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誰がいくら稼いだなんて死ぬほどどうでもいいことに惑わされなくなるお話-金(カネ)という強さの本質について

SNSのインフルエンサーだのテレビの有名人だの、はたまた友達の友達だのがいくら儲けているなんてことを気になったりしたことはないだろうか?
それによって、自分が惨めに感じたり、もう少し前向きだと、自分ももっと頑張らなくちゃなと思ったことは?
少なくとも私は過去にそうした経験があるし、あなたも同じではなかろうか。金というのは”強さ”の一形態であると言えるから、それが人と比べて劣っていると感じることに危機感や焦りを感じるのは致し方ないことかもしれない。
ただ、実のところ、これは世間一般で思われているよりそんなに我々を強くしてくれるものではないし、多くの場合、弱くさえする。
しかし、このことは何故だか知らないが、あまり知られていないようだ。その証拠にこんな話をすると大抵は碌に意図も考えず適当に頷くか、一応脳味噌を使って理解している人でもそれは矛盾するように聞こえるといった感想を述べるのがほとんどだ。(あんなにも必死になってみんな金のことについてばかり考えているのに、自分が求めているものについてよく分かっていないというのはなんとも可笑しな話だ)
そこでみんな大好きお金という”強さ”について、ここではじっくりと見ていきたいと思う。

先ず一応断っておこうと思うが、ここで話していこうとしている”強さ”は生きる上においての強さや力といったものだ。
強さの定義はそれぞれだが、ここでは定義そのものについて滔々と考察していくようなあくびが出ることはしないつもりなので安心して欲しい。
そんなことは有り余るほどの時間を持て余す現代の似非哲学者なんかに任せておいて、ここでは『物事を好き勝手、意のままに出来ること』や『どんなダメージを受けてもものともしないこと』としておこう。100人に聞いたら、捻くれ者以外は首を縦に振るだろうし、そいつらも心の中では縦に振っているだろうからまぁ問題ないだろう。
その上で私の金に対する”強さ”の印象をはじめに述べておくと「おおよそタヌキくらい」だ。
山におけるタヌキの強さは多分まぁまぁといったところだろう。ネズミとかウサギよりは強いが、熊や鷹なんかより弱いし、それら以外にもタヌキより強い生き物は自然界にいっぱいいる。
ただ、多くの人は金が哺乳綱食肉目の中型野生動物と似たようなものと言われてもピンとこないと思うので、そこら辺の説明からはじめていくとしよう。

金は確かに”強さ”に繋がる。これは万人が知っていることで、特に現代社会では金によって多くの物が手に入り、沢山のことをさせて貰えるようになるから厳然たる事実だ。
頭に花が咲いたような回答を期待していた人には申し訳ないが、私は金を目の敵のように批判するつもりは無いし、それ相応の評価をキチンとするべきだと考えている。また、金を軽視するような一見倫理的な話をする奴は、金にがめつい詐欺師か負け犬が多いので、そういう話を聞くと控えめにいって反吐が出る。
しかしながら、(これも詐欺師と未だ負けていない負け犬に多いが、)金こそが全てだというような論説をする輩は、大分抑えた表現の仕方をすると『クソバカ』と言えるだろう。(ちなみに、抑えてない表現は『人間に生まれながら脳みそを使うのをめんどくさがるので、思考はチンパンジーあたりとなんら変わらないが、猿と違って人権という名の大きな権利が与えられているので、巨大なゴキブリと同じかそれ以上に厄介なクソバカ』である)
聞けばそんな馬鹿でも当たり前のことと(多分)納得すると思うが、金で出来ることは基本的にさっき述べたことに限られる。つまり、何か物を手に入れることと何かをさせて貰えること、この二つだ。
逆にこの二つのこと以外は出来ず、たとえば、それを使って何かを作ったり、(あなたがカネゴンとかでなければ)それを食べて何か効果が得られたりする訳ではない。(少し専門的な言い方をすると貨幣には交換価値はあるが、使用価値はないということ)
加えて、いま手に入るものが百年前にはいくら金を積んでも手に入らなかったり、砂漠の真ん中でいくら金を持っていようが何も出来ないことから分かるように、手に入れるものと、させて貰えることにはその時代や状況に合わせた制限がかなり入る。

これはどうも逆説的に本当の金持ちは知っていて、金の無い奴ほど知らないみたいだが、金があるからといってなんでも手に入る訳でも、させて貰えるわけでもない。
当たり前のことだが、物やサービスとして取り扱いしてないものや取り扱い出来無いものは金を使って得ることは出来ないので、意のままになるのは誰かがそれらに関して商売をしていて、その商売にアクセス出来る時に限られる。
だから、大金持ちになったからといって、街中でそこら辺の人を呼び止めて自分の命令を従わせることが出来たりはしない。勿論、金額によっては言うことを聞く人もいるだろうが、条件を決めるのはあくまで命令を聞く側であり、幸か不幸か強制力はない。また、現在の科学、工業力では、いくら金を持っているからといってスーパースーツを身に纏って空を飛び回り、ヒーローとして活躍出来るようになったりはしない。
勿論、金の力を使えば勝てる弁護士を雇って気に入らない奴を訴え、裁判で屈服させたり、(ヒーローにはなれないが)自家用ジェットで空を飛び回ることは出来るかもしれない。しかしながら、裁判で人を屈服させるにも、それを好き勝手にやるとなったら小型ジェット機を買うより資産が必要になるだろうから、ちょっとやそっとの金持ちになったからといってそんなことは出来ないだろう。その上、OJシンプソン事件の弁護団が毎回ついたとしても、白を黒にするような裁判に勝ち続けることはほとんど不可能だ。
つまり、金をいくら持っていたとしても、金こそが全てだと言うほど多くのものが手に入る訳ではないし、取り分け人の身体やまして感情といったものを金でどうこうしようとすると費用対効果が悪くなる上、そもそも思い通りにさせて貰えないこともままある。
ちなみに、人を屈服させたいなら金よりも、権力という名の強さの方がそれに向いている。なので、他人をどうにかしたいなら意固地に金にこだわらず、そっちの強さを手に入れる方に精力を出す方が良いかもしれない。(まぁ、これを手に入れるのも金を手に入れるのと同じくらい難易度が高いが)
なお、もし街中の人を呼び止めて何かして貰いたいだけなら、1円も払わなくていいので、素直に頭を下げてお願いする方が思い通りになる可能性は高いだろう。

なお、ある面では一理あると言えるので、「金があれば、全てが手に入る訳ではなくても、酒と女(別に男でもいいが)は手に入るし、毎日豪遊出来るのではないでしょうか?(私はそれで満足です)」という一聞するだけでは頭が悪いが、真摯で率直な質問にも一応私の意見を述べておこう。
はじめに、それは仰る通りだろう。金という強さ、力は先に述べた制限が付くのでそれが全てと言えるほどのものではないが、それでも『物事を好き勝手、意のままに出来ること』についてはそれなりに優秀だ。
それを踏まえた上で一つ一つ検証していくことにすると、先ず酒については、大昔ならまだしも、現代では大金持ちでなくても別に手に入る。人間が1日に摂取出来る量には限りがあるので、(ロマネコンティを毎日飲みたいとかいう訳でなければ、)毎日飲むくらいのこともそれほどの資産がなくても十分可能だろう。
ただ、私たちの体は残念ながら繰り返し酒を飲むことでその快楽が薄まるように出来ているので、あなたが思っているよりも酒を毎日飲むことは楽しくない。また、そもそもそれだけ酒を飲んでいればあなたの肝臓はボロボロになっていくので、健康上の理由、果てはあなたの幸福という観点からもあまりオススメ出来ない。
総括すると、節制して程よく酒を楽しむくらいの方が飲酒によって得られる幸せは強くなると考えられるので、そもそも毎日浴びるほど飲むための金は必要ない。
次に女に関して。確かに金持ちは沢山の女性にモテやすくなるというのは事実のようだ。
しかしながら、先ほど述べたように身体や感情を売買する市場がある訳ではないので、特定の誰かに好かれたいと思っても、そのためにどのくらい金持ちである必要があるかはバラつきがある上、場合によっては、いくら金持ちでも好かれない可能性もある。
なお、多くの場合金銭以外の部分で努力が必要になるし、逆に金がたいしてなくてもこの部分で上手くやって女性を獲得することも出来るから金持ちであって悪いことはないかもしれないが、別に必須条件ではないと言える。よって、特定の女性に好かれやすくすることが目的なら、金を稼ぐ努力をするより、他の部分で努力を重ねた方がいいかもしれない。
最後に、毎日豪遊することについてだが、先ほどの話と若干被るが、あなたが思っているより、毎日遊び呆けて暮らすことはそんなに楽しくない。人間は物事に慣れると飽きて退屈になり、多くの場合、それに苦痛すら感じるようになる。一度、思いっきり稼いで、一年中豪遊し続けるということをやってみたら分かるだろうが、ほとんどの場合1ヶ月もしないうちにそんな生活に飽きてくる。(というか、そもそも楽しめることを見つけるのが難しくなってくるだろう)
また、一年中豪遊するだけの金を稼ぐのは大変だという人は、あなたの知る大金持ちが毎日遊んで暮らしているだけか調べてみるといい。遊んで暮らしているだけの人なんて(楽しげに見せているところだけを切り取るSNSですら)見つけるのが難しいだろうし、多くの場合、あなたよりハードな日々を送っているのに気づくだろう。

なお、今までは質問に対して、言葉通り馬鹿丁寧に答えて来てしまったが、彼(もしくは、彼女)の本音は「人に金があるのを自慢して凄いと思われたい。人から認められたい」ということなのかもしれない。
これに関しては隣人が宝くじに当たったことを想像して貰えれば分かると思うが、クジで大金持ちになった人をあなたは尊敬出来るだろうか?
おそらく、難しいだろう。
人が金持ちを尊敬するのは、金を稼ぎ出すその能力に対してであり、多くの場合、その人格が優れているからである。裏を返せば、能力があって人格があれば、別に金を持ってなくても尊敬されるので、必ずしも金持ちになる必要はない。(なお、能力の尺度を金に求める人が多いので、金を稼いでないと世間的に、つまり、ここでの意味としては広く浅く評価され辛いというのはあるかもしれない。そのような評価に何の意味があるかは置いておいて、私からは後に見るように、金を尺度とするのは非常に浅はかな上、危険な考えであることは注意しておこう)
以上の事柄をまとめ、先ほどの問いに答えよう。「金持ちになれば、酒と(ある程度の)女は手に入るし、毎日豪遊出来ると思うが、それは今の生活より楽しい訳でもないだろうし、場合によっては苦痛にすら感じるだろう。それを理解した上でもなおそのために金持ちになりたいのなら、それにはそれなりの労力が必要だと思うけど、お好きにどうぞ」というのが私の回答だ。

なお、金に関するたわごとや迷信があまりにも世の中に繁茂しているので、それに対する手厳しい意見が多くなってしまったが、別に私は金やそれを稼ぐのが悪いと思っている訳ではないので、ここで一旦金の良い面を挙げておく。
先ず、たくさんの金を稼ごうとするのはあなた個人の利益から来る欲求かもしれないが、多くの場合、結果的に社会にとっての利益にもなるので実のところ、とても大切な行為だ。
ただし、利益を得るための代償や危険を他人に転嫁することなく、キチンと自分で背負い込んでいる場合に限るが。
これは何も裏稼業の仕事についてだけ言っているのではなく、なんたらコンサルタント、かんたらアナリスト、うんちゃら学者、かんちゃら政治家なんかも指す。後者の奴らは客やら一般人やらに役に立つのか立たんのかよく分からんアドバイスや干渉をして金や地位などを得るが、それが役に立たなかった時に損害を被るのは主に客や一般人である。
こいつらに(多分)悪意はないのだろうが、その分、あたかも真っ当なことをやっているように見えるし、本人たちもそう思い込んでることすら殆どなので、ある意味ヤクザや詐欺師よりもタチが悪い。なお、他人に代償を転嫁して利益を得る行為は社会の大きな害になるので、胸に手を当てて心当たりのある人は社会のために転職する方向で是非検討して貰いたい。
一方、自分が金を得るためであっても、汗水垂らして働いて役に立つものを作ったり、(危険や代償を他者に転嫁しないのであれば、)誰かのために何かをしてあげたりすれば、世の中はより豊かになる。
お金というインセンティブがなければ、我々の生活はこれほど便利で快適にはなり得なかっただろう。健全な商売は健全な社会にとって必要不可欠なものだし、商売の原動力はお金だから、そういう意味でお金は大切だ。

また、個人にとって、何かを手に入れたり、して貰ったり”する”ためのお金は私たちを幸せにするためにそれほど必要ないかもしれないが、何かを”しない”ためのお金はいくらあっても悪いことはないかもしれない。
金の賢い使い道の一つは、それで束縛やしがらみから解放される自由を手に入れることだ。
数万年前ならいざ知らず、我々の多くは金を稼がないと寝るところも、食べるものも手に入れられないが、当面の間寝食するに足るだけの十分な金があれば自分のしたくないことで生計を得なくても良くなる。少なくとも、上司の顔色を伺ってビクビクと毎日を過ごす必要は無くなるだろうし、理不尽なオーダーを下されたら「おととい来やがれ」と跳ね除けてやることだって出来る。
また、ある程度の金をすでに持っているのであれば、給料で仕事を選ばなくて済むようになる。世の中の大半の人が毎月いくら銀行口座に振り込まれるかでその職についたり、つかなかったりするが、十分な量の金が懐にあれば、自分が本当にそれをやりたいか、または、自分にとって大変でないかといったことで仕事が選べるようになる訳だ。
私は政治家のように耳障りは良くても実際的には何も役に立たない持論ばかりを述べる大半の人文科学者や社会科学者に嫌悪感を抱いているが、多少なりともまともな研究をしている心理学者や神経学者、認知行動学者の功績は一聞に値するものと認めている。
そうした研究の一つに、人間は自由を奪われるとストレスホルモンが増加し、結果的に幸せを感じなくなるのを示唆するものがあるが、これはあなたにも心当たりがあるのではなかろうか。我々は哀れな実験ラットのように一定時間磔にされて身動きが取れなくなるようなことはないが、大半の社会人は”仕事”という名の活動によって自由が奪われ、(多くの場合、ラットより長い)一定時間(殆ど毎日)拘束される。
我々が仕事によるそうした拘束を生涯に渡ってある程度受け入れざるを得ないのは仕方のないことかもしれないが、幸運にもラットと違い、どのように時間を拘束されるかを我々は選ぶことが出来る。その選択肢には自分にとって苦ではないものもあるだろうし、場合によっては楽しいと感じるものだってあるだろう。そうしたものに従事する場合は、ストレスホルモンが出にくくなるだろう。場合によっては、幸福を感じるホルモンすら出てくるかもしれない。
詰まるところ、日々従事することの選択肢の幅を広げたり、気に入らなかったら自由に他のものを選ぶ余裕が与えられることで、あなたや私の人生はより自由で幸せなものになるだろうし、金はそのために活用出来る訳だ。(ちなみに、友情や恋、人生の目的なんかが金で買えればそんなことはなかったのだろうが、私が色々と調べたり考えたりした結果からは、金によって幸せになる道を示すものはこのくらいしかなかった)
よって、少なくとも私にとって、人生において一番重要なことは幸せになることだが、もし、あなたもそうなら、金を儲けたいと思うのであれば、そのような目的のために金儲けをすることをお勧めしたい。

また、ここまでは比較的社会や我々の幸福という観点で話をしてきたが、機能的な面での金の良さについても話をしてしておこう。
金が他の強さと比べて優れているのは、それが簡単に移譲出来る点だ。(少し専門的な言い方をすると、金は流動性が高いということだ。まぁ、知らなければわざわざ覚えなくてもいい)
これは金の特筆すべき特徴だ。だって、多くの他の強さは簡単に貰えたり、あげたり出来ないからだ。その人自身に備わる能力、例えば、知力や腕力なんかはその最たる例だし、それよりもう少し融通が効く権力や武力だって、金ほど簡単にそっくりそのまま移し替えることは出来ない。しかしながら、金に関しては、送金ボタン一つでアッチにやったりコッチにやったり出来る。つまり、金は群を抜いて扱い易い強さと言える。
このことは、金に関しては、昨日最弱だったものが、今日簡単に最強になれることを示している。最近流行りの異世界転生アニメとは違い、現実的にそんなことが叶い得るのはほとんど金という強さにおいてのみであり、これこそが金の最大の長所と言えるかもしれない。(余談だが、私はこの強さがファーストフードに似ているように感じる。ファーストフードはメニューを選ぶのに苦労しないし、頼めばすぐに出てくる上、食うのに時間もかからない。そして、それなりに旨い。しかしながら、栄養、つまり、自分の体の資源という観点から見ると最悪の食べ物だ。そういうことを一切顧みない輩はファーストフードが大好きなことを考えると、金好きに脳みそを使わないバカが多いのは頷けるかもしれない)

さて、金についての良い面もいくらか理解して貰ったかと思う。(どうしても、金という力は難点も多いので、一部、酷評が入ってしまったが)
しかしながら、ここまでの話でもまだ、金の強さが何故、たぬきかイタチくらいでしかないのか(残念ながら)話しきれてないので、よくある人々が金持ちになりたい理由とそれについての考察をもう一つ挙げた上で、金という強さが大したものではないことの核心について触れていこう。

次のよくある金持ちになりたい理由は、「酒と女と豪遊なんてふしだらで不健全なものを求める訳ではない。日々の生活の向上という真っ当な目的のために金を得たいのだ」という意見である。これは恐らく金持ちになりたい理由として、一番一般的なものではないだろうか?
要するに、そこら辺のアパートに住み、軽自動車に乗り、休日を市民プールで過ごすよりも、タワーマンションの最上階に住み、高級車を乗り回し、リゾートビーチでマティーニ片手に優雅な休日を過ごすために金を稼ぎたいという理屈だ。
確かにこれを叶える手段として、金はうってつけの力だし手段だろう。また、金があって使い道が他になければ、自分の生活をアップグレードするのは自然な流れと言える。ともすると、この理由は人生を向上させたいという願望から来る、崇高な動機のようにすら思えてくる。そう考えると、金はいくらあっても足りないように感じるかもしれない。
ただ、実のところ、これはかなり注意が必要な金の使い方である。しかも、これはそれで苦労している金持ちがわんさかいるのに、彼らがそれを認めないためか、はたまた、そもそも何でそんなことになったのか気づいてすらいないせいか、何故かほとんど認知されていないので厄介だ。
正しいと思っていたことに従って裏切られるのは気の毒なことだし、自らの選択の代償を引き受ける当然の義務だとしても、そんな哀れな有様は見ていて気分がいいものではない。幸い、あなたがまだ大して金を持っていないのであれば、金儲けに精を出し始める前に、この一見ご立派な教義が招き得るものを知っておいた方が良いだろう。

手始めに、科学的な検証も行われた一つの示唆を示しておこう。それは、所得が増えて生活の質が向上しても、人はその増分に応じて幸せを感じたりしないということだ。(ちなみに、現在、食うに困るような貧乏である場合、話は異なる)
つまり、所得(別に年間収入でもいいが、)1,000万円の人が500万円の人の2倍、もしくは、所得1億円の人が500万の人の20倍幸せを感じる訳ではないようだ。
ちなみに、所得500万円の人でも、豊かな人間関係を築いていたり、何か人生の意味を感じて日々を生きていたら、所得1,000万円の人の2倍幸せということはあり得る。もちろん、幸せの尺度にもよるが、このことはケチなスクルージが改心して幸せな人生を迎える『クリスマスキャロル』が普及の名作として認められていることからも、古今東西、人々が納得することのようだ。(幸せの尺度について、細々した専門的な論文を読む必要なんてないが、『クリスマスキャロル』を知らないのなら、一度、近所の図書館にでも行って読んでおくことをお勧めする)
つまり、多少頭の回る読者は意味が分かると思うが、所得が一定以上になると我々の幸せには影響をほとんど与えないし、他にもっと影響を与える要因があるらしいということである。(よって、金儲けをするなとは言わないが、それに時間を使い過ぎている人は、悪いことは言わないので、自分を幸せにしてくれるものにもっと時間を使った方がいい)

さて、この時点ですでに先ほどの教義の土台である「金銭による生活の質の向上は、我々の人生の質(つまり、幸福)を向上させる」という信条が崩壊している訳だが、フェラーリを乗り回すことが幸せを意味すると信じている人には気の毒なことに、もっと悪い知らせがある。それは生活の質を向上させることは幸福どころか、不幸をもたらし得るということである。
このことは一部の金持ちがショックで絶叫したくなるほどあまりにも不条理な事実だろうが、その原因を一言で言い表すなら、それは”比較”だ。
人間はどうしても比較によって価値を判断してしまう生き物だし、別にそれ自体は進化の道理に適った反応なようなので、それそのものが悪い訳ではない。しかしながら、これによって、金を持つことの弊害が生じてしまうのは事実だ。(なお、タバコをふかしながら聞いてもらうので結構だが、人間が質的に変わるいわゆる”進化”には通常10万年以上掛かると言われているが、残念ながら、金というものが発明されたのは精々数千年から一万年くらい前なので、我々の性質が金というものに上手く対応出来てなくてもなんら不思議はないのかもしれない)

実のところ、生活の質は、向上させるまでは、つまり、階段を上がっているような状況では別に問題はない。上がった直後に感じた幸せも、直ぐに当たり前となって上がる前と変わらない日々を送っているように感じてくるだろうが、これくらいだったらさしたる問題もないといえよう。(苦労して金を稼いだ割には大した成果を得られず気落ちするかもしれないが、まぁそれくらいだったら大目に見てやって欲しい)
問題はその後だ。
あなたが普通(異常でないという意味)の人の感性を持っていたら、振り返ると、そこには登って来た階段が消えてしまっていることに気づくだろう。元いた場所は遥か下の方にあり、とてもじゃないが降りれそうにない。つまり、そういうことである。
人間はプラスの変化に対しては寛容だ。環境が変化しても、前より良くなったと思えば、それを喜んで受け入れる。しかしながら、マイナスの変化については不寛容だ。しかも、著しいほどに。
もし、環境が今より悪くなるのなら、何としてでもそれを食い止めたいと思うだろうし、そんなことは想像しただけでも絶望的な気持ちになることだろう。(これを心理学では”損失回避傾向”というが、そんなことは。以下略)
このようにして、向上された生活の質は、心理的に落とすことが出来なくなってしまう。もし、落とすことになるとしても、それには大きな痛みが伴うだろう。潜在的な痛みはどんどん蓄積され、床下に火薬が積み上げられたような状態になっていく。

更に追い討ちをかけて悪いことに、生活の質は向上すればするほど、維持が難しくなっていく。当たり前だが、高級マンションのローンはそこらのアパートより高いだろうし、毎休暇リゾートに行くのは近所の市民プールに行くより高くつく。加えて、もしあなたが都心のタワーマンションに住んでいて、休日はハワイでバカンスを楽しむなら、隣の部屋に住んでいるものの、休日は慎ましく市民プールで過ごす人よりも維持は大変だ。
何よりもよろしくないのは、こうなってしまうと、先ほどの”しない”ことによる金の使い方が出来なくなる。今の生活を維持するには高給を得られる仕事に限られてくるから選択肢は狭まり、また、やりたくない仕事やクソな上司に「おととい来やがれ」とおいそれとは言えなくなってしまう。あまつさえ、それでも何とか耐え抜いて来たのに、会社の都合である日突然解雇宣告を喰らった日には死にたくなって来さえするだろう。
こうして、この金の使い方は自由をもたらすどころか、どんどんあなたをがんじがらめに縛って不自由にして行く。(QOLだって?最悪の造語だ)

私は金持ちを目の敵にしている訳ではないので、これ以上悪い便りを持ち込むのはかなり気が引けるのだが、彼らには申し訳ないことに、まだ一つ話せていないことがある。しかも、これは今まで話してきたことどんなことよりも、芳しくないお知らせだ。
一時期、あなたが仏教に傾倒して僧侶になることを目指していたのであれば、全ては無常と心の内で呟いて、今度の休日をリゾート行きから市民プール行きにするくらいなら、何とかできるかもしれない。(それでも大したものだが)
しかしながら、生活の向上がもたらす痛みには、南国の潮の香りを嗅ぐ代わりに、市民プールで塩素の臭いを嗅ぐ以上のものがある。それは、自分が何者であるかについての信念、いわゆるアイデンティティの崩壊だ。
一度、起業が当たって大金を稼いだり、そこまでいかなくとも、いわゆる超一流企業なんかの面接に受かって高い年収を得たことがある人は身に覚えがあるだろうが、そんなことが起こると何とも言えない優越感が芽生えてくる。
それまでは平凡だった自分が、まるで天やもっと現実的な見方をすれば、社会に選ばれた人間のように思えてくる。実際、身の回りの人も、金を稼いだあなたを成功者とみなし、褒め称えてくれるだろう。そして、いわゆる”成功者”のお仲間が増えていく。
少しすると、心のどこかで所得が低い人を負け犬のように感じ始める上、まわりの皆んなもそう思っているようだから、それが当たり前になっていく。そうして、そうでなかった時はそんな人を軽蔑すらしていた筈なのに、いつの間にか金を人生の尺度にし始める。私がいくら科学的な証拠や筋の通った論理を示しても、負け犬の遠吠えにしか感じないだろう。
別に、それ自体は悪いことではない。人間は他人より能力が高いと思いたがる性質があることは知られているから、それは自然なことと言える。加えて、同じ思想を持った人が周りに増えれば、その考えが強化されていくのも道理だろう。
また、この考えに縛られている人は、多分、私より楽しくない人生を送っているだろうが、私のような”負け犬”と関わる機会もないので、不愉快な話を聞く必要もなく、肩で風を切って生きていけることだろう。(私は自分がある程度自由に暮らせるだけの金は持っているが、幸いにも、彼らが認めるような大金持ちではない)
しかしながら、ここには「但し、あなたが金を持っているうちは」という注釈が付く。
仮に彼らが、何かの不運で結構な財産を失ったとしよう。(そうした危険は、不運と呼ぶには多すぎるほど世の中に転がっているが)
彼は自分が天に見放された落伍者であるように思うだろうし、実際、彼の愉快な仲間達も彼を負け犬と見做して、予定されていた来月のディナーをキャンセルすることだろう。数億円のマンションを引き払い、自分が見下していた”庶民”と同じ数千万円程度のアパートの一室でどこに出かけるでもない休日、自分の人生が終わったと感じる。
何よりもこたえるのは、それまで信じていた自分の才能がただの幻想だったと思い知らされることだ。私やあなたがいくら「そんなことはないさ」と励ましても、大した慰めにはならないだろう。(なお、あなたはどうか知らないが、少なくとも私は本当にそんなことはないと思っている)

いつどんな時もあなたを支え、指針を示す人生の尺度とは、非常に複雑な作りをしていて、あなたが実生活の中でより良い生を求めてもがき続けた挙句、徐々に形作られていくものである。しかしながら、それには途方もない時間がかかり、手に入れるのが難しいので、人はどうしても簡単な尺度に手が伸びてしまうのかもしれない。
金は数字で表せるので、何かの尺度として扱うには非常に便利なものだ。ものやサービスの価値を測る上でとても扱いやすく、何でも測れるように思えてしまう。
ただ、これは人生や”自分”というものを測るには、あまりに脆く、我々個人の幸福というものを蔑ろにした尺度だ。それはあなたの幸福を正しく測ってはくれない上、外部の衝撃で簡単に使えなくなってしまう。壊れてても無理に使おうものなら、あなたの自我や行先はもっと滅茶苦茶になっていくことだろう。

まぁ、生活の向上がもたらすものは、以上のようなところだが、いかがだっただろうか。別に私は金を使って4Kのテレビやフカフカのベッドを買うなと言いたい訳ではないが(私は4Kのテレビは持ってないが、フカフカのベッドは持っている)、そうしたことに潜む事態に注意を払う心構えを持っていただけたなら、幸いである。
なお、以上の話を聞いてもなお、飽くなき生活の向上を求めるのであれば、多分、釈迦か菩薩くらいの精神的タフネスさを持っていないと難しいと思うので、まずはガンジス川の上流で涅槃に至ることを勧めておくとしよう。

長々と陰鬱な話をしてしまったので、最後の話に移る前に少し明るい話もしておこう。
頭を使うことを嫌う人は私のこういう話を読んで、(何度も違うと言っているものの、)私が金を稼ぐなとか、金持ちになるなと言っていると短絡的に思うかもしれないが、繰り返そう、私が言いたいことはそういうことではない。(もっとも、脳みそを使わない連中は、ここまで読み進めていないと思うので、心配はいらないかもしれないが)
私がここで言いたいのは、「金は使い勝手が良いからって、人生において何が正しいのか、どうすべきなのかといった面倒ごとを全部金に押し付けてはならない。思考を放棄すれば、その報いが訪れるので、気をつけるべきだ」ということである。学校の先生は何故か教えてくれないが、こんなことは、宿題を他人に押し付けたら、テストで点が取れないのと同じくらい当たり前のことだ。
実際、金をいくら持っていても、そのことをキチンと理解し、それにすがらない賢人は、金を持つことによる不幸を被らないかもしれない。セネカは「富は賢者の奴隷であり、愚者の主人である」ということを言ったらしいが、この意味が理解出来るのであれば、趣味の延長くらいの感覚で好きなだけ金を稼げば良いと思う。

さて、最後にそんな賢人ならある程度納得してくれると思われる、金という強さの本質的な部分について話して、このコラムを終えたい。
先ほどの『クソバカ』でも、(多分)理解できると思うが、金は残念ながら使うと減るし、また金を稼がなければ減ったままだ。別な言い方をすると、預金残高は損失を被ると損傷を受けたままで、放っておいても元の金額に自然回復したりはしない。勿論、減ったことによって当初の残高より増えることなんてもっとない。
また、0になってしまうと、たとえ、それまでいくら金持ちであったとしても、それが体の中に情報として蓄積されていたり、どこかに金持ちであった人を優遇するための帳簿があったりする訳ではないので、基本的に稼ぎやすくなったりはしない。
なお、起業家の場合、無一文になる失敗から学んでまた成功したりするケースもあるかもしれないが、これは別に金持ちであったことが関係している訳ではないので話は別だ。(彼らは金持ちにならなくても、失敗から学べる)
またしても宝くじの当選者を想像してみて欲しいのだが、彼や彼女がせっかく当てた当選金をカジノで素寒貧にされたら、また大金持ちになるには宝くじを当てるしかないだろう。しかし、残念ながら宝くじに当たったことがあるからって、当たりやすくなったりする訳ではない。
これは当たり前に思えるだろうが、実のところ、他の”強さ”を見回してみると、全然当たり前のことではない。例えば、腕力や知力といった強さは、使えば使うほど強化される。
これを違った視点から見ると、これらの強さはダメージに対して正の反応を見せることを意味する。どういうことかと言うと、筋繊維は負荷、つまり、一定のダメージを受けることで更に成長する。知力に関しても、問題によって負荷を加えられ、特にそれまで正しいと思っていたことが否定されることによってより強い知性へと強化される。
それら人間の身体的なものに関わる”強さ”以外でも、権力なんかは使っても減らないことが多い上、場合によっては強化されることもある。社長が命令を下すごとに強制力が減ることなんてないし、独裁者は自分の権力を強くするために権力を使うことがほとんどだ。
また、権力もカネ同様、ダメージを受けるとその分減じていくが、権力を一度でも持っていたのであれば、それを誰かが記憶していて、再び権力を得る時に有利に働くこともままある。なお、腕力や知力も一度すっかり衰えてしまっても、全く0から鍛えるより元のレベルまでパワーアップするのが早くなる。剰え、そうすることによって以前より衰えにくくなることすら、いくつかの研究で報告されている。
つまり、金の使ったり、ダメージを受けることで弱くなっていき、加えて、一度強かったことも有利にならないという性質はかなり特殊な訳だ。言い換えると、他の”強さ”に比べて、金というものは随分脆いと言える。
当初、強さの定義について『物事を好き勝手、意のままに出来ること』や『どんなダメージを受けてもものともしないこと』としたが、一つ目の部分については、金はそれなりに優秀と言えるだろう。一方で、二つ目の部分は他の強さに比べ、群を抜いて不出来だ。
評価というのは突き詰めれば主観的なものであり、どちらの性質に重きを置くかにも依るが、以上のことから私は主観的にこの"強さ"を生きる上での重要度としては中程度くらいのものとしたい。よって、山の生き物に例えるなら、やはりタヌキくらいだ。(客観的な評価?もし、本気でそんなことを信じているなら覚えておいた方がいい。まともな評価というのはあるかも知れないが、客観期な評価なんてものは幻想だ。そして、そんな言葉を真顔で口にする奴はホラ吹きと思って差し支えない。そういう奴は得意げに数字なんかを出してくるかもしれないが、数字は数字であって、評価ではない)

大事なことなので、ここで少しこの”強さ”というものについて、視野の広い話をしておこう。
基本的に現実世界の"強さ"は後者、つまり、ダメージを受けてもそれをものともしないことに依存する。
何故かって?一つには、我々は現実的に不死性を持ち合わせていないので、どんな方面のことであっても再起不能な状態になることがあり得るし、再起不能になったら字義通りそこで終わりだからだ。(もし、再起不能になっても再起出来るなら、それは再起不能ではない)
それまでどんなに物事を意のままに出来ても、ゲームオーバーを喰らったらそこで終わりだ。その先もクソもないし、基本的に、それまでその”強さ”で手に入れたものも、生き残ったものに全て掻っ攫われてしまう。
こう考えると、前者の方はそこまで重要で無いようにすら思えてくるかも知れない。考え方は様々かもしれないが、「生き残った奴が結局は勝者だ」というのは、我々の実際的な感覚からも的を得ているように思われる。
つまり、ゲームと違ってリトライがしづらい現実世界では、ダメージを受けてもものともせず、中々”死なない”ことはそれだけで強大な強さと言える。
二つ目に、計り知れないほどの向上を図れるのは、後者の方だからだ。
『物事を好き勝手、意のままに出来ること』にはかなり限界がある。先ほど話したように、一般人と比べると所得にミジンコとTレックスくらい差があるどんな億万長者でも、プランクトンと巨大肉食爬虫類くらい違うことが出来る訳ではない。精々出来て、OGビーフをコービービーフに変えたり、移動手段を大型ジェットからプライベートジェットに変えるくらいだ。(たまに彼らも大型ジェットには乗るかもしれないが)
また、たとえミスターオリンピアであっても、世紀末でもなければツィギーみたいな女性と比べて特別なにか沢山のことが出来る訳ではない。それに、たとえ世紀末であっても、丸腰のオリンピアはツィギーが機関銃を持っていたら何も出来ないだろう。
一方で、後者は考え方の方向さえ間違わなければ、その伸び代に際限がない。どんなダメージを受けてもびくともしないことと聞くと、多くの人はダメージの許容量を大きくすることやダメージ自体を受け付けない頑強さのようなものをイメージするが、それでは実のところ、前者とさして伸び代は変わらない。大事なのは、ダメージを受けるということの考え方を変えることだ。
先ず、ダメージ、つまり、損失を糧にすることで、あなたはそれを受けてもびくともしないどころか、それによって成長するようになる。こうなると、損失自体が一切無効になるだけでなく、それがあなたにとっての益になるようになるので(良い意味で)手がつけられなくなってくる。
これは先ほど話した筋繊維などについても当てはまることではあるが、それ以上のものがある。筋繊維のようなものに関しては、それをあるレベルまで破壊し尽くせばその瞬間、それはダイレクトに損失に逆戻りしてしまうので結構際限がある。しかしながら、これを際限のない形で益に転換し続ける可能性が開かれている。
どうやってそんなことをするのか?簡単だ、ある分野でそれが損失なら、分野を変えてそれを益にすれば良い。
これはもしかしたら、あまり意識してなくても、あなたもいくらか行っていることかもしれない。例えば、博打を打って今月厳しいなら、食事を質素なものにして、これを機に腹の脂肪を減らせばいい。そうすれば、あなたの価値観が自らの健康も大事なものと捉えているなら、金銭面での損失を、総体として益に変換出来る。
(あなたにある程度柔軟さがあれば、)言われてみれば、同じようなことをした心当たりがあるだろうし、そんなに難解なことではないと分かるだろう。辺りを見回せば、(それなりに賢い)子供や年寄りだって、多少なりともそんなことをしている。(ちなみに、強靭な原理に基づいた行動は、誰かに教えられずとも必死に何かを突き詰めていけば、当の本人がどうしてそんなことをするようになったかなんて理解していなくても、自然とそれが行われるケースが多い)
このためには、ある分野で損失が出た状況で、それを益に変えるだけの選択肢を持っている必要があるのを理解しておくのは、この効力や範囲をさらに強化するために良いことだ。そして、そのためには、実践と事実に関する知識や(当たり前だが)その知識を実際に行動に活かせることが必要になってくる。
実践に関する知識は、ただひたすら考えながら行動することによって得られる経験から生じる。一方で、事実に関する知識は、経験から得られることもあるし、本などの外部知識から得ることも出来る。
ちなみに、重要な知識は経験から得られる方だ。本などから得られる知識が人生における選択肢に活かされる場面は限られている上、使ったことがなければ、いざとなって上手く使えないことが多い。
(あくまで、そんな無用の最たる者がいるとしてだが、)ヴァイオリンを弾いたことがないヴァイオリン学者を想像してみるといい。類まれなる天才でもなければ、演奏会に急に出させられることになっても、彼がヴァイオリンを上手に弾けることは期待出来ない。また、ヴァイオリンを上手く弾きたいなら本なんで読んでないで、先ず練習をした方が良い。
閑話休題。以上のことは、あなたが研鑽を積み続け、あらゆる選択肢を備えておけば、(寿命の許す限り)”強さ”のこの面を高めていき、場合によっては、ある種の無敵になれる可能性を示している。(ここで私はゲームの中の話をしているのではない。現実世界の話をしている)

この話を聞いて、早速自分なりの修練の道を歩みたくて仕方ない気持ちになったかも知れない。勿論、大いに突き進んで頂いて結構だが、あなたが釈迦やキリストの域に達するまでは、気をつけておかねばならない注意事項を一応述べておこう。
なに。園児でも分かるようなことなので、準備運動をしながら聞いて貰うので構わない。それは、「いくらダメージを糧にするといっても、あなたの身を吹っ飛ばすような損失は避けるようにしましょう」ということだ。
選択肢の範囲が広がると損失の許容量も広がっていくが、基本的には自らの許容量を超すような危険に近づいてはならない。当たり前だ。損失の許容量を超えるというのは、言い換えると死ぬということであり、先ほど述べたように死んだらその先はないからだ。
当たり前過ぎてあくびが出てきたかもしれないが、何故か世の中には確率だの統計だのというまやかしに惑わされ、平気でそんな危険を犯す輩がわんさかいる。なので本来、こんなことは初等教育を終えた者に話すようなことではないとは思うのだが、一応、危険と呼ばれるレベルの大きな損失に対する対処法も記しておく。
コツは2つだ。1つ、そもそもそんな危険には近づかない。2つ、どうしてもそんなものに相対しなければならない時は、その損失を細かく分割する。以上だ。
これらは基本的に、リスクというハリボテについて話をした他のコラムで取り上げているので、詳しくはそちらを読んで貰えばと思うが、2つ目については少し補足をしておく。
どんなに大きな損失も、原則、分散させれば問題なく吸収出来る。15メーターの高さから落ちたら死ぬだろうが、1メーターを15回落ちても死にはしない。また、たとえ数千万の損失を被っても、それを1,000年かけて返すので良ければ自己破産する必要もないし、そもそもそんなものは屁でもなくなるだろう。
現代人には中々理解されないが、このために一番簡単なのは、やることの規模を小さくしたり、期限を先延ばしして、少しづつ試したりこなしたりすることである。バカの一つ覚えみたいに”ビジネスマン”は、”効率”を重視して、事業の規模を大きくしたり、物事の納期を短く設定したがるが、それが死に直結し得る愚行であるかもしれないことにどうやら気づいていないようだ。(そして、残念ながら、大抵の場合、とんでもない災いのおまけ付きでそのことに気付かされるし、どうしようもない輩どもとなるとそんな状態になってもなお、自らのその愚行に気づかない。そして、世の中には「こんなことは予測不可能だった」とか、「今回はどうしようもなかった」と喚いてまた同じようなことを繰り返そうとする間抜けな連中がいっぱいいる)
よって、あなたがもし、物理的、精神的、金銭的、いずれにおいても死にたくないなら、いくら”効率”的だからって、あらゆる方面で1,000メーター上るようなことや、1秒で何かをしようとするようなことをしない方が良いだろう。

まとめよう。生きる上での”強さ”を極めたいなら、金なんて単体の、しかもそれ自体はタヌキくらいの”強さ”しかないものなんかより、以上で述べた『どんなダメージを受けてもものともしないこと』を洗練させていった方がおそらく遥かに有効だ。
これまで見てきたように、そもそも大事なのは一つの強さにこだわることでなく、あらゆる強さを選択肢として使い分けていくことだ。
強さ自体が重要なのではない。重要なのは、強さ同士を繋ぐバイパスである。そのバイパスが強靭で、広範囲に張り巡らされていれば、それだけで個々の強さは自ずと強化されていく。
よって、勿論、金も”強さ”の選択肢として持っておいた方がいいし、現代において金と全く縁を切るのは、不可能と言わなくともかなり難しいので、これについて全く無関心になる必要はない。
ただ、これまで話してきたように、この”強さ”は随分と脆く、故に、あなたが損を損として享受したくないなら、その分野での損失を直ぐに他の分野での益に転換しなくてはならなくなる。つまり、随分と頼りないものなので、あまり頼りにしない方が良いということは覚えておいて損はないだろう。(頼りないものを頼りにすると、碌なことが起こらない。ご存じだろうか?)

さて、締めくくりに、寝物語に聞かされたであろうイソップ寓話の話でも一つして、この文章を終えよう。
ご存知の通り、金持ちになるには労苦という名のコストが掛かる。しかも、このコストは私の観点からすると、不当に高いコストだ。コストが不当に高くなる理由は単純だ。金の場合、みんなが際限なく求めるから、手に入れづらくなっているのだ。アダム・スミスなんておかしな髪型をした中年男性を知らなくても、金だろうがなんだろうが、みんなが求めるものはその分手に入れづらくなるに決まっている。
ともすると、面倒くさがって世の多くの人々は考えるのをやめているのだろうか?
これまで話してきたように、金にはそれを得るための過酷な競争に参加し続ける労苦に見合うだけの価値はないのに、馬鹿の一つ覚えみたいに誰も彼もがこのレースにばかり参加する。よくよく目を凝らせば、他にもっと参加者が少なく、故に勝ちやすい上、賞品がもっと魅力的なレースだって転がっているのに、そのことに気づかない。(そもそも、参加者すらおらず、ただ自分の出したタイムのみで賞品を得られるようなレースもあるのに)
これではレースの賞品が何かもよくわかってないのに、必死で走るようなものだ。もし、走ること自体が目的なのでなければ、賞品は豪華な方がいいし、それを手に入れやすい方が良いに決まってる。
酸っぱい葡萄の話は聞いたことがあるだろう。賢いあなたは金について諦めてしまうのは、高い位置にある葡萄が酸っぱいと決めつけてしまうことなのではないかと不安になっていたかも知れない。
まぁ、ここまで読み進んで貰えたということは、その不安もいくらか解消されたことだろうと思われる。ただ、心配性のあなたのために、ベッドの下に怪獣がいないことを示す話をいくらか付け加えておこう。
私はあなたの味の好みは知らないし、狐の葡萄が本当に酸っぱかったがどうかは知らないが、金という名の葡萄は実際ある程度酸っぱいことが分かっている。
何故、その葡萄を食べてもいない私が知っているかって?前にも少し触れたが、他にその葡萄を食べた狐がたくさんいて、正直な狐はあまり旨くないと言うし、見栄を張って甘いと豪語する狐も、その大半が明らかに微妙な表情をしているからだ。
加えて、私は幸運にも、手近な高さに甘く美味しい実が成る葡萄の木をいくつか知っている。(鋭い読者は気づいたかも知れないが、厳密にはそれらのほとんどは葡萄の木ではない)
なので、わざわざそんな酸っぱそうな葡萄を苦労して食べてみる気には中々なれない。
確かに、あなたにとって、あの高い位置にある葡萄の実は、もしかしたら(他の狐と違って)美味に感じるかもしれない。一方で、そんな取りづらく不味そうな葡萄に執着するより、もっと取りやすい所にある美味な果実を探す狐の方が賢いように感じるのは、私だけだろうか。

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