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人文系博士後期課程に進学してよかったこと・大変だったこと
私は某大学の人文学系博士後期課程の最終年に在籍している。先日博士論文の審査に合格し、教授会で博士号の授与が正式決定した。なお、春から某大学でポスドクとして働くことが決まっている。専門分野はとりあえず「哲学」ということにしておく。需要があるかわからないが、個人的に①博士課程へ進学してよかったこと、②博士課程で大変だったこと、③博士課程でやっておいてよかったこと、④博士課程でやっておけばよかったことなどについてメモを残したい。
1 博士課程に進学してよかったこと
①大好きな哲学の研究を存分にできた
何より研究に打ち込めたことが一番嬉しかった。修士課程で解決しきれなかった問題はもちろん、修士課程では取り組んでいなかった新たな分野にも挑戦した。また、哲学以外の分野を専門とする研究者と共同研究を行ったことで、研究者としての視野が大きく広がったと感じている。
②研究者として成長できた
博士課程では学会発表で賞をもらったり、成果を国内外の査読付きジャーナルから論文として公開したり、一人の研究者として評価を積み上げることができた。このように博士課程では、内面的にも外面的にも、研究者としての成長を実感することができた。
③国際的に活動できた
国内学会はもちろん、短期の在外研究や海外学会への参加を通じて、研究ネットワークを国際的に広げることができた。そうした努力の甲斐もあってか、現在国際共著のプロジェクトが数件進行中である。
何より、博士課程在学中の海外出張は、そのほとんどが単身での渡航だった。日本人一人、背の高い外国人の中に飛び込んでいくのはいつも不安だった。英語の会話に全くついていけずに悔しい思いをすることもあったが、めげずに英語の勉強を継続したおかげで、次第に英語でのコミュニケーション力が向上するのを実感できた。そうした中で、言葉や出身は違えど、哲学という学問は共通言語なのだということを身をもって学んだ。異国の地に単身で乗り込み、学問を通じて多くの人と交流するという経験は、博士課程に進学しなければ決して得られなかったと思う。
2 博士課程で大変だったこと
巷では「博士課程≒地獄」なんて声も聞こえてくるが、私は別に博士課程がほかの進路や職業に比べて際立って大変・最も過酷であるというふうには思わない。たとえば「パワハラ上司に灰皿を投げつけられる」みたいな大変さを文系大学院で経験することはあまりないと思う。また、実際の忙しさや苦労は分野や研究室によっても異なるだろう。ただ、それでも博士課程に特有、ないし人文系博士課程に特有の辛さがあるのもまた事実である。以下、自分がそのように考えるものを列挙する。
①金銭面
博士課程に入学するのは早くても24歳。学部で卒業して就職した同級生は社会人二年目だし、修士で卒業した人たちも初任給で二十数万円+諸手当(&賞与)をもらうようになる。私はありがたいことに日本学術振興会特別研究員(DC1)に採用されていたので、毎月20万円の研究奨励金をいただくことができた。とはいえ、ほかに手当はないし、税金は普通にとられるし、国民健康保険だし、年金も払わないとなので、月にもよるが学振の手取りは15-6万程度だった。ほかにもリサーチアシスタントの収入などあったが、額面の年収が300万に到達することはなかった。出張経費の一部や書籍購入費用を自前で払うのは日常茶飯事だったし、学振特別研究員といえど、就職した同級生に比べて金銭事情は厳しかった。
②将来への不安
人文系博士は、博士号取得後に研究員・助教といったポジションにつくことができず、安定した収入を得られないというパターンが珍しくない。そうした場合、非常勤講師やアルバイトで食いつなぎながら研究を続けることになるが、生活に追われて研究の時間が確保できないことも多い。私も在学中に非常勤講師経験を積んだが、給料は非常に安く、一年更新で雇用も不安定だ。また、そもそも人文系はポスドクの数が少ない。博士号取得後、多くは学術振興会特別研究員(PD)を目指すが、その採用率は2割程度しかない。運よく採用されても、PDの任期3年が終わったあと次のポジションに就ける保証はない。私は幸運にも研究員の職を得ることができたが、在学中は学位取得後のことが不安で仕方なかった。また、私のポジションは任期付きであるから、数年後に安定した収入源を失っている可能性も否定できない。
③オンオフをつけにくい
博士号取得・ポジション獲得、およびそれらに向けた業績(≒論文)生産へのプレッシャーゆえに、いつも頭に研究のことが張り付いて離れなかった。気分転換に買い物やら旅行やらに出かけても、執筆中の論文のことが気になって全然気が紛れないなんてことがよくあった。なるべく早く・なるべく多くの論文を書かなくてはならない博士学生の仕事に明確な区切りをつけることは難しい。喫緊の仕事とそうでない仕事の区別はあるにせよ、休もうとしても膨大な量のやることリストが頭に浮かんで心が落ち着かず、結局土日も普段通りに研究室へ行ってしまったりした。
また、私を含め研究者の人は往々にして休日の概念が崩壊しているので、土日関係なく届くメールのやり取りをしたりするし、旅行中もメールやチャットの返信をしてしまったりする。私の場合、パートナーと会話していても研究に関連したタスクで頭がいっぱいで上の空だったり、旅行に行ったはいいものの、論文の締め切りに追われてホテルでパソコンと睨めっこ、なんてこともあった。この点に関しては普通の社会人でも「休日も仕事のノルマで心が休まらない」なんてことはあるだろうから、別に博士課程に限った大変さではないのかもしれないが、研究者がオンオフ切り替えにくい職業であるというのは確かだと思う。
④研究に伴う困難
博士課程では、査読に耐える論文を一本仕上げることが、いかに困難な作業であるかを痛感した。自分のアイデアがまともな論証の体をなすまで、何度も試行錯誤を重ね、ようやく形にした論文に査読コメントが届けば、頭を捻りに捻り、七転八倒しながら対応策を絞り出す日々が続いた。学生時代は体育会で厳しい練習に耐えてきたが、論文を仕上げるための頭脳労働は、それ以上に苛烈に感じられた。もっとも、このあたりは、クリエイティブな仕事に携わる人のほうがさらにシビアなのかもしれない。
3 博士課程でやっておいてよかったこと
以下を一般論として皆さんにおすすめしたい、というわけではなく、あくまで個人的に過去を振り返って、自分的にやって正解だったとおもっていることを列挙する。
①指導教員から指導を受けたこと
「やっておいてよかったこと」という表現が適切かわからないが、指導教員に指導を受けることができたのは幸運だった。文系大学院だと、「指導教員」が実質的な指導を殆どしないということが珍しくない。指導教員を決めるタイミング、進学のタイミングで予め教員と面談するのが一般的だとは思うが、その段階で教員がいわゆる「放置系」であるかどうか見定めるのは難しい。幸いにして、私の指導教員は論文や発表資料含め、研究に対してしっかり助言をしてくれるタイプの教員だった。数多の助言がなければ、業績を上げることも、博士号を取得することもできなかったと思う。
②論文を書けるテーマに専念したこと
私は博士課程在学中、当初自分が関心をもっていた研究テーマに限定することなく、自分が論文を書けそうなテーマ、指導教員に提案されたテーマに積極的に取り組んだ。論文を書くテーマを限定せずに研究したことで業績数も増え、ポストの獲得にも有利に働いたと思う。決してやりたいテーマを諦めたというわけではない。ただ、一人の人間が一つのテーマで執筆できる論文の数には限りがある。アーリーキャリアにおける論文数の重要性は語るべくもない。きちんとした査読論文を一定量執筆できていなければ研究者として評価されないし、学位取得も就職も遠のく。「自分が書きたい論文」も大事だが、「自分が書ける論文」に対して積極的にリソースを割いたことは正解だったと思う。
③博士論文にこだわり過ぎなかったこと
私の博士論文は在学中に執筆した論文を組み合わせ、新たに序章と結論を書き加えて一つのストーリーとして再構成したものである。つまり、博論用に新しく書き下ろしたのは最初と終わりの二章だけ。また、博論全体のテーマ自体もすでに出版していた論文の内容から逆算して設定したもので、自分が入学当初明らかにしたいと思っていた問題にフォーカスしたものではない。つまり私は、「わたしが本当に書きたい論文」として博士論文を書いたわけではない。もちろん、博論執筆には相当の時間がかかったし、分量的にも内容的にも、私の博士論文は博士号にふさわしいものだと信じている。
ただ、私にとって博士論文はあくまで「博士号を取得するため」に執筆したものに過ぎない。私は安定した収入・研究費を確保するために、3年という期間で執筆可能な博士論文を書くことに徹底的に拘った。学振にしろ大学のフェローシップにしろ、博士院生として収入・研究費を得られる期間は3年である。その期間を過ぎてアカデミアで安定収入を得るためには、学振PDに応募したり、研究員・教員の公募に応募したりするしかない。そのためには博士号が必須である。博士課程ではやりたい研究にとことんこだわって博士論文を書きたいという人もいるだろうし、それを否定する気はない。でも、研究自体は博士課程を終えても継続できる。分野によっては学位論文それ自体の評価が就職に大きく影響するらしいが、少なくとも私の専門はそういう領域ではなかった。私はプロの「研究者」として収入を得続けるために、博士課程をなるべく早く終えられるようにした。
最近では文系博士でもアカデミアを去って一般就職というパターンも見受けられるが、年齢のことを考えると、一般就職を視野に入れている場合はなおさら早めの修了を目指したほうがよいのではないかと思う。
④助成金を獲得できたこと
先ほども書いたが、私は日本学術振興会特別研究員に採用されていたので、多くはないものの月々の収入を得ることができたし、年間80-90万の科研費もいただくことができた。それに加えて民間の研究助成もいくつか獲得した。これらの研究助成のおかげで国内外、多くの学会に参加することができた。
また、20代後半になると同級生には社会人が増え、「学生」という身分でいることで肩身の狭い思いをすることもあった。それでも研究者として安定した収入があり、出張に使える研究費があることで、自分もまた一人の社会人として働いているのだという実感を(多少なりとも)得ることができた。それから、修士のときは予備校のアルバイトで一日が終わるなんてこともあったが、学振に採用されたことで、その時間を研究に充てられるようになった。精神面・生活面の両方において、学振をはじめとする研究助成の獲得は大きなアドバンテージになったと感じている。
⑤結婚
別にメリット・デメリットでするものでもないと思うし、損得勘定で結婚したわけでもないが、私は在学中に結婚した。結果論ではあるが、そのことは研究にとってもプラスに働いたと思う。パートナーの生活リズムに合わせて生活するようになったことで強制的に生活にオンオフが組み込まれるようになったし、夜型だった研究スタイルも改めることができた。その一方、土日に出張へ行ったり、締め切りがあるからといって休日も終日パソコンへ向かったりしていると家庭の空気が悪くなるという新たな問題も生まれたりしたが、全体としてはプラスになることのほうが多かったと感じる。パートナーの収入があることで生活が安定するようになったし、精神的に地に足がつかない感覚に陥りがちな博士課程において「既婚者」という属性を手にいれたことによる安心感もあったように思う。
⑥沢山の発表経験を積んだこと
博士課程では、国内外のさまざまな研究会で発表を重ねる機会に恵まれた。さらに、有難いことに、招待講演の機会も何度かいただいた。そのおかげでプレゼンテーションの能力を磨くことができ、多くの先生方に自分を認知していただけたように思う。その甲斐あってか、博士課程の最終年次には、学会で知り合った研究者からポスドクの話をいただくこともあった。
博士課程でやっておけばよかったこと
①一日のリズムをつくること
人文系博士課程の学生の生活スタイルはフリーランスに近い。コアタイムがあるわけでもないし、学部生のように授業に出て単位をとる必要もない。だからこそ、一日の生活のルーティーンを確立して、毎日一定時間集中して研究する時間を確保することが大事になってくる。しかし、私はそれがうまくできなかった。朝一番に家事を済ませるとどうしても休みたくなってしまったり、パソコンに向かっているのについついネットサーフィンで時間を浪費してしまったりと、日中にしっかり仕事に打ち込むというリズムをつくることができなかった。論文を書きはじめてもすぐに気が散ってしまい、すぐにメールの返信や書類の作成等の単純作業に注意が向かうことも多かった(そして、そうしたタスクを一つ終えるとだらだら休憩してしまう)。D2の冬あたりから一日の組み立てを意識するようになったが、一日を通じてある程度高い集中力を保てるようになるのにはかなり時間がかかったので、もっと早い段階で生活リズムを意識していればよかったと感じている。
最近は寒いので、朝食をとったらまずパソコンを開き、一番重要な論文の執筆にまとまった時間をとった後、お昼ごろに筋トレorランニングするのをルーティーンにしている。人によって最適なリズムは様々だと思うし、タイマーを使うなど、集中を保つ方法も色々あるだろう。また、季節やライフステージによっても最適な組み立ては変わるかもしれない。いずれにせよ、もっと早いうちから自分に合った方法を見つけられれば、もっとうまく研究が進んだのではないかと思う。
②タスクの管理
最近まで私はタスクの全容を把握するということを全くしていなかった。そのせいで締め切りを忘れたり、指導教員のチェックが必要な書類を直前にお願いして迷惑をかけることもあった。また、デスクに向かっていても色んなタスクが頭を駆け巡って集中できないことも多かった。
最近はメモ帳アプリにタスク一覧を書きだして簡単に整理し、その中でも緊急性の高いもの・低いもの、今日取り組む作業を決めて仕事をするようになった。これを初めてから多少頭がすっきりするようになった気がする。こんな原始的なやり方より上手い管理術はいくらでもあると思うが、いずれにしても、もっと早い段階でタスク管理を初めていたらよかった。
まとめ
修士課程はともかく、研究者を取り巻く雇用環境を考えると、人文系の博士後期課程への安易な進学はおすすめできない。私自身、現在はポスドク研究員としてのポジションがあるものの、この先どうなるかはわからない。個人的には、博士課程でどうしても取り組みたい研究がある人、あるいは大学教員になりたいという強い意志を持つ人以外は、人文系の博士後期課程への進学を慎重に考えるべきだと思う。
それでも、私は博士後期課程に進学してよかったと感じている。大変なことや苦しいことも多かったが、学問的探究に伴う喜びを味わえたこと、国内外の多くの研究者と出会えたこと、そして自分自身の成長を実感できたことは、かけがえのない財産だ。この文章が、博士後期課程への進学を考えている人にとって、少しでも参考になれば幸いである。