ヤマモトの場合①
ある日、手紙を受け取った。ちゃんと自分宛てに届く郵便物を受け取ったのは本当に久しぶりだった。「親展」と書かれた白い封筒には知らない団体の名前が書いてあった。
手紙を読み驚いた。妻のレアと娘のマイコが日本で生活していると書いてあった。できれば連絡がほしいと、前田真理子という人の名前と連絡先が書いてあった。
レアと初めて会ったのは、彼女が働いているナイトクラブだった。いわゆるフィリピンパブと呼ばれるところだった。私は酒もあまり飲めなかったので、夜、出歩くこともめったになかったが、当時、働いていた現場の同僚の歓迎会ということで、半ば無理やりその店に連れて行かれた。初めてああいう店に入り、勝手がわからず居心地が悪かったが、レアは始終私に気を使ってくれ、あれやこれやと片言の日本語で話しかけてくれた。酒も苦手だとわかったようで、途中からアルコールを入れずに同僚にはウーロンハイだと言いながら、私にグラスを差し出した。
私の父は大工だった。職人を抱えてそれなりに羽振りのいい時期もあったようだが、私が中学生になったころには酒におぼれ、母や私に手をあげるようになっていた。そして突然、母が姿を消した。父と私は警察に届けたが、状況から家出であるとのことで事件性はないと言われた。そして父は更に荒れるようになった。それからしばらくして父は死んだ。脳溢血だった。
私は中学を卒業するまで施設に入れられた。中学を卒業すると、父の古い知人であったとびの親方が面倒をみてくれた。
とびの仕事はきつかった。しかし私にはほかに行くところはなかったので、必死に働いた。親方は仕事には厳しい人だったが、人柄はいい人で実の父親より父親らしいことをしてくれた。
そろそろ身を固めてはどうかと女性を紹介してくれたこともあった。しかしいざ付き合い始めてもどうにもうまくいかなかった。そもそも女性に対し、一種の恐怖感があった。それはある日突然、母のように消えてしまうのではないかという思いからだった。
30代になると独立した。といっても親方が回してくれる仕事がほとんどだった。大きな工務店と取引きもあって、地方での仕事も引き受けた。中卒であったが、同じくらいの年の人に比べても収入はある方だった。しかし、とびはあまり長くはできない仕事だとわかっていた。とにかく体力的きつい。なので常に漠然とした将来の不安を抱えていたように思う。
「アナタ、ナマエ?」「ヤマモト」「シタノナマエ?」「マコト」本当に片言の日本語だったけど、レアは会話が途切れないようにいろいろ話しかけてくれた。女性と話をしているときに会話が途切れると、きっと相手はつまらないんだろうなぁ、と気持ちが焦ってしまう。しかし、次にどんな話をしようかとあれこれ考えるが、それはふさわしいか、とか、相手が不快に感じないか、とか、そもそもおもしろくないのではないだろうか、なんて考えると本当に疲れる。だからいつの間にかそういうことから積極的にはなれなかったように思う。そこへいくとレアと話をするのは楽しかった。それはきっとレアがあれこれと考えていたくれたからだ。通常、男性がいろいろ気を使うべきところを、レアがすべてやってくれた。