、火照った足を浸したりして水と遊んだ三十分はあっという間だった。
川添いの道は、やがてゆるやかな上り勾配になって、この頃より眞が愚図り出した。疲れたとか足が痛いと訴えはじめ、オンブをせがんで私を困らせた。リュックサックを前にまわし、眞を背負ったが十歩ほど歩いただけで息切れが激しい。十歩背負っては暫く歩かせ、またオンブして十歩……の繰り返しで、このため隊列から少しずつ遅れはじめた。焦った私は用意して来た炒り米、炒り豆、芋アメそれらの一つまみを握らせては、なだめたりすかしたり必死で引っ張っていった。
と、隊列が崩れて川原へ散った。対岸へ渡れとの指示だった。周囲を見廻したが、道標べもなければ渡る橋も見当たらない。川幅は六、七メートルぐらいで、川底は透けてさして深いようには見えなかった。
先頭を切って、大門さんと三人の小母さんが横一列に腕を組んで川へ入り、深さを確かめながら向こう岸へ渡った。一番深いところで膝までだった。
ズボンの裾をまるめ上げ、眞を背負った。傾斜のついた流れは見た目より鋭く足にからみついてバランスを失いそうだった。とって返して、二つのリュックも運んだ。
一一人が通れる雑木山の小径を抜けると、山道へ出た。大門さんの檄が飛ぶ。
「陽のあるうちに越境したい。遅れないように頑張って付いて来て下さい」
草履の紐を結び直しながら、改めて心を引きしめるのだった。
見上げた国境の山はシーンと静まり、木漏れ日が風に揺れるばかりだった。
二十二 嗚呼、北緯三十八度線
山道のカーブを曲がった。と、視界が広がり、目に飛び込んだのが物干し竿よりやや太めの丸太ン棒が道路を遮っていた。
スワッ三十八度線! 体が固まり、息を呑んだ。
右手に見える木立の中の建物が警備詰所であろうか。近くを見まわしたが警備兵の姿はなかった。「小休止!!」
ロシア語堪能な井上さんを伴って、大門さんが建物の中に消えた。
シーンと静まった検問所を前にして、首尾や如何に……と二人の出て来るのを待っていた。若し通行許可が下りなかったら私達はどうなるのだろうか。俎上の鯉の心境で、建物の入り口に注目した。
長いようで……短い時を経て、二人の兵士と一緒に出て来た大門さん井上さんの明るい表情から、許可が下りたのを見てとった。
遮断機が上がりきらぬうちに、腰を屈めて素早く通り抜けた。歓喜、感動、感謝はどう表現したらわかって貰えるだろうか。まこと筆舌に尽くし難い。
二十三、見えない影に追われて
やがて道は下り坂だけになり、ほどなく折れ曲がって検問所が視野から消えた。と、急に先頭が走り出した。遅れたらいけない……眞の手を取るや皆に続いた。ぐずぐずしていたら連れ戻されそうで、あと振り向くのが怖かった。一度も振り返らず只管に開城を目指して下って行った。
どれほど歩いたろうか。陽が西へ傾いているのに、まだ山の中である。危険がいっぱいと言われる山中で夜を迎える訳にはいかない。なんとしてでも足もとの明るいうちに抜け出さなければならない。盗られるものはない裸同然だが、何をするか分からない追い剥ぎの出没に怯えていた。灯りを持ってないのも闇の恐さにつながった。
隊列は疾うに寸断し、小さな集団を作って下っていた。ともすれば遅れがちで苛々し、眞への叱声もきつくなり、泣きじゃくるのを容赦なく引き摺っていった。眞へ向ける叱声は、私自身への叱声でもあって、二人で鳴きながら、小母さん達のあとを追った。
しかし気は焦っても、足がついて来てくれない。”追い抜かれる”たびに心細さを募らせ”落伍”に怯えた。
傍らを擦り抜けて行く人も無言、私もチラッとその背中を黙し見るだけ――。わが身、わが家族で精一杯、他人を顧みるゆとりは誰にもない。それを自分勝手だとか不人情と言って責めることは出来ない。あの状況下におかれた者だけにしか分からないことだから。
道端に蹲る人を見てを立ち止まるでもなく通り過ぎていく――縁あって十カ月余を同じ釜のめしを食べ、今また苦境を共に乗り越えようとしてる同胞なのに、手を貸すどころか励ましの言葉すら掛けられなかった。一寸先はわた身の姿かもしれないのに。いや、わが姿をそこに置きかえたから、怖くて目をそむけたのかもしれない。誰しもが追い詰められて心は鬼か夜叉であった。地獄を垣間見た辛い山越えであった。
闘いすんで日が暮れて……空だけが白く昏れ残った開城府の街道に立った。
更に、難民収容所まで辿り着くのに二時間の余かかったのだが、山を脱けたという気のゆるみからか、ここら辺りは頓と記憶がない。居眠りながらうつつに歩いていたのだろう。一度だけ犬の吠える声に、ギクッとしたほかは何も覚えていない。
「九時近いので食事はありません」事務的な声に迎えられ、収容所へ着いたのを知った。小脇に抱え込んで引き摺って来た眞は眠っていて、揺すぶっても醒めない。縺れるようにしてテントの中へ倒れこんだ。
落伍の恐さに明け暮れた長い一日が終わり、眞をふところへ抱き、深い眠りの中へ引きこまれていった。
夜明け前の冷え込みで目が覚めた。
山の中で何度も捨てようとした亡姉のスプリングコートが、この寒さを救ってくれた。
眞を抱え、体を丸めてコートにくるまったが、何とも不思議な気分だった。「何故、捨てれなかったのだろう?」
(話は逸れるが、私が持ち帰ったのは、このコートと袱紗に包んだ祖父母、父、次姉の三つの位牌だった。眞の着替え三、四枚と博多港で交付された引揚証明書と交付金の二百円、朝鮮円を日本円に代えた少しばかりの持ち金だけ――私の衣類はゼロ、文字通りの着のみ着のままだった。「母が大事にしていた位牌」ただそれだけでリュックの底に収めた。リュックは枕になったり、腰を下ろしたりしたが罰は当らず――眞も私も生き長らえている)
二十四、第二隊の遭難
翌日、改めて「助かった」歓びを皆と交わした。
防疫所で白い粉を頭から浴び、かつ三本の予防接種を受けた。白い粉(のちにDDTと知る)のおかげで長いこと悩まされた虱から放免されたのはうれしかった。
空いたテントの中から蓆を寸借、リュックサックを置いて居場所を確保。有刺鉄線に囲まれた収容所でゴロゴロと無為の日が始まった。
郭山収容所同様に、ここでも物を売りにくる人がいた。オモニではなく若い男性であった。監視員の隙を見ての買い物は手早くしなければならない。有刺鉄線のわずかな空間でのやりとりはスリルがあった。ここではお餅しか買わなかった。
八日目を迎えた朝、第二隊が到着していないと囁かれ出したその夕方のこと。
眞と門の近くで小石の飛ばしっこをして遊んでいた。ジープが入って来るのを見て、脇へ退いた。
アメリカ兵の隣に、髪は乱れ、顔も上着も泥だらけの少女が放心した様子で同乗していた。と、少女と目が合った。
「ヒロコちゃんッ!?」同時に彼女の口からも私の名が漏れて、車が停まった。
「おとうさん達……来た?」
「ううん、まだ誰も――一人なの? ほかの人は? ……」
びっくりして、私がオロオロの始末だった。
昨夕、山中で追い剥ぎに遭ったこと、逃げまわるうちに両親とはぐれ、道に迷ってしまい、今日も山中をさまよっていた。見廻りの進駐軍の兵隊に伴われて下山――救助されたことを泣きながら訴えた。
慰める言葉を探してるうちに、救助員にうながされてヒロ子ちゃんは去り、テントの影に消えた。
近くのテントに飛び込み、入り口にいた小母さんに報告。小母さんがテントから走り出て行った。そのあとのことは知らない。というのは、私達にも「明朝、出発」との触れが出たから――。
郭山駅で下車し、最初に収容された幼稚園舎(十三班)で一緒になった白石ヒロ子ちゃんは両親、弟、祖母の五人家族で、帰国先の家族は三條さん、高田さん、眞田さんがおられたと記憶している。
眞田ユリちゃんフミちゃん、その従妹のカッちゃんが私と同じ年頃で、私の知らない歌など教えてくれた。
新しい収容所へ入る折に、帰国先の県別に入居、眞田さん一家は九班、私は十二班で道一つはさんだ向かいであったから、よく遊びに行った。
皆さんの無事であることを祈るばかり――。
第二隊遭難の報は、先発隊の私たちにとっても大きな衝撃だった。一週間のあとに郭山を出ていたら、私らに降り掛かる災難だったかもしれないのだから――幸運を喜ぶより冷汗三斗――であった。
二十五、疎開隊解散
第二隊の安否を気づかいつつテント村をあとにした。
朝から陽射しが厳しい開城の街を横切り、駅へ向かった。
窓のない貨物列車に詰め込まれ、京城駅を経由して着いた処は仁川港。長時間待って乗船、ただちに出航――夕陽に映える港をあとにした。
母や姉、幼い姪が眠る北の空に向けて新たな惜別の涙を捧げつつ暫くは甲板に坐していた。
名立たる玄界灘の大揺れに、初めての船酔いを経験。何ごともなく平然としてる眞が不思議に見えた。
博多湾へ入ったが、すぐに上陸とはいかなかった。船は錨を下ろし港内で碇泊。私たちは船中待機となった。折柄、梅雨の真っ只中で、来る日も来る日も雨々々。船底に閉じ込められること七日間。うんざりしかけた頃に、待ちに待った上陸許可が出た。
あれほどの長雨が、一転して薄日さす梅雨晴れに恵まれた。
万感こもごも抱きつつ、タラップを踏みしめ、夢にも見た”祖国の地”への第一歩を印したのだった。
船内に散らばった郭山の人たちと合流。わずかな所持金を日本円に換金。引揚証明書並びに引揚援護金(二百円)が交付された。博多引揚援護局発行の証明書には昭和21年6月60日とあり、記念すべきこの日を心に深く銘記したのだった。(当時の粗悪な一枚の証明書は、黄ばんで触れれば破けそうなボロ紙になったが、五十余年経った今も捨てることが出来ずに机の引き出し奥に収まっている)
諸手続きが終わったのは夕方近かった。生死を共にした郭山疎開隊第一隊は、ここで「解散!!」を宣言した。大門さん、ありがとうございました。それぞれに別れの言葉を交わしながら、港駅ホーム目指して散っていった。
待ち望んだ日本の土を踏んだけど、姉の安否がわからぬうちは双手(もろて)を挙げて喜べなかった。もしもの時は、再び東海道を西下して播州赤穂の眞の祖父母を頼るしかない。面識のない赤穂へ行くのは気が重い……さりとて焦土と聞く東京の叔父や叔母を探すのはもっと気が重かった。
午後七時、博多港発東京行きに乗車(準急列車だったと記憶してるが……定かでない)二十四時間後の七月一日夕刻に尾張一宮駅ホームに降り立った。
〈東京行が発車します……〉拡声器を聞きながら「誰もいなくてもいい。いつの日か東京へ帰ろう」心に決めて列車を見送った。
二十六、焦土に立って
小さな町だからひょっとして戦災は免れてるかも……は甘かった。見覚えのある建物は姿を消し、バラックばかりが目についた。この様子では姉のところも被災してるかもしれない。
焼け跡を目の端々に捉えながら、名鉄東一宮駅へ急いだ。
戦災を免れた駅舎は、二年前と同じたたずまいで私たちを迎えた。電車が出たばかりなのか待合所には人はなく、出札窓口も閉ざされており、売店も無人だった。
柱に凭れ薄暮の駅前を見渡した。斜め前の一宮郵便局も被害なく、入り口から灯が洩れていた・町の様相は変貌したが、あるかなしかの夕風にのって運ばれてくるのはまぎれもなく懐かしい一宮の町の匂いだった。
田舎に縁がない私は長姉の嫁ぎ先を「私の田舎」と称して夏休みを待ちかねていた。心配する母を口説き、東京―一宮間の一人旅はちょっとした冒険で、楽しい思い出の一つである。(新幹線のシの字も無い時代で、準急で九時間ぐらい乗ってた記憶)
今、身も心もボロボロになって、この町に立つのも”ご縁”だろうか。
売店のあたりで影が動いて……振り向いた私と目が合った。〈アッ!〉声にならず目を瞠るだけ――全然変わってない売店のオバちゃんの姿を見て二年前にタイムスリップしたような錯覚に陥ちた。
「あのォ」
「いらっしゃい」
「いえ―あのォ、浅野の下郷は変わりないでしょうか?」
「へッ?」オバちゃんの目が点になった。
擦り切れた草鞋、膝の抜けたズボンにヨレヨレの上着は垢まみれ土まみれ。ざんぎり髪には死んでなお取れない虱の卵がびっしり。頬はこけ肩は尖り脂気のない肌は小皺が目立ち垢の粉がふいている。娘らしいふくよかさなど、どこにも見当たらない。そんな私の姿にへッと息を呑むのも頷ける。
「い、いもうとさん? ……おくさんの――」
「――」
「まぁまぁまぁ、よくもまぁ無事で……(涙声で)ねぇさまが、そりゃあ心配してりゃあたよ、元気元気、下郷さんとこは、なぁも変わりゃぁせんヨ。よかったよかった」
客が来たのを機に、売店を離れた。義兄が仕事上の連絡場所にしていたのを咄嗟に思い出して声をかけたのだった。
全身から”緊張”の箍が緩んでいった。
郭山を出てから一日たりとも気の休まることなく、精一杯つっ張って……私なりに闘って来た。その突っ張りがオバちゃんの一言で、心地よく崩れていくのだった。
こみ上げてくる熱いものをこらえつつ、新京を出てからの長い長ぁい忌まわしい旅に、いま終止符を打とうとしていた。
「浅野駅ッ、大人一枚!!」私の声が跳ね返って、小さな待合所を透り、夕暮れの町へ吸い込まれて消えた。
◆――◆
〈不透明な脱出行〉
三十八度線越えに不審をもったのは、帰国して二年経ってからだったろうか。
・金郊駅に着いて程なく三台のトラックが手配されていた。
・無人の教会を知ってたのは何故? 二時間ほどの仮眠中に牛車が用意されたのも出来過ぎている。
・トラックや牛車を雇う金は少額ではないだろう。私たちの隊だけではない。第二、第三隊もあとから来る。大変な出費だ。
・橋も道しるべもない国境いなのに、何のとまどいもなく「川を渡れ」の指示を出し、さらに雑木林を通り抜けたら検問所へ登る山道――とは出来すぎている。引率者の大門さんも私たちも未踏の地である。にも拘わらず一つも迷うことなく実にスムーズに脱出した。予定の時間からは三~四時間遅れてしまったけど――。
郭山での隊長の話も変だ。疎開者である私たちに「解放令」が出たあとは、どこへ行こうと自由であり、村としても厄介払いが出来て喜ぶ筈だ。それなのに秘かな行動をとらせたり箝口令を施いたのはなんなのだ。脅える正体は? 私なりに考えてみた。
この脱出は練りに練った用意周到の末の行動と思えてならない。では誰がこの作戦を立てたのか――考えられるのは郭山に古くからいる日本人の方たちだ。
この人たちが敗戦後、どのような暮らしを送ったかは知らないが、かつて役場に勤めていた方や、教師、医師、鉄道や運搬に関わる仕事についてた人もいるだろう。地元の方々の人望篤い老人もおられたかもしれない。
疎開隊本部の人と居留民、郭山役場の主だった方々で練った計画ではなかろうか。
小さな町であり、居留民の数もしれている。単独行動するより疎開隊をかくれ蓑にして脱出すれば風当たりが少ない。
そして何らかの理由で隠密に事を運ばねばならなかったのではなかろうか。
道案内人を雇い、トラック、牛車などの費用を出してくれた代償として、疎開隊の一員となり行動を共にして脱出したのでは――。
この推理が当たっていたとしたら、私たちは居留民の方々に深く感謝しなければいけないだろう。
トラックがなかったら――牛車が雇えなかったら――病み上がりの私と眞は帰国出来なかったかもしれない。
◆
半信半疑で出したハガキは姉の手許に届いており、「赤十字」に感謝したのでした。
私たちが辿り着いた開城府は、昭和二十五年に起きた朝鮮戦争終結後に挑戦領域に入ったことを書き添えておく。
母たちが眠る北の半島は謎のベールに包まれ、見えにくい国であり、かつ近くて遠いのが何とも切ない思いである。
(完)
(平成八年二月記)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?