見出し画像

”リスク”という言葉を軽々しく使う奴は詐欺師と大して変わりがない-リスクという名の悪魔の囁き

リスク。「確率」という言葉と同じくらい一般的に使われていて、それと同じかそれ以上に多くの人に理解されていない言葉である。
企業幹部の連中だの、アナリストだのに限らず、どうも現代人はこの言葉を使って何かがわかった気になったり、もしくは、分かったように見せて得意顔になったりする誘惑に駆られやすいようだ。(かく言う私もその一人である)
ただ、少なくとも、私が聞いたり見たりしてきた中で、リスクというものについて納得のいく話をしているのはほんの一部の聡明な連中のみで、ここにはそうした軽々しくその言葉を吐く人々は含まれていない。
この世にごまんといるそうした人々から満足のいく説明を受けられていたら、私ももっと恩恵を受けられていたのかもしれないことを考えると、残念な限りである。

よく分かってもないのに使いたくなるくらい、確かにリスクは重要に見える。
例えば、企業が何かの事業に手を出すとき、失敗した時の損失とその確率がわかれば、それをすべきかどうか合理的な判断を下せるかもしれない。もし、成功した時に非常に大きな利益が得られる一方で、失敗した時の損失がその企業を一撃で倒産させるほど大きく、その確率がほとんど100%であればその事業に手を出すべきでないし、逆に損失が平日の飲み会の経費くらい軽微で、失敗する確率がほぼゼロであれば、その事業はやるべきと考えられるだろう。
ちょっと賢いチンパンジーくらいなら理解出来そうな結論である。しかしながら、リスクに関する情報がなければ、猿でも解ける問題が途端に難しくなり、一流大学を卒業していてもまともな判断は下せないかもしれない。
そう考えると、企業人がたとえそれについて、似たような名前のペパーミントタブレットととは違うだろうということくらいしか分かってなくても、リスクリスクと取り敢えず口に出して何か正しい判断をしてるように見せようとするのも頷ける。
さて、そんな大切な「リスク」であるが、なぜキチンと理解されていないように思えるのか、バラバラに分けて指摘していくと訳がわからなくなりそうなので、ここでは『定義に関する原因』と『確率や未来に関する原因』の大きく二つに分けて説明していくとしよう。

『定義に関する原因』は簡単である。「リスク」という言葉には、色んな異なる意味が含まれているということだ。
一般に「リスク」と人が指す時に、多くの人がイメージするのは先に述べたような損失とその確率が合わさったものであろう。分かりやすく、これをリスクAと名付けよう。
しかしながら、例えば、(その判断が合理的かどうかはおいておいて、)99.99999999999999%の確率で貴方は10万円を手にするが、残りの確率で貴方が100億円払わなければならない賭けをする際、中学か高校で期待値の勉強をした筈の貴方が「ハズレた時のリスクが大きすぎる」と言う時のリスクは損失そのものを指しており、確率も含めた考えとは言えないだろう。だって、確率を含めた考えなら、この賭けの期待値はほとんど10万円で、貴方が極度の万札アレルギーとかでなければ、そんなことを言うはずがないのだから。
また、(その意見が正当かどうかはおいといて、)老後に備えて極端なまで生活を切り詰めて苦しい生活を送っている人に、「いま全く楽しまないでいるのは、その時点であなたの人生にとってリスクじゃない?」などと言う時のリスクも、やはり確率を含めたことを言っているというより、現時点で損失を垂れ流してしまっているのを指摘する意味合いが強いだろう。
そこで、確率を含めず、損失のみについて指しているこれらのリスクをリスクBと名付けよう。
また、経済学部を出た人や株式投資に手を出している人なんかは、株価の変動が激しいことや年間の利回りのばらつきが大きいことがリスクと呼ばれるのを聞いたことがあるかもしれない。これは損失云々と言うより、シンプルに結果が予測しづらいことをリスクと捉える考え方で、これをリスクCと名付けよう。

さて、ざっと見ただけで3つの定義が見つかったワケだが、貴方はこれらを別に同じような意味なんだから、一緒くたにしても問題ないじゃないかと思うだろうか。まぁ、それはそれで悪くないし、貴方の勝手ではあるが、少なくとも私はこれらが全然違う意味合いを持つように見える。
例えば、リスクCなんかは、私の感覚で言えば、あまりリスクと呼ぶのに相応しくないように思えるし、おそらく、一般の感覚からしてもそうだろう。このリスクの考え方では、投資の利回りが100%で(つまり、100万円投資したら、200万円になる)ただそうなる確率が99%で、残り1%の確率で利回りが1%のものは、利回りが2%でその確率が100%のものより、リスクが高いとみなされる。(なお、本当は分散とか標準偏差という言葉を使って説明した方が正確だし簡単なのだが、これらの言葉を知らなくても別にここでは問題はないように思える上、なんだかここでそういう話をするのは鼻につくように思えたので、ここではこのような説明の仕方をする)
さて、貴方はどちらを「リスク」と考えるだろうか?
利回りが2%しか得られないことが確定している選択肢と、結果はちょっと予想出来なくてもほぼ確実に100%の利回りが得られる選択肢ではどちらが「リスク」があると言えるだろう?
私にしてみれば、確実に薄利しか得られない前者の選択肢はリスクがあると思えるし、違った視点で見ると、どちらも結局得をするのだから、リスクはないと言えるかもしれない。(これはつまり、リスクBの見方である。損失がないのだから、そこにリスクもクソもないという考え方だ)
そもそも一般に、投資の世界で結果のバラつきがある時は、損失の最大値が大きいが、利益の最大値も大きいことが多い訳で、上記の例は極端にしても、期待値が大きくプラスでかつ損失の最大値が小さいと判断されるような場合は、多くの人はそれをリスクのある選択肢とは考えないだろう。(そもそも、私みたいな投資家は結果が予測不能でなければ儲けられないので、リスクCのリスクを取り除いてしまうことが最大の”リスク”だ)

また、リスクAとBに関しても、似ているようで、全然違うように見える。
貴方は実際に今起こっている損失と将来起こるかもしれない(つまり、確率を含めた)損失を同じと見做せるだろうか?
少なくとも、私はそうは見做せない。そもそも、今実際に起こっている損失は私の預金残高の減少という形でこの世界に顕現してしまっており、将来もしかしたら持っている株式の会社が倒産して大損をこくかもしれないとかいうこととは全く別の問題である。
だって、現実問題として、前者では預金残高が昨日よりも減っていて、後者では通帳の数字に変化はないのだから。状況にもよるが、私からすれば前者の方が大問題で一刻も早く手をつけるべき問題である。

こんな話をすると、「そこは将来起こりそうなことを確率で割り振って期待値から判断をすれば」云々という話を頂戴しそうだが、そう思われた方は『不知』というものに関する私が別で書いたコラムを読んでもらいたい。そして、これは例の『確率や未来に関する原因』にも関わってくる。
冒頭で確率というものはよく理解されていないことについて触れたが、リスク同様、これは突き詰めると訳がわからなくなってくるものであるし、おそらく貴方が思っているよりも扱いづらいものである。
これについて何か的を得ている表し方があるとすれば、「まぁ、そういうことが起こると言えるかもね」をなんとなしの数字で表したものであるといえるかもしれない。(書いている私が言うのもなんだが、この時点で訳がわからない)
「いやいや、ちょっと待ってくれ。例えばサイコロがあったとして、そのうちの目、なんでもいいが例えば5が出る確率は6分の1。つまり、起こりやすさを表した指標であり、十分明確で分かりやすい。ちっとも訳が分からなくないではないか!」
貴方はこう頭の中で叫んだかもしれないが、もし幾分か長い月日をこの現実世界で過ごしていてもなお、本気でそんなことを思うなら、中高で習った教科書に思考が囚われていると言えるだろうし、実際生活の中で確率というものにあまり触れずに済んでこれた幸運の持ち主なのだろう。

確かに、教科書の中の完璧なサイコロと、そのサイコロを振るためだけに存在する世界では、5が出る確率は完璧に6分の1と言えるかもしれない。しかしながら、我らが世界はサイコロを振るだけのために存在しているとはとても言えそうもない。また、歪みが全くないサイコロもおそらく存在しない上、一部の偏りもないサイコロの振り方をする人間というのもやっぱり存在しないだろう。
もちろん、日常生活で人生ゲームをやるにはこんなことを考える必要もないし、それで全く問題ない訳だが、現実世界で教科書のような完璧な確率というのがおよそ我々のお目にかかれないのは事実である。
私の指摘はたとえ事実でも些細な事実に聞こえるかもしれないが、モンテカルロのカジノでこのことに着目しルーレットの歪みでひと儲けした人もいる。彼は本に書いてあるような確率を疑い、現実世界の確率を割り出した訳だ。
ただし、そんなことが出来るのはおそらくこの地球上で賭場くらいなものな上、カジノで一日中球がどこに落ちるのか記録し続けるという苦労の割に、彼がカジノで儲けられた期間はほんの僅かであったことは付け加えておこう。
現実世界の正確な確率を割り出すのはほとんどの場合不可能だし、もし求められたとしても非常に骨が折れる上、そうして得た数字も全幅の信頼を置くにはあまりにも儚いことが多い。
また、一時は本当にその通りであったとしても、違う時には全然違ってしまったりするなんてのもザラで、使えなさの点で、現実世界の確率も仮想世界の確率とどんぐりの背比べだったりするのは注記しておくとしよう。ちなみに、モンテカルロの彼の場合、カジノ側がルーレット盤を取り替えてしまったから彼の編み出した確率は使い物にならなくなってしまった。

多くの知性が探究を続けてきた確率というものについて、随分暗い話をして来てしまったが、なに、しょぼくれることはない。役に立つと思っていたものがあまり役に立たないのを知ることは、役に立たないと思っていたものがとても役に立つのを知るのと同じくらい大事なことだ。
確率というのが実際は理想より頼りなさそうな姿をしているというのは、何かにつけてこの言葉を連発する我々にとって、FRB議長が何て言ったかなんかよりはよっぽど役に立つ事実だろう。(ちなみに、かのウォーレン・バフェットは「FRB議長が、今後2年間の金融政策をそっと教えてくれたとしても、私の投資行動には何の影響も与えない」と言っている)

しかし、困ったことになった。サイコロでさえ完璧な確率を求め難いのに、我々のこれからの人生に数多ある損失の確率をどうやって導き出せば良いのだろう?ほとんどの場合、現実世界で使える確率なんてものを弾き出そうとしたら、例のモンテカルロのギャンブラーの何倍もの労力が必要となるのは間違いない。(もっと悪いことに、それだけ苦労しても、答えが得られないかもしれない)
しかも、多くの不幸はどのような形で訪れるか全然わからないときた。そんなものまで含めた時にどうすれば、損失の期待値を割り振って、あの「リスク」を計算すればいいのだろうか?
これはあくまで私の経験談であるが、そんなことにいくら時間を費やしたところで何か正しい判断が出来たことはないし、風呂に入りながら「あれは普通に考えてやめといた方が良さそうだな」というのよりマシだと思えたこともない。

さて、ここまで聞いていただいた上で、貴方はまだ「リスク」というものを完璧に把握し、かつ、それを使いこなせていると自信を持って言えるだろうか?(もしそうであれば、受講料を払うので、是非ご高説願いたい)
もし、貴方がリスクについてよくわからないと思えてしまっても、恥ずべきことではない。私の知る限り、一流の経済学者も科学者も、はたまた統計に携わる者でさえよく分かっていないのだから。(そして、その中の一部の聡明な者が、自分がそれをよく分かっていないことを素直に告白している)
もちろん、私もよくわかっていない。あまり機会はないだろうが、リスク評価なんかを仕事でどうしてもやらねばならない状況に陥っても、友人にする恋愛のアドバイス以上に身のあることも書けないだろう。(ちなみに、私はそうしたアドバイスをして良かったと思えたことは一度もない)
もし、リスクというものが、貴方がそれまで思っていた以上によく分からないもので、また、それを使いこなすのがどうやらほぼ不可能そうだと納得いただけたとしたら、個人的にはそれだけで大きな成果と思う。しかしながら、リスク依存症でこれがないと手の震えが止まらないという人のために、続けて少し救いのある話をしておこう。

先ず、勘違いされているかもしれないが、私は別に未来にどんな危険が潜んでいるか考えるのを止めろと言っている訳ではない。
危険は事実だ。少なくとも、そう見做して差し支えないものである。
「高圧電線あり、危険」と書かれていたら、そこに電線があって、それにマトモに触れたらゴム人間でもない限り死ぬことを指している。
電線があるのも事実だし、そこに電気が流れているのも事実だし、それを掴んで電気が私や貴方の体に流れ込んだら死ぬのも事実だ。
事実は別にあやふやのものでもなんでもない。よって、自分のすることや状況において、どんな危険、つまり事実がつきまとっているかを知ることはむしろ重要といえる。
例えば、高速道路で突っ立っていたらどうなるか知らなければ轢き殺されるだろう。また、真冬に素っ裸で公園で寝ていたらどうなるか知らなければ、風邪をひくかもしれないし、下手すると凍死するかもしれない。
これに加えて、そうなりそうだな、とか、反対にそうならなそうだな、くらいの判断を付け加えるまでならある程度有効だろう。(ただし、それに裏切られることもままある上、確信を持っている時こそ、それが外れた時に痛い目に遭うので当てにしすぎるべきではない)
つまり、例えば、貴方が山に登ろうとして、そこにどんな危険が潜んでいそうか調べ、山には熊という生き物がいて、強靭な顎と爪を持ち時速60kmで追いかけてくることを知り、こんなのに遭遇したら生き延びるのは難しそうだなと思っておくくらいはやって然るべきだ。
しかしながら、危険について知っておくのなんて、貴方がある程度の歳とそれ相応の知識を持っていようものなら、大抵10分で調べたり、考えられるような内容で十分だ。リスク云々などという大仰なものでも、なんだかよく分からないものでもない。
(10分調べたり考えたりしても何も分からなかったらって?その場合、危険が全くないか、それについて誰も知識を持ってないかの2択だろうから、たくさんの人がそれについてよく知っていたら何も気にせずやればいいだろうし、そうでないなら、貴方が未開拓の密林に挑むようなフロンティア精神の持ち主でない限り、やらない方がいいんじゃなかろうか)
数字が書いてあると何かわかったような気になったり、安心したり出来るかもしれないが、熊に出会う確率は何%で、何%の確率で逃げられるみたいなことを何時間も電卓を叩きながら考えるのは、ハッキリ言って時間の無駄なので止めた方がいいだろう。
もっと言うと、そうやって必死に求めたその確率に頼った挙句、それが検討違いだったり、たとえ合っていても頓珍漢な使い方をすれば痛い目に遭うだろうから、そんなことをしていいことなど一つもない。(なお、私は古今東西、確率を使いこなせる現実世界の人間というものにお目にかかれたことはない)

まとめよう。危険についてはキチンと知っておいた方がいい。ただし、基本的には、貴方が椅子だのテーブルだのを買う時に吟味するくらいの範囲で。
なお、私は恥ずかしくてそんなこと出来ないが、山に熊がいるのを調べることをリスク調査、熊はあんまり出会うことはないけど出会ったら食べられちゃうかもしれないと推測するのをリスク評価と言いたければ、別に構わないだろう。(あなたの勝手だ)
私は日本人なので危険という言葉の方が馴染みがあるし、リスクという言葉を使っても簡潔になる訳ではないので(危険もリスクも読めば三文字、書けば危険は二文字だ)、あえてリスクという言葉を使うのに可笑しな感覚はあるが、横文字を使うとなんだか賢いことを言ってるように感じるのも分からんでもない。リスクという言葉に惑わさられない限り、実害も然程なかろう。また、もしあなたがシンプルに「危険について知っておく」と説明するのでは上司の評価が得られないのであれば、家族を養うために恥を忍んで適当な数字を添えつつ、この言葉を使うのは尊い行為と言えるかもしれない。

上記の話に関連して、救いのある次の話として、アラビア数字で表記された確率(別にローマ数字でも構わないが)は大して役に立たないが、ifは重要であることを話しておこう。
先ほど、危険は事実で重要という話はしたが、その使い方について特に触れてこなかった。先ず、一番簡単な使い方として、何度か言っているように、明らかにその危険にぶち当たりそうならやめればいいし、自分の中で絶対そうならないだろうと思えばやればいい、というのがある。これに、ヤバそうならもう少しヤバそうでない選択肢を選ぶというのを付け加えれば、かなり上出来だろう。
しかし、こんなことは子供でも知っていることで、あえて紙面を割くほどのことでもないかと思う。もうちょっとためになりそうなことを付け加えるとすると、それは経験や知識によってしか培われないが、その培われたものも往々にして裏切ることを忘れないことだろうか。
結局役に立たないように感じるかもしれないが、こう考えると危険なことにはあまり近寄らなくなるので、損失という観点から見ると益にもなろう。(ただ、臆病になった分、得し損なったのもお忘れずに)

さて、前置きが長くなったが、もうちょっと役に立ちそうな考え方として紹介したいのが、ifの考え方である。
この考え方の根底は単純である。もし、その危険が起こる確率がよく分からないのであれば、とりあえず、仮にその危険が起こっても対処出来るようにしておけばある程度安心出来るという話だ。
もし、貴方が熊に出会う確率が分からなくても、熊に出会った時は目を逸らしながらゆっくりと後退するといった対処法を知っておくことなんかで、なんとか凌げるようにしておくという訳だ。
この考え方の肝は、危険と同様に、対処法も事実であるということである。熊は臆病な性格で基本的にはゆっくりと遠ざかったら追ってこないのは事実である。何度も言うように、事実はあやふやなものではないので、明快で扱いやすく、よって、「上手く」使えばかなり有効な手段になる。
実のところ、この「上手く」使うというのが難しいのだが、まぁ多少難しいだけで、確率と違って実生活でほとんど使用不可能という訳ではないのがポイントである。
さて、特別にその上手い使い方をレクチャーしたいと思うが、先ず、先の例でいうと、熊がゆっくりと遠ざかっても追ってくることがあるのも事実であるのを知っておくのが重要だ。
なら、どうすれば良いのだと思うかもしれないが、その時は次のifの出番である。もし、次の段でそれでも熊が近づいてくるなら、体を大きく見せて威嚇したり(これは熊に対して有効と言われている)、猟銃は流石にやりすぎかもしれないが、熊撃退スプレーを持っていくことなどで対処出来るようにしておくということだ。
ただし、気を付けて貰いたいのだが、あまりにも多くのifの階段をみてはいけない。対処法を考えるのには限界があり、また、ifは自分から遠い段に行けば行くほど脆く、不安定なものになる。
どういうことかというと、山での次のifは威嚇してもまだ追ってきたり、熊スプレーが上手く作動しなかったすることだが、このようにifにはキリがないので、自分がある程度安心出来るとこまで行ったらそこで止めておくべきだ。それに、次のifに行けば行くほど、事実から遠ざかっていく。
山に登って熊に会って、ゆっくり遠ざかってことなきを得られるというのは事実かもしれないが、山に登って熊にあって、ゆっくり遠ざかって、それでも熊に追われて、威嚇しても熊が寄ってきて、熊スプレーを取り出してトリガーを引いたのに何故か何も噴射されないというのは事実とは言い難いかもしれない。
実際に熊に遭遇する試行回数が100あっても(まぁ、そもそも、そんな実験に参加する熊好きの被験者がいればの話だが)そんな現象が現れるか分からなそうだし、熊の腹の外でそんな経験談を話してくれる人はいないだろうから、少なくとも一般化出来る事実とは言えないだろう。
つまり、よく分からないということで、それがよく分からないということ自体は判断に重要だが、よく分からない事実、つまり、あやふやなものにあまり振り回されるべきではない。
また、一番下のifに目を取られすぎてはいけないというのも重要だ。この例の一番下の段のifは熊のおやつになることだが、その最悪の結果に目を囚われすぎて、その間に連なるifに目を向けないのであれば、あなたは自宅から一歩も出られないだろう。(熊に襲われても死ぬかもしれないが、車に轢かれても死ぬことを思い出して欲しい。そして、残念ながら車は熊よりもそこらじゅうにいる)
大事なのは、何かしようとする時に潜む危険とそれが伴うifに着目し、現実的な範囲でそれらの対処法を考えて臨むことだ。

これで貴方はかなり有効な判断が出来るようになったと言えるだろう。ただ、これは別に最悪の事態を絶対に回避出来るという訳ではないので、そのことは忠告しておこう。
そもそも、最悪の事態を絶対に回避出来る完璧な方法なんて、およそ手の届くとこにあるものではない。よって、貴方の行動はその結果が良いも悪いも、全て貴方に降りかかってくることをよく理解した上、判断を下すというのは必要最低限の前提である。
それが出来ないのであれば、貴方は判断を下す資格はないし、資格を持たずに何かをすると大抵ろくでもないことになる。(小学生が車を運転したらどうなるか想像してみて欲しい。運転免許を持たない彼や彼女が無事生還しても、隣の家の塀にぶつけて穴をあけたり、車をオミットにしてくれていようものなら、彼らのパパやママにとって相当ろくでもないし、雷の落ちる彼らにとってもかなりろくでもないことだ)
我々が判断において出来ることは突き詰めれば、その結果をその身で引き受けることである。まぁ、だからこそ、私は少しでも自分の判断に悔いがないように、このような考え方をしているのではあるが。

ifの話の注意事項として、自分の目の前の段が薄暗く、そこにどんな危険が潜んでいるか分からない場合の考え方について話をしておこう。
先ほどの話は次の段のifが明確な場合を前提にしている。しかしながら、新たな挑戦をするときや未知の問題に対処する時などには、それが不明瞭なことが往々にしてある。つまり、そこには数多の種類の危険があるかもしれず、その中にはとんでもなく大きな危険も紛れているかもしれない。
実のところ、危険に関する問題で一番厄介なのはこの類の問題である。身も蓋もないことを言ってしまえば、そもそも対処の仕方がわからないので我々に出来ることはほとんどない。目の前の段が暗くてよく見えない場合、我々が実生活でもそうするように、少なくとも灯りが点るまでは足を踏み出すべきではないだろう。
しかしながら、そんなことを言っていてはあなたも人類も遅々として前に進めないのも事実である。一方、我々に出来ることはないのも事実なので、ここではすべきことではなく、すべきで”ない”ことをいくつか述べておくとしよう。
先ずはじめに、何度も言うように、差し当たって出来ることがないからといって苦し紛れに例の確率計算なんかをしてはならない。これをすると、たとえ弾き出されたのが頓珍漢な数字でも、何だか自分が目の前の段について分かったような気になり、安心して意気揚々と前に踏み出してしまいそうになるからだ。
周知のことであるとは思うが、根拠のない自信はそれ自体が危険である。とんでもない目にあってから、こんな筈ではなかっただの、それは想定外だっただのと喚き散らしたくはないだろう。
次に、その一歩目に多くの体重をかけてはいけない。つまり、どんな危険があるのか分からないのであれば、小さく始めろということだ。金銭面で言えば貴方の何ヶ月分かの給料をかけるようなことをしてはならないし、肉体面であれば、大きな傷が出来てしまうような事態は避けるべきだ。
そんな間抜けなことをする奴がこの世にいるのか、と首を傾げたことだろうが、先の確率計算や”絶対”なんて言葉が結びつくと人は平気でそれをやってしまうから御用心。高名な経済学者や統計学者、または、あなたの友人が"絶対"に大丈夫と言おうと、もし貴方がそれをすることの危険についてよくよく理解出来ていないのであれば、決して大博打をするような愚行を行ってはならない。(”絶対"確実な株式やら、ビットなんちゃらやら、不動産なんちゃらなんかに手を出している人は、悪いことは言わない。先の数行を100回くらい読み直して、自分がなにをしているのかよく考え直してみた方が良い)
あとは、向こうみずに進み続けてはいけない。たとえ、おっかなびっくり一段目を下ることが出来たとしても、やはりまだ目が慣れておらず、次の段も一段目同様よく見えないのであれば、またそろそろと足を伸ばすべきだ。そして、その調子である程度下って来たなら、一度戻れるかも探ってみた方がいい。
もし、時間をかけてやってきたものの、未だこの階段になにが待ち構えているのかよく分からず、来た道を引き返せるか怪しくなって来たとしたら、たとえ面倒でも一度はじめの段まで戻ってみて本当に進み続けて問題ないか検討することをお勧めする。

これまで、少なくともなんちゃら心理学なんかよりは救いのある話をして来たと自負しているが、最後の救いのある話として、リスクの重要度について触れておこう。
リスクの分類について触れたときに、リスクAとBではリスクBの方が重要という考え方について触れたが、この考え方はかなり使えるように思う。(リスクCはって?あんなものはあなたが経済学部の学生で単位を取らないとマズいとかでなければ、忘れてしまって一向に構わない)
何かが起こる確率についてはほとんど自信が持てない貴方でも、実際に起きている損失についてはわかるだろう。
これは事実(何度も言おう。事実は重要だ)なので、明快だし、扱い易い上、よっぽど損失が軽微でない限り、危急的速やかに対処すべきだ。
よって、他に実際は起きていないものの、とんでもない災いが降りかかる一歩手前(ifでいうと、貴方の目の前の段のif)くらいの問題を抱えていたり、抱えたりする訳でなければ、基本的には、現実に起きている損失の方を先ず対処するべきというのが私の考えである。
私はウィンターシーズンは趣味で雪山に登る。なので、例としてはかなり際どいものになるが、一つこれを題材に考えてみよう。
私が雪山の登頂を果たしたものの、下山途中に吹雪に遭い遭難したとする。なんとか吹雪を凌げる場所を確保できたものの、私の足はくるぶしあたりまで凍傷で感覚が無く、数時間以内に治療を施さなければ切断せざるを得ない状況だ。幸い天候は回復し、避難する前、彷徨っているうちにいつの間にか麓の方まで来ていたのか、遠くに建物が見える。ここから出来うる限りの速さで向かえば、足とおさらばせずに済むかもしれない。
しかし、数時間前まで吹雪の中恐怖でうずくまり、心の弱っていた私はふとこうも考える。もし、また吹雪になったらどうしよう。山の天候は変わり易い。幸い、木もまばらにあるので、再び避難場所を見つけられると思うが、絶対確実ではない。ここにはある程度の食料もあり、防寒具もある。山小屋で待っている仲間が救助を呼ぶだろうから、半日では無理だろうが遅くとも明朝にはここに助けが来るだろう。このままここにいれば、足は確実になくなるが、生きて帰れるのもほぼ確実だ。このまま下山したら、万が一もあり得る。
ここから先はあくまで私の考えと判断なので、リスクの重要度の使い方だけ知って貰えば良い。貴方は貴方の考え方をすればいいし、するべきだが、私は次のように考えるだろう。
先ず、私の足の凍傷は実際に起きている損失である。次に、このまま下山して吹雪くかもしれないというのは可能性であるし(つまり、次の段のif)、今までの経験からしてそうなりそうもない。少なくとも、本当にそうなるかどうかはよく分からない。さらに、吹雪いたとしても、方角が分かっているから、また迷うとも考えにくい上、たとえ迷っても再び避難場所を見つける算段がある。要するに、それが死に直結するかどうかというのは、かなり不明瞭だ。
確かに、死というのは多くの我々にとって最大級の災いであるが、少なくとも私の考えではここではそれが判断に十分な影響を与えるほど近い段のifにあるようには思えない。よって、私は遠い段にある死の危険を避けるより、現在の損失の対処を優先し下山を試みるだろう。
勿論、この判断によって、私は死ぬかもしれない。しかしながら、足を失わず、自分の足でまた歩いたり走ったり出来るかもしれない。また、ここに止まったらそれが永遠に出来なくなるのは事実である。

余談になるが、私の考えでは、こうした例こそ、リスクというものを考えるのに最も重要なものなのである。(だって、自分の命や足がかかっている選択以上に重大な事なんて、あまり思いつかないでしょ?)
勿論、このような状況になるのを避けるのは大前提ではあるが、それでも私にとってこれは実際に起こり得る問題であって、そんな状況に遭遇するなんてカケラも思っていない哲学者が暇つぶしに考えたような思考実験とは訳が違う。
彼らの思考実験の結論はVRゲームの終盤でヒロイン一人か他の全人類のどちらを救うか選ぶ時くらいしか役に立たないだろうが、ここで説明してきた考え方は私の人生を大きく左右し得るものである。現に、雪山で厳しい判断に迫られた時も私はこれまで説明して来たような考え方を参考にして来ており、それもその筈で、ここのコラムの内容含め、そもそも私の思想はそれらの実践によって少しずつ培われて来たものだからである。(勿論、雪山以外における厳しい判断においても)
私の備忘録としても、ここで大事なことを一つ記しておこう。
実践を想定していない理論は脆弱であり、多くの場合、役に立たない。一方で、実践によって得られた知恵は理論という形を取らずとも、それなりに強固である。
理論なんてものは、あくまで実践で得られたものを使いやすく加工したものに過ぎない。そんなものを大層貴重そうに崇めるのは有り体に言って馬鹿げているし、あまつさえ実践なんてものを経験したことのない学者連中がそれらを排出するのを崇めるのなんて、馬や鹿でさえ到底やらないであろう愚行と言えよう。

なお、この重要度の話で勘違いしないでいただきたいこととして、いくら現在の損失を回避するためとはいえ、自分から近い段に大きな災いが降りかかるようなifが存在する時や存在し得る時には注意が必要であることを付け加えておこう。
こんなことは馬鹿馬鹿しいくらい当然のことだが、嘆かわしいことに我々人間はそれなりにやりがちなことなので、一応、説明しておく。ギャンブルで負けを取り返そうと更にベットする人はまさにそれだし、ギャンブルでなくとも、今すぐに影響を及ぼさないけどそのうちほぼ確実に訪れる大きな問題の対処を後回しにしがちな人はこの傾向にあると言えるだろう。(そう。夏休みの宿題を後回しにするのなんかがそれである。なお、そんな愚かなことは全くしたことがないと声高らかに言える人は、鼻で嗤って次の段落は読み飛ばして貰って構わない)

確かに損失は扱いやすい上、現に影響を及ぼしているものなので、一刻も早く対処するべきだが、それに対処するためのifの次の段に大きな危険が潜んでいるのであれば、そこに踏み出すべきではない。
たとえ、借金を返さなければ金利という名の損失が垂れ流されてしまうとはいえ、有金全てを馬券にフルベットするようなことをしてはならないということだ。
次の段にどんな危険が潜んでいるか分からない場合も同様だ。基本的には、よっぽどの理由(家族や友人が命の危険に晒されるなど)がない場合、損失を回避するためにその行動がどんな危険を招くか分からないようなことをしてはならない。
先ほども述べたように、そのようなケースで我々の出来ることはほぼない。大切な人を借金のかたに取られたりしているのでなければ、お祈りしか出来ないのに、何が潜んでいるか分からない密林に宝探しになど行くなということだ。それだったら、もっと時間がかかったり、地道で手間でも、そうでない選択肢を探すべきだ。(このことに通ずる私の好きな投資の格言に「牛でも熊でも儲けられるが、豚は儲けられない」というのがある)
また、現在起きている損失と関係ないところで、次の段に大きな危険が潜んでいたり、例のごとく薄暗くなっていて少なくとも潜んでいる可能性がある場合は、垂れ流している損失の過多にもよるが、その損失の斜め上をいくレベルの危険が現にあり得るなら、そちらを先に対処した方がいいだろう。
なお、この「現にあり得る」というのがまた難しいところだが、似たような悲劇を聞いたことがあったり、貴方の”常識”的に考えてとても現実味を帯びているかどうかといったことを判断の根拠とすればいいだろう。(もっと、マシな判断基準はないかって?そんなのがもしあろうものなら、私だって知りたい。残念ながら、私は神の計算機など持っていないのでこれくらいのことしか出来ないが、これまでの経験から、こんな程度のものの方が少なくとも使い方もよく分からない入り組んだ”メソッド”なんかよりはよっぽど役に立つと思う)

さて、先の山の話は私にとって実践に根付いた重要な例であったが、ほとんどの人にとってあまりピンと来ないのは認めよう。そこで、最後にこれまで話してきた内容の総括として、おそらくほとんどの人にとって馴染みのある異性との肉体的交渉における判断の仕方について考えてみよう。

性交渉はおそらく人々にとって最も重大なテーマの一つだろう。自分の気に入った相手とのセックスは私含め、多くの人々にとって心躍るイベントであるのは間違い無い筈だ。
しかしながら、貴方はここでそこにどんな危険が潜んでいるかは知っておいた方がいい。先ほどの話のおさらいである。そうなる確率なんてものはあまり知らなくてもいいが、危険についてはしっかりと知っておくべきだ。
セックスにおける危険とは、こちらが思ってもみなかったハードなプレイをさせられるハメになるなんてのもあるかもしれないが、何よりも性感染症が挙げられるだろう。クラミジア、梅毒、HIVなどがそれだ。故フレディ・マーキュリーなんかのおかげで、現代に確実に死に至る性病というのはほとんどないと思って差し支えないが、とりわけHIVに関してはいまだに完治しない不治の病で、これに罹ったら貴方も私も一生通院を余儀なくされるし、健常者よりも寿命は短くなる傾向にあるようだ。
人の危険に対する感度はそれぞれだし、私はHIVの専門家でもないが、それについて詳細を知らずとも、私にとってこのHIVは不治の病というだけでかなり危険な部類に入る。
そんな私のブラックリストに載るHIVだが、これが非常に厄介なことに、これからベットを共にしようとする相手がそれにそれに罹っているかどうかほとんど全く分からない。確かに、相手が処女や童貞だったら先ず心配しなくてもいいだろうし、奔放なセックスをする人や男性の同性愛者でもなければほぼそんなことはないと言われているが、基本的にどんな相手でもHIVに罹っている可能性があるというのは事実だろう。(ちなみにこれは確率云々の話でなく、相手が診断書でも見せてくれない限り、そうかどうか判断する術がないことに起因する)
ここで「それなら、相手にそうなのか聞いてみればいいじゃないか」なんてことを思った人がいたとしたら、その人はきっと甘い夜を過ごしたことのない人だろうし、これからそんな機会に巡りあうこともないだろう。また、仮にFBIの交渉人のごとき話術で、相手の機嫌を損ねることなくそれを聞き出したとしても、その言の真偽は定かではないだろう。加えて、そもそもこの病気は本人でさえ罹患に気づかないことがままあるので、その努力は大して意味をなさないとさえ言える。はて、それではどうしたものか…
ここでifの出番である。この場合の次の段のifは熊よろしく、HIV感染者にベッドで遭遇することである。つまり、先の戦法をおさらいすると、とりあえずその人がそうなのかどうかは置いておいて、仮にそうだったとしてどのように対処すればいいのかを考えておけという訳だ。
幸いこの病気は血液や愛液、精液といったものが粘膜に付着することで感染するため、(男性用)コンドームが有効なことが知られている。お互いのラブジュースが大事なとこにつかなければ、まずは安心ということだ。また、そのような事情のため、コンドームをつけても感染するという次のifへの対処は、キチンとコンドームは新しく破れないものを使うとか、少なくとも相手の性的な遍歴がよく分かっていない段階では、その体を舐め回すようなことはしないといったことが挙げられるだろう。

しかしながら、あなたはこんな話を聞いて、もしかしたらこう考えるかもしれない。
「いや、そもそも、そんな危険を犯すくらいなら、最初からそんなことしなければいいじゃないか」
勿論、仰る通りである。ただし、あなたが異性と交わる喜びを人生から消し去ってしまっても、一向に自分の幸せに影響がないと確信出来るなら、という条件がつくが。少なくとも、私はそんな楽しみのない人生はごめんだ。
ここで、損失の考え方の出番である。もし、貴方が異性とのセックスを楽しめないなら、その時点で損失が発生している。そう考えたら、あとは自分にとっての危険がifのどの段にありそうか見定め、例の重要度の判断を行う時だ。
その判断が適切であれば、貴方も私も異性との心躍る一夜を過ごした上、病院での検査結果に胸を撫で下ろす未来を手に入れるだろう。勿論、そうでないかもしれない。ただ、考えなしでその危険を引いてしまった時よりは後悔が少ないのではないだろうか。

詰まるところ、我々が人生における”生(なま)”の判断を前にして出来ること、やるべきことはリスク評価なんてハリボテの何の役にも立たないものではない。
何にもまして大事なのは、自らの選択による最悪も最高も全て背負う覚悟を持つことである。残念ながら、少なくとも貴方が成人しているのならば、貴方の責任を背負うべきは貴方であってママでもパパでも他の誰かでもない。(もっとも、世の中にはこんな幼稚園児でもわかりそうな当たり前のことが理解出来ない官僚や、エリートなんちゃらと呼ばれるスーツで身をかためた輩どもが溢れているが)
我々がやらねばならないのは、己の判断によって引き受けねばならない結果になるべく後悔しないようにするために、このコラムで書いてきたようなことを日々考え、実践してみるという当たり前のことと言えよう。
ただ、これは中々骨の折れる営みだし、常日頃から意識していないと実践し続けるのが難しいことである。
しかしながら、この当たり前で骨の折れることを生涯やり続けることこそ、その人の存在意義や人生の意味なんかと繋がってくるものなのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?