たわごと
行きつけの銭湯が70年の営業に幕を下ろすことになった。人々の温浴を支えたその場所は、経年劣化という理由から業者も修繕することができず、長年番台を守り続けてきた主人は、悲しいけど仕方がないじゃない。とこの世の条理を受け入れたように答えた。まだ3年しか通っていない私とは違い、どこかこの事実を予期していたかのようで、諦観の表情を浮かべていた。
どんなに律する人であっても、休む処は必ず在る。でも、この世は無常だからいずれなくなるし、それはだれもがうっすらとでもわかっている。心のどこかではまだ大丈夫だとたかをくくっているんだ。もちろん、それは正しいことで、面倒を嫌う脳内プロセスはそんなこといちいち考えさせない。実際に起こりそうな、現実味があることがらについてイメージを膨らませることで日々の効率を重視するのだ。でも、いざそれが現実になったとき、現実について抱えきれなくなり、抑えきれなくなるんだ。
長年番台を守ってきた人よりも悲しい思いをする私は偽善、当事者よりも重く想うことは「哀」を踏みにじむ表出なんだろうか。
平和、平等、正しさ、対話、、、
そんな言葉たちは、「無」の前においては無力で、ただの空想に過ぎない。むしろ邪魔しかしない。