自由

「人間的欲望の本質は自由である」
そう19世紀ドイツ哲学者ヘーゲルは言ったらしい。


人類はいつの時代だって自由を欲しがり、それを得るために幾度となく争いを起こしてきた。イギリスのピューリタン革命がその例だ。人々は宗教的・経済的に自由を求めるため、当時のイギリス政府に革命を行った。また、国内でも近代化を進める政府軍と西郷隆盛を盟主とした士族の対立により起こった西南戦争が有名である。この戦争は武士の尊厳が失われるのを警戒した士族軍が反乱を起こした。


「自由」というものは素晴らしい。
好きなことを好きな時間、好きなタイミングで考えられ、行動できる。どれだけ偏ったご飯を食べても、夜更かしをしても、授業中に居眠りをしても、私を遮るものは何もない。私の生活に邪魔するものは一切ない。そう、これが私が夢にまで見た生活。憧れた毎日。自然体の自分。まさに自分そのもの。


こんな自由の恩恵を受けることができる一方、その代償としてあるものが自由というものに必ず付随される。

「責任」

生徒のときまで縛りがあったにもかかわらず、その先の人生はいきなり自由という名の社会に放り出される。校則によって拘束されていた高校時代の時間は、今では1日24時間という時間をどのように使うかは、私自身に一任されるようになった。うれしい反面、いきなりだったので時間の使い方に困り、持て余した。持て余さざるを得なかった。動物園の動物が本来の野生の生活に戻れない理由が何となくわかった。


そもそも自由というものが単体で存在することは不可能だ。思想良心の自由や信仰の自由、表現の自由など、これらの憲法にはすべて自由と記載されている。しかし、上記に示した自由はすべて「他者に危害を与えない」という前提のもと成り立っている。そう、憲法でさえも完全に自由ではないのだ。もし完璧な自由がある社会では、そこでは犯罪が絶えず続くだろう。法も秩序も何も存在しない社会。そこには、相手への思いやり、気遣い、感謝、親しみ、安らぎ、、、そんなものは一切存在しない。


人間は、他者から与えられた自由も嫌う。
この夏公開されたワンピースの映画では(※ネタバレあり)、現世で海賊にひどいことをされた人々を救済するために、架空の世界を創って人々を救った。いわば、彼女は恩人である。(しかも、自分の体を危険な目に遭うことを知りながらも)人びとは安心安全で自由な世界に喜びを感じていたものの、時間がたつと現世に戻りたいと言い放つ。彼女はみんなのために犠牲になったにもかかわらずともそんなことを知る由もなく訴えは続く。

自分のことは自分でする、と大人は私に言った。私はそう教育された。教わった。つまり、自分の行動=自己責任というわけである。しかし、この自己責任論はきれいに見えて実際は机上の空論である。この世に生きる全ての人を考慮していない。あらゆる立場を想像していない、受け入れていない、知ろうとしていない。


この世は自己責任じゃまかなえないように形づくられている。自分で知ることの限界がある。(宇宙のこと、死のこと、自分が生まれたときのことetc…)


自由とは、あらゆるものと自分との間に線を引くそのきっかけである。

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