私の読書方法②:Chat GPT要約編『14歳からのアンチワーク哲学』
前回の記事では、読書しながらメモした内容を公開しました。本1冊分の内容をGoogle Docに11P分に圧縮したので、読み返す分には、かなり短く出来ました。基本的には、この圧縮した分を定期的に(エヴィングハウスの忘却曲線を意識しながら)見返しています。
十分短いとはいえ、すぐに読み返せる分量ではないのでもっと短期で読める分量にならないか? ということで、Chat GPTに要約させてみましょう。要約対象は、読書メモとなります。約1.2万文字ですが、全文をChat GPTに入力できました。その結果が下記①になります。ちなみに、Chat GPTは要約自体は上手だと思うのですが、あまり言うことを聞いてくれません。一旦、「分量を半分くらいにして」とお願いしたのですが、出力されたのは1722文字でした。
※ちなみに、この要約分を出力させる前に別の作業をやらせたので、GPTの中でそこで出た出力とごっちゃになっています
※文章をコピペして、この文章を要約しろと指示したのに、論理的な補強に使えると判断したであろう別アイデアを入れてしまっています。つまり、要約ではなく一部創作をしてしまっています
※毎回GPTのメモリを消去して出力させれば、こういったことはなくなるかもしれませんが面倒なのでやっていません
流石にこれは文意を削り過ぎだろうと思ったので、5000文字くらいにしてしてもらおうと思って、「削り過ぎなので、今の分量の3倍で再出力して」と伝えたら、出力されたのは2550文字でした。②として貼り付けておきます。2倍にすらなっていない・・。出力された結果自体は、非常に分かりやすいとは思います。ただ、文字指定をした要約はGPTは、指示通りにやってくれません。
中の仕組みは分かりませんが、もしかしたら英語で処理をしてその結果を日本語に出力し直すといったことをやっているのかも知れません。日本語は特に漢字は短い文字で多くを表現できるので、その辺りが関係しているのかも? あるいは、文字コード(byte)の違いかもとも思うのですが、どちらにせよ、どういう風に処理されているか分かりません。また、そこを試行錯誤しても仕様が変われば、試行錯誤が全部ムダになるので止めました。
下記①、②くらいの要約であればすぐに作れます。ただし、元々の書籍の文字数は入力できないと思うので、全体の要約は厳しいと思います。また、通常の本は、pdf化されておらずコピペもできないので、写経にムダに時間がかかります。そのため、私は読書メモを抜き出してみて、さらに読みやすいように要約したりすることがあります。そうすることで、読む頻度を上げることが可能になるためです。
例えば、週1でGPT要約を見返す。月1で読書メモを見返す。3-6ヶ月後などに、忘れた頃の原著を読み返すなどバリエーションをつけると良いかも知れません。これらはあくまで要約であったり抜粋なので、「初読」の際に自分が気になった部分を洗い出しています。ある程度、それらの思想の理解が進んだ後でさらに読み返すと新しい発見があったりもします。もちろん、全部の本でこれをやるのは大変なので、特別に気に入った本だけで良いでしょう。また、GPT要約だけ読み返す対象とするのも良いと思います。
ちなみに、GPT要約は、要約としては精度は高いのですが、個人的には私のこだわりポイントが抜け落ちることが多いです。それは要約の仕組み上、仕方がありません。例えば「アンチワーク哲学」という名前からある程度の内容は類推できます。本を一度読んでいるので、自分の中でイメージもぼんやりあります。しかし、要約の観点からすると『アンチワーク哲学は「好きなことだけをして嫌なことから逃げる」』のような基本的な定義が文中に含まれます。これは、要約の観点から仕方のないことです。ただ、私が読み返す文章として微妙です。
そのため、今回の要約は個人的には見返すには重要な部分が削られていると感じたので、大本の読書メモに戻って、読書メモを読み返しながら少しずつ削ることにしました。次回の記事では、そちらを解説します。
長くなりましたが、Chat GPTが出力した要約2パターン。「分量を半分にしてと指示→1722文字」、「分量を3倍にしてと指示→2550」になったものを添付します。参考までにどうぞ。
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要約①1722文字
タイトル:労働の意味を問い直す──アンチワーク哲学の可能性
アンチワーク哲学とは何か
アンチワーク哲学は「好きなことだけをして嫌なことから逃げる」ことが幸福をもたらすとする考え方です。この哲学は「労働を悪」と捉え、労働そのものをなくすことを目指しています。つまり、強制されない自発的な活動こそが人間の本質的な充実感を生み出すという主張です。
たとえば、アーティストが自身の表現を追求するのは「労働」ではなく、むしろ自らの喜びからくるものです。嫌なことを無理にやらせることが労働の本質であり、それが消えれば人々はもっと生き生きと活動できる、とアンチワーク哲学は考えます。
なぜ労働が嫌われるのか
多くの人が労働を不快に感じるのは、そこに強制力があるからです。私たちは生活のためにお金を得なければならず、そのために会社からの命令に従うことを余儀なくされています。これをアンチワーク哲学では「貨幣権力」と呼び、命令の背後に貨幣の力がある限り、自由は制限されると考えます。
また、労働には義務感や抑圧がつきまといます。実際、ある人が誰かに頼まれてティッシュを渡すことは喜ばしい行為でも、命令されればその気持ちは消えてしまいます。つまり、他者から強制される行為には自然と抵抗感が生じるのです。多くの仕事が「やりたい」という意志からではなく「やらねばならない」という義務感から成り立っているため、労働は嫌悪されがちなのです。
労働は本当に必要なのか?
アンチワーク哲学では、現代の社会には無駄な仕事が溢れているとしています。多くの「ブルシット・ジョブ」──例えば、ノルマを達成するためだけの営業や、無駄な会議──は社会全体にはほとんど貢献していません。お金を稼ぐために労働を強いることで、かえって無駄な資源が浪費されています。これに対し、経済的な必要性から生まれる仕事、例えば食糧生産や家の建築は本来の貢献意欲から自然に生まれる行為と考えられています。
ベーシックインカムによる変革
アンチワーク哲学の一つの柱は「ベーシックインカム(BI)」の導入です。お金を生活必需品とする限り、人は労働せざるを得ません。BIがあれば、生きるための基本的な経済的安心を得ることができ、労働を「強制」されずに済みます。
また、BIによって自由に生きる選択が増えれば、人は金儲けに関係ない本来の貢献欲を活かせるようになります。例えば、ある人が畑仕事を趣味として自らの意志で続けることができれば、それは労働ではなく、喜びとしての「貢献活動」になります。労働はお金を得るためだけのものではなく、誰かの役に立ちたいという純粋な欲求として再定義されるのです。
労働がもたらす認知的不協和
労働には不満がつきものです。しかし、現実的に働かざるを得ない状況にいると、私たちは次第に「仕方がない」と納得し、やがて「働くことが楽しい」と感じることもあるでしょう。これをアンチワーク哲学では「社畜心理」と呼びます。
「社畜心理」は、実は心の防衛反応であり、「働かざるを得ない」状況を受け入れた結果として生じるものです。つまり、人は不満を抱き続けることが難しいため、次第に自分の選択に納得感を持つようになるのです。この心の変化を「認知的不協和」と呼びます。BIがあれば、この不協和を感じず、自然な貢献欲で生きられるようになると考えられています。
労働なき社会と人間の真の欲望
アンチワーク哲学が目指すのは「労働なき社会」です。それは「強制なき貢献」を実現することであり、人が自らの意志で活動し、満たされる世界です。私たちは「生き延びるため」というプレッシャーから解放されれば、むしろ他者に喜ばれることを望むのではないでしょうか。趣味やゲーム、ボランティア活動に本気で取り組む人々が増えるのも、それが無償の喜びだからです。アンチワーク哲学は、人間が生きることを喜び、自由を享受できる社会を目指しています。
終わりに
アンチワーク哲学は労働を悪とし、BIで自由な社会を築こうとする考えです。労働に追われる現代人にとって、あくまで一つの可能性を示唆するものですが、私たちが普段「当たり前」としている価値観に一石を投じていることは間違いありません。
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要約②2550文字
タイトル:アンチワーク哲学:労働を超えた人間の自由への探求
アンチワーク哲学の根底にある問い
アンチワーク哲学は、「労働は善であり当然のもの」という一般的な信念に疑問を投げかけ、「好きなことを追求し、嫌なことから逃げる」という自由な生き方こそが人間に本当の幸福をもたらすと主張しています。この哲学は、「他者のため」や「社会のため」という概念に縛られず、各人が自分の好奇心や関心を中心に生きることが、最終的には社会全体の幸福に寄与するという大胆な仮説に基づいています。
ここで言われる「労働の否定」は、ただ怠けることを推奨するのではなく、無理強いされた義務としての労働を避け、本心からやりたいこと、興味や情熱に基づいた活動を行うべきだ、という意味を持ちます。現代の仕事の多くが「仕方なくやらなければならないこと」になっている現状で、この哲学は根本的な再考を促します。
労働と人間の意欲
人間は、自己表現や好奇心、探究心からさまざまな活動を欲する生き物です。アンチワーク哲学の観点からは、この欲望は労働の代替ではなく、むしろ人間の本質に近いものとして位置づけられます。つまり、私たちは本来、貢献することや他者の役に立つこと自体を喜ぶ存在であり、労働とは「義務感」や「強制」を伴わないものであるべきだ、という考え方です。
実際、趣味の活動やボランティアでは、人は生き生きと自らの時間と労力を注ぎます。これに対し、同じ行為でもそれが「仕事」とされ、「給料」のために行われると感じると、急に苦痛や義務感が生じることが多いのです。この点でアンチワーク哲学は、私たちの中にある「強制されることへの抵抗感」を鋭く見抜いています。
「やりがい搾取」としての労働
クリエイティブ分野でよく聞かれる「やりがい搾取」という言葉は、アンチワーク哲学においても重要な考察対象です。例えば、多くのアーティストが初期の段階で仕事に対して十分な報酬を得られないまま、自らの夢を追求する一方で、他者に奉仕する「やりがい」を提供する構造にあります。このように、「やりがい」という価値が仕事への執着や継続の原動力となる一方で、その価値が搾取される構造は少なくありません。
アーティストや漫画家の世界では、売れる一部の人たちが、まだ売れていない新人の活動を支えるための資金源とされることが多く、搾取の実態を感じやすい構造が存在しています。つまり、才能や労働力が本来の「やりがい」ではなく、業界全体の安定に役立てられているのです。
仕事と命令、義務との関係性
アンチワーク哲学では、労働とは他者からの「命令」に従わざるを得ない状況として捉えられます。この命令は、単に言葉として発される指示ではなく、社会的なプレッシャーや貨幣制度を通じて強制されるものであり、多くの人は生活費や家族のためにそれに従わざるを得ないのです。特に「お金」が絡むと、人は生活の維持のために拒否できない義務を感じ、命令に従うことが当然のように感じるようになります。
例えば、会社で命令に従わずに自らの意見を貫くことは多くの人にとって現実的でないと感じられます。実際、命令に背いたことで収入が途絶えた場合、生活が立ち行かなくなる恐怖があり、家族や将来に対する不安から命令に従うことを選ぶのです。アンチワーク哲学は、こうした社会構造の中で、私たちが「生きるために労働しなければならない」という考えを内面化していると指摘します。
ベーシックインカムと自由の関係
アンチワーク哲学では、ベーシックインカム(BI)の導入が、強制的な労働から人々を解放する鍵だとしています。BIがあれば、最低限の生活が保証されるため、人は生きるための労働から解放され、自由に活動を選択することが可能になります。これによって、労働という「強制」による不自由から解放されることで、人は自らの意志に基づいた活動を選びやすくなります。
BIがもたらす自由は、単なる経済的な余裕だけでなく、「労働の強制」によるストレスの軽減も期待されます。この「強制からの解放」が、人々の自然な貢献欲を引き出し、真の幸福に繋がるのではないかとされています。
仕事の充実感と「社畜心理」
働き続ける中で不満を抱くのは当然ですが、次第に「これが自分の役割であり、仕方がない」と納得する過程で、自らの仕事に充実感を見出す人もいます。アンチワーク哲学ではこれを「社畜心理」と呼びます。つまり、労働を続けるうちに、次第にその行為に対して満足感や「働くことが楽しい」という感情を持つようになる心理状態です。
しかし、こうした社畜心理は、厳密には「認知的不協和」として説明できるかもしれません。つまり、逃げることが難しい状況で不満を抱き続けることが心理的に耐えられないため、次第に自らの選択として労働を肯定するようになるのです。こうした自己納得の心理は、アンチワーク哲学が目指す「自由な労働」とは相反する現象と言えます。
未来の働き方:無駄のない労働
アンチワーク哲学が目指すのは、労働が単なる経済活動ではなく、真の貢献の場となる社会です。例えば、現代の社会には無駄な「ブルシット・ジョブ」が溢れており、これらの多くは、実際には社会全体にとって大きな貢献をしていないと考えられます。例えば、必要以上の営業や過剰な事務作業などは、消耗するだけの無意味な労働になりがちです。
これに対し、アンチワーク哲学では、労働を社会にとって本当に価値のあるもの、すなわち人々の貢献意欲を活かすような働き方に再定義することを提唱しています。すべての人が真の喜びとともに活動し、その活動が社会の役に立つと実感できるような仕組みが理想とされています。
おわりに:アンチワーク哲学の意味と可能性
アンチワーク哲学は、ただ働かないことを勧める怠惰な考えではなく、私たちが生活のための義務感から解放され、各人の持つ本来の貢献意欲が引き出される社会を目指しています。そこには「人間とは何か」という根源的な問いがあり、私たちは他者に貢献することや他者から必要とされることを喜びとする存在なのかもしれない、という視点が示唆されています。
この哲学は、現代の常識や社会構造を問い直し、「本当の自由とは何か」を再定義しようとしています。